●第3章:『二つの瞳 ~記憶が織りなす真実~』
日々の暮らしの中で、私は次第に二つの記憶を使いこなせるようになっていった。
例えば、ある植物を見たとき、研究者としての私は「これは学名でザントロエア(Xanthorrhoea)と呼ばれる草木で……」と考える。一方、ワイラとしての記憶からは「これは傷を治す薬になる」という実践的な知識が自然と湧いてくる。
部族の人々は、私のこの特殊な状態を当たり前のように受け入れてくれた。彼らにとって、魂は時空を自由に行き来できるものだったのだ。
「ワイラ、こっちにおいで」
その日、長老のジャガラが私を呼んだ。彼は部族の精神的指導者で、ドリームタイムの物語を守り継ぐ重要な役割を担っていた。
「お前には特別な使命がある。それは分かっているな?」
ジャガラの眼差しには、深い智慧が宿っていた。
「はい。でも、まだ何をすべきか分かりません」
「それでいい。答えは、時が来れば自然と見えてくる。大切なのは、お前が二つの目を持っているということだ」
「二つの目……?」
「そうだ。未来からの目と、今を生きる目。その両方があってこそ、真実が見えてくる」
ジャガラの言葉は、私の心に深く染み入った。
その夜、私は部族の人々と共に、夜空を見上げていた。南半球の星々が、まるで物語を語りかけるように輝いている。
「あの星の並びは、カンガルーがジャンプする形なんだ」
隣で寝転がっていた少年、ビラが教えてくれる。前世の私なら、それは単なる星座の話として記録しただろう。しかし今の私には、本当にカンガルーが夜空を跳ねているように見える。
夜空に広がる無数の星々を見上げながら、私は不思議な感覚に包まれていた。
「見て、ワイラ。あっちの星の並びは聖なる蛇のトラックなんだ」
ビラが指さす方向に目を向けると、天の川が銀色の帯となって空を横切っていた。前世の記憶から、それが我々の銀河系の側面図であることが分かる。数十億の星々が渦を巻きながら宇宙空間に浮かぶ壮大な天体現象。しかし、それを知っていながらも、私の目には確かに神聖な蛇の足跡が見えた。
「ビラ、その蛇の物語を聞かせて」
少年は目を輝かせながら語り始めた。
「むかしむかし、虹蛇が大地を這いずり回って、谷や川を作ったんだ。そして最後に空へ昇って、あの光の道を残したんだよ」
私は思わず息を呑んだ。その解釈は、地質学的な浸食作用の説明と、奇妙なほど重なり合う。川が大地を刻む様子は、確かに大蛇が這った跡のようだ。そして天の川は、まるで巨大な蛇が宇宙を巡った軌跡のように見える。
「でもね」
ビラは続けた。
「蛇は今でも時々、雨を降らせに戻ってくるんだ。雷鳴は蛇の声で、稲妻は蛇の光なんだよ」
その瞬間、前世の気象学の知識が蘇る。上昇気流による雲の形成、電荷の蓄積、放電現象としての雷。しかし、稲妻の蛇行する様子は、確かに天空の蛇を連想させる。
ユーカリの木々が風にそよぐ音に耳を澄ませる。前世の私なら、それは単に空気の流れが葉を揺らす物理現象として記録しただろう。しかし今の私には、そこに大地の囁きを聞くことができる。
夜が更けていく。南十字星が、まるで天空の羅針盤のように輝いている。それは航海者の道標となる星座群であると同時に、古くからの物語が刻まれた神聖な印でもあった。
私は自分の手の中に小さな石を握りしめていた。地質学的には数億年前の堆積岩の一片。しかし同時に、それは大地の記憶が宿る聖なる物でもある。その両方の理解が、石の本質をより深く私に語りかけてくれる。
科学は「どのように」を説明し、神話は「なぜ」を物語る。両者は互いを否定するのではなく、補完し合って、より豊かな世界理解を可能にする。この気づきは、前世の私が渇望していた「本質的な理解」への重要な一歩だったのかもしれない。
夜が更けていく中、私は自分の立場について考えを巡らせていた。なぜ私はここに来ることができたのか。この体験は、単なる個人的な願望の成就なのか、それとも何か大きな意味があるのだろうか。
答えは、まだ見えない。しかし、ジャガラの言葉通り、時が来れば自然と分かるのかもしれない。
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