誤解だらけの津田左右吉
佐藤 裕太
「神話」となった津田左右吉
第1節「はじめに」
戦後の歴史学界において『古事記』『日本書紀』のいわゆる『記紀』に記されている初代神武天皇及び二代綏靖天皇から九代開化天皇に至るいわゆる「欠史八代」は架空の存在になった。それどころか後世の造作つまり六~八世紀の間に、天皇系譜と国家の歴史を延長させるために「無の状態」から創作されたという説が歴史学界の主流どころか日本人の中でも常識となり今日に至って久しい。これは、帝国憲法第一条よろしく日本の歴史は「万世一系の天皇の歴史」であるという考えの反動の結果、『記紀』の天皇系譜等の諸伝承を根拠としていた戦前までの古代史像が歴史の隅へと追いやられていき、『記紀』の自由闊達な研究の結果、歴代の古代天皇架空説や「万世一系の天皇系譜は実はどこかで完全に途切れている」という王朝交代説等が現れることもあった。 (1)
このような歴史学界の状況が形成された背景に津田左右吉の『記紀』に関する研究がある。その津田の研究についての概要は『國史大辞典 第九巻』(2) によると「津田は、大正・昭和初期において『神代史は其の国家組織が整頓してから後、思想の上で企てられた国家成立の由来に関する一つの主張であって、それによって現実の国家を正当視しようとしたものであ』り、『朝廷によって述作せられたこと』神武天皇から仲哀天皇までの物語も『事実の記録であるよりは、思想上の構成として見るにふさわしいこと』など、記・紀の神代および人皇初期の記事を史実の記録ではなく、思想の表現として見るべきこと、各部分にも潤色や造作の多く見られることなどを精細な文献批判を通して論述」したとされる。
その結果、昭和十四年に当時の出版法違反の容疑で裁判にかけられ、著作を発禁にされるという筆禍事件(3) に遭い、敗戦後は逆に英雄としてその研究を基礎に、日本古代史研究が行われるようになった。
その津田の説はさまざまであるが、筆者としては津田の説の中で今日の日本人が認識しているものとして次の二点を指摘する。
一、古代初期天皇である初代神武天皇から十四代仲哀天皇までの、特に九代開化天皇までの天皇を架空及び後世の造作としたこと。
二、初代神武天皇等のヤマト王権の祖先の実在及びそれらの九州南部日向から大和への東遷を否定したこと。
以上の二点が、戦後に歴史学界での主流となり、それを基礎として今日の歴史学者諸氏は研究を行っている。そしていわゆる戦後左翼は、右の二点の津田説の認識で『記紀』の史料価値の否定から天皇制批判に利用する状況が形成される状況が続いた。
しかしながら、筆者はいわゆる津田説について誤解していると思わざるをえない。その誤解について小論で解いていき、そのことが『記紀』と日本古代史研究の更なる発展に寄与することを信じて論じていく。
第二節「古代初期天皇系譜伝承と津田左右吉」
本節では、津田が初代神武天皇から十四代仲哀天皇までの間、特に九代開化天皇までの歴代天皇を架空及び後世の造作としたということが誤解であることを論じていく。参考とする著作は戦後の『日本古典の研究(上)』(4) であるが、この著作の第一~二篇は大正十三(一九二四)年刊行の『古事記及び日本書紀の研究』第三編が前年刊行の『神代史の研究』の二著を戦後に補訂されたものである。いずれも前述の筆禍事件の最中に発禁処分を受けた。小論では。戦後の補訂された著作で論じていく。
さて、その著作の第二篇であるが、計七章ある中で、仲哀天皇・神功皇后から神武天皇までを逆順で論じられており、各章にわたって、その間に当たる『記紀』の記載を「後代の付加」や「漢積を使った潤脚色」、「説話・物語であって歴史的事実ではない」と「机上での述作」等の文章で自説を論じていた。次節で述べる神武天皇東遷も「歴史的事実ではない」と論じていた。
ところが、第二篇最終第七章「結語」で、天皇の系譜の記述があり「(前略)天皇については記紀の記載がみな一致しているから、この点からは問題は起こらない。そうしてまた、天皇について語られている物語が歴史的事実ではないということは、必ずしも天皇の存在が否定せられるべきことを示すものではない。一般的に考えても、人とそれについての認識とは離して見ることができるが、帝紀(系譜伝承)と旧辞(事積伝承)とが、別々に編述せられ、別々に伝えられ、別々に変改せられて来たものであるとすれば、なおさらである。だから、綏靖天皇から開化天皇までの歴代に物語が一つも無いということはその歴代の天皇の存在を疑うべき、少なくとも強い根拠にはなりかねる。八代の記載を通じてこういう状態であるという点に、そういう疑いの起こされるある理由はあろうが、それだけでその疑いが解決せられるのではない。(中略)要するに明らかな判断しかねるが、応神朝から幾代か前までの歴代の天皇の名が、始めて朝廷の記録の作られたと考えられるころには、人の記憶によって伝えられていたであろう、という推測には、ある程度の価値があり、そうしてその推測が最もたしからしさを含んでいることは、疑われまい。(後略)」 (5)としたうえで、帝紀の系譜から「(前略)ヤマトの朝廷の起源が、応神天皇から考えて、遠い昔にあったこと、皇室がそのころまでに既に長い歴史を経過して来られたことは明らかに推知せられる。(中略)それは即ちヤマトに本拠のあった皇室の由来の遠いことを示すのである。(後略)」(6) と論じていた。
次に、先述の筆禍事件による裁判では、以下のように神武天皇から仲哀天皇までの実在を主張していた。
「(裁判長)是等ノ記事ニハ神武天皇カラ仲哀天皇マデノ御存在ハ疑ハシイト云フヤウニ読者ヲシテ思ハシメルモノガアルト思フノデスガ、被告ハ是等ノ記事ヲ書イタ当時ニ、神武天皇カラ仲哀天皇マデノ御存在ヲ疑ツテ居リマシタカ。
(津田)疑ツテ居リマセヌ。
(裁判長)其ノ通リ信ジテ居タノデスカ。
(津田)サウデス」 (7)
また、津田が第一審の有罪判決に対する控訴の際に提出した『上申書』では、次のように述べている。
「(前略)何よりも大切な御血統のこと、皇位御継承のことでありますから、特殊なる注意の下にそれについての言い伝えの昔から次第に受け継がれて来たことが、推測せられるのであります。極めて遠い昔からヤマトの地域に君臨あらせられた皇室の、その遠い昔までの御祖先の御名がすべて言い伝えられたとまで考えることは困難でありますが、ある時期において大いに皇威を伸張あそばれた英主、即ち神武天皇の御名によって後に言い伝えられました御方からの御歴代の御名は、このようにして言い伝えられて来た、という推測を拒否することはできなかろうと思われます。(後略)」 (8)
この記述では、神武天皇のことを「皇威伸張の英主」と評しており、実在をほのめかしていた。
確かに、一方の見方によっては『上申書』や公判での発言は裁判戦術であって津田の本意ではないと思うであろう。しかしながら、先に引用した戦後の著作には「(帝紀の系譜から)ヤマトに本拠のあった皇室の由来の遠いことを示すものである。(後略)」等の記述があり、筆者は津田の本意であると思わざるをえなかった。
本節の最後に、いわゆる教科書裁判で有名な家永三郎は、『ヒストリア第十七号』に掲載の論文で、津田が神武天皇から仲哀天皇までの歴代の実在を認めていたことについて「(前略)著者が神武から仲哀にいたる歴代天皇を架空の人物と認定したものとばかりに一途に了解していたので津田の右のごとき主張を見て一驚しないではいられなかった(後略)」(9) と記述し、驚いていたのである。
田中卓は、このような津田説の誤解で成り立った戦後の日本古代史研究の通説について「誤解にもとづく砂上の楼閣であった」と小括し「津田神話の崩壊」(10) と名づけていた。
以上のことから、津田は古代初期天皇の実在を否定していなかったのである。
第三節「神武天皇東遷伝承と津田左右吉」
本節では、津田が神武天皇等の皇室またはヤマト王権の祖先の九州地方からの東遷を否定したということが誤解であることを論じていく。
それは『日本古典の研究上』の第二篇第六章「神武天皇東遷の物語」である。津田は、神武天皇が九州南部の日向から大和への東遷の伝承については否定している。その理由について「(前略)後世までクマソとして知られ、逆賊の占拠地として見られ、長い間ヤマト朝廷を戴く国家に入っていなかった今日の日向大隅薩摩の地方、またこういう未開地、物資の供給も不十分で文化の発達もひどく後れていた僻陬の地、所謂ソシシの空国が、どうして皇室の発祥地でありえたか、という疑問が(後略)」(11) あると述べていた。つまり、そのような後進地域が皇室またはヤマト王権の発祥地であることに疑問を持ち、東遷は歴史的事実ではなく「ヤマトの朝廷」つまりヤマト王権はその祖先を含めて「初めからヤマトに存在した」と論じた。そして、東遷の物語が創作された背景に、歴史的事実としてのヤマト王権及び皇室の起源は、旧辞(事積等)の伝承がはじめてまとめられた頃には、全く分からなくなっていたこと、神代と人代を連結させるために太陽神の思想と「日に向かう」という地名から九州南部の日向が選ばれたと論じていた。 (12)
一方、その十一年前の大正二(一九一三)年の刊行『神代史の新しい研究』では、九州南部の日向起源については疑問を示す一方で、皇室及びヤマト王権の発祥地を「狭義の筑紫」つまり九州北部に求め「神武天皇東征物語の基礎として、少なくとも皇室が筑紫から起こって東方を平定せられたというだけの伝説はあったものとみるのが穏当であろう」と認識していた。(13) このような説の変化があった理由として田中は、津田の恩師、白鳥庫吉の大正十一(一九二二)年発表の論文「邪馬台国について」(『考古学雑誌第十二巻十一号』)で白鳥が以下の三点を説いたことを挙げた。(14)
一、「大和朝廷(ヤマト王権)の起源は古いもの」で「古くから大和が皇室の中心であった」
二、そのため『記紀』の天孫降臨と日向三代の伝承は大和(高天原)を出発して熊襲つまり九州南部平定の史実反映とみる。
三、そして神武天皇東遷を大和への帰還と見る。
以上の白鳥の説のうち津田は、一のヤマト王権の起源は古いことのみを採り、二、三は採らなかったとし、田中は白鳥説の「換骨奪胎」 (15)であるとみなした。また若井敏明は、一九一四年から一九一八年までの第一次世界大戦後のドイツ、オーストリア・ハンガリーそしてロシア等の君主国が軒並滅んでいった状況を見て日本の皇室はそれらとは違うことを説明するために神武天皇東遷を否定したと述べていた。 (16)
ところが、大正十二(一九二三)年に発表した『神代史の研究』第七章(戦後の著作『日本古典の研究(上)』第三篇「神代の物語」第十六章に相当)「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、「(前略)ホノニニギの命の天くだりの物語の次にすぐにホホデミの命の東遷の話が来るのが、寧ろその意図にかなうものである。(中略)オホナムチ(大国主)の神の国譲りから、すぐにホノ二二ギの命のヒムカ天降りになり、それがまたすぐにホホデミの命のヤマト奠都となって、その移りゆきが自然になる。こう考えると、神代史の最初の形においては、ホノ二二ギの命の天降りの次がホホデミの命の東遷の物語であったろうという上記の憶測は決して理由のないものではなかったろう。(中略)そうして神武天皇の東遷の物語がもとはホノ二二ギの命の子としてのホホデミの命の東遷として語られていたものであるとすれば、神武天皇の東遷が歴史的事実でないことはこの点からも明らかになるのである」と論じていた。 (17)
このことから津田は、『記紀』の神武天皇の九州南部の日向から大和への東遷の事実を確かに否定していた。しかし一方で、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。
筆者は以上のことから、津田は神武天皇の東遷を否定していながら、後のヤマト王権の祖先が九州南部から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるをえなかった。
第四節「おわりに」
筆者が小論で伝えたかった津田説の誤解に対する正解は以下の二点である。
一、津田は、初代神武天皇から十四代仲哀天皇、特に九代開化天皇までの歴代の実在性を疑っていなく、神武天皇については「皇威伸張の英主」と評していたこと。
二、神武天皇の九州南部から大和への東遷を否定しながら、皇室及び大和王権の祖先の東遷までは否定しきれなかったこと。
最後に、日本古代史研究は―考古学は別として―文献・金石文等の史料は少ない。確かにその中心たる『記紀』の神話と人代初期は「そのまま」では史実とは言えない。しかし『記紀』にはそれらも載せるべき理由があった筈であり、切り捨てることこそ無意味である。注意深く扱い、載せた理由を解明することで有効な史料として利用することが可能になる。
また『記紀』の伝承は世に出てから、一三〇〇年以上は経過しているため日本人は『記紀』伝承の概要を知らなければならない。それは、『記紀』伝承がその一三〇〇年以上もの間に語り継がれてきた中で、それらの伝承を根拠にして日本の歴史が続いてきたことも理解しなければならないからである。
(1)大津透『天皇の歴史01 神話から歴史へ(十五~十六頁)』講談社 平成二十二年
(2)当該項目の担当は、家永三郎氏 國史大辞典編纂委員会『國史大辞典 第九巻』吉川弘文館、昭和六十三年、七六六頁
(3) 家永三郎「記紀批判弾圧裁判考」『ヒストリア 第十七号(昭和三十二年)』大阪歴史学会機関紙に掲載。当該論文は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
(4) 参考・引用は『津田左右吉全集第一巻 日本古典の研究上』岩波書店、昭和三十八年
(5)三〇三、三〇六~三〇七頁
(6)三〇七~三〇八頁
(7)『現代史資料第四十二巻 思想統制』みすず書房、昭和五十一年、六九一頁
(8)『津田左右吉全集第二十四巻』岩波書店、昭和四十年、四七一~四七二頁
(9)家永同前論文、十四~十五頁
(10)田中卓『続田中卓著作集第四巻 日本建国史と邪馬台国』国書刊行会、平成二十四年。二七一頁
(11)二七二頁
(12) 二七九~二九一頁
(13)『津田左右吉全集別巻第一』岩波書店、昭和四十一年、七十五頁
(14)『白鳥庫吉全集第一巻』岩波書店、七十五頁
(15)同前田中続著作集、二八五~二九〇頁
(16)若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史 歴史親書y』洋泉社、平成二十九年、四十四~四十九頁
(17)五五六~五五七頁
誤解だらけの津田左右吉 佐藤 裕太 @8573t23
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