救世主? いいえ、トレーニー志望です! 〜誰も気づかない英雄の本心〜

成瀬 ひろゆき

『救世主なんて無理です! 魔神の姿勢を直すのが精一杯で!』 ~トレーニングマニアな僕が、深層の英雄に祭り上げられました~



「今日は胸トレか」

医務室のベッドに横たわり、獅道は窓の外を漫然と眺めていた。かすかに母の声が記憶の中で響く。


―強さとは、相手を倒すことじゃない。理解することよ。


幼い頃、母が残した言葉。当時の彼には、その真意が理解できなかった。


アビスシティの人工太陽が、傷だらけの上半身を優しく照らす。昨日の戦いの傷跡が、柔らかな光の中でかすかに輝いていた。むしろ、その痛みが心地よい。極限まで追い込んだ証だから。


この巨大都市で暮らす人々は、深層の魔物から逃れるように息を潜めて生きていた。だが最近、その逃避行にも限界が見え始めていた。深層に眠る古代文明の力を解き明かし、それを活用しなければ、人類の未来はない―。そんな切迫感が、街全体を覆い始めていた。


「また深層に行ったんですね」


溜息まじりの声と共に、幼なじみの調査員・佐々木美咲が部屋に入ってきた。知的な瞳の奥に、いつもの心配の色が浮かんでいる。小学校の校庭で一人黙々と腕立て伏せを続ける獅道の傍らで、いつも分厚い古代文献を読んでいた彼女。時には強引に水分を補給させ、時には無謀な追い込みを止めてきた、唯一無二の理解者。


「ねえ、聞いてます?深層での調査は危険すぎます。昨日も第三層で古代の魔物の群れと遭遇したって聞きました」

その声には、かすかな震えが混ざっていた。


「ああ」獅道は素っ気なく答えた。「深層は地上の3倍以上の重力があるからな。最高の筋トレができる」


その言葉に、美咲は思わず目を丸くした。獅道は窓の外に広がる巨大な竪穴を見つめた。その底には、古代文明の遺跡が眠っている。古代の記録には、「己の限界に挑み続けることこそが、真の強さである」という言葉が刻まれていた。そして、その極意を体現する「究極のトレーニング器具」の存在。


「もう…!筋トレのことしか考えてないんですか!」

美咲は眉をひそめたが、その表情には懐かしさも混ざっていた。古代文明研究の第一人者として、彼女は深層に眠る技術の解明に人生を捧げてきた。だからこそ、その危険性を誰よりも知っていた。


しかし、それ以上に彼女を不安にさせたのは、獅道の危険な程の純粋さだった。


「今日は『英傑の間』での式典があるんですよ。先月、あなたが第六層の魔物を倒してくれたおかげで、市民たちがやっと安心して眠れるようになったんです。私の研究も、随分と進展しました」


大理石の柱が立ち並ぶ英傑の間。そこで彼は、これまでの功績を称えられ、新たな称号が与えられる予定である。大勢の人々に囲まれ、期待の眼差しに晒される時間。


(正直、深層の過酷な重力の中でスクワットを繰り返している方がマシだ)


獅道にとって、深層での戦いは極限状態での最高の筋トレに過ぎなかった。しかし周囲の人々は、彼の姿に古の英雄の再来を夢見ていた。


市民たちは、獅道が黙々とスクワットに励み、腕立て伏せを繰り返す様子を「来たるべき戦いへの備え」と解釈していた。誰も、彼が純粋に筋トレを楽しんでいるだけだとは思っていなかった。


その時、突如として警報が鳴り響いた。医務室内を、緊急事態を告げる赤いランプが不吉に照らす。


「深層封印、決壊の危機!最下層の魔神が目覚めようとしています!」


慌ただしい足音が廊下を駆け抜けていく。獅道はゆっくりとベッドから身を起こした。その仕草には、どこか期待めいたものが感じられた。

「行くぞ」

「待って!まだ傷が―」


美咲は獅道の腕を掴んだ。その手に込められた力は、単なる心配以上のものを伝えていた。幼い頃から見守ってきた獅道への、深い愛情。


「大丈夫だ」 珍しく、獅道の表情が柔らかくなる。「この傷より、筋肉の張りの方が気になる」


そう言って、彼は美咲の手を優しく解いた。

「…約束してください」美咲は静かに、しかし強い意志を込めて言った。「必ず、戻ってくると」


獅道は黙って頷いた。深層への階段を駆け下りながら、美咲と共に解読した古代の訓練記録が脳裏に浮かぶ。第七層までの階段を駆け下りる間、重力は着実に増していく。獅道は完璧なフォームを維持したまま、一歩一歩を刻んでいく。


その姿は、まさに古の戦士そのものだった。


深層最下層。千年の眠りから覚めた魔神との対面。しかし、獅道の目に映ったのは意外な光景だった。


巨大な洞窟に君臨する魔神。その姿は、古代の壁画に描かれた勇ましい姿とは大きく違っていた。魔神の巨体には明らかな歪みがあった。右肩が極端に下がり、膝は内側に入っている。背筋は丸まり、その姿勢の崩れは、長年の誤った力の使い方を如実に物語っていた。


(母さんの言葉の意味が、今ならわかる)

獅道の目が鋭く光る。


「お前、フォームが完全に崩れているな」

「なに…?」


魔神の声が轟き、洞窟の壁が振動する。古代の柱が軋む音が響く。


「肩甲骨の可動域が極端に制限されている。これでは大胸筋の収縮が不完全だ。そのまま力を入れ続けていれば、肩関節を痛めるぞ」


魔神の表情が一瞬、凍りついた。その瞳に、獅道は見覚えのある感情を見た。

「黙れ!千年もの間…誰も私を理解しなかった!ただ力を…力を…!」


魔神の咆哮が洞窟中に響き渡る。しかしその声には、どこか切なさが混ざっていた。洞窟の壁に描かれた古代文字が、その叫びに反応するように淡く光る。


その瞬間、獅道は気付いた。魔神の瞳に宿る孤独。それは、かつての自分と同じものだった。正しい道を知らず、ただがむしゃらに力を求めていた日々。トレーニングの本質を見失い、ただ重いものを持ち上げることだけを考えていた時代。


そして、その時の自分を理解し、正しい道へと導いてくれたのは―


「分かった」獅道は静かに言った。「お前も、正しい道を知らなかっただけだ」


獅道は両手を前に掲げた。古代文字が、彼の周りを青く輝きながら回転していく。

「我が掲げしは、己が限界への挑戦」

「我が示すは、真なる鍛錬の道」

「されば、共に高みを目指さん」

「――『ジムニー』」


まるでジムのような空間が、魔神を包み込んでいく。壁一面に鏡が現れ、床には最新のトレーニングマシンが並ぶ。天井からは柔らかな光が差し込み、適度な温度と湿度が保たれている。古代文明の技術と現代の知識が融合した、理想的なトレーニング空間。


「まずはその姿勢から」獅道は優しく、しかし確固とした声で語りかけた。

「モビリティから始めよう。肩甲骨を内転させて…そう、その調子だ」


獅道の指導に従って、魔神の体から少しずつ力みが抜けていく。千年の間、誰にも理解されなかった痛みが、獅道の言葉によって解放されていった。


「この感覚は…」魔神の声が震える。「私の体が、本来の動きを取り戻していく…」

魔神の目から、一筋の涙が流れ落ちる。その瞬間、体を覆っていた黒い靄が、まるで重荷から解放されるように消えていった。



一週間後。

多くの冒険者とともに駆け付けた美咲は、その光景に言葉を失った。


魔神が獅道と共に、完璧なフォームでデッドリフトに励んでいた。その表情には、かつての邪悪な気配は微塵もなく、代わりに真摯な向上心が宿っていた。


「もう一回!」魔神の声が響く。「今度こそヒップヒンジを意識して…!」


深層のあちこちから、トレーニングに励む魔物たちの声が聞こえてくる。かつての敵が、今では同じ高みを目指す仲間となっていた。第三層の魔物たちは正しいスクワットフォームを習得し、第六層の魔物たちはプロテインの摂取タイミングについて熱く議論していた。


美咲は思わず微笑んだ。

周囲の人々は、アビスシティに平和をもたらした英雄として獅道を称えていた。しかし彼女には分かっていた。獅道は決して英雄になろうとしたわけではない。ただ、自分の筋トレ哲学を貫いていただけなのだ。


その純粋な姿勢が、結果として最強の英雄を生み出した。


古代文明の研究者として、美咲は興味深い事実を発見していた。古代の戦士たちが残した「究極のトレーニング器具」とは、単なる道具ではなかった。それは、互いを理解し、高め合おうとする「心」そのものだったのだ。


そして今、深層では、元・最凶の魔神が「フォームの大切さ」を熱く語り、魔物たちがプロテインの味について真剣に議論していた。

誰もが筋トレを愛する仲間となっていたのである。


市民たちは今日も、英雄・獅道の偉業を語り継いでいる。


しかし当の本人は、新たに発見された第八層で、さらなる高重力トレーニングに胸を躍らせていた。


それは、まさに至福の表情だった。

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