夫に飽きました

ペンのひと.

夫に飽きました

「では、あなたは夫であるメイブラントきょうにお飽きになったと、――つまりはそういうことですね、侯爵夫人?」

「……ええ。でも、何もそんな露骨な表現をなさらなくても……」


 まるで胃腸の具合でもたずねるように抑揚のない声で薬師から問われ、わたしはソファの上で居住まいをただす。


 夫との結婚以来、月に少なくとも二度は屋敷の応接間でこの薬師の訪問健診を受けるのが通例になっているけど、それほど心許せる相手とは言えなかった。

 室内でもがいとうを脱がず、眼鏡の奥から理知的かつ平板な目付きでこちらをうかがう青年。

 でも一部の貴婦人の間では、意外なほど彼の評判は悪くない。


 何でもこの薬師には、ご婦人方の悩みのあれこれを最適な秘薬の処方によって解決する手腕があるとの噂。

 なんていう恥ずべき悩みをついわたしが漏らしてしまったのは、そんな事情からだった。


「……このようなこと、お話しするのもはばかられますけど。その、自分でもどうしていいのかわからなくて」

「フム。まあ、そういうことでしたら――はて、どこにしまいましたかね」


 手持ちの革鞄をゴソゴソとかき回し、薬師は小瓶を一つ取り出すや、コトリとローテーブルに置いた。


「どうぞ、こちらをお試しになってください。この秘薬は、どんな殿方も理想の旦那様に変えてしまうという摩訶不思議な水薬ポーションでございます」


 たがいの間に置かれた薬瓶に話しかけるように、無感動な声で薬師は続ける。


「これはかつて、古代の宮廷魔術師だけが特殊な魔法を込めて処方していたという、現在では希少な妙薬でしてね。何、まあ日に三滴も使えば十分な効能を発揮するでしょう。あたたかな飲み物に溶かして使うことをおすすめします。たとえばお茶などをたしなまれるのでしたら、その際に――」

 

 いかにもあやしげな色ガラスの薬瓶を持ちだされ、ためらわなかったと言えば嘘になる。

 それでも気付けば次の瞬間、わたしはこう答えていた。


「……そう。ええ、それならちょうどいいわ。夫はいつも毎食後にお茶を飲みますのよ」 



        ♢



 正直なところ半信半疑ではあったけど、わたしは薬師の言いつけに従い、夫の飲み物に秘薬を一滴、また一滴と密かにたらして提供することをはじめた。

 あたたかなお茶に溶かし込むと、秘薬はえもいわれぬ不思議な香りをたちのぼらせる。


 もともと結婚前からわたしも夫も二人してお茶を好んでいたせいもあり、お茶の用意だけは侍女にまかせず私が淹れて給仕するのがメイブラント侯爵邸の暗黙のルールになっているので、その点はまあ都合が良かった。

 秘薬を溶かしたお茶をカップについで出すと、夫は特にいつもと変わらない機嫌の良さでそれをじっくり味わって飲み干し、軽く微笑んだ。味にそれほど変化はないはずだ。


「――いい香りだね。ひょっとして、茶葉でも変えたのかい?」

「……え、ええ、少し前かしら、母が届けてくれたの。たしか、ヒルマードの産ということだったわ。お口に合って?」

「ああ、今日のも美味しかったよ。ありがとう」


 わたしは一瞬ギクリとしたが、夫に他意がなさそうなのを見て静かに息を吐く。

 彼に淡い笑顔を向けられても、出会った頃のようにはわたしの胸はもうときめかないけど、ひとまず事態はここから動いていくと考えていいのかしら。

 そんな日々が、数日続いた――。



        ♢



 はじめのうちは気のせいだと自分に言いきかせていたけど、あるときから日を追うごとに夫の魅力がどんどん増していることに、わたしは気付かないわけにいかなくなった。

 覇気のない三白眼は凛々しく力ある碧眼に変化し、結婚以後たるみがちだった身体つきは男らしく引き締まり、見るたびにイライラする王侯貴族特有の繊細で女々しい身ぶり手ぶりまでも、精悍な立ち居振る舞いへと様変わり。 

 お茶に仕込んだ秘薬が、効きだしたのだ。


 夫であるメイブラント卿の「変身」に、わたしの心まで思わず浮きたつ――。 

 こんな素敵な旦那様なら、連れ立って社交の場へもくりだそうというもの。

 華やかな立食パーティー。

 芸術鑑賞の集い。

 舞踏会。


 行く先々でわたしは変身した素敵なパートナーを見せびらかしたいという欲求にかられ、我がことながら大人げないとは思いつつも、お友達である貴族階級のご令嬢や婦人方に、夫をともなって話しかけた。

 するとどういうわけか、友人たちは口をそろえてわたしにこう言うのだった。


「あなた、ずいぶん変わったのね。未婚の少女みたいにいきいきして、ついこの前までとは大違いじゃない。何かあったの?」


 妙なことを言うものだわ、とわたしはいささかいぶかしく思う。

 変わったのはわたしではなく、夫の方だというのに。

 ひょっとするとみんな、わたしの夫があんまり素敵に変身したものだから、嫉妬して夫への直接的な言及を避けているのかしら。


 いずれにしろ、この頃になるとわたしの日々は享楽的な喜びに満ちていったのだった。

 しかしある日を境に、その幸せは唐突に終わりを告げる。



        ♢



 ――おかしい。薬が効いてないわ。


 そう、ここ数日、あきらかに秘薬の効果が弱まっている。

 夫の魅力が、急速に失われはじめているのを感じる。

 わたしはあせって、夫の飲み物にたらす秘薬の量をどんどん増やしていった。

 ついにはポーションをあらかた使い切ってしまうほどに。

 にもかかわらず、わたしの努力むなしく夫はまたも様変わりしてしまう。


 凛々しく力ある碧眼は覇気のない三白眼に変化し、男らしく引き締まった身体つきはたるみがちなそれへ逆戻り。

 精悍な立ち居振る舞いはどこへやら、見るたびにイライラする王侯貴族特有の繊細で女々しい身ぶり手ぶり。

 まさに、もとのもくあみ。

 わたしはカンカンに腹を立て、いつぞやの薬師を応接間に呼びつけることにする。



        ♢



「こんなに早く薬の効き目が切れるなんて、聞いておりませんわ! どういうことか説明して!」 


 薬師はわななく私の手から無言で薬瓶をもらい受けると、栓を開け、たしかめるようにその中身を嗅いでみせる。

 そして、おもむろに口を開いた。


「恐れながら侯爵夫人、秘薬の効果は切れてはいないようですが……」

「何を言うの。夫には少しも効いていないじゃないの。そりゃあいっときは素敵な殿方に変身したけど、いまじゃ何もかも逆戻りの元通りよ」


 薬師はわたしの言葉にかすかに目を見開き、それから何を納得したのか鷹揚にうなずいて答える。


「そうでしたか。であればやはり、秘薬は効いております」

「わけのわからないことをおっしゃらないで。最初からあやしいと思っていたのよ。だいたい――」

「この秘薬は、旦那様にではなく、なのです」

「???? なん……ですって……?」

「事前のご説明が足らず、申し訳ございませんでした。お話を整理しましょう――」


 ――思い出してください、侯爵夫人。

 私はこの秘薬を、あたたかな飲み物に溶かして使うよう申し上げましたね?

 たとえばお茶などをたしなまれるのでしたら、その際に……と。

 するとあなたはおっしゃった。


『……そう。ええ、それならちょうどいいわ。夫はいつも毎食後にお茶を飲みますのよ』


 ――そこで話は一件落着、侯爵へお茶をお出しするときに秘薬を使われるのがよかろうということになった。

 あのときもう少し詳しいご説明をこちらからすべきでしたが、何しろ侯爵夫人、あなたはいますぐ秘薬を試したくてたまらず、気もそぞろなご様子でしたので……。


 失礼。もったいぶらずに申し上げましょう。

 この秘薬は、たちのぼる香りによって、ある効能を発揮するのです。

 それは、秘薬を嗅いだ者の望むままに幻覚を瞳に映じさせる、という効能です。

 つまり、お茶の湯気とともにたちのぼる秘薬の香りを嗅いだあなたは、あなたの心が求め思い描く夫の姿をその瞳に映し見ることになった。


 おそらく数日は、現実離れなほどに魅力を増していく夫の変貌ぶりに、夢中になられたことでしょう。

 秘薬を嗅いだあなたがご主人を見るとき、あなたの瞳に映っていたのは、現実のご主人ではなく、あなたの心が夢想するご主人の姿そのものだったのですから。

 どうでしょう、何かお心当たりはございませんか?

 あなたの目にはたしかにすっかり変身したご主人がいるのに、あなた以外の誰もそのことに気付いていないというような?

 まあさておき、ではいったいなぜ、あなたの瞳に映るご主人は再び元の姿に戻ってしまったのか?


「……そうよ。なぜ、……なぜなの?」

「いえ、何も不思議はございません。秘薬は効いております。あなたはちゃんと、

「…………」

「お気付きのはずです、侯爵夫人。一時の変身に浮かれはしても、あなたが真に望む者の姿、求めているお人は――」

「よして。……もうそれ以上、おっしゃらないで……」


 ……つと涙が頬を流れ、わたしはまぶたを閉じる。


 胸に去来するのは、いまでは飽き飽きしているはずの夫の姿と、その愛おしい思い出の数々だ。

 どんなときも自分を見守ってきてくれた、覇気のない三白眼。

 結婚後はたるみがちだけど、でも変わらぬぬくもりで、もたれかかることを許してくれる体。

 女々しいくらいに繊細な、王侯貴族特有の身ぶり手ぶりも、裏を返せばその一つひとつが、こちらへのたゆまぬ気遣いに満ちるものだった。


 わかってた。……本当は、わかっていたのよ。

 ただわたしは怖かった。そんな大切な何もかもが、当たり前になっていくことが。

 当たり前にしか感じられない、自分の心が。……怖くてたまらなかった。

 怯えていた。


「侯爵夫人、何もお気になさることはございません。月並みな物言いは控えたいものですが、ご婦人にはよくあることです。それにかような経験を経てこそ、女性はより美しくなられるとも聞きます。どうか顔をお上げください」


 抑揚のない薬師の励ましに、どうにか微笑みを返す。 

 せめて気丈に振る舞わなくちゃ……。

 それでもやっぱり一つだけ、わたしには気がかりがあった。


「……でも、秘薬の香りを嗅いだのは夫も同じはずでしょう? 毎日あんなに、秘薬を溶かしたお茶を飲んでいたんですもの。ということはここ数日、夫の目にも変身するわたしが映っていたんじゃないの?」

「フム――」


 秘薬の小瓶に栓をすると、薬師の青年はそれをヒョイと懐にしまい、頭をかきながら言った。


「いえ、それはないでしょう。所用にてメイブラント卿には毎日お会いしておりますが、人の顔を見るなりあの方はいつもこうおっしゃられます。――『聞いてくれよ。なんだか怖くてたまらないんだ。俺は幸せすぎると思う。心底愛する女性と結ばれて、毎日この瞳に映るものといえば、出会った時から少しも変わらない、愛しい彼女の姿なんだから』、と」

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