5
「どうして」
呆然としている俺をちらりと見てからヴァレリーは再び花に目を落とした。
「王太子殿下は。あれは駄目です。国母様の生き写しとしか言いようがありません。そして、国母様のなさりようは民草の言う通り。もちろん、中には根も葉もない噂もありますが、年々重くなる税のほとんどを国母様がまとっておいでだというのは真実です。ご公務もろくになさらない、親族を呼び寄せては重職を与えて現場を混乱に陥れる、陛下がそれをいさめると逆に叱り飛ばして法すら踏みにじる始末。陛下も善き王かというとどうでしょうね。先王陛下は才というものを愛しておいででした。能力や人柄、人間の善きところを見つけるのがお好きであらせられた。その先王陛下が作り上げた廷臣団を陛下は完膚なきまでに破壊してしまわれたのです。今や御前に侍るのは奸臣ばかり。私とて偉そうなことを言っていますが例外ではありません。積極的に悪を為しこそはしませんでしたが、お恥ずかしい話、握らされた金を両親への仕送りのたしにしたこともあります」
腐敗しているのだと俺は思った。王は聞き心地のいい言葉を好み、また国母に惚れ込んでその言いなりになっている。国母は町人の出身でありながら、またそれゆえに贅をこらすことに腐心して重税を課された民の苦しみなど目にも入らない。先王が緻密に編み上げた政治機構はバラバラに解体され、今や歯車が噛みあわずに悲鳴をあげている。
こうしたツケを払わされるのは決まって次代の王だが、継承権第一位の王太子は今回の事件を乗り越えたところでこれを立て直す能はおそらくないのだろう。
「しかし、本当に変わらないのでしょうか」
考えの続きが気付いたら口に出ていた。ヴァレリーがこちらを見上げて先を促すので、迷ったが続けることにした。どうせ今日中に失う命だと思えば惜しがるのは滑稽だ。
「九死に一生を得た人間はそれまでと振る舞いを変えるものだと聞いたことがあります。王太子殿下は、たしかに今は国母様の振る舞いを真似ていらっしゃるかもしれません。けれども今回、お命をお救いすることでなにかが変わるかもしれません」
「あなた様も人間の善性を信じておられるのですね」
「いいえ。祖父のように立派な考えあってのことではありません。ただ、ふと思ったのです。人間とは変化するものではないかと」
ヴァレリーは慈しむような微笑みを浮かべてひとつ頷いた。なにか、大事なことを確認したようなしっかりとした動きだった。
「良い教育を受けていらっしゃったのですね。やはりお母上のなされることに間違いはない」
「ヴァレリー様は母を好いて、いいえ、良く思っていらっしゃるのですね」
母こそが悪であり、王宮史の汚点であると思っていてもおかしくはないのに、この男だけはそうではないらしい。陪臣たちは恥知らずの馬鹿女を見るような目で母を見ていたし、王も母にはうんざりといった様子だったのに、彼の言いようはいっそ不思議だった。
「お母上は――本物の国母であらせられましたよ。よく公務をこなし、悪しにはまず糺したのちにしかるべき手を打ち、善きには言葉と行動で報いてくださっていました。陛下の怠け癖、遊び癖には頭を悩ませておいででしたが、それも力の及ぶかぎりお力添えをしてくださったものです。あのどうしようもない売女にさえ礼を尽くしておいででしたし、まあ、諫言をうるさく思う人間にとってはたしかに邪魔であったのでしょうが。しかし、私はお母上に希望を見ておりましたよ。この方さえいればこの国は大丈夫だと、明るい未来に胸を膨らませていたのです。もちろん、若い時分の浅慮な胸ではありましたがね」
「母は」と言って俺は俯いた。その先を言えば取り返しのつかないことになる。予感ではなく事実だ。しかし、今これ以上に取り返しのつかない事態もないのだと思い直して、俺はそれを口にすることにした。「復讐せよと私に教えました。陛下と国母様に相応の報いを与えるのだと。私が生まれた意味はそれだと。私に与えられた教育とは、畢竟それです。母の怨念、その結実が私なのです。母があなたの言うような素晴らしい人間だとは、私にはどうしても思えません。母は復讐を是としています。それは国の為、民の為にもなるのだとさえ言っていました。けれどもその企みは国家の転覆そのものです。王と国母を同時に失った国は間違いなく乱れます。隣国もその他の勢力も、きっと親切な顔で近寄ってくるでしょう。あなたの言うとおり、今の王宮を奸臣が牛耳っているのなら、その時に苦しむのは民です。今は増えゆく税に苦しみ、たちゆかぬ暮らしの中で日々懸命に足掻いている彼らに、この上外圧に苦しめというのが正義ですか。民が生きているのは、国内に入り込んだよそ者に踏みつけにされる為ですか。悪というのなら、私はそれこそがそうだと思います」
「真の悪役などこの世にはいないのですよ」
そう言ったヴァレリーの声は教え諭す者の声色をしていた。
「シメオン様はやはり賢くあらせられる。けれども、ひとつ勘違いをしていらっしゃいます。人間がある人や事柄を指して悪だと言うのは、その人間にとって悪である、それ以上でもそれ以下でもないのです。私にとっては善であるお母上が、耳に痛い言葉を拒絶する陛下やあの売女にとっては悪であるように、善悪は表裏一体、混沌として両立しているものなのです。けれども国は選び取らねばなりません。全き善でなくともいい、より良き善でさえあれば良いのです。国にとっての最悪とは選ばないこと、動かないことなのですから、国そのものに善悪があるとすれば選び取ることそれのみが間違いのない善なのです。かつてのこの国が選ぶべき善はお母上でした。そして今、選ぶべき善は」
そこでヴァレリーは言葉を切って立ち上がった。等間隔に植えられた樹の壁をまっすぐに辿っていって、樹々の間にぽつんと置かれた白い像の前で立ち止まる。像と樹の隙間を通って彼が指し示した壁面には四角い切り込みが入っていた。巨大な白亜の壁に、そこだけ人間大の長方形が刻まれている。
「シメオン様、あなたです。王太子殿下かあなたか、どちらがより善いものかと問われたならば私はあなたと答えます。あなたのお母上は間違ってなどいなかった。復讐なさい。ただし、あなたの為に、あなたの信じる善の為にです。その為に陛下やあの売女を斃す必要があるのならそうなさってください。どこか日陰で生を全うするのがあなたの善だと決めたのなら、私はそれでも良いと考えます。あなたは先ほど、人間は変化するものだと仰いましたね。たしかにあなたの命を重く見た王太子殿下は変わるかもしれない。その可能性は否定できない。けれども、変わらない人間がいることもまた事実なのです。そんな不確実な未来と今確実にここにあるあなた、どちらかしか選べないのであれば、私は後者を選びます」
「でも……いいのですか。王太子殿下がお隠れ遊ばしたところで、陛下の御代はあと数十年は続くでしょう。私がそれを縮められる保証などどこにもありません。どころか、そんな大それたことと恐ろしくなって逃げだしてしまう可能性すらあります。私はそれを否定できるほど己を信じられません」
「良いのです」
きっぱりと言いながらヴァレリーは俺の手を取った。白い手套に包まれて優雅に見えたその手は、触れてみるとゴツゴツとしていてやはり戦うものの形をしていた。
「何度でも申し上げましょう。あなたはあなたの為に生きて良いのです。あなたという種が落ちたその場所は、あなたが選んだものではなかったでしょう。けれど、その先はあなたが決めて良いのです。石を割って咲いても、石の下で首を縮めることを選んだとしても、あなたがあなたの意志において決めたことであればそれで良いのです。もちろん私としましては前者であるように願います。仰ったように陛下の御代はあと数十年は続きます。そして民はそれだけの年月を耐え忍ばねばならない。しかし、既に民の生活は破綻寸前です。いいえ、もはや破綻しています。それを日々の小さな幸福を愛でることで知らぬ振り、見ない振りをし続けているに過ぎないのです。その悲嘆を思う時、私はこの立場を投げ出したくなります。どころか一刻も早いご崩御を、いっそ全てをかなぐり捨ててこの剣を振るえたらと夢想さえしてしまう。けれどもシメオン様、あなたがご存命でさえあれば私はまだ踏みとどまることができます。あなたはあなた自身で道を定めて良い。それは間違いありません。けれどももし、己一人の為に生きるのは気が咎めると思し召すのであれば、国の為、民の為、なにかの為でなければ生きられないと思し召すのであれば、まずは目の前にいる民をお救いください」
俺は俺の為に生きていい、心の中で言葉をなぞってみたがそれは空虚な響きになった。だって、そんなふうに生きたことがない。俺の全ては復讐の為だった。母の為だった。大好きな母がそう望むから必死に応えていただけだった。事実、俺は父を憎んでなどいなかった。顔も知らない国母様なんてなおのことだ。復讐の念なんて大層なもの、最初から持ち合わせてはいなかったのだ。
俺はただ、普通に愛されてみたいだけの子どもだった。きっと、ずっとそうだった。国や民なんて母と本から学んだ言葉に過ぎず、それを口にすると母が喜ぶからと口ずさんでいただけだった。
俺はヴァレリーの目を見返した。真摯な目だ、そう思った。この目に応えることが、はたして俺にできるのだろうか。今初めて窮状を実感した俺なんかに、本当に復讐ができるのだろうか。その目を裏切ってもいいと彼は言った。俺が望むのなら、そうしたっていいと。けれど、現実を知った今やそんなことできはしない。選べやしない。ならば、石を割る道を選ぶしかないのに、俺はまだ決心つかずに押し黙っている。
「まずは生きてみるのがいいでしょう」
項垂れる俺のつむじに向けてヴァレリーは穏やかに言った。弾かれたように顔を上げた俺に、彼は優しく頷いて一枚の紙片を取り出した。
「こちらで宿を用意いたしました。それから」と、彼は重たい革袋を俺に握らせた。「当座の資金にしてください。道々に信頼の置ける部下を配置しています。彼らが宿までご案内いたしますし、定期的に資金をお届けにあがります。ご安心を。汚れた金ではありませんから」
「本当に、いいのですか」
ようやく押し出した声はすがるように震えてしまっていた。
「いいのです」
「ヴァレリー様はきっと後悔なさいます。どうしてあの時、私なんかを選んでしまったのかと。そうです、私なんかここで消えた方が国の為、民の為になるのではありませんか」
「いいえ。あなたなら大丈夫です」
「でも、だって。私はあなたが思うほど善い人間ではありません」
「そう思うことができる。それこそがその証です」
「私は、俺は、俺の思うように生きて本当にいいのですか」
「もちろんです。いかに生きるべきか、なんの為に生まれたのか、存分に懊悩なさってください。それはけっして無駄にはなりませんから」
いつかの母の横顔が脳裏をよぎって消えていった。気付けば俺は両目から涙をしたたらせていた。ヴァレリーが「失礼」と言ってハンカチで拭ってくれたが、それはあとからあとからあふれ出て止まることがない。彼は少し困ったような顔をして、こちらも差し上げますと言って俺の手にハンカチを握らせた。
「数は少なくなってしまいましたが、心ある臣はまだ宮廷に留まっております。今回、私が用意した兵たちもそのうちです。こちらはこちらで万端整えておきます。もちろん、強制はいたしません。あなたの心が定まった時にお声がけくださればそれで結構です」
「……待っていてくれますか」震える声で俺は言った。「俺が心を決めるまで生きていてくれますか」
ヴァレリーはにっこりと笑うと壁の切り込みに手を当てた。ぱらぱらと土くれを落としながら切り込みはしばらく抵抗していたようだったが、彼が両手を当てて押しやると鈍い音をたてながらゆっくりと口を開けた。その向こうに見えるのはまた緑だ。けれども剪定されていない、自然のままのそれだった。生い茂る木々の陰に平服姿の男が一人立っていて、左胸に右手を置いた敬礼をこちらに向けて捧げていた。
立ち尽くす俺の背後に回って、ヴァレリーは今度は俺の背を押した。それが思いのほか強い力だったので、俺は一歩二歩とよろめくように前へ出た。不安が心を真っ黒に占めている。見上げる俺に向かって、ヴァレリーは力強い頷きをひとつよこしてくれた。
改めて前を向く。切り込みの向こうから吹き付ける風が俺の髪を乱す。何度もつばを飲み込み、拳に力を込め、唇を噛んで、行儀悪く袖で涙を拭いて、ようやく俺は歩きだした。
切り込みをあと少しで潜るという時、何者かが囁いてきた。そいつは俺の心の底から汚泥の弾けるようなねっとりとした声でこう言った。これで王太子は死ぬ、と。
これは俺の復讐なのだろうか。俺は王太子の死を積極的に望んではいない。しかし、逃げることは選択しようとしている。結果として王太子が死ぬのであれば、それは俺が積極的に王太子を殺したことになるのだろうか。
世界の為、国の為、民の為、俺はここで消えるべきか否か。
暗君は、もっとも王太子に近い血を持つ父は、己が命を我が子に与える選択をしなかった。国母を名乗る女も、我が子の無事を願ってはいるだろうが、それと己の命を較べて拒否したのに違いない。
そんな父母を持った王太子は哀れだ。哀れな、しかし愚か者だと心ある民は言っている。たといこの場は命を繋いでやがて王になったとて、より苦しい場所へ突き進むこの国を救う可能性は低いだろう、と。
俺がここで逃げだせば、母は笑うはずだ。では、この逃避は母の為か。
違うと俺は思った。俺はあくまで俺の命が可愛いから逃げだそうとしているのだ。世界の為でも国の為でも民の為でもない。それらを言い訳にできるから、自身を正当化しようとしているのだ。それはれっきとした悪に違いない。
――善悪は表裏一体、混沌として両立しているものなのです。
お早くとヴァレリーが囁いてきた。
「あなたたちを裏切らない」
震える声で応えたことは、しかし、自分に向けての言葉だった。それでも俺は必死に続きを口にした。
「待っていてください。死なないでください。生きていてください。まずはそこから始めてください。俺もきっとそうしますから。そうして、ここへ帰ってきますから」
「ご帰還を衷心よりお待ち申し上げております」
振り返ってみるとヴァレリーは左胸に右手を当てたまま、土に片膝をついていた。それは王への深い敬意を表わす仕草である。切り込みの向こうを見ると、そこに立っていた男も同じように膝をついて頭を垂れていた。
「ありがとうございます」
囁いて俺は足早に歩きだした。切り込みを潜る寸前、目を閉じた。それだけは恐ろしくて直視することができなかった。こんな恐怖さえ飲み込めない子どもを、彼らはそれでも信じるという。それほどまでに必要としているのだ。自らが柱となって範を示す象徴をそれほど欲している。救いがないのだ。暗闇に押し包まれて、もはやどう息をすべきかもわからないでいる。それでも必死に抗った指先が、かかった先が俺なのだ。
復讐しようと俺は思った。ただし、母の望むようにではない。俺が俺の為にするように、この国と民の為に復讐しよう。それそのものに身を変えて、全てを喰らい尽くしてでも道を拓こう。あの幼き日に見た夢、あれが現実になるのだとしても、あれ以上の血が流れるのだとしても、それがいかなる悪であろうとも、全てを呑み干してより善きを敷こう。
消えるとしたらその為だ。志半ばだとしても、全てをやり遂げたとしても、俺が世界の為にできる最善の消え方はそれ以外にきっとありえない。
たったひとりの忠臣に見送られ、俺は王宮を後にした。ようやく始まりの地に立てた俺にはそれ以外忠節に報いるすべがなく、けれどもより善きを選んだことには違いない。俺を案内する二人目の忠臣の顔には、その証拠に、たしかに微笑みが浮かんでいた。
悪役令嬢の息子は消えたほうが世のためですか? 保坂星耀 @hsk_starlight
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