《完結》人の顔と名前が一致しない──その悩みによって私は家を出る決意をした。はじめての家出で私は何を得るのか?
コウノトリ🐣
第1話 家出
それは、理由のない家出だった。アニメや小説では、不遇な環境に耐えかねて家を飛び出す登場人物がよくいる。でも、私の場合はそうじゃない。ただ、息苦しかった。それだけだ。
これまでの私は、ただ何となく生きてきた。けれど、周りの世界がまるで風景のように見えて、自分だけがそこから切り離されている気がしていた。観測者――そんな言葉がぴったりだ。
名前や顔を覚えられないのもその一因だったのかもしれない。
「人の名前や顔を覚えなさい、そうじゃないと社会に出た時に苦労するよ」
母にそう言われたのは、何度目だっただろう。確かにその通りだと納得した。けれど、理解と実践は別物だ。私にとって、人の顔は数種類のパターンにしか見えない。それも時間が経つと靄がかかってしまう。
家族だって例外じゃなかった。話しているときは分かる。でも数時間も経つと、その顔がどんなだったか思い出せなくなるのだ。だから私は、外で誰かと偶然出会うと、話しかけて反応を見るしかなかった。
話しかけて”誰?” って顔で見られることも少なくない。実際に新手のナンパと間違えられることもあった。
家を出たあと、状況はさらに悪化していった。外を歩くうちに、私の耳に届く声は全て雑音に聞こえ始めた。単語としての日本語は分かる。でも、それらがどう繋がるのか、意味を成すのかが分からない。
すれ違う人々の言葉はただのリズムになり、風の音と同じように私を通り過ぎていく。世界には音が溢れているのに、その中で私だけが取り残されている気がした。
私は自分が嫌いだ。どんなに意識して努力しても、誰かの名前を覚えられない。ノートに特徴を書き留めても、それは現実の人間ではなく、小説の登場人物の設定のようにしか見えない。
――なんで名前を覚えてないの?
私の名前を覚えてくれている人と話すとそんな責める声が頭の中で響く。それは全くの被害妄想だけれど、その声は会うごとに大きくなっていった。
それでも、小説を読むのは好きだった。不思議と、小説の登場人物の名前は覚えられる。彼らの住む世界も、鮮やかに心に浮かんでくる。だけど、私はその世界の住人にはなれない。ただ観測するだけ。
現実と同じだ。私にはいつだって観測者の立場しか与えられない。
友達だって、昔から少なかった。同性には好かれなかったし、思春期に入る頃には異性の友達さえ私の周りから消えていった。
距離を置いていく彼女たちを、私は止めることができなかった。彼女たちが去った理由も分かっている。私の話がつまらないからだ。飽きっぽい私には、面白い話題を続ける力なんてなかった。
それでも、小説は私を救ってくれた。すぐに飽きてしまう私の性格にも合った速読術を身につけたのは、きっと小説に没頭して現実から逃げるためだったのだと思う。
でも、そんな私にとって唯一救いになる可能性を女装は秘めていた。
女ものの服や化粧品を手に取るときだけは、自分じゃない誰かになれる気がした。私は私自身から逃げたかった。けど、家族の前で女装なんてできなかった。できてもふざけて髪が長くなった時に髪留めをつけるくらい。
だから、今私は女性用の服や装飾品の店に来ている。
「いらっしゃいませ」
店員さんの笑顔が、一瞬だけぎこちなくなった気がした。その一瞬が私の心を抉る。いくらジェンダーレスが叫ばれる時代でも、男の私がこの店に来ていいわけがない。
「お姉ちゃんへのプレゼントを探しているんです。サプライズで」
嘘はすんなりと口をついて出た。自分が嫌になるくらいに。
店員さんがホッとした表情を見せたのが分かる。私が着るのではないと理解したのだろう。だけど、あからさますぎて少しは隠して欲しかった。
適当に気に入った服と装飾、最後にカツラを買って店を出た。嘘、選んでいる時は漫画や小説の主人公みたいに変われるかもって思ってワクワクした。
そして、変われなかったらと思うと少し怖くて逃げ出したかった。それでも私は私から変わりたかった。きっと今より酷いことにはならない。そう思うから。
「髪を染めると毛が痛むからカツラにしようと思ったんですよ」
そうつぶやいて、店員に言い訳する私が嫌いだ。だけど、あの店員のカツラを見た時のギョッとした目を見たとき、本当の理由なんて言えるはずもなかった。
路地裏で服を着替え、別の静かな店に入り鏡の前に立つ。鏡の中には、厚着をして長い髪をつけた自分がいた。女性に見えなくもない。でも、そこには顔だけが男の、不自然で滑稽な姿が映っていた。
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