第4話 シキの国
テンの手を離して起き上がったヒガンだったが、すぐに元の場所に倒れ込むことになった。ハクが飛びついてきたのである。
「うわっ」
ハクの勢いを殺しきることができずに、ヒガンはしたたかに背中を打ち付けた。文句を言おうと顔を上げたが、ハクを見て口を閉ざす。ハクは顔面をぐしゃぐしゃにして、涙に塗れていたのである。
「ヒガンさん、良かった……」
ハクが額をヒガンの肩に押し付けて、震える声で呟いた。
「ねえ、俺は?」
隣からテンの暢気な声が聞こえる。
「そう茶化してやるな。少年は健気にもずっと、貴方たちの体を見守っていたのだからな」
窘めるように言ったのはレオナルドだった。
「そうですよぉ。ずーっと、離れないで炎を見つめてたんですから。もうアタシたちも心配になるくらい、顔を青くしてたんですよぅ」
と、レイレイが付け足す。
ヒガンはハクの背中を叩き、そっと体を起こした。ハクが鼻をすすり上げながら僅かに体を離す。それでも完全に離れていこうとはしなかった。
ヒガンは自分の体を点検した。全てが元通り、服までも綺麗になっている。テンはしゃがみ込み、ヒガンとハクを見つめている。その体には傷一つなく、死ぬ前と同じ綺麗な状態だった。
足元では燃え残った灰がちろちろと青く光っていたが、それは見ている間に力を失い、ただの灰に戻った。
ヒガンは辺りを見回す。穏やかな波が船に打ち寄せる、その音が聞こえてきている。流れる風も穏やかで、船上にはのんびりとした空気が漂っていた。
「俺たちが生き返るまで、どのくらいかかった?」
ヒガンは尋ねた。ハクが答えようとして言葉を詰まらせ、しゃくりあげる。ヒガンは「無理をするな」とハクの背中を撫でた。
問いかけるように視線を向ければ、レイレイが答えてくれた。
「ゲートをいくつも経由して、元の航路に戻るまでですよ」
それは思ったよりも長い時間が掛かっている。ハクが心配して泣きじゃくるのも無理はない。
「ねえ、ハク、俺は?」
テンがハクの腕を軽く叩いた。ハクはヒガンの上から腕だけを伸ばしてテンに抱き着く。
「生き返ってくれて、よかったです」
まだ涙で濡れた顔をして、震える声のまま、ハクが呟いた。テンがその体を抱き締める。ヒガンもまた、黙ってハクの頭を撫でた。ハクはテンとヒガンに交互に抱き着いて一向に離れようとしない。その様子をレイレイとレオナルドが微笑ましげに見つめていた。
「あれ、テンさん、何か持っていませんか?」
ようやく落ち着いてきたらしいハクが、はたと気がついたように言った。テンに抱き着いている間に何か異変を感じたらしい。ヒガンはハクを自分の体の上からどかした。そろそろ足が痺れてくる頃だったからだ。
ハクは床の上に足を揃えて座り、テンの懐の辺りを指さしている。ヒガンは首を傾げた。
「ああ、気がついた?」
テンはそう言って、服の内側に手を入れた。彼が取り出したのは一冊の本だった。手のひらに載せて少し余るくらいの大きさをしている。本というよりノートのようなものかもしれない。そう思ったのは、タイトルが書かれていなかったからだ。
「お前、そんなもの持ってたか?」
テンが本を読むところなんてついぞ見たことがないし、何かを書いている場面だってほとんど見ない。テンには似つかわしくないものだった。
「持って帰ってくれって頼まれちゃってね」
と、テンは答える。その言葉の意味を考えてヒガンはしばし考えこんだ。
「彼岸の手前で、おじさんに会ったんだ。鳳凰の一族だって言う人。ハクが言ってた、シキの国について残した探検家だって言ってたよ」
「え!」
ハクが驚きの声を上げた。ヒガンもまた驚いて眼を見張った。
「ヒガンが来るまでずっと話をしてたんだ」
テンはそう語る。彼がどこにも行かずにじっと待っていたのはそういう理由からだったのか。
「でも、なんだってそんなこと?」
「たまたま、死んだタイミングが一緒だったみたいでさ。彼岸花の中で出会って話をしたら、シキの国について知ってるって言うから。詳しく聞いたら、シキの国が正しく伝わっていなかったのが嫌だったみたい。それで、これをくれたんだ」
テンは手元の本を示す。差し出されたのでヒガンは受け取った。
中身を開いてみる。やはり本と言うよりはノートらしく、走り書きがたくさんなされていた。癖のある字が並び、項目ごとにメモが書きつけられている。
「何が書いてあるんですか?」
すっかり泣き止んで落ち着いたハクが、興味深そうにヒガンの手元を覗き込んだ。レイレイとレオナルドもまた、首を伸ばしてこちらを窺っている。
「ちょっと待てよ」
ヒガンはページをめくっていき、さっと眼を通した。
何ページかめくると、目的のものを発見した。
「あった、シキの国」
「わあっ」
ハクが歓声を上げる。身を乗り出したのを押し留めて、ヒガンは書いてあることを読み上げた。
「シキの国。色と四季と呼ばれる季節があるユニバース。四季とは、一年を通しておおよそ四つの気候に分けることが可能であることからそういうらしい。ユニバースの名前は地球という」
「え!」
ハクが驚きの声を上げた。ヒガンは続ける。
「数あるユニバースの中でもとりわけ、穏やかで色彩に富んだ世界である。獣人族にとっては、その穏やかな気候から、老後を過ごす場所として人気だった」
ヒガンはページをめくる。
「地球というユニバースには、死んだら誰もが行く場所がある、という考えがある。彼岸などとも呼ばれるが、獣人族の間では同じ音をしていることから『死期の国』などと呼ばれることもあるらしい。私はこちらの死期の国についても調査をした。死期の国というのは、死んだ時に行くあの場所を指すのだろう」
「あの場所?」
「俺たちが下っていった彼岸だよ」
テンが説明をする。
「死んだ後、俺たちは一本道を辿って、彼岸花が咲く場所に出たんだ。川があって、対岸もあった。あれが死期の国、彼岸ということだろうな」
ヒガンもまた説明を付け足し、続きを読み上げる。
「あの場所には光の渦がある。戻る時に通るあれだ。私が思うに、死期の国というものは、別のユニバースなのではないか。行く方法が限られているユニバースというものの存在はこれまでにもいくつか確認されている。その一つととらえてもおかしなところはない。死んだら誰もが行くユニバース、それがあの場所である。死出の旅というものはつまり、ユニバースを移動する旅のことなのだ。私がいつもしているような旅の最後。多くの人種にとって人生の最後の旅となるのが、死期の国への旅というわけだ」
ヒガンは唇を舐めて喉を潤し、さらにページをめくった。この見開きにはちょっとしか文章が書かれていなかった。これで終わりということだろう。
「多くの人にとっての最後の旅。死期の国、そして死は恐れられている。だが、恐れることはない。それは私が鳳凰の一族だから言うのではない。色の国、四季の国と同じように、死期の国もまた穏やかな世界である。死ぬということは恐れることではない。新しい世界に飛び込むようなものだ。いずれ誰もがそこへ行く。だから、今生きている世界を目いっぱい堪能し、新たな世界にいくつも飛び込み、世界を楽しめ」
最後の一文はまだ新しいインクで書かれていた。付け足したのだろう。これは、先達からヒガンやテン、ハクへのメッセージなのだった。
ハクがほうっと息を吐く。興奮しているのか、顔が上気していた。ヒガンは本をハクに渡す。
「シキの国の謎も解けたな」
そう笑いかけると、ハクは眼をきらきらさせて頷いた。
レイレイとレオナルドに別れを告げ、船は進む。いくつものユニバースを経由して、やがてヒガンらはミドルに帰還した。
船は光の渦を抜け、ゆっくりと海上へ滑り出す。光が収まると顔に風が吹き付けた。肌寒くも暑くもない、穏やかな風。潮の匂いを含んで爽やかだった。頭上から照り付ける日差しもまた柔らかく、世界を輝かせている。空の青は雲の白と対比されて良く映え、海の青は銀の波の光を内包して複雑な色に輝いている。空を飛ぶ鳥は様々な色をしていて、視線を遥か遠くに向ければ、色彩に富んだ街並みが見えてくる。
ゆったりと船は進む。穏やかな波を切り裂いて、船は滑るように進んでいく。やがてミドルの港に到着した。作業が終わり、ヒガンらは船から降りていく。揺れる船からしっかりとした地面に足をつけるとほっと安堵が胸に兆した。
テンが腕を大きく広げて息を吸っている。ハクがそれを真似て腕を広げた。ヒガンもまた深呼吸をする。
街並みを見上げる。
斜面に沿って広がる建物の壁や屋根は太陽光を浴びて柔らかに発光し、眼を射る。建物と建物の間に生えた木々は新緑の葉をつけ、花を咲かせている。風が吹くたびに花びらが千切れ、ひらひらと辺りを漂う。子どもたちがその花びらを掴もうと手を伸ばし、ぴょんぴょんと飛び上がっている。花びらは海へと漂いだしてくるものもあれば、地面に落ちるものもある。地面に落ちたものは色も様々に混ざり合い、虹のような模様を描き出していた。
豊かな匂いが鼻孔をくすぐる。潮の匂いに混じってしてくるそれは、料理の匂いだ。あちこちで作られた食べ物の匂い。その中にはやはり、花の匂いも混じっている。
ひゅうひゅうと風が吹き抜けていく。爽やかな風だった。ヒガンたちの髪を揺らし、肌を撫でていくそれは斜面の上から吹いてきて、海へ出る。その後、波を作り出しながら遥かな水平線まで通り過ぎていく。
温かな光が全身を温める。太陽光が触れたところから体がぽかぽかと温まり、胸の奥までを温めていく。ほっと体が緩むのを感じた。
ミドルの様子は旅に出るまでと変わったところはない。同じような日常が繰り広げられている。
「なんだか、前よりも綺麗に見えます」
ハクがぽそりと呟いた。ヒガンはそれに頷く。
ハクの気持ちがわかるような気がした。ずっと暮らしていたミドルなのに、旅に出る前と違ったふうに見える。
「それはね、旅に出て違う世界を見たからだよ」
テンが説明している。
「そうなんですか?」
「うん。俺はいっつもそう。違うユニバースを見て、そこの世界が綺麗だなって思うけど、でも帰ってきたミドルのほうがうんと綺麗なんだ。違う世界を見ることで、無意識に比較しているのかもしれないね」
それだけではない、とヒガンは思う。
確かに、違う世界を見てきたことで、ミドルの景色が新鮮に感じられているということもあるだろう。だが、理由は決してそれだけではないのだ。
ミドルは変わらない。世界は変わらない。変わったのはハク、そしてヒガンだ。
見た目が変わって見えるのは、見る者の気持ちが変わったからだ。
ミドルを出る前、ヒガンは諦観に塗れていて、日々の暮らしを楽しんではいなかった。そこに刺激を感じ、変化する自然に気がついて愛でる気持ちがなかった。
だが、今旅を終えて、ヒガンは変わった。世界への希望を抱いた。死出の旅を終えて、生きることの美しさを思い出した。生きとし生けるものが暮らすこの世界は、彼岸の景色よりも何倍も美しい。生命の鼓動が感じられる世界は素晴らしい。
それを思い知ったからこそ、ヒガンにはミドルが違って見えているのだ。
「見方が変わればこんなにも世界は変わるものなんだな」
ヒガンが呟くと、テンとハクがしっかりと頷いた。
「さあ、宿に戻るぞ」
ヒガンは置いていた荷物を担ぎ直す。テンとハクもまた、荷物を抱え直した。
ヒガンたちはゆっくりと斜面を登っていく。水気を含んだ地面、磨き上げられた石畳。そこを走っていく子どもの姿。大人たちはくるくると良く働き、ヒガンらを見つけると手を挙げる。テンがそれににこやかに返す。美しく感じるミドルを抜けて、宿へ戻る。
鍵を開け、宿に入った。窓を開けると暗い室内に光が入り込み、床を照らす。テンとハクが二階に荷物を持って上がった。
荷物を片付けて、汚れた体を洗う。洗濯をし、外に干した。太陽と風を受けて、洗濯物がはたはたと美しく揺れていた。
片付けを終えたヒガンたち三人は宿の中に戻る。ヒガンが茶を淹れて、三人でそれを啜った。
ほっと一息つくと、ようやく帰ってきたのだ、という思いが湧いた。
こうして彼らは長い長い旅の一つを終えた。
ヒガンの平穏で平凡で平坦な日常は、あの日を境に崩れ去り、二度と元には戻らない。その代わり、波乱万丈な毎日が待ち受けていた。
「ヒガン! ねえねえ! 面白いもん拾った!」
二階を降りると同時に明るい声が掛けられる。ヒガンは思いきり顔を顰めた。テンの高めの声は頭に良く響く。額に手を当てて項垂れ、眼の前のテンに文句を言った。
「テン、うるさい。寝起きだぞ」
「おはよう! それでこれ見てよ!」
テンは悪びれたところもなく笑顔を浮かべて言う。彼は手を差し出した。
ヒガンはテンの手の中を見る。そこには小さな石のようなものが乗っていた。拳大の大きさで、つやつやとした白色をしている。光が当たったところは虹色に輝いている。
「なんだ、それ? 石か?」
珍しい石というのは、このミドルにはたまに流れ着く。そうでなくても面白い模様をした石が砂浜に打ち上げられることもある。子どもではないのだし、今更石に興奮することなどないだろうに。
しかしテンは首を振った。
「石じゃないみたい」
「だったらなんだ、種か?」
そういうケースもなくはない。遠くの世界から漂ってきた植物の種が打ち上げられることもあるのだ。
これにもテンは首を振った。
「ね、これ、耳に当ててみてよ」
言われるがままにそれを受け取り、耳に当てる。さらさらとした音が聞こえた。砂が風に吹かれて移動していくような音だ。それに混じり、こぽこぽとあぶくが爆ぜるような音、とくとくと何かを叩いている音がする。
「なんだ、これ?」
貝殻の種類の中には、耳を当てると潮の音がするものがある。それと似ているようだが、こんなに丸い貝殻はないだろう。
「誰かが作ったおもちゃか?」
「うーん、でもこんなに綺麗なもの、捨てるかなぁ?」
「捨てたんじゃなくて落とした可能性もあるぞ」
「そうかも」
「落とした人がいるんだったら返してきたほうがいい。これをどこで拾ったんだ?」
「砂浜からずっといったとこの岩場だよ」
「あんなとこまで行ってたのか」
テンが言ったのは、宿から歩いて三十分はかかる場所だ。テンは毎朝早起きで、よく散歩をしている。彼の元気さには舌を巻くばかりだ。
「返してこようかなあ。でももったいないなあ」
「返して来いよ」
ヒガンが言った時だった。
こつ、と石が音を立てた。ヒガンもテンも石に視線を向ける。
こつこつ、こつ。石の内側から音がした。それだけでなく石が動いている。
ヒガンは慌てて石をテーブルの上に置いた。
石は左右に揺れている。こつ、と音がしてひびが入った。嫌な予感がした。
見守っている間にひびは大きく広がっていく。石を縦断するようにひびが入り、そこから左右に分かれていった。
ぱら、と破片が落ちた。ひびわれたところの表面が剥がれたのである。
ぱらぱらと破片は続いて落ちていく。小さな穴が開いた。小指が入るかどうかと言うほどの穴である。
ヒガンとテンがじっとそこを見ていると、何かがひょっこりと顔を出した。
小指よりも細く、長いもの。全体が小さな鱗に覆われている。鱗は青みを帯びた銀。髭があり、鬣がある。ぱっちりと開いた眼は金色をしていた。かぽりと開けた口からは小さくも鋭い牙が見えた。
しゅう、とその生き物は息を吐き出した。ヒガンとテンは固まった。
「……これ、まさか龍?」
先に言葉を発したのはテンだった。ヒガンも無言の内で賛同する。
うんと小さい見た目をしているが、それは龍によく似ていた。
「お前、なんてもの拾ってきてるんだ」
ヒガンは頭を抱えた。
龍の子どもなんて聞いたこともないし、龍の卵が漂着したという話だってこれが初めてだ。
「一体どうするんだよ……」
ヒガンはため息をついた。テンは龍の子どもに興味を示して、指を出してちょっかいを掛けている。龍の子どもは首を傾げ、それを見ていた。
今は〝時化〟の時期だ。それでどこからか流れてきてしまったのだろうが、まさかテンが拾ってそれがここで孵化するとは。
「ここで飼う?」
「できるわけないだろう。龍がどれくらい大きくなるか、わかってるのか?」
「これは大きくならない種類かも」
「なわけあるか。それに龍は船を襲うんだぞ。ここに置いといたらどんな被害が出ることか」
ヒガンはますます頭を抱えた。
「ハクに聞いてみるのは?」
「ハクか。今〈シティ〉にいるか? 〝時化〟の時期だぞ?」
ハクとの旅はもう十年近く前のことになっている。
旅を終えた後、ハクは〈シティ〉に戻った。長らく行方不明となっていたハクが帰り、また〈シティ〉の外から現れたものだから、それは大騒ぎになった。ハクは行方不明となっていた間のことを色々と尋ねられ、そこでユニバースのことが〈シティ〉の連中にも知れ渡ることとなった。
世界が実は滅んでいたという事実に一時〈シティ〉は大混乱に陥ったが、今ではそれを受け入れて、むしろユニバースから有益な技術を持ち帰ろうと船団が組まれ、いくつも船がゲートを通っている。
ハクは〈シティ〉で勉強を積み、生物調査団の一員として働いている。彼は色んなユニバースの生態系を調べたり、ユニバースに特有の生物の調査をしていた。この宿にもたまに顔を出してくれるが、今は格好の調査時期だ。例年通りならもうミドルを出てしまっていることだろう。
「じゃあどうするの?」
「どうしたもんかな」
ヒガンは考えた。ハクに頼れないとなると、龍の子どもはヒガンの手に余る。
「とりあえず、元の場所に返しておこう」
ハクとの旅を終えてから、ヒガンたちもまた時折旅に出るようになっていた。だが、今のところその予定はない。船に乗るのだったら龍を元居た世界に戻すことができたかもしれないが、今はそれが叶わない。
ヒガンとテンは宿を出て、岩場に向かった。テンが龍の子どもを指に巻き付けて運ぶ。龍の子どもは初めて見る外の世界に興味深々で、首を長く伸ばしてもたげ、きょろきょろと辺りを見回していた。
人目につかないように移動して、岩場に到着する。波が打ち寄せる岩の一つに飛び乗った。テンが龍の子どもを指から下ろす。龍の子どもは岩の上に大人しく乗ったが、そこから移動しようとはしない。ただ首を傾げてヒガンとテンの顔、海とを見比べているだけだ。
「まさか、こいつ、俺たちのことを親だと思っているってことはないよな?」
「可能性はあるかも。だったら飼っていい?」
「だめだ」
期待に声を弾ませたテンに、ヒガンはぴしりと言う。テンが肩を落として唇を尖らせた。
「ちぇ~。ヒガンのけち」
「けちとかそういう問題か。そもそもどうやって飼えばいいのかわからないのに」
ヒガンは言い返す。
龍の子どもがしゅるしゅると動き、テンの体によじ登った。器用に全身を使って登ってくる龍の子どもにテンが歓声を上げる。
「わあ、すごいよ、この子! 高いところがいいのかな? ほら、ここに来な」
テンは龍の子どもを手に載せると、自分の肩に移してやった。龍の子どもは眼を細めて海の彼方を見つめている。
なんとなくヒガンもまたその方向を見た。
ここから見える海はただ広い。船が着く場所とは離れているから、視界を遮るものがないのだ。
太陽光が水面を光らせている。その中でとりわけ強い光がちかりと瞬いた。だが、それが何かを見て取るよりも先に、光は消えてしまう。イルカなんかがいたのだろうか。
龍の子どもは海を見ている。どこか懐かしむような顔をしていた。テンが手を眼の上に当てて遠くを見通した。
「この子、海が好きなのかも! でもそれにしては海に行かないね?」
テンの言う通り、龍の子どもはちっとも動く気配がない。
少し口を開けたかと思っても、何かを発することはない。
ひゅう、と風が海上から吹いてきた。テンは龍の子どもが飛ばされないように手で覆いを作ってやる。龍の子どもがその覆いよりも体を伸ばした。
「飛んでっちゃうよ」
テンが注意したが、龍の子どもはその体勢のままじっとしている。
口を開いた。ひゅうううー、口笛のような音が発せられた。その音は高低を変えながら、まるで何かの音楽のように鳴り響く。心が透き通るような美しい音色だった。
ヒガンとテンはそれに聞き惚れる。
ざぱあ、と近くの水が割れる音がして、ヒガンとテンの上に影が落ちた。
慌てて影のほうを見上げる。
「はあ?」
ヒガンは思わず声を出してしまっていた。
一匹の龍がこちらを見下ろしていた。龍の子どもと同じ色をしたものだ。通常船の上で見かけて戦うものよりも小さいが、それでもヒガンたちを丸呑みできるくらいの大きさはある。
龍の子どもがそれを見て、嬉しそうに鳴き声を上げた。
「まさか、親か?」
「俺たち、子どもを誘拐したって思われてたりしない?」
テンがさっと剣を引き抜く。龍を睨んだが、龍はちっとも動かない。ただ凪いだ海のような大人しい眼をしてヒガンとテンを見つめている。
見つめ合ったまま数分が経った。龍が頭を下げた。テンが身構える。龍はそれには構わずに、そっとテンの肩に頭を寄せた。龍の子どもが嬉しそうに飛び跳ねた。
「……ただ迎えに来ただけ?」
テンが少しだけ体の力を抜く。慎重な手つきで龍の子どもを手に取ると、親の頭の上に載せてやった。親はテンから身を引くとぽんと頭を上げて龍の子どもを宙に投げた。それをぱくりと口でキャッチする。開いた口の中に、他にも龍の子どもが何匹かいるのが見えた。口に入れて子どもを運ぶ習性があるのだろう。
龍はまたヒガンとテンを見ると、頭を下げた。まるでお礼を言っているかのような仕草だった。
それから龍はくるりと身を翻すと泳ぎ去っていった。岩場から十分に離れると勢いよく水の中に潜る。
「あれ見て!」
テンが声を上げた。彼が指差すほうを見る。水平線の辺りに何かが見える。
何匹もの大きな龍が並んで、今潜っていった龍を待っていた。龍たちは仲間を迎え入れると、大きく口を開けた。美しい笛のような音がここまで響いてくる。それは喜びに溢れた音色だった。無事に子どもを見つけられたことに対する安堵の声だった。
「襲ってこない龍もいるんだ……」
テンがぽつりとこぼした。ヒガンもまた頷く。
「龍とまとめて呼んでいるが、実は種類があるのかもな。今度ハクが来た時に話をしてやろう」
「そうだね。きっとハク、面白がるよ」
龍たちが口を閉じた。音が聞こえなくなる。やがて彼らは一匹、また一匹と海に潜っていった。波が大きくうねり、風が巻き起こる。
龍の姿が見えなくなった。ヒガンとテンは戻ろうかと踵を返す。
その時、龍たちの動きで発生した風がヒガンをよろめかせた。突風がヒガンの体にまとわりついてバランスを崩させる。腕を広げてバランスを取ろうとしたのも空しく、ヒガンは海に落ちた。
どぽん、と自分が沈んだ音が聞こえた。ヒガンの体は重力に従って、海の中に潜っていく。
濃い海の青が視界に広がった。波が岩場に打ち付けて発生した飛沫が霞んで見えた。冷たく澄んだ水がヒガンの服の間に入り込んで体を撫でる。こぽこぽとヒガンの体からあぶくがいくつも出てそれは水面に浮かんでいく。
海の中、龍の姿が見えた。透き通った青の向こう、龍たちが楽しげに身をくねらせながら泳いでいる姿が見えた。大きく光が発生する。光の渦が海の中に現れて、そこに龍たちが入り込んでいった。光が収まると龍たちの姿は消えていた。
ヒガンは空気を吐き出した。大きな水泡が頭上へと浮かんでいく。肺が締め付けられる。
水泡を破ってテンの腕が伸びてきた。それはヒガンの腕を掴んでぐいとひっぱり上げる。あっという間にヒガンは海上に出た。岩場に引き上げられる。ぽたぽたと垂れた雫が岩の上に染みを作った。
ヒガンは咳き込む。ひとしきり咳をしてから大きく息をした。顔に張り付いた髪をかき分ける。視界には海とは違う青の空が広がって見える。
テンが心配そうにこちらをのぞき込んでいた。彼の髪が光を受けて虹色に輝いている。
「大丈夫? どうしてすぐに浮かんでこなかったの?」
どう説明しようか、とヒガンは考える。今見たものは、発見されていなかったゲートだろう。龍はそこからやってきたのだ。興奮が静かに沸き起こる。世界はいつも美しく、面白いのだ。それを実感する。
「ヒガン?」
テンが首を傾げる。彼に話してやりたいことはあるけれど、ひとまず今感じている安堵を口に出しておきたい。
ヒガンは呟いた。
「良かった、生き延びた」
シキの国 兎霜ふう @toshimo_fu
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