4
たらいだのタオルだのを持った女たちが来襲したのは翌日、朝食を終えてしばらくした頃だった。恥ずかしがる間もなく総掛かりで服を剥ぎ取られ、全身を――それはもう全身を洗いたくられ、最後に真新しい服を着せられて、俺はそれだけで今日一日分の勉強を終えたような気分になっていた。
着せられた服は上物の絹に金の糸やら飾り紐やらが渡された一級品である。しかし、絶望的にサイズがあっていない。これが死に装束かと思えばそれだけで気が滅入るというものだった。最後の最後にぜいたくのおこぼれをやろうってか。顔も見たこともない女の高笑いが聞こえたような気がして俺はげんなりとベッドに倒れ込んだ。
ヴァレリーが訪れたのは、そんなお疲れの俺がうとうとして枕を抱きしめ直した時だった。返事がないことに顔色を変えた彼が大仰な音をたてて扉を開いたものだから、俺は即座に飛び起きて「申し訳ありません」と口走った。青筋立てた母が飛び込んできたのかと思った俺と一大事を想像していたヴァレリーは、そういうわけで目だけで会話をしたあと、それぞれでほっと胸を撫で下ろしたものである。
お互いが落ち着いたあと、彼はある意外な提案をしてきた。
「人払いはしてあります」
ヴァレリーは生真面目な仕草で芝を踏みながらそう言ったが、見渡すまでもなくそこここに人の気配があった。王宮の東に拡がる大庭園、そこにどれだけ人員を配置したのか――どれだけ人件費をかければ気が済むのか、呆れを通り越して笑いたい気分で俺は肩越しに生け垣の陰を伺っていた。感じ取れるだけでも二人がそこで息を潜めている。遠くに見える噴水の向こうにも何人かいるようだ。鮮やかにしなだれる水のアーチに制服の色が透けて見えていた。俺が気付いていると認めてだろう、ヴァレリーは眉の両端をしょんぼりと下げた。
「これが限界ではありますが。申し訳ありません」
「いえ、ありがとうございます」
そう答えた俺を彼はやけに眩しそうに見た。
「胸襟を、開きませんか」ヴァレリーはさらに意外なことを言った。「私のような立場のものが友というのは無作法に思われるかもしれません。しかし、その、シメオン様には乳兄弟もいないと聞きました」
「友達くらいはいました」
苦笑して俺は言った。男爵は結婚しており、子どもが四人いた。女が三人と男が一人で、女のうち二人は既に嫁に出ており、男の方は俺が幼い頃はまだ屋敷にいたが、十を越える頃には宮仕えに出ていた。残るひとりの女は年が近かったが、それゆえに俺は近づいてはいけないことになっていた。なにしろ俺は面倒な立場の子どもである。万が一があっては男爵の顔が青ざめるだけでは済まないというわけだ。
年頃の友達はいなかったが、男爵の奥方とは仲良くさせてもらっていた。男爵夫妻の仲は冷えきっており、そんなところへ『美しい上に身分も気位も高い男爵好みの女』が療養にやってきたことも手伝って、奥方はすっかりへそを曲げていた。否、曲げていたどころかへそを暖炉に放り込んで火かき棒でぶっ刺したのを忘れる程度には冷めていた。そこへ孫のような年頃の男児が来たわけである。
女の方は小憎らしく思うこともないくらいどうでも良かった奥方はその子に首ったけになった。男児の方でも、まさか近隣の村の子と一緒になって泥まみれになることもできず、そもそもが勉強だ武芸だとしごかれて遊ぶどころではなかったところに、母と男爵が仲良くしているところを見計らっておいでおいでをしてくれるおばあちゃんがいたわけで、すっかりと懐いてしまった。
二人は絵本を読んだり、最近では一緒に編み物を楽しんだりして仲を深め、当然の成り行きとして互いの打ち明け話を胸にそっと隠しあった。
「ほう」と、ヴァレリーは目を細めていたが、その想像は外れていることだろう。内心で笑いながら俺は水を向けてみることにした。
「けれども、お申し出は大変嬉しく思います。それで、もしよろしければなんですが」
「なんでも仰ってください」
ヴァレリーが身を乗り出して言った。
「王太子殿下はどのような御方か、お聞かせ願えませんか。失礼な質問でしたら申し訳ありません。でも、せめて知りたいのです。市井にいるものですから、そういった話は聞こえてこなくて」
ハッとしたように体を強ばらせたヴァレリーは、再びしょんぼりしてそうですよねと呟いた。そりゃそうだろう。口には出さなかったが、俺は心の中で答えた。
「殿下は」
そう言ったきりヴァレリーは真一文字に口を結んでしまった。さくさくと芝を踏む音だけが耳に明らかである。巨大な噴水がようやっと視界から消え、行く手に東屋なのか温室なのか判じがたい鳥かごのような建物が見えてきてもヴァレリーは迷ったままだった。正面の鳥かごを塞ぐように手を差し出されたので、彼の求めるまま俺は道を曲がった。
なおも緑に覆われた風景が続く。上背のあるヴァレリーより背の高い生け垣があって、目隠しか何かだろうかと俺が見つめていると、彼はようやく「迷路になっております」と囁くように言った。
「陛下には弟君がいらっしゃるのですよね」
いい加減に無言が続くのにも飽きて俺がそう言うと、ヴァレリーの首がこれ以上ないほど折れ曲がった。知らん顔で俺は続ける。
「先王陛下にもご兄弟がいらっしゃる。分家筋にはなりますが男子はそのほかにも十人以上。その中で王位継承権をお持ちの御方は三人」
「よくご存知でいらっしゃる」と、ヴァレリーが唸った。
「家系図を見たことがありまして。思いのほか親戚が多いのには驚きました。王権とはそうまでして守らねばならない尊きものなんだと幼心に――誇らしく思ったものです」
じっと隣を見上げる。ほとんど無言の要求だったが、それでもヴァレリーは口を割らなかった。高い喉仏が上下して、目が泳いで、額には汗さえ伝っている。軍隊式にきびきびと前後する両手は強く握り込まれ、歪んだ手套と長い袖の隙間から白い素肌が覗いていた。男爵の騎士とは比べようもないその白さが二条の軌跡となって何度も空を割る。ぐう、と彼は喉を鳴らして、それで喋りだすかと思ったがやはりそれ以上はうんでもすんでもなかった。
ヴァレリーがようやく口を開いたのは庭園の隅も隅、巨大な王宮が小さな景色になるほどの場所だった。目の前に立ち塞がるのは枝の多い樹が作る壁である。本物の壁はその向こうに白亜の色を覗かせていたが、うんと仰向いてなおてっぺんが見えない代物だった。
これは登れないなあ、と思わず苦笑した俺の横からヴァレリーが進み出て、その真っ白い壁に向かってしゃがみ込んだ。「ご覧下さい」と手套に包まれた人差し指で指し示す。一見して何もないように見えたが、よく見ると壁に小さなひび割れができていて、そこから黄色い花の頭がのぞいていた。
白い指先がそのひび割れを広げ始めるに至って、俺はとっさに焦った。壊したら怒られるぞ、なんて子どものようなことを思ったのだが、考えてみればそんなの俺の知ったことではない。見守るうちに小さな欠片が取り除かれて黄色い花の形が見えてきた。
花はラッパのように口を広げた形をしていて、そのラッパはといえば無数の小さな花びらが形作っているものだった。花びらを支える萼はひたすら小さい。そこからすらりと伸びる薄緑色の茎は細く、よくもまあこれだけの花びらを支えられると感心するほど華奢である。暗がりの奥にちらりと見えているのが葉であろうか。必死に光を求めて、けれども日なたに届かないでいるのがどこか哀れにも思えた。
「ソアラ。私の故郷ではそう呼ばれています」
「西方の方言ですね。たしか、意味は太陽」
俺がそう言うと、得たりとばかりにヴァレリーは頷いた。
「太陽を求めるように咲くのでそう名付けられたのでしょう。この咲き具合ですとあと数日で花は枯れ、かわりに白い綿毛が花のように実ります。綿毛の根元には種がついていて、風に吹かれることで空を飛び、やがて地に落ちるのです。そしてその種は」そこで言葉を切って、ヴァレリーは俺を見上げた。「落ちたところで根を張り、花を咲かせます。そこがどこであっても。例え固い地面に落ちようとも、このような壁の隙間に行き着こうとも。石さえ割って茎を伸ばし、太陽を求めて花開くのです」
これは王宮流の皮肉だろうか、と思わざるをえなかった。今日これから死んでくれと言われている人間に強く生きろはないだろう。与えられた場所で咲きなさいってか。馬鹿を言え。こっちは咲いたその首を落とそうとされてるんだぞ。
俺の反発を読んだのかどうか、ヴァレリーはゆっくりと首を左右に振って見せた。
「分類上は雑草になるので庭師に見つかれば刈られてしまうのですがね。それでも、ご覧ください、こんなにも健気に首を伸ばしている」
それからたっぷり数分は押し黙って、彼は花を見つめていた。
「逃げてみますか」
ぽつんと落とされた言葉の意味がわからなくて俺は瞬いた。
「この近くに陛下、それから近衛の中でも一部しか知らない扉があります。お望みでしたらご案内いたしましょう」
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