豆腐 ~それは、頭を一瞬白くする魔法の言葉、だけでなく~

夏笆

豆腐 ~それは、頭を一瞬白くする魔法の言葉、だけでなく~







「万里(まさと)さん。万里 正信(まさと まさのぶ)さん」


 その存在そのものが、昔ながらの役所の待合室といった趣のソファに座っていた俺は、窓口の係員に呼ばれ立ち上がると、引っ越しで必要な諸々の、最後の手続きを済ませる。


「はい。こちらで完了です」


「お世話さまでした」


 そんな遣り取りも既にして数回経験したが、これで本当に最後であると、俺は清々しい気持ちで役所を後にした。


「さってと。昼飯、どうするか」


 昼飯は、役所へ行くついでに駅周辺で食おうと思っていた俺だが、想像以上に待たされ、手続きに時間がかかってしまったことで、今は既に二時近い。


 この辺りで何か店は無いかと見渡してみても、どうやら役所関係が集中している場所のようで、食事を出来そうな店は無かった。


「しょうがない。駅まで戻るか」


 不案内な新天地だが、雰囲気は悪くない。


 俺は、足取りも軽く駅を目指した。








「ああ・・・桜か」


 駅まで戻る途中で、歩道の脇に桜が咲いているのに気が付いた。


 行きは、反対側を歩いたために気付かなかったのか。


 花見なんて、随分していないと思った途端『ねえ。今年もお花見、行けないの?』と、不満そうに言っていた妻の顔を思い出した。


 あの頃は『うるせえな。仕事なんだから仕方ないだろ。そんなに行きたきゃ友達とでも行け!』などと、腹立ちまぎれに言っていたが、ああいう時の妻の表情をよくよく思い出してみれば、不満そうなだけでなく、寂しそうでもあったなと思う。


「悪かったな」


 俺は、歩道の脇に咲く桜を見上げて、もう届かない謝罪の言葉を口にした。


 それは、悪態のように言う『悪かったな』ではなく、心からの後悔を込めた『悪かったな』だった。


 今更遅い、それこそ、後で悔いても取り返しが付かない状況なのだが、俺は呟かずにはいられない心境で、そんな俺を、桜も、春の風も、優しく受け止めてくれるような錯覚をおぼえる。


 思えば、桜だけでなく、季節の行事とも遠ざかっていた年月だったと、俺は自分の人生を振り返った。


 ごく普通の家庭に生まれ育って、学校へ行かせてもらって、就職して、結婚した。


 いや、学校へ行かせてもらうなんて、考え方はしなかった。


 すべてが、当たり前だと思って生きて来た。


 学校へ行くことも、就職することも、結婚さえ。


 だが、四十を過ぎてから、すべてがひっくり返ってしまった。


 病気をした途端、会社にも捨てられ、妻も失った。


「思えば。予兆はずっとあったよな」


 仕事は好きだったけど、会社自体は旧体制でコネ入社も多く、その大半は使えない奴らにもかかわらず給与は各段に良かった。


 もっと早く転職すればよかったとも思うが、それこそ後の祭りだ。


「未練がましいな、俺も」


 潔く風に散っていく桜の花びらを見送って、あんな風になりたいものだと俺も一歩を踏み出す。


 さしあたっての、俺の行き先は駅。


 そして、昼飯を食える所。


 この駅では、どんな飯が食えるのか、どんな店があるのかと想像して、俺は以前住んでいた町の駅にさえ、ほとんど立ち寄ったことがないことに思い至った。


「どんだけ、つまんない人生だよ」


 仕事ばかりを優先して、挙句その職場に捨てられて・・・と、再び負の連鎖を始めそうになった俺は、ふるりと首を横に振る。


「ケセラセラ。なるようになる、ってな」


 昔観た、古い映画曲を思い出し、俺は小さく笑みを浮かべた。






「店、ありすぎだろ」


 俺が引っ越して来た町の駅は、然程大きくも無いのに店は豊富に並んでいて、俺は目を瞬かせてしまう。


 平日の昼間だというのに、多くの人で賑わっているのも驚きだ。


 若い母親が、小さな子供を連れて歩いているかと思えば、中高年の女性、男性のグループ、男女混合のグループ、友人同士と見える人々など、本当に多くの人々の笑顔で溢れている。


「あ」


 その中に、仲の良い高齢の夫婦と見えるふたりを見つけて、俺の胸がつきんと痛んだ。


 それは、俺が得ることのできなかった妻との未来と見え、彼らが出て来た店へと何気なく視線を動かす。




 豆腐料理の店で、持ち帰り用の販売もある、か。


 こういう店、入ったことないな。




 そこは、老舗の豆腐屋が営むという、紺地に白抜きの文字が爽やかな暖簾が特徴の、豆腐料理専門の店だった。


 俺が、豆腐と言って思い出すのは、学生の頃。


 『混乱している奴に言葉を伝えるには、一度豆腐と叫ぶといいんだ』と言っていた友人に、本当に豆腐と叫ばれ、その後『右に跳べ!万里まさと!』と叫ばれた後、奴が放ったホームランのボールが、俺の左側に落下したこと。




 あれは、本当に間一髪だった。




 まあ、それはともかく。


 何を食べるとも決めていなかった俺は、足のむくまま、気の向くままに、その店の暖簾を潜る。


「いらっしゃいませ!」


 途端、白衣と三角巾姿の年配の女性が、明るい声で出迎えてくれた。


 何となく、その雰囲気にほっとする。


 清潔感漂う、木製のテーブルと椅子が並ぶなかを案内され、奥まった席に着いた俺は、さて何を食うかと品書きを開く。


『百パーセント国産大豆を使用した豆腐の店』


 すると、そんなうたい文句がまず目に入った。




 そうか。


 国産大豆というのが、拘りなんだな。


 へえ、豆乳やおから、ゆば料理なんてものもあるのか。




 旅行は愚か、久しく外食もしていない俺は、そんな品書きさえ珍しくて仕方がない。


 暫し楽しく迷って、俺は麻婆豆腐を選んだ。


 いかにも和風の店で何だが、俺の口と胃が求め、何より品書きにあったのだから仕方ない、というより、問題ないだろう。


 などと、誰にともなく言い訳じみた言葉を心の内で紡ぎ、俺は麻婆豆腐を堪能した。


 いや、うまかった。


 食事をうまいと感じるなど、いつ以来だろうと思い、俺は、ほとほと自分が面白味の無い人生を歩いて来たのだなと実感する。


 よし、決めた。


 これからは、周りも、自分も大切にする人生を送ろう。


 ということで、夜は自炊でもしようと、俺は、国産大豆百パーセントの豆腐を購入した。






「そうか。国産大豆百パーセント豆腐君は、高いんだな」


 一旦家に帰り、近所のスーパーへと夕食の買い物に繰り出した俺は、空っぽの冷蔵庫の一番目の住人となった、国産大豆百パーセント豆腐が、呼び捨て禁止と言いたくなるほど高価な存在なのだと知った。


 だとすれば、それに相応しい料理をしてやらねばならぬと思うが、そんな料理の腕は、俺にはない。


「奴にするか」


 時期的には未だ若干早い気もするが、俺が思い付き、調理できる唯一の豆腐の旨さを感じられる料理であるし、夏に食うのが一番かもしれないが、別にいつ食べてもいいだろうと、俺は薬味を買い、醤油を買った。


 あとは適当でいいだろうと、味の付いた肉と、米と味噌を購入する。


 『米、味噌、醤油があれば何とかなる』というのは、おふくろがよく言っていた言葉だが、今も言っているだろうか。


 こちらも長らく会っていないうえ、病気をしたことで心配もかけたなと、また胸が痛んだ。


 今度、電話してみよう。






「うん。奴も、旨いな」


 高価な、国産大豆百パーセント豆腐君は、流石のポテンシャルの高さを誇る旨味を有しており、俺は大変に満足した。


「他に、豆腐料理は、と」


 すっかり国産大豆百パーセント豆腐君の虜になった俺は、次なる豆腐料理を求めて検索を開始する。


「スンドゥブチゲ?」


 そのなかにあった、何やら赤い鍋に釘付けになった俺は、早速それを調べてみて、疑問符を浮かべた。


 一体、どこの国の言葉なのか分からない。


 いや、日本でないことは分かるが。


「何々・・・韓国の鍋料理か」


 それは、自分で作るのは無理だろうと、俺は他の料理を検索する。


 しかし、どうにもスンドゥブチゲが忘れられない。


「仕方ない。食いに行ってみるか」


 調べてみれば、幸いにも最寄り駅の近くにも、韓国料理の店があるという。


 どうせなら、本場の味がいいだろうと、俺は、韓国人が経営しているという店を訪れることにした。






「これが、スンドゥブチゲか」


 その店は、店員も韓国人のようで日本語は片言しか話せず、周りの客も全員韓国人という状況だったが、品書きは普通に日本語もあったので問題ない。

 それに、特に冷たい視線を浴びることもなく、ただ『珍しい。この店に日本人がいる』という空気のなか、俺は初めて食べる赤い鍋に舌鼓を打った。


「うまい」


 辛いがうまいという初めての経験に、俺はずどんと嵌ってしまい、夢中で食べ進めてしまう。


「おいし、ですか?から、ない、ですか?」


 店員が、そんな風に片言で聞いてくれるのも嬉しく、俺は満面の笑みで『うまい』と答えた。


 食事中に『美味しい?』と聞かれて『うまい』と答える。


 そんな日常会話さえ、遠い記憶のなかにしかない俺は、スンドゥブチゲの辛さに滲む涙を禁じ得なかった。


「ごちそうさまでした」


「また、おこし、くださ」


 笑顔で見送ってくれる店員に、きっとまた来ると約束して、俺はその文言に気が付く。


『国産大豆百パーセント豆腐に拘っています』


 そうか、この店もそうなのかと、ほかほかの体に外の空気が気持ちいいと息を吸い込んだ俺は、ふと足を止めた。




 韓国人が日本で経営している店でいう『国産大豆』って、韓国産なのか?


 それとも、日本産なのか?


 どっちだ?



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