唯だひとすじの矢のように

斧鋸マチェ

プロローグ 遠い日の憧憬

 真なるものは美しく、善なるものも美しい——弓を教えるときの、じいちゃんの口癖だった。もちろん、未だ幼い時分の俺には、文字に起こすことさえおぼつかない言葉の正しい意味なんて理解できるはずもなかったけれど。

 真とは何か、善とは何か。その定義すらままならないような幼子にも、ひとつだけ断言できることがあった。

 ——〝うつくしい〟のはこの人だ。

 道着袴に身を包み、弓を引くじいちゃんの姿を見るたび、そう心の深くに刻まれた。俺にとって、あの人の射こそが美しさそのものだった。


 ——矍鑠として揺るぎない足踏み。 

   おおらかに胸を開いた胴造り。

   手の内を柔らかく使う弓構え。

   迷いと無縁の打起しと引分け。

   凛と張った弦と一体化した会。

   矢の貫通力を最大化する離れ。

   中り外れなど眼中にない残心。


 その所作のすべてに、射法八節という語すら知らないまま魅せられていた。そんなじいちゃんの言うことだからこそ、難解な格言にも素直に頷くことができた。

 ——〝しん〟も、〝ぜん〟も、きっとこの人のなかにある。

 いつかその意味がわかったなら、自分も同じ場所に立てるだろうか。矢の一字を冠する、じいちゃんのくれた名前どおり、込めたのだろう願いどおり、いつかはこの人のような立派な弓引きになりたい。幼心に、そんなことを考えていた。


 弓道範士八段・一番ヶ瀬いちばんがせ静位しずい。その名前の偉大さを知ったのは、俺を惹きつけてやまなかったあの美しさが、永遠に失われた後のことだった。




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