とても想像力を掻き立てる作品です。
「グラスはあくまで
道具にすぎない」
作者さまの、こちらの表現に関しまして。
まず、道具に「すぎない」とすることで、割れやすいモノの代名詞であるガラスの儚さが、想像できます。
ですがこの「道具にすぎない」という表現を、さらに深掘りすると、以下のように、読み取れました。
グラス(=glass)は、中身の液体の器、支えとなるもの。中身の液体を、飲む者の口元へ運ぶ、いわば「伝達手段」のようなものですが、その点で、我々の紡ぐ「言葉」と類似します。
グラス(=glass)は確かに、水晶と同じく二酸化ケイ素を原料の主とするにも関わらず、水晶のように結晶構造(原子配列の規則正しい構造)をとるわけではない、つまりは不規則な形をとります。
が、この不規則性、無秩序さが、多様性を生み出し、変化を生むのです。
我々は、他者に概ね同じ内容を伝えるにしても、その伝える表現の選び方、言葉の選び方は、三者三様。
もっと言えば、本作と題材を同じくして、グラスについての作品を、他の人が書いたとしたら、また違った印象のものが出来上がることは当然です。
そんな、グラスのような、柔軟性(glassは化学上、固体ではなく流体です)のある「道具」は、決して有象無象の取るに足らぬ存在なのではなく、かけがえのない、尊い存在なのでしょう。
人には人のグラス。
ごくありふれた形状の水飲みグラス
ワイングラス
琉球ガラス(glass)
金魚鉢、そんなのだって、ガラスです。