安らぎと悲しみの二重奏

花宮守

安らぎと悲しみの二重奏


「おーい、行くぞー」

「ん? ああ、今行くよ」

 上条泰之かみじょうやすゆきはゆったりと返事をし、立ち上がって上着を手に取った。くわえていた煙草は、振り向く前に消している。

 煙を避けるように戸口で待っていた貝原裕斗かいばらゆうとは、先に外へ出て歩き出した。身を切るような冷気に包まれる。背後で相棒が鍵をかける音がした。続いて、キィ、カチャン、と門扉を閉める音。コツコツと、優雅な足音が追いかけてくる。この男は滅多に慌てない、走らない。

(焦ったところなんか、見たことねーな……)

 当たり前のように横に並び、ん?と視線で問うてくる長身の年上男性。見るたびに、ニュースやドラマの中のイギリス紳士のようだと思う。いつも代わり映えのしない地味なスーツの自分とは、醸し出す雰囲気が違う。年齢が一回りも離れている、そのせいだけではないだろう。にもかかわらず、隣を歩くのは妙に居心地がいい。

(こいつは、俺の相棒なんだ)

 自分はそう思っている。上條も、誘えば断らない。穏やかな瞳を好奇心で閃かせ、ついてくる。ほかのこととなると、どちらかというと怠け者だ。何やら物書きの仕事をしているらしいが、見る限り量が多くはない。あちらこちらの家賃収入と、詳しくは聞かないが謎の資産で、赤レンガ造りの大きな家に一人で暮らしている。庭木に水をやる時と、こうして裕斗が連れ出す時くらいしか、まともに外へ出ないのではないか。

「道路が懐かしいって顔してる」

「そうか」

 鷹揚に笑う。

「前から気になってたんだけど、買い物はどうしてるんだ」

「君が三日に一度は連れ出してくれるのでね。帰り道に調達すれば十分だよ」

「それ以外、ほんっとに出かけないのか? 本屋なんかは?」

「昔は、隣にあったからな。毎日のように行っていたよ。今は、やはり君と会った帰り道かな」

 どこか無気力に感じられるのに、恐ろしいほどの知性は錆びつく気配すらない。いつの間にか、裕斗の助手か何かのように、事件現場に顔を出すようになった。半端に関わっても手続きが面倒だから、今ではあらかじめ家に寄って引っ張っていく。


 この日も、手掛かりが極端に少ない殺人事件を、短時間で解決に導いた。「また連れてきたのか」と迷惑そうにする先輩警部は、最後にはいつも、「ご協力ありがとうございました」とにこやかに握手を交わす。今日はとびっきりの難事件だったせいか特に気分がいいようで、「貝原、上條さんを送って差し上げて。そのまま帰っても構わんぞ」とまで言った。明日は雨に違いない。

「そういうわけで……送る」

「寄り道するが、いいか」

 凄惨な現場を目にしたというのに、動揺も恐怖の色も全く見せない。そもそも、血を見て騒ぐような奴を連れてこようなんて思わないが。

 

 裕斗が車を置きやすいようにと、大型ショッピングモールをリクエストされた。上條は書店で新作ミステリーをチェックし、嬉しそうに二冊買ってから「もう一軒いいか」と聞いてきた。宝物のように本を抱えるところは、何となくかわいい。異論があるはずもなく、モール内の食料品店へ向かう。

「おい、そんなに買って食べ切れるのか?」

「君なら平らげてくれると思ってね」

「は?」

「今日は時間があるようだからな。昼食に招待しよう」

 グゥ、と裕斗の腹が鳴った。

「ハハッ、いい返事だ」

「違うっ。俺じゃないぞっ」

「君の腹には違いない」

(変な奴……)

 機嫌はいいのは悪いことではないから、ぶらぶらと後ろからついていく。鮮魚売り場はちょっと寒い。

「君、料理はするのか」

「んー? まあ、それなりに」

「よし」

 買い物かごには野菜がぎっしり詰まっている。そこへ、活きのいい魚や各種の肉、卵などが追加されていく。

「いくら何でも多すぎるだろ。よしって何だよ」

「お手並み拝見といこうじゃないか」

「客に手伝わせるのかよ」

「ただ待っているのも退屈だろう?」

(退屈してたのはあんたの方だろうが)

 倦んだ目をしていた。おしゃれで金持ちの、完璧な紳士。だが、瞳に光がない奴だと思った。

(それが今じゃ……)

 嬉しい。楽しい。待っていた。もう少し一緒にいたい。そんな感情が、隠すことなく伝わってくる。店の中でビシバシ注目され、謎の優越感が沸き起こった。


 料理をするところは初めて見るが、丁寧で心がこもっていた。自分は赤いエプロンをし、裕斗には同じ柄の黄色いのを貸してくれた。ほかに緑のもあるそうだ。早朝にパンをかじっただけの二十代男子には、栄養満点かつ胃に負担をかけない品々が、正直ありがたかった。上條は、よくしゃべりよく食べる青年をにこにこと眺め、手作りのベイクドチーズケーキまで振る舞ってくれた。コーヒーも絶品で、このまま眠ってしまいたい幸せな満腹感に浸った。

「ソファーでよければ、仮眠を取っていったらどうだ」

「そういうわけにもいかねーよ。永井ながいさんはああ言ってくれたけど、別件の報告書もあるし。あと、新しく任された案件で、過去の資料を読んでおかねーと。二十五年も前のことだからなー」

「フム。ああ、そうだ。ケーキがまだ半分残っている。持っていかないか」

「え、いいのか!?」

 偶然に決まっているが、チーズケーキは裕斗の大好物だ。

「もちろん。何か容器に詰めるから、少し待っていてくれ」

 そう言われては振り切って出ていくこともなかろうと、ほわんとした気持ちでソファーに腰かけた。気付くと、三十分過ぎていた。

「は? 寝てた……」

 足元まですっぽりと、暖かな毛布にくるまれて。信じられない気持ちで首を動かすと、慈しむような笑みを浮かべている上條と目が合った。裕斗の頭の方にある一人掛けソファーで、新聞を読んでいる。

「やあ、おはよう」

 にこっと笑いかけられて浮かんだのは、こんないい男なのに奥さんも彼女もいねーのかなという、非常にどうでもいい疑問だった。


「じゃあ……えーと、またな」

「今日は楽しかったよ。またいつでも誘ってくれ。睡眠は適度にとった方がいい。昼寝をしたい時は場所を提供するよ」

「あんた俺のお袋かよ」

 こいつほんとに暇なんだなと失礼なことを考えながら、玄関の扉を開けた。振り向くと、彼の目に切なげな色があった。

「どうかしたか?」

「いや……食事もとるんだぞ」

「大丈夫。さっきので三食分は食ったし、これもある」

 手提げに入れて渡されたチーズケーキを掲げてみせる。彼はフッと微笑み、頷いた。

(やっぱり、なんか寂しそうだけど……)

 次は、事件がなくても寄ってみるのもいいかもしれない。

 扉を閉めて手入れのいい庭を抜けていく時、邸内に鳴り響く電話の音が聞こえた。


「――はい。ええ。いえ、こちらこそ」

『君のおかげで、あいつは最近、仕事熱心だよ。前はどうも執着ってものがなかったんだ。今じゃ事件に食い付いて離さない。生まれた時から一人みたいなものだからな、どうにも本気にさせるものがなくて気掛かりだったんだ』

「一人ではないでしょう。あなたがいた」

『まあ、親代わりのつもりだがな。私ではあいつを焚き付けることはできなかったよ。さすがだ、上條警視』

「元、ですよ」

『あれから五年になるが……陽子さんのことは、今でもすまなかったと思っている』

「あれは事故です……少なくとも、奴が直接手を下したわけじゃない」

『うむ……』

「彼が気になることを言っていました。二十五年前の事件に関わることになったと。それは……あなたの本意ですか」

『……覚悟はしている』

「……わかりました。私はこれまで通り彼のサポートに当たります」

 それから、二言、三言話し、電話は終わった。

 上條はため息を吐き、寝室へと向かった。窓辺に置いた写真立てを手に取る。妻の陽子が、明るい日差しの中で笑っている。彼女の時間は、五年前に永遠に止まってしまった。過去の凶悪事件の犯人を、あと少しで追い詰めることができる、その攻防の最中だった。

 そして今、一人の青年が、あの事件を一から洗い直そうとしている。被害は甚大だった。知らされていなかった、自分の両親の死の真相。彼は間もなくそこへ行き当たる。

 あの生意気な笑顔が壊れないよう、自分にどれほどのことができるのか。自分のように、大切な人を失うことになりはしないか。

 だが、目を逸らすことはできない。自分も、彼も、彼を育てた警視総監も、それぞれの正義を貫くだけだ。

「陽子。俺に力をくれ」

 悲痛な声で語りかける。傾いてきた西日が、もう触れることのできない頬と唇を照らした。




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