いつから

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いつから

マリさんは埼玉県のある老人用介護施設に勤めている。

そこでは認知症の患者もおり、進行の度合いによるが、自分の名前が不鮮明なケースも珍しくない。


「分からない」「忘れた」と言う人もいれば、でたらめな名前を挙げる人もいる。中には往年の大女優の名を堂々と名乗る女性もいた。


その中で「ミチコ」と名乗る80代の老人がいた。

多くの患者と接してきたマリさんが、なぜその人の事を特に気にかけたのかと言うと、その老人の本名は「ゴロウ」という男性だったからである。


先に述べたように、名前が分からない、あるいは、でたらめな名前を名乗る例は珍しくない。

しかし、自身の性別と異なる名前を挙げる患者は初めてだった。


配偶者や友人の名前かと思い調べたが、該当する名前はなく、親族にもそれとなく尋ねたが思い当たる節はないという。


だが、ミチコさんはとても穏やかな性格の持ち主で、本名が一致しない以外はまったく手のかからない人だった。

トイレや食事等の介助もほとんどいらず、心身共に安定しており、たまの介助の際にも職員には感謝や労いの言葉を忘れず、温和な態度から他の患者との関係も良好で、皆から好かれていた。


ある日のことだった。

夜勤だったマリさんが消灯後の見回りをしていると、ミチコさんがベッドの端に腰掛けているのを見つけた。


「どうしました? 眠れませんか?」


とマリさんが声をかけると、ミチコさんは


「今まで大変、お世話になりました」


と、深々と頭を下げた。

その姿にざわりと胸騒ぎを覚えた。

そこには自らの死期を悟った人の特有の雰囲気があり、職業柄、マリさんも何度かそれを経験している。


「どこか、お加減が悪いんですか?」


そう尋ねるも、ミチコさんは何も答えず、弱々しく首を振るだけだった。




ーーーその翌朝だった。ミチコさんの部屋から悲鳴がこだました。


事務室で休憩中だったマリさんも、他の職員とともに急いで部屋に駆け付けた。

そこには頭を抱えて泣き叫ぶミチコさんの姿があった。


「どうしたんですか? 大丈夫ですか、ミチコさん!」


すぐさま駆け寄り、何とか落ち着かせるとミチコさんはマリさんの顔を凝視して言った。


「ミチコってだあれ。そんなひとしらない」


その後、「ゴロウ」と名乗る老人は


「ここはどこなの」

「ぼくはなんでこんなところにいるの?」

「いますぐおうちにかえして」

「おとうさんおかあさんたすけて」


と、舌足らずな子供のような声で叫び続け、その二日後に亡くなった。

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