リメイク:マキナの慟哭

今日は、”春”らしい。

芝生に寝転がって見上げれば、ドーム状の屋根に解像度の高いツバメが数匹飛んでいる。羽ばたきと木々のざわめきは、あの日、表彰台で浴びた歓声の余韻のようで、しかしノイズ一つないと気づくや否やノスタルジーは適温の風に溶けて消えてしまった。


グランドスラム達成の栄光から2年。つい昨日のことのようにも、何十年も前のことのようにも感じる。時間の感覚が希薄なのは心臓の鼓動を持たないからだけではなく、この研究施設で変化のない日々を送っているせいもあるだろう。

博士たちはトロフィーを飾ってからしばらくの間、機体チェックやデータ収集を行うことに決めた。その”しばらく”が、2年にも渡ったのは、社会情勢のせいらしい。外部情報と遮断されているため漏れ聞いただけだが、どうやら隣国との戦争が勃発し、研究資材の入手が難しいという。

「…まだかな」

床一面の芝生と、映像屋根。私の2年間は、ほとんどそれだけの世界で完結していた。

銀色の手のひらを握り込み、開く。衰えを知らない人工筋肉の駆動音が唸る。思い出に浸れば必ず、共に過ごしたチームメイトやライバルたちの顔が浮かぶ。機械の私を恐る恐るながらも受け入れてくれた彼ら。「いつかまた会おう」とだけ連絡をして去った薄情な私を覚えてくれているかは分からない。ただ、戦争に巻き込まれず無事でいてほしい。


ふいに足音が聞こえた。そろそろ定時検査時間だろうか。それにしては体感47分20秒早い。身体を起こして入口の方を見やれば、静かにスライドした先には、見たことのない人物が立っていた。

いや、正確には”見たことは”ある。前髪が風に舞い上がる。現れたその顔は『マキナ』、私とあまりに似ていた。無駄のない動きで彼女はこちらに顔を向ける。交わった視線の先でどこかぎこちなく微笑んだ。

「ハジメマシテ」

抑揚のない生まれたての機械の声。懐かしい、学習深度が浅い自律人工知能特有の話し方だ。しかしアンバランスに動きは滑らかで、気づけば2体の距離は数歩に縮まっていた。

「突然ノ訪問ヲオ許シクダサイ。ワタシハ」

「『マキナ』の次世代機?」

同族に余計な気遣いは不要と伝わったようで、彼女は即座に頷いた。

「ハイ。正確ニハ、量産機デス」

「量産機ということは、キミ以外にもいるんだね」

「ハイ。ヤハリ、知ラナカッタノデスネ」

「予想の範疇ではあるけれどね」

私の実験のためだけに使うには、2年間は長すぎると思っていた。得たデータを用いて彼女たちを作るには十分な期間だ。それにしても、感慨深い。

「そうか、私にも妹ができたのか」

「イモウト?血縁関係ハアリマセンガ」

思わず笑いそうになった。私も同じ言葉を吐いたのだ、かつてのチームメイトに。どこまでも命運を共にする関係を他に例えようがないだろうと笑った兄さん姉さんたちに、困惑したものだ。

「同じ博士に生み出されたのだから、血の繋がりと同格の関係値はある、と思う。もちろん、キミが理解し難いなら訂正するよ」

「イイエ。イモウト、デ、イイデス」

黒い瞳を伏せて答える様子に拒絶はされていないと判断し、言葉を続ける。

「それで、どうしてここに?」

「アナタニ会イニ来マシタ。プロトタイプガイルト話ニハ聞イテイタノデ。一目会ッテカラ行キタカッタ」

「行く、というのは…」

「コノ施設ノ、外デス」

遮るように言って、彼女の瞳は真っ直ぐこちらを見つめた。黒く滑らかな球体に、私のオレンジの髪が映っている。炎のように揺らめくその奥に得体の知れない何かを感じた。

今のは憐憫、それとも…怒り?

生ぬるい風が頬を撫でて、我に返る。思わず目を逸らし、誤魔化すように口を開いた。

「外で、キミもスポーツか何かしに行くの?」

「イイエ。アナタデ実験ハ終ワッタノデ、我々ハスグ実戦ニ投入サレテイマス」

ピピッ、ピピッ…

言い終わると同時に、電子音が鳴った。『マキナ』は煩わしそうに小型端末を取り出して確認する。

「時間ミタイデス」

「そう…もう少し話していたかったけれど、仕方ないね」

「マタ、ワタシカ別ノワタシガ来マスヨ。ソノトキハ、外ノ話デモシマショウ」

「本当?それは嬉しいな。もう随分とここから出ていないから、外の様子はずっと気になっているんだ」

「…ソンナニ気ニナルナラ、感覚ノ同期機能ヲ繋ゲマショウカ?同型機ナラ可能カト」

ほんの数秒考える素振りの後、彼女は思いもよらなかった提案を口にした。それは正直に言えば、魅力的な提案に聞こえた。自覚以上に私はこのドームに飽きていたようだ。

「嬉しいけれど、勝手な機能拡張をして、博士たちに怒られない?」

「ワタシハ最終チェックヲ終エタ機体デスノデ、博士タチニ感知サレル確率ハ、限リナク低イト思ワレマス」

「それなら…お願いしても、いいかな?」

彼女は軽く頷いて、首の後ろに手を回す。頚椎のポートからケーブルを伸ばすアナログな造りは、次世代機でも変わっていないらしい。外皮から剥き出しの導線同士を絡ませる。私にとっては指先の柔らかい腹にあたるそこを、他者と交わらせることなど初めてて、少し落ち着かない。そのまま5秒、15秒、30秒。ほのかに熱を感じて、通信先に新たな機体が登録されたのが分かった。

「準備完了デス。外ニ出テカラ、同期開始シマス」

「ありがとう、本当に。大丈夫だとは思うけれど、もし怒られたら、一緒に謝るよ」

妹は淡々とケーブルを収納する手を止めて、少しだけ首を傾げた。その拍子に、収まりきらなかったケーブルが肩から零れる。

「おっと」

指先で摘んでポートに押し込み、小さなハッチを閉める。その間も、彼女は身動きせず私を見つめていた。戸惑っているのか、困っているのか、読み取れない。しかしそれを推し量る前に、のどかな箱庭に似つかわしくない電子音が再び鳴り始めてしまった。

「デハ、マタアトデ」

よほど急かされているのだろう。踵を返して、小走りで去っていく。オレンジの髪が揺れる背中に「行ってらっしゃい」と声をかけ、私は腰を下ろした。先程までの倦怠感は消えている。彼女のおかげで久々に外が見られるかもしれない。その期待に、らしくもなく胸が躍っている。次に会えるときまでに何かお礼を用意しておこう。ある程度のものなら、研究員経由で手に入るはずだ。

床に横たわって見れば、壁面にツバメの巣が映し出されていた。数羽のヒナが餌をねだって押し合いへし合いしている。ついに一羽のヒナが押されて巣から落ちたが、その姿は画面外に消えて見えなくなった。その場面を見届けて、私はゆっくりとスリープモードに入った。


ーーーーーーーー


蝶が舞っている。薄暗い闇の中でひらひらと羽ばたくオレンジ。熱帯の生き物なのだろうか、目を焼くような鮮やかな色だ。

近づいてみる。一歩、二歩と進めば、揺らめいて彼らは姿を変えた。長く細く立ちのぼる...布?いや、最近見た覚えがある。あれは髪、立ち去る時に揺れた彼女の髪だ。一人ではない。何人もの妹たちが、私に背を向けて囁きあっている。その姿に、思わず声をかける。

ねぇ、私も、仲間にーーーー

遮るように1、2、3の合図が聞こえ、見る見るうちに妹たちは横一列に広がった。私に背を向けて、身を寄せあって、右に左にステップを踏む。向こう側の観客席から甲高い歓声が上がる。気づかなかった、ここは舞台の上で、私は舞台袖にいるのか。ここから観客たちは見えない。声から察するに10、20人ほどか。暗がりには、明るい一列のオレンジの帯だけが浮かぶ。時に弾むように、肩を震わせて笑うように、舞踏団は舞い踊る。40、50。リズムと鼓動が速くなる。指笛が上がる。熱気がこちらまで伝わって頬を焼くようだ。

パチパチ、パチパチ

拍手の音がまばらに鳴る。62、63。

パチパチ、パチパチ

乾いた音は鳴り止まない。カーテンコールを待っている。ウーウーと低くブザーが唸る。88、91。私は舞台に向かって踏み出した。


『100%。同期が完了しました』


瞬間、目の前が一面の白に塗り替わった。続けて、頭蓋を金槌で叩き割られたような衝撃と耳鳴りが襲う。痛みはない。くぐもった聴覚の違和感を無視し、状況を理解するべく視界に集中する。白、白、白。少し薄くなって、それが煙だと気づく。晴れた先の光景に、私は言葉を失った。

レンガ造りの街。しかし建物の多くが崩れ、瓦礫が積みあがっていた。街灯は折れ曲がり、車は横転し、街路樹は根元から倒れて道を塞いでいる。廃墟の様相を呈した街の所々では、オレンジの炎が燃え盛り、揺れている。パチパチと火の爆ぜる音と唸るサイレンに、聴覚が戻ってきたことに気づく。人間の声が四方八方から聞こえるが、この状況の理解を助ける単語はどこにも見当たらない。怒鳴り声、悲鳴、絶叫。銃声に続いて一際高く上がって潰れた、断末魔。これでは、まるで、爆撃を受けたような…

「たす…け…」

微かに細い声が聴こえる。数十歩先の瓦礫の下からだ。熱源を感知すれば、一人分の熱がある。おそらく下敷きになっているのだろう。

「だれ、か…いるの…?」

近づく足音で分かったのか、怪訝そうな、しかし安堵の混じった声色に代わる。幸い、屋根のように覆いかぶさる塊を一つ除けば助けられそうだ。手をかけて持ち上げ脇に避ければ、一人の女性がうずくまっていた。見たところ大きな怪我はない。

「ありが、と…」

彼女は顔を上げた途端に表情が固まった。目を見開き、口を震わせ、後ずさる。混乱しているのだろうか。安心させるために話しかけようとした私の目の前で、赤い飛沫が舞った。

「あ…ぁ…」

ずるずると彼女の胸から刃が抜かれる。痩せた身体が痙攣する。理解が及ばない。的確に心臓を貫かれ、もう助からないことは理解できる。私が理解できないのは、その刃を手にする視点が一人称だと言うことだ。つまりこの視界の主が彼女を手に懸けたということ。刃の赤が拭われて、反射する表面に持ち主の顔を映した。金属越しにこちらを見つめる妹は無表情で、何も語らない。

「こ…こちら、プロトタイプ・マキナ。応答せよ」

『通信エラー、設定がオフになっているか、破損しています』

同期したネットワークを通じて呼びかけたが、冷たいシステム音声が返ってくるだけだ。刃を収めた妹はそのまま死体に近寄り、怯えたまま事切れている瞳に瞼を下ろした。

「ゴメンナサイ」

無機質に呟いて立ち上がる。すぐ近くでまた、何発かの銃声と金切り声が響いた。塀の隙間から覗けば、複数の武装された人間に囲まれた一つの機体が見える。応戦する彼女の右腕はだらりと下がっており、動かない。向けられる銃口から逃れる足取りはよろめいており、苦戦しているように見えた。

「コチラ、マキナ128号。現在地、国立競技場前3番通リ。142号ガ複数勢力ト交戦中ノタメ、援護スル。近辺ノ機体ハ応援ヲ求ム」

トランシーバーで告げるや否や、128号は手榴弾を取り出してピンを抜こうとした。

ガン、と鈍く重い音と共に視界が大きく揺れる。ピンを抜かれる前の手榴弾が、顔の横に転がった。地面に伏せながら、襲撃者を見据える。その顔は煤汚れて憎しみに歪んでいるが、疑いようもなく覚えている。それは私のかつての、チームメイトだった。

「お前のせいで…お前らのせいで!」

彼は斧を振り下ろす。グシャッと潰れる音がして、ノイズが走る。砂嵐の向こうで、何度も斧が振り下ろされる。かつて私の頭を撫でてくれた手で。背中を押してくれた腕で。

「あいつさえ…マキナさえ、いなければ…」

視界が完全に暗くなっても、虚ろな声と金属を殴りつける音が止まない。

『同期対象個体の強制終了により、同期を停止します』

駄目だ、この地獄に残しては行けない。まだ聞かなくては、知らなくては。音声に抗って電子の海で藻掻く。ネットワークの糸を捕まえる。再同期を試みるコードが弾かれる。遠くで歓声が、慟哭が、さざ波となって私を押し流していく。

「怒ラレタラ、一緒ニ、謝ッテクレルンデスヨネ…姉、サン」

啜り泣くような囁きを最後に、私はドームの床に打ち上げられた。


ーーーーーー


「博士!」

全速力で走っても息一つ乱れないが、扉をあけ放った大きな音で平静ではないと伝わったのだろう。談笑していた研究員たちが何事かと振り返る。博士はマグカップを口に運ぶ手を止めて立ち上がった。

「マキナ、どうしたんだ。検査と調整の時以外はドームを出ないように伝えていただろう」

「妹たちを、撤退させてください!」

室内が静まり返った。気味の悪い数秒間の沈黙のあと、博士が口を開いた。

「どうやって、知った?」

「妹と感覚を同期しました。そんなことはどうでもよいでしょう。妹たちは、一体何故あんな地獄に」

「マキナ」

「人間を、こ…殺させるなんて…どうしてそんな残酷なことを。止めさせてください、もしくは代わりに私を行かせてください…!」

「マキナ!」

制止する声は博士ではなく、研究助手だった。気づけば私は博士の肩を強く押さえ、揺さぶっていた。機械の力でそんなことをすれば、人間の身体への負荷は計り知れない。はっと手を引けば、博士は肩を抑えて呻いた。

「博士、違う、私は…」

「いい、いいから、座りなさい。君の質問に答えよう」

周りの研究員がざわめいた。駄目です止めてくださいと詰め寄る者や、悲鳴に似た声をあげた者すらいる。その全ては、博士が飲み干して叩きつけるように机に置いたマグカップの音で静まり返った。

「こうなってしまっては、説明する他ないだろう。責任は私が取る」

博士は立ち尽くす私を促して、丸椅子を引く。博士の目を見れば、頑として譲る気配はないことが分かった。仕方なく私は座って彼の言葉を待つ。短く一つ息を吐いて、博士は告げた。

「まず、マキナシリーズを撤退させることはできない」

どうして、と私が立ち上がりかけたのを制して、続ける。

「何故なら、あの地獄を作ることこそが、彼女たちの存在理由だからだ。彼女たちは軍事用ロボットだ。君は本来、軍事目的で造られたプロトタイプなんだよ、マキナ」

耳を疑うような言葉に、思考がフリーズする。博士は構わず言葉を重ねた。

「当然機密事項だが、我々の研究費の出処は、国防軍だ。彼らは、隣国を制圧するための武力を求めていた。人口の少ない我が国が縋ったパンドラの箱、それがロボット工学だった」

「でも、私はスポーツ用のロボットです。だから、グランドスラムへの挑戦をもってその役目を果たしたのではないのですか」

首を横に振って、博士は目を伏せた。

「違う。グランドスラム挑戦は、あくまで実証実験だった。人間の肉体を凌駕できることが確認でき次第、軍事転用研究と量産化を進める予定だった。そして予定通りに、マキナシリーズは実戦投入されることになった」

絶句する私を見て博士は左右の指を組み直し、今度はまっすぐに私の目を射抜く。

「それから、君を代わりに行かせることは、できない」

「なぜ、ですか」

絞り出すような私の問いに、淡々と彼は答えを述べていく。

「そもそも本来の予定では、君が真っ先に実戦投入される予定だった。しかしできなかった。なぜなら君は、チームメイトやライバルとの交流を通じて、人間への友愛という感情を知ってしまった。まるで少年漫画の主人公のようにね。そして、シミュレーションの結果、仮に君を実戦投入した場合、殺戮のストレスに耐えられず暴走もしくは自壊を試みる可能性が高いと、分かった」

淀みなく流れていく言葉は確かに意味を成しているのに、システム音声の通知のように現実感がなかった。博士は缶コーヒーのプルタブを開け、一息に呷った。

「君は、人間に近づきすぎたんだ。軍の連中からは廃棄命令が出されたが…我々にとって君は、わが子に等しい。いずれ来る勝利の暁には博物館へ寄贈することを条件に、プロトタイプとして、保護ドームで管理することになった…すまない。少し、話し過ぎたな」

コーヒーを飲み下して長い息を吐く。ふっと上げた瞳は深く、次の私の言葉を知っているようにも、何一つ知らないようにも見えた。口をついて出そうになった言葉を飲み込む。たとえ私が廃棄を求めたとて、彼らが承諾するとは思えなかった。いずれにせよ追及することは他にもある。

「ならば、妹たちは違うと言うのですか?彼女もあなた達に生み出された存在に違いないでしょう」

「マキナシリーズには、君ほど高度な学習知能を持たせていない。感情や倫理観を理解してしまえば二の舞になる。痛覚処理だけは運動能力向上のために消せなかったが、他に軍事用として不要な機能はすべて排した。君とは明確に異なる存在だと、我々は線を引いている」

白衣のポケットから出したハンカチで零れたコーヒーを拭く手は、震えていた。確かに私は感情を知ってしまった。でなければ、彼らの表情から苦痛を読み取ることはできなかったし、この胸に詰まるやるせなさを説明できなかった。それでも妹が死に際に人間を悼んだことも、最期に聞こえた囁きも、私の記憶データから消すことはできない。彼女たちは、私の妹だった。

「だとしても、せめてあの場所に行かせてください。128号に、会わなければいけないのです。機体は損傷しているでしょうが、コアチップが無事なら復元できるでしょう。回収しに行かせてください。お願いします」

博士は少し眉をひそめて机の上の箱を開け、何かを取り出す。人差し指と親指で摘まんだそれは、割れて破損したチップだった。

「隣国の軍は、おそらくコアチップの場所を知っている。停止させた機体のコアチップを抜き取り、完全に破壊してしまう」

「だとしても、あそこは混戦状態でした。コアチップを抜き取るような余裕はありませんでした。今から行けば、まだ間に合うかもしれません!」

「間に合わないんだ」

「なぜ決めつけるんです!」

声を荒げる私に博士がチップを差し出した。

「そのチップが、128号のチップだからだ」

差し出されたチップには、製造番号と思しき番号が刻印されていた。128、と汚れた表面に掘られているのが見えた。

「え…だって…」

まさか。私の頭に、一つの可能性が浮かぶ。

「128号の投入場所である国立競技場前地区は、2時間前に終結している。一帯の掃討が終わり、さきほどこのチップが運ばれてきたところだ」

同期履歴を遡る。再同期コードのエラー通知を掻き分けて、スリープ中の同期開始時点から記録を抜き出す。

『sync machina_128 to machina_PT』

『delay delivery mode』

同期の遅延モード。文字列が告げた真実に、起こるはずのない眩暈に襲われる。

128号は2時間の遅延を設定して、私と同期したのだ。私の見た彼女の視界は、2時間前のものだった。一体、何のために。私を戦火に巻き込まないように?それとも、この駆け出すことすら許されない脚の重みが、指で挟めば崩れかける数mgの破片の軽さが、私への罰なのか。

その場で動かなくなった私に、研究員たちが駆け寄る。博士が何か指示を出している。強制シャットダウンを…自壊させるな…自律ネットワークセキュリティを強化しろ…ざわめきが遠のく。私は舞台袖からカーテンコールを見ている。ただ、一礼するのを見ている。傍観者の私を、主役の彼女たちは何も言わずに舞台から見つめている。チームメイトの憎悪に満ちた顔が客席一面に貼り付けられている。お前のせいだと手を叩く。

「ごめんなさい…ごめんなさい!」

届かぬ謝罪を、それでも闇よ裂けと叫ぶ。到底許されぬとは分かっていても、約束したから。拍手喝采の中、舞台袖に帰ってきた小さな妹を手のひらで抱きしめた。

「おかえりなさい」

『シャットダウンします』

幕が下りる音がして、私はそのまま闇に身を浸した。

ーーーーーーー


「お嬢さん!そこから先は、立ち入り禁止区域だよ」

治安警備員の服を着た男が声をかければ、相手はローブを翻して振り返った。国立競技場前と書かれた看板の前に立つその人物は、深くフードをかぶり顔は見えない。まだ若い女性であることが、すみませんと呟いた声で分かる。大きく赤いバツ印が書き込まれ、警戒を促す黄色の旗が吊り下げられている看板を見上げてから、彼女は懐から一枚のカードを取り出した。

「こちらで通れますか?」

カードを見て、男は思わず驚きの声を上げる。国防軍の上位IDカードを持っている人間など、この国にそういない。

「これは…ああ、これがあれば通行許可は降りるが…お名前は?」

口元が微笑みを形作るが、しかし彼女は何も答えない。アスファルトの割れ目を器用に避けて、先へ進んでいく。迷いのない足取りは早く、あっという間に背中が遠ざかる。

ふと男が目を下にやれば、何か紙が落ちている。見れば、国立博物館のチケットだ。これはいけないと、男は見知らぬ女性を追いかけた。

「おーい!お嬢さん、落とし物だよ!」

息を切らして追いつけば、彼女は何もない場所に佇んでいた。そもそもこの一帯は廃墟であり、瓦礫が片づけられた後はほとんど更地といってもよい。いくら軍の偉いさんでも、足を運ぶ価値などないはずだが…男は不審に思いながらも、口は出さなかった。軍人の機嫌は損ねたくない。彼らはこの戦争の立役者であり、我が国の最高権力だ。虎の尻尾は不用意に踏まない…好奇心を、家に待つ妻と子の顔を思い浮かべて抑え込んだ。

「あぁ、どうも、ありがとうございます」

布の隙間から、オレンジ色の髪が風になびいた。チケットを受け取る手は厚手の手袋をしていて、残りの瓦礫処理にでも来たのかと男は少し納得する。

「国立博物館に行かれるんです?」

「いや…まぁそんなところです」

歯切れが悪い答えを気にせず、治安警備員は得意げに続ける。

「最近は混んでいてなかなかチケットが取れないから、お嬢さん、運がいいよ。あれの展示が見られるだろう。『栄冠のアテナ』!」

女性はその言葉に少しだけ肩を揺らしたが、男が気づく様子はない。

「俺も見たんだが、大したモンだったよ。グランドスラムを達成しただけじゃなくて、戦で大活躍した機体の先祖なんだってな。動いているところも披露されたが、ありゃもう人間と同じだったね。うちの子も、かっこいいっつって目を輝かせてたよ。今度、戦争の再現演目もやるらしいからね、絶対見に行こうと思ってんだ…って、アンタ何やってんだ!?」

女性はチケットをビリビリと破いていた。紙片が風にさらわれて、飛んでいく。灰のように、花のように、一面の青空に飛び交う白。舞台の一幕のような美しさに、男も思わず口を閉じて見送った。

「昔、ここでもね、演目が行われたんですよ。私の妹たちが出ていたんです」

数刻の静寂のあとに、女は口を開いた。男は肌寒さを感じて身を震わせる。女の口調は妙に冷たく深い海を思わせた。

「はぁ…知らないですね。なんて舞台です?」

強い風が吹いてローブが煽られた。フードが外れて、オレンジ色の髪と顔が露わになる。男は目を見張った。その顔が博物館で見た『栄冠のアテナ』だったからではない。こちらに向けた黒い瞳が艶やかに陽に照らされて光り、泣いているように見えたからだ。

「デウス・エクス・マキナの慟哭」

囁いた声に応えるように、遠くで一羽のツバメが啼いた。








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【問題】 マキナ選手は、グランドスラムの偉業を易々と達成した。一部の人間は喜んだが、彼女はトロフィーを海に捨てた。なぜか? @tokage_yori

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