第2話 鏡の中の私

 最悪だった。私は結局、私のままだった。小説や漫画みたいに私は変わることができない。そんな現実を突きつけられたようだった。


 だから、もう私はヤケッパチになってそのままコスメの店に向かった。人に見られるってことを気にしていたのに、もうどうでも良かった。


 化粧は嫌いだ。自分を偽って、逃げているみたいで厚い化粧は嫌だ。けど、もういいんだ。どうせ、周りが覚えてても私は覚えれない。


 今日、私を見た人ともう一回会って話をすることなんてないんだから。そう言い聞かせて化粧をしてもらいに行った。このまま何も得ずに小遣いだけを消費して終わるのも嫌だった。


 これで無理だったら話の種にしよう。そう話す友人もいないのにそう思った。


 コスメ店のドアを押し開けると、香水や化粧品の香りが一気に私を包み込んだ。居心地が悪かった。慣れない場所に踏み込んだという感覚が、全身を刺すような痛みとして襲ってくる。


「いらっしゃいませ」


 店員の女性が笑顔で声をかけてきた。その笑顔が本物なのか作り物なのか、私にはもうどうでもよかった。ただ、私の足は止まらず、化粧カウンターに向かっていた。


「今日はどのような商品をお探しですか?」


 心臓が跳ねた。逃げ出したい気持ちをぐっと押し込め、私は言葉を絞り出す。


「えっと……化粧を……してもらいたくて……」


 店員の表情が一瞬だけ驚いたように見えたが、すぐにプロの笑顔に戻った。


「かしこまりました。どのようなイメージをご希望ですか?」


 どんなイメージか――そんなの、自分でも分からない。ただ、自分じゃない何かになりたかった。それだけだった。


「えっと……自然な感じで、でもちょっと雰囲気が変わるような……」


 曖昧すぎる答えに、自分でも恥ずかしくなる。それでも店員は優しく頷いてくれた。


「承知しました。では、お肌の状態を確認させていただきますね。」


 私の顔に軽く触れる手が、とても丁寧だった。その優しさが逆に辛かった。こんな私にここまで気を使わせているのだと思うと、申し訳ない気持ちと自己嫌悪が膨れ上がる。


 鏡の前で手際よく道具を揃える店員。ファンデーション、アイシャドウ、リップ――次々と色が私の顔にのせられていく。


「こちらを閉じてくださいね。はい、そのまま……」


 指示に従いながらも、鏡に映る自分の顔が少しずつ変わっていくのを見ていた。まるで絵画が描かれていくようだった。でも、その絵は私のものではない。私が知る「私」じゃなかった。


 最後の仕上げを終えた店員が、笑顔で言った。


「完成しました。どうぞご覧になってください。」


 私は恐る恐る鏡を覗き込む。そこに映っていたのは――


 自分ではない、誰かの顔だった。女性らしい雰囲気をまとった私。だけど、それはどこかぎこちなくて、不自然で、違和感しかなかった。


 最悪だった。私が嫌いな私を、さらに上塗りしたように思えた。


「いかがでしょうか?」

 店員の声が遠くに聞こえた。私は咄嗟に口元を引きつらせて笑顔を作った。


「ありがとうございます。すごくいいです……」


 その場を早く離れたくて、財布から小銭をかき集めるように支払いを済ませ、店を出た。通りに出た瞬間、冷たい風が化粧した顔に触れる感覚が妙にリアルだった。


 誰にも見られたくない、けれど化粧を落とすのも無駄なことをしたみたいで嫌だった。


 結局、自分が何をしたいのか分からない。私は私から変わりたかった。確かに化粧をして、女性の服を身に纏った自分は私ではなかったし、女性と思う人もいるかもしれない。


 けれど、いくら外面を変えようと中身は私。そのことがとても気持ち悪かった。失敗した。そう私は感じた。期待値が高すぎた。


 期待しすぎなければ、この女装はちゃんと女性に見えて楽しめた。けど、変わろうとした。変われるわけがないのだ。女装は外面を変えるだけで中身は変わらない。


 そんな当たり前のことに私は気づかなかった。


「帰ろう」


 結局、私は現実から逃げているだけなんだ。そう思い知らされた気がした。いつも声をかけてくれるA君。彼に怒られても名前をちゃんと聞こう。そして謝ろう。そう思った。


 名前を呼ばずに済むコミュニケーション技術ばかり育った私。まずはそこから変えようって思った。


 間違えてもいいや。少なくとも女装に逃げるくらいだったら、謝って現実を向き直ろうって思った。思っていたより私は女装に忌避感があったみたいだ。なんだか母が産んでくれた顔に対する冒涜な気がした。


 たった半日の家出。家出じゃない気もするけど、帰ってきた私に両親はびっくりしていた。あれは少し傑作だった。


 思っていたより両親は私を怒らなかった。それどころか面白いなって言って写真を撮られた。


 A君に名前を思っていたよりすんなり教えてくれた。秋月彰人あきづきあきとって言うらしい。こんなに”あき”が多いのになんで覚えられなかったんだろう。


 私は少しずつ人の名前を覚えていった。まだ、私は人の顔に靄がかかるけど、それでも少しずつ晴れているそんな気がする。


 行き詰まった時、私は女装をするようになった。面白いものであんなに冒涜だってはじめてやった時は思ったのに外側だけでもこんなに変わるっていうのが面白かった。


 私はまだなんとかやっていける気がする。鏡を見ると鏡の中にいる女性が軽く微笑んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

《完結》人の顔と名前が一致しない──その悩みによって私は家を出る決意をした。はじめての家出で私は何を得るのか? コウノトリ🐣 @hishutoria

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画