3
復讐なさい、と母は言った。
その口癖を最初に聞いたのは、俺の記憶のかぎりでは五歳の時である。
男爵は母に気を遣い、俺にもとてもよくしてくれた。生活に必要なものは惜しみなく与えてくれたし、立派な部屋をひとつ俺にくれて、誕生日には必ず木馬だの本だの木剣だの俺が欲しいと思っていたものを贈ってくれた。けれども、あくまで男爵位の、それも辺境ではないが栄えてもいない、小麦畑だらけの領地を預かっている男のすることだ。母は俺に最高の教育というものを与えたがったが、さすがに全てを思い通りにとはいかないようだった。
母はそうと理解するなり自らが教師になることに決めた。武芸の練習をする時を除けば、つきっきりで俺に学問をたたき込んだ。星を見る方法から玉座にふさわしい知見まで、俺の知るほとんど全てのことは母から学んだことだ。
ある日、母は五歳の俺を連れて遠乗りに出かけた。もっと幼い頃の俺は馬鹿でかい馬が怖くて泣き叫んだものだが、母が乗馬鞭で馬小屋の壁を破壊して以来、それ以上に怖いものなんてなくなってたので俺は大人しく付き従っていた。
小麦畑を見晴るかす丘の上で母は眼差しを研いで声を張った。
「多くの民草は生まれついての運命を持ちません。故に悩み、惑うのです。己がなんの為に生きるのか、なんの為に生まれたのか。そうしたことに人生の貴重な時間を浪費する。母も同じです。母はこれまで神にこいねがってきました。あの女にふさわしい末路を、あの男の裏切りに相応の報いをと。しかし、神は沈黙したまま。神の僕たる聖職者でさえ、あやつらの思うまますげ替えられる始末です。母の祈りは、祈りに費やした日々はまったくの無駄でした。シメオン、けれどもあなたは違う。あなたはあなたの意志において復讐なさい。それがあなたの生きる理由、生まれた意味と決まっているからです。一心不乱に学びなさい。戦いなさい。あやつらが心から悔恨の涙を流せるよう、復讐それ自体に成りなさい。いかに悪辣な策を弄したとして誰もあなたを責められはしない。いかに血濡れたとてあなたが真に傷つくことはないでしょう。なぜならあなたは復讐の現し身なのだから。あなたは理念であり、信念であり、意義であり、正義であるのです。けっして誰にも止められない征服の刃なのですよ。約束しましょう、シメオン。母はもう二度と人生を無駄にはしません。この身を業火に変えてでも、あなたの行く道に先触れを刻むと誓います。ですからあなたも己の理由と意味の為に邁進なさい。これがあなたと母の運命、最初からそう決まっていたのです」
俺は怖くて泣いた。もちろん、こういう時の母の前で涙を流すなんて考えるだに恐ろしかったので、夜に一人で毛布にくるまってのことである。俺はひとしきり泣きじゃくり、そのまま疲れて眠ってしまったのだと思う。
夢を見たのだ。夢の中で俺は広間に立っていた。男爵の屋敷にある大広間よりずっと広くてずっと天井の高いそこは、中心がうずたかく盛り上がっていて、近寄ってみるとそれは人間の体でできた山だった。何十人、何百人、もしかすると何千人もの男女の体が折り重なっていて、無数のうつろな眼球がじいっとこちらを見つめているのだった。夢の中の俺はなぜだかそれを怖いとは思わなかった。むしろ、興味深くその盛り上がりの外周を踏んで歩いて、そして見た。本の挿絵でしか見たことのないような大階段の頂上に燦然と輝く玉座、その座面に一本の剣が深々と刺さっていた。あれは俺だ、と俺は思った。俺がやったのだ。成し遂げたのだ。
記憶はそこで途切れている。あれから何度も母の口癖を聞いたが、以後同じ夢を見ることはなかった。それでもあの光景は描いてみろと言われれば克明に描き出せるほど、強烈に脳裏に焼き付いている。
王太子か、胸の内でそう呟きながら俺は天蓋を見つめていた。本のひとつもなく、窓の外も見られないのではベッドに転がるよりほかにすることがない。
お手軽に復讐するなら王命を拒否すればいいのだ。俺はまずそう考えて即座に否定した。拒否したところで強制されるだけだろう。
では、逃げだすか。できはしない。鎧戸を壊せるようなものは室内から取り払われているし――俺にこのベッドを破壊できるほどの怪力があれば別だが、唯一の出入り口である扉の向こうには人が詰めている気配がずっとある。ヴァレリーが出ていった時に近衛服の背中が数人分見えたのでそういうことだろう。完全武装はしていなかったようだったがこちらは空手だ。加えて相手は多勢と来ている。まず無理な話だ。
俺は極秘裏になかったものにされようとしている。唇だけで言ってみた。しかし、自分で考えるほどの悲しみは感じない。心が麻痺しているのか。それともこんなのは現実じゃないなんて、子どもじみた希望に逃げているだけか。いや、そのどちらでもない。では、この状況から復讐がかなうとでも思ってるのかと自分に問うてみる。答えは考えるまでもなく否だった。
今ごろ母はどうしているだろう。そんなことがようやっと頭をよぎった。
聞いたところによれば、母は追放されたとはいえ王太子妃、ひいては王妃には違いなかったそうだ。幼い俺も王位継承権を持ったままだったというが、しかし、これが気に食わない女がいた。もちろん、くだんの小娘――現国母様だ。
国母様は母と俺の地位を剥奪するよう幾度となく父にせっついた。が、これは祖父が許さなかったようだ。問題はしばらく放っておかれたが、祖父がお隠れになったあたりで雲行きが怪しくなった。父が新たな王になり、慶事は続くもので国母様がご懐妊遊ばされたのだ。
実際にどんなやりとりがあったのか俺は知らない。ともかく、ご懐妊の発表からしばらくして『国母』という地位が正式なものとして認められた。それは本来、王妃の尊称である。しかし、どんだけ金を積んだのか、はたまた首を切ったのか、ある日を境に王妃に次ぐ地位、事実上はこの国の女の頂点であることを証す名称ということになった。同時に俺の継承権は剥奪され――王子でもなければ聖職者でも町人でも農民でもない謎の男児ができあがった、というわけだ。
母は正義と俺を呼んだ。まだ継承権を持っていた幼子を、もはや何者でもなくなった子どもをそうだと本気で信じているようだった。けれども、母自身は正義なのだろうか。その正義とは正気の産物なのだろうか。それは元を辿れば母が語った意志である。母の正義が揺らぐなら、正義そのものも揺らぎはしないか。
考えるだに恐ろしいことに思えて俺は枕に顔を埋めた。それ以外の人生なんて知らなかった。それが生きる理由で、生まれた意味だと言われてここまできた。
今日、生まれて初めてそうと認識して生きて動いて喋る父を見て――まさか赤ん坊の俺とさえ顔を合わせなかったってことはないだろう――俺は、だのに、復讐なんて思いつきもしなかった。胸を満たしていたのは明らかに期待だった。どんな言葉をかけられるだろう、どんなふうに答えよう。あの瞬間の俺はただのガキでしかなかった。
今だってそうだ。母の物語った英雄のように鎖を引きちぎることも、己を助け出すことさえかなわない。剣の腕には多少の自信があってもそれだけの、何者でもない――いや、明日には殿下とやらに捧げられる子羊になることが確定しているガキでしかないのだ。
久しぶりに枕が濡れる感触を覚えて俺は笑った。なるほど、悲しくなくても涙は出るものらしかった。
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