なるたる論 最終節

 母の愛は無限の広さを持つ。その愛の対象は私であり、あなたでもあり、そして遠い未来の誰かでもある。ではその愛は私を愛していると言えるのか。すべてを愛するとは結局、生命の醜さも、美しさも平等に愛してしまうのだろう。きっと私がいなくても、母は別の誰かを愛した。なぜって、海が死も、生も包み込むように、母は生命のすべてを愛する。私だけを愛して欲しかったのに。


 のり夫はそんな母を幻視した。彼は壮大な生命の神話を物欲しげに遠くから見つめた。だが、考えてみてほしい。そのようなすべてを内包する神話は、私の孤独を癒すのだろうか。私が求めているのは平等に愛されることではない。私だけをあなたが愛してくれること、その痛みと責任を体に刻み込み、まだ生きていると自分に言い聞かせることだろう。だから私は生きようとするし、その中で「私」という他人に引き渡すことのできない体験を求めるのだ。


 なるたるの物語はこの二つの視点の間で揺れている。シイナのことを父親が愛し、そして母親が愛し、友達が愛し、他人に代替できない愛の印をその体に刻み込む。しかし、その愛は生命を前にすれば、小さな出来事でしかなく代替可能なものになってしまう。その家族がなくても、その友達がいなくても、きっと私がいなくても生命はきっと続くだろう。


 もしも、人類が絶滅したとしても、誰かが誰かを愛している。それがみんな怖いのだ。しかし、生命の流れに入らなければ、私たちは原子のようになって分裂してしまう。その時どんな行為にも、未来はなく、過去もない。それでは、わたしを私にするものは無くなってしまうだろう。過去からも、未来からも切り離されて、「私」は私という言葉以上のものではなくなってしまう。それは自由かもしれない。だが、真の自由とは言えない。私とあなたには名前以上の差異はなく、ひたすらその位置が置き換えられるという自由はただすべてには意味がない、よって自由にも意味がないと言っているに過ぎないのだ。自由は私自身が享受するものである。それはあなたに引き渡せるものではない。


 私たちは生命と個人の間で揺れている。それはきっと切り離せない兄弟のようなものなのだろう。しかし、私はその両方に引き裂かれている。生殖という束縛から解放され、性別というくびきから解き放されて、ただあなたと愛し合いたい。生命なんて夢だといってほしい。しかし、生命がなければ私は存在できない。その中では、私は生きていてやがて死ぬ大勢の一人でしかない。


 生殖に縛られた無限の愛とあなたと私だけの有限な愛、そのどちらが消えても、私は生きられない。だから、物語の最後で世界を滅ぼした少女が「命は代替可能である」と言うのは生命から告げられる母の最大の愛の言葉なのだ。


 しかし、それは私の孤独を癒さない。なぜなら父親も、母親も、友達も、みんな死んでしまったのだから。なるたるが最後に伝えるのは、生命が伝える愛の言葉と私自身が求める愛の言葉がどこかでズレていると言うことである。


 だから癒されない孤独を抱え、愛の中で孤独を知り、そして誰かに愛してくれと求めるしか私たちには出来ないのだ。


 生命は私を置いていく。それはいつも私には大きすぎる。

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命に置いていかれる なるたる論 時川雪絵 @MakaN7

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