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 午前五時ちょうど、ひとりでに目が覚める。五年前から続く習慣で、身体はすっかりそのように造り変えられてしまっている。歯磨き、洗顔などの諸々を済ませたのち、高校のジャージに着替えて、腕立て、腹筋、背筋をそれぞれ決まった回数こなす。台所に降り、EAA必須アミノ酸の粉末を水に溶かして飲み干すと、履き古したスニーカーで外に出た。入念な準備体操を終え、腿上げなどの基礎運動を行なってから、早朝の道路を走りだす。毎朝三十分、限界距離を少しずつ押し上げていく——そんな作業を、もうかれこれ五年も繰り返している。暖かい四月の今はもとより、真夏日だろうが雪の日だろうが、変わらない習慣だ。

「よっ、坊主。今日も速いねぇ」

 すれ違いざまの気さくな声かけは、ちりんちりんと鈴を鳴らす小麦色の犬に引かれてジョギングに励む顔見知りの老人からだった。

「……っす」小さな会釈だけ返して走り去る。思えば数年前から見かける、厳ついサングラスをかけたそのじいさんと、足を止めて話したことは一度もなかった。初めて見た当初から一向に衰える気配のない健脚ぶりを見るに、若い頃は何かスポーツでもやっていたんだろうか——まあ、わざわざ世間話に興じようとも思わない。老人らしからぬ老人は苦手だ。

 あの人のことを、思い出してしまうから。



「お前に会いたがってる新入生がいるってよ」

 昼休み、渡会京平がそんな話を持ってきた。同じ中学出身のこいつとは、この春でちょうど四年の付き合いになる。腐れ縁というやつだ。

「まったく心当たりがないな。どこ情報だよ」

「部活の後輩から。ちなみに女の子だとさ。やったなイッチー、中学から陸上一筋のお前にもついに春到来だ」

「なんでいきなりそうなる」

「おーおー、お堅いこって。流石は〝鉄人〟 」

「……それ、呼んでるのお前だけだからな」

 ここまでの短い会話で、既に俺はふたつのあだ名で呼ばれている。渡会は出会った時からこうだ。初対面でもいっそ馴れ馴れしいくらいの距離感で、うざがられているうちにいつのまにかするりと相手の懐に潜り込んでいる、そんなタイプ。その対人メソッドは、女性関係にも遺憾なく発揮されているらしい。校則ギリギリを攻めた茶髪が、いかにもそんな風情を醸している。

「鉄人、陸上バカのお前にはぴったりだろ? その高タンパク質低脂質の権化みたいな弁当も、よくもまあ毎日持ってくるよな。しかもお手製って」

 学食の焼きそばパンを頬張りながら、渡会が俺の弁当を顎でしゃくる。蒸し鶏のポン酢ネギソース、ゆで卵にブロッコリー、高野豆腐にひじきの煮物、大おにぎりふたつ、しめて千八百五十キロカロリー分——特段大したものは入っていない。

「体づくりのための最低限だよ。プロのアスリートはこんなもんじゃない」

「自販機でジュース一本買うにもごちゃごちゃ計算してるような奴がよく言うよ。俺にゃあ無理だね、窮屈すぎてとてもとても」

 赤キャップのコーラをこれ見よがしにぐびぐび流し込む、お世辞にもアスリート意識が高いとは言えないこの男は、どっこい去年の剣道IH県予選で一年生にして個人ベスト八にまで上り詰めた実力者だったりする。公立の(自称)進学校であるうちの運動部はご多分に漏れずそのほとんどが弱小だが、有名な強豪道場出身だというこいつは突然変種めいた快挙を成し遂げていた。我が校が形ばかりの文武両道を謳ううえで、その実績はこれ幸いと大いに喧伝されている。

「それで、誰だよその新入生って」

「なんでも弓道部って話だ。全中三位の天才なんだと」

「……ああ」

 それを聞いた途端、何故俺が見ず知らずのそいつから探し求められているのか、大方の見当がついてしまった。同時に、肺の奥底でどろりと空気が澱んでいくのを感じる。暗い塊を吐き出すように、深いため息をつく。

「どうして知られたもんかな……」

「そりゃあ、校門の立て看じゃねえの。お前が去年、南関東大会に出た時のやつを見たんだろうよ、

 強調された家名。こいつは、その意味するところを知っている。

 あの人のことを、知っている。

「……あだ名も、案外悪くないかもな」

「だろ?」渡会が、したり顔でにやつく。「とにかく後輩が言うには、今週の木曜放課後、その天才ちゃんが弓道場で待ってるってよ。ここは男らしく一発決めてこい」

「ナニをだ……まあ、わかったよ」

 放置していても、そいつとの妙な因縁が消えて無くなるわけじゃない。ならノー部活デーの木曜に、さっさと話をつけておくのもひとつの選択肢だろう。

「うっしゃ、俺も着いてっていい?」

「マジでやめろ」

 ……そう自分を納得させることで、目の前の茶髪頭を剣道よろしく引っ叩くのを堪える。

 ねだった末に念願のおもちゃを手に入れた子どものような、小憎たらしい笑顔を視界から追い出して、俺は一口で蒸し鶏を頬張った。




 うちの運動部はそのほとんどが弱小だ——そう、ほとんどが。つまり、例外が存在する。

 弓道IH上位入賞常連校の弓道場。入学以来一度たりとも入ったことのないその施設に、俺は今日初めて足を踏み入れることになる。ぱぁん、ぱぁん、と一定の周期で響く、小気味良い音。弓道場へ近づく程に鮮明になる快音は、過たず矢が的を射抜く時のもの。流石というべきか、全中三位の天才とやらは伊達ではないらしい。 

 ——どんな射形をしているんだろうか。

 ふと、そんな興味が浮かんだ。

「……はは」

 とっくの昔に外れた道に、なんの因果かまた掠めて、今さらそんなことを思ってしまう自分を空々しく笑う。

 失礼します——懐かしい挨拶とともに入り口のドアを開けると、弓道着姿で射場に立つ少女は、ちょうど矢を放ち終えて執(とり)弓(ゆみ)の姿勢をとっていた。こちらの存在に気づき、おもむろに振り返る。高く結えられた長い後ろ髪が揺れた。

「あなたが、一番ヶ瀬先輩でしょうか」

 開口一番、静かに、しかしはっきりと通る声。月のない夜のような深い黒を湛えた瞳が、微塵の揺らぎもなく俺を見据えていた。

「……ああ、その通りだよ。そういう君は?」

「一年三組、北村梓沙あずさ……弓道部に、所属しています」

 見ればわかるよ、と苦笑しそうになって、やめる。その平坦なトーンのなかに、かすかに強調するような響きを感じたからだ。宣誓、自負……あるいは、当てつけのような。

「それで、今日はなんの用かな。俺も大会前だし、暇じゃないんだけど」

「……申し訳ありません。では、単刀直入に」

 ふぅ、と緊張した様子で息を細く吐いて。

「先輩は、一番ヶ瀬静位先生のご親族ですか?」

 ……かろうじて平静を装えたのは、この問いを前もって予見していたからだ。弓道関係者同士の世間は狭い。特に県下において、〝一番ヶ瀬〟という名前はあまりにも大きかった。

「ああ、確かにその人は俺の祖父だ。それが、どうかしたのか?」

 答えを受けた彼女は、わずかに目を見開いた後、しばし噛みしめるように長い睫毛を伏せた。

「……やっぱり、そうでしたか」

 数瞬のち、再び俺を射抜いた眼差しは、ひやりと光る鏃のようだった。薄墨の細筆で引いたような眉が、わずかに、されど明確に剣呑な角度を帯びる。

「今日ここに、先輩をお呼びしたのは」

 その右手には、いまだ一本の矢。思わず、ごくりと生唾を呑む。

「是非、間近でご覧頂きたかったからです——私の、射を」

 彼女が俺から目線を切って、28m先の的を目標に定めた時、初めに訪れたのは大きな安堵だった。今から行われるのは、あくまで安全な競技に過ぎないのだと、至極当然の事実を噛み締めて、緊張から解放された弛緩のままに、彼女の所作をぼうっと見つめて——覚える、違和感。

 というよりも、

 足踏みの大きさ、角度。緩く胸を張った胴造り。戸惑いの欠片もない弓構え、打起し——に至るまでの、間の取り方。熟達しているのは言うまでもない。気の遠くなるような反復練習を否応無しに感じさせる、洗練された射法——だが、今大事なのはそんなことじゃない。

「これ、は……」

 引き絞られた弦が、凛と張る。地球の自転すら停めたような、絶対の静止。呼吸すらも許さない、不可侵の会。

 それでも、ぽつりと言葉が漏れるのを止められない。


「じいちゃん……?」


 かぁん、と。

鋭い離れに、冴え渡った弦音までも、とうの昔に失われたはずのものが甦ったかのようで。

 続く軽やかな的中音は、もはや必然だった。じいちゃんの——一番ヶ瀬静位の射が実現している時点で、中らないはずがないのだから。悠然と残心をとった後で、彼女——北村梓沙はようやく呆けたままの俺を振り返った。その瞳は静かな光を帯びている。

「あの人に魅せられて、私は弓を執りました。あの人に教わって、私は弓を知りました——同じく弓を引くという、お孫さんの名前も」

 つめたく澄んだ星の煌めきに似た、しかし確かな怒りの熱。

「一番ヶ瀬唯矢先輩。あれ程の師を持ちながら、あまつさえその血まで継いでいながら——あなたは何故、弓を置いてしまったんですか?」

 そう、問い糺された瞬間——致命的な汚濁が、海馬の奥底から逆流する。


 ——どうしたの、そんな変な顔してさ。……ういあ?ういあってなに?……もしかしてぼくの名前?あはは、ふざけないでよじいちゃん、らしくないなあ。あ、そういえばさ、じいちゃんに聞きたいことあったんだ。どうしても弓返りがうまく行かなくて……おーい、じいちゃん聞いてる? ねえ、じいちゃんってば……なんか今日のじいちゃん変だよ。あ、お母さん帰ってきた。ねえ聞いてよ、じいちゃんがふざけて話聞いてくれなくてさ。……じいちゃん?


「……なんの意味がある」

 掠れた声は、かろうじて彼女の小さな耳に届いたらしく、その眉根が寄せられる。

「意味……?」

「認めるよ、北村さん。君の射は、じいちゃんの生き写しだ。つまり、世界一美しいってことだ。素晴らしい。間違いなく君はあの人の後継者だよ」

 ひとつの嘘もないはずの言葉はがらんどうで、生ぬるい夕風が吹き抜けていく。

「そのまま弓を執り続けて、あの人のように引き続けて、あの人のように生き続けて——」

 ああ。きっと俺の目は、俺の声は、ひどくつめたく、濁っている。

「あの人のように、死ぬといい」

 まるで、死者のそれのように。

「……………………え?」

 その言葉を、すぐには飲み込めなかったらしい。咀嚼して、解釈するのを助けてやろう。

「まあ、知らなくて当然か。五年前、じいちゃんは脳卒中で倒れたんだ。俺の、目の前で」

 がらん、と音がして、板張りの上に取り落とした弓が跳ねる。

 ようやく理解したらしい彼女の顔は、いっそ面白い程青ざめていた。ただでさえ白い頬から、現在進行形で血の気が引いていくのがわかる程だ。きりりとしていた眉は情けなく八の字を描き、揺るぎなかった眼光が力なく揺らいでいる。その弱々しい有様に、暗い快感が胸を満たした。

「……うそ、嘘です、だって、私、そんなこと、何も、知らされなかった」

「多分君は、じいちゃんが指導に行っていた県内の道場出身なんだろうけど。所詮他人に、家庭の事情をなんでも教えるわけがないだろう。それにちょうどその頃あたりから、じいちゃんとは会ってなかったはずだ。違うか?」

「……ほかの先生からは、引っ越したって……遠くに行ったって」

「そりゃ方便ってやつだよ。〝遠くに行った〟……まあ、間違ってはいないな。じいちゃんは今もにいるんだから。じゃあ、俺はこれで」

 震え声の反駁をにべもなく切り捨てて、踵を返して元来た入り口へと向かう。

「待って……!」

 白く震える手が、俺の制服の右袖を掴んで引き留めていた。

「私、ずっとあなたに会いたかったんです」

「……はあ?」

 意味がわからない。あの人の技を正統に継いだ射手が、とっくの昔にドロップアウトした俺なんかに、今更何を——

「最後に道場に来た時……『いつかうちの孫とも会わせてやろう』って……そう、あの人が……静じいが、」

「っ、黙れっ!」

 思わず、右腕を強く振り払っていた。細身の、か弱い体がよろめく。「かふっ」壁に背中をぶつけた彼女の口から、掠れた呻き声。ずるずると力なく座り込む姿に、ちくりと胸が痛む。それでも、口を開かずにはいられなかった。

「誰だよ、お前。なんでお前みたいなのが、今さら俺の前に出てくんだよ。そんな名前で、俺のじいちゃんを呼んでんじゃねえよ。あの人はもういないのに、いないことさえ知らなかった癖に、よくもまあ偉そうに俺を責めやがって」

 黒く美しい瞳に、今の俺はどんなに醜く、浅ましく映っていることだろうか。けれど、故にこそ、言わなきゃならないことがある。荒ぶった感情を呼吸とともに整えて、努めて冷静に。

「……君の射はとても綺麗だよ。美しく、完成されている——だが、それだけだ。じいちゃんの射を完璧に模倣して、その先に何がある? いつかは失われる美しさに縋って、いったいなんの意味があるんだ?」

「っ……!」

 ……言葉を失った様子の彼女を見ても、到底胸のすくような気分にはなれない。どれ程言葉を弄しても、俺がとうの昔に捨ててしまった憧れを、彼女は紛れもなく体現しているのだから。結局のところ、これはただの負け惜しみだ。この問いにさえ決然と答えられようものなら、俺はきっと、今息をしていることさえも耐えられなかっただろう。

 今度こそ、背を向けて無言で立ち去る。彼女は、もう引き留めてこようとはしなかった。代わりに、さめざめとした啜り泣きだけが道場を満たしていた。古傷に、その涙がじくじくと滲みる。久しぶりに剥き出されたそれは、少しも癒えてなどいなかった。膿んで、腐って、代わりに多少鈍くなっていた——ただ、それだけ。


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