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案内された部屋はひたすらに暗かった。それというのも窓という窓が鎧戸でふさがれているせいだ。燭台には真昼だというのに火が点されて、しかもそのどれもが粗末な木製だった。軽く振っただけで折れてしまうに違いないと考えていると、近衛のひとりがベッドに座るよう言ってきた。
よくよく見てみれば、家具と呼べるものは室内に天蓋付きのベッド以外なにもなかった。テーブルや椅子、チェスト、カウチといったものはもちろん、壺や絵画といった装飾もない。狩り風景を描いたと思しき派手な壁画が、蝋燭の揺らめく光の中に浮かび上がって不気味に四方を取り囲んでいるきりである。
「私はヴァレリーと申します」
俺がベッドの端に腰を下ろすと四人いた近衛兵のうち三人は部屋の外へ出て行った。残されたのは例の謁見の間で話しかけてきた男だ。彼は背筋を伸ばし、ピンと力をみなぎらせた手套の指先を左胸に当てたまま話し続けた。
「このたびは遠く王都までありがとうございます。お呼び立てした事情についてご説明する前にひとつご確認せねばなりません。陛下とお母上のいきさつについてでございますが、シメオン様はご存知であらせられますか」
「母がかつて王太子妃として王宮にいたことは存じております」
どう振る舞うべきかわからなかったので、俺はできるだけ丁寧に答えた。血筋で考えてみると、このヴァレリーという男は目下の人間である。しかし、立場を思えば俺の位置づけはなんとも宙ぶらりんだ。こう慇懃に来られては逆に困るというものだった。
「では、現在のお立場については」
「フセス男爵のご厚意で療養させて頂いていると。母はかつて国母様に様々な嫌がらせをしていたそうですね。挙げ句に弑し奉ろうとさえして、けれども危ういところで企てに気付いた陛下が阻止なさったとか」
と、俺はお利口に答えた。もっとも正しくはこうである。
俺が二歳の赤ん坊だった頃、当時はまだ王太子だった父が町の小娘に入れあげた。それだけならよくある話だが、父は小娘をろくな教育も施さないまま王宮へ招き入れた――つまり愛妾として囲っちまったのだ。先例に依れば、愛妾には愛妾なりの役割と振る舞い方というものがある。しかし、若かった父はしきたりを嫌い、また小娘の方でも町の流儀をひけらかしては遊び明かした。
これがただの遊びだったなら、母は我慢できていたかもしれない。しかし、小娘は突然に転がり込んだ父のご威光に当てられていた。贅沢三昧の我が儘三昧はもちろんのこと、全てをほしいままにするその行いは夜の方にも及んだ。要はその辺の男をくわえ込んでいたのである。
その目に余るあれこれに母は激怒し、何度も小娘を捕まえては切々と諭した。しかし、小娘は意に介さなかった。どころか、笑って母を嘲りすらした。怒髪天をついた母はついに小娘の毒殺を計画した。が、すんでのところで父に気付かれて阻止されてしまった――と、我が父母ながらやってることは小金持ちの商人とその妻とどっこいである。実に情けない。
「陛下は大変お怒りでした。けれども、お母上は隣国の王家のお血筋。和平の証にと輿入れされたお方に通常の刑を科することはできなかったのです」
だからこそ、俺の立場は宙ぶらりんになったわけだ。
愛妾を殺されかかった父は、当然というべきか、既に愛していない女にかける情けなど持ち合わせちゃいなかった。だからといって、殺すことはできない。隣国が黙っちゃいないからだ。塔かなんかに幽閉しておくのも非常にまずい。
「伺っております。母の凶行は王太子妃の重圧に耐えきれず気を病んだ末のことだそうで。そんな折にフセス男爵がご領地へお招きくださり、療養がかなったとか。ありがたいことです」
つまり、方便を使うしかなかったのである。もちろん父は、顔も見たくない女が産んだ子を一緒に送りつけることも忘れなかった。
「お母上が療養に入られてから」ヴァレリーは頷いて言った。「王宮はずいぶんと寂しくなりました。廷臣たちもずいぶん顔ぶれが変わりましたし。当時の私は若造でしたが、その頃に世話になった先輩方もほとんどが田舎に帰ってしまわれて」
なにがあったのかはだいたい想像がつく。例えば戦争もしてないのに防衛税がまた上がるらしいとか、国母様のネックレスは一国に値するとか、噂は時に真実を物語るのである。
「王宮のことはあまり存じ上げません」
と、俺はこれに関しては真実をそのまま語った。ヴァレリーは甘すぎる菓子でも食ったかのような顔をしている。見ないふりで俺は続けた。
「父の顔は母から肖像画を見せて頂いたので知っていました。けれども、それ以外のことは知る必要はないと。そんなことより礼節を尊び、実践的な武芸に励み、よく知りよく学ぶようにと。母の口癖です」
実際にはもうひとつ口癖はあったが、それはここで明かすべきではないだろう。
「お労しい」とヴァレリーは目頭を覆った。どうやら本気のようである。俺としてはそうかなあと思わんでもないが、口を挟んで良いこともあるまい。黙って彼が落ち着くのを待つことにした。
しばしの間、沈黙が部屋を満たした。することもないので俺は目の前のヴァレリーをつくづくと観察していた。王に侍る兵だけあって、顔つきも体格も見栄えがする。男爵領でみかける騎士たちのむさ苦しさは欠片もない。夜の街に繰り出せばさぞやおモテになるだろう。鼻をきかせてみればなんだかいい匂いさえして、俺は途端に自分の格好が恥ずかしくなった。なんせ着の身着のまま馬車に押し込まれ、王都までまっしぐらだったのだ。
「事情と言いますのは王太子殿下のことです」
ようやくヴァレリーが切り出したのは、俺が彼を観察することにも飽きて、かといってほかに見るべきものもないので壁画に描かれたキツネのヒゲを数えていた頃だった。
「たしか、今年で十二になられるのでしたね」
「はい。その殿下が何者かによる襲撃を受け、手傷を負われたのです。まだ公表しておりませんのでご内密に願いたいのですが、その際に使われていた刃になんらかのまじないが施されていたらしく」
と、そこでヴァレリーは一度口を閉ざした。
「生きてはおられるのですよね?」
「かろうじて、と聞き及んでおります。そのまじないというのがずいぶんたちの悪いものでして。傷口から血管に侵入して徐々に心臓へと這い上がり、やがてはその動きを止めるものだそうです」
「まじないを解くことはできなかったのですか?」
「総力を挙げて取り組んでおりますが、はかばかしくないようです。それで」ヴァレリーは言いよどみ、意を決したように拳を握ってから言った。「まじない師のひとりが奏上したのだそうです。これはもう、一度心臓が止まった後に新たな心臓を奉ったほうが早い、と」
「なるほど、それで父はあのように」
「ただし、奉るべき心臓には条件があるのです。血の濃さが近いもの。それ以外を奉れば心臓が腐ってしまい、殿下もお命を落とすであろうとのことです。それを聞いた陛下は即座にシメオン様を呼ぶようにお申し付けになり」
申し訳ありません、とヴァレリーは肩を落とした。きっと誠実で優しい男なんだろう。今日まで顔も見たこともなかった子どもを本気で気の毒がっていることが、その体の細かい震えから伝わってくる。
少し一人にしてほしいと俺がお願いすると、彼は心を残す様子を見せながらも一礼した。立ち去る際、なにか言いたそうにドアの前で立ち止まるのでどうしたのか聞くと、近衛服の広い背を蝋燭の火にジラジラと光らせながら彼はこう告げた。
「明日です。殿下にはもうお時間がありません。明日の夕刻、それが刻限です」
もう驚くことはないと思っていた俺だったが、これにはぽかんと口を開けざるをえなかった。そんな俺の様子が見なくてもわかったのだろうか。ヴァレリーはもう一度、今度は木の葉が擦れるような声で申し訳ありませんとこぼした。
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