花に酔う君たちが見た夢【短編連作】
朝桐
酩酊した君が見た夢は桜の散り際に似ている
花を見たり花の匂いを嗅いだりすると、酩酊状態に陥り、最悪の場合には死に至る病だ。
寺澤大和の恋人である、美島香澄もまた、花酔病に罹患した患者のひとりだった。
ただ香澄は、厄介な意味で他の患者とは変わっていた。
花酔病に罹った患者の多くは花を忌避するようになるのだが、香澄の場合は進んで花を愛でた。元々、花屋で働くくらいには、花が好きだった所為もあるだろう。だがそれ以上に香澄が花になったのは、ドラッグよりも酒よりも甘いとされる花酔病特有の酩酊状態にあった。
今日も香澄の病室を訪れれば、窓際に立った香澄は桜の小枝を手に鼻歌を歌っていた。おそらく、院内に咲いている桜の樹から拝借してきたのだろう。大和は溜め息を零しながら香澄を呼ぶ。
「香澄。また花を盗ってきたのか?」
窓際に立つ香澄の隣に並べば、香澄は嬉しそうに大和を見詰める。
「あら、大和くん。ひさしぶり。ふふ。元気? 私はとってもしあわせ。いい気分」
「……久しぶりじゃないだろう。昨日も来た」
「そうだったっけ? あは、覚えてないな。覚えてなくてもいいもの。花もそう言っているわ」
これは駄目だ。話にならない。
けれど大和は桜を取り上げることはしなかった。本来なら、医者も看護士も、香澄から花を遠ざけるだろう。それをしないのは、香澄が同意書に同意したからだ。花酔病に罹った時、花を遠ざけません、と。
それは自由を約束される代わりに、香澄がどうなっても良い、という死の明文化だった。
大和にそれを止めることはできなかった。花酔病患者の意思決定は、基本的に患者本人にあるからだった。恋人であっても家族ではない大和には、何もできなかった。香澄は天涯孤独の身だったから、尚更どうしようもなかった。
「そういえばママも会いに来たのよ。やさしい顔をしていた。パパもいたかな? ふたりともお見舞いにきてくれた」
香澄は春の陽射しのように顔を綻ばせて言う。けれど香澄に家族はいない。優しい家族は、いない。
香澄の父母は香澄を虐待していた。香澄は児童保護施設に保護された子で、その後、両親は離婚。父親は行方知らずで、母親の方は自動車事故で亡くなっていた。
けれど花酔病に罹った香澄は、都合の良い夢ばかりを見ている。花に酔わされ、見させられているといったほうが正しいのかもしれない。記憶障害、幻覚、幻聴、健忘といった症状も花酔病の特徴だ。
どうして、香澄がこんな病に罹ってしまったのだろう、と思うことがある。
確かに花を愛する彼女だったけれど、花に毒されるような罪は犯していないはずだ。
それとも香澄が花を愛するから、花に酔わされやすいのか。
花酔病の全貌は未だに明らかになっていない。未知の病といってもいいし、今の所、不治の病だ。
大和は香澄が病気になってからは仕事を辞め、時間がつくれる別の仕事に就いた。なるべく長い間、香澄のそばにいるためだった。
「大和くんは、いつも哀しそうな顔をするね」
「……そうかな? そんなことないと思うよ」
「うそ」
香澄のきれいな瞳には、大和の影が揺らめいていた。
「私にあいにくるときは、いつだって泣きそうな顔をしている。どうして?」
「どうしてって……」
そんなの、当たり前じゃないか、と言いたくなる。
花酔病はいつかは死に至る病だ。治療法や特効薬が出ない限り、香澄はこのままだと死ぬことになる。
死んでしまう、ことになる。
香澄が死んでしまう。
そんなの耐えられなかった。
「……君がいない世界が耐えられない」
絞り出した大和の声に、香澄は穏やかに笑う。
春が見せる、幻想みたいに。
「いなくならないよ。安心して。私、大和くんのそばにずっといる。ずっといっしょ」
「うそだ」
「うそじゃない」
花の香りが強くなる。
香澄が持っている桜の花が、春に納骨された骨のように白い。
「うそだ」
大和は繰り返す。繰り返し、繰り返し──花酔病の夢を見る。
酩酊。
記憶のゆがみ。
そのゆがみは、真綿のように柔らかに大和を包む。いつだってそうだ。
今だってそうだ。
分かっているはずなのに、また同じ夢を見る。
風が吹き込んでくる。隣を見る。香澄はいない。香澄はいない。
香澄は、もう、いないのだ。
香澄は去年の春に亡くなっていた。花に埋もれ、花酔病でとうに亡くなっているのだ。
幻覚、幻聴、記憶の改竄。恋人を喪うといった非情な現実。
ただ大和はそれを受け入れられない。
受け入れられないから、こうして花酔病が見せる甘い夢を見る。
「香澄」
きみが、こいしい。
大和は窓の外に咲く立派な桜に手を伸ばす。
応じるように、花弁が一枚、大和の手に零れ落ちた。
花に酔う君たちが見た夢【短編連作】 朝桐 @U_asagiri
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