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淡島ほたる

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 スコールみたいだ。 彼をひと目みたとき、遠野は反射的にそう思った。南国のあたたかな地方に降る、強くはげしい、急な雨。遠野がむかし仕事のために滞在していた国でも、それは頻繁に発生した。男は、八雲陵野やくもりょうやと名乗った。オーディションのエントリーシート――というよりは履歴書と呼んだほうが相応しい書類を、遠野は一瞥する。 


 二十歳。地方の専門学校を卒業してからは、日雇い仕事に就いたり飛んだりを繰り返したのち、現在はフリーターをしているらしかった。 履歴書の記載事項が事実であろうとなかろうと、遠野にとってこれは業務の一端に過ぎない。正直なところ、将来有望な人物を上層部の人間に繋げられればそれで良いのである。前職を辞めて精神的に燃え尽きてしまったあと、遠野は仕事や暮らしに対して無関心になった自覚があるが、倫理観以外のことを自分に求めるのはとうにあきらめていた。 

 八雲の筆跡は、どこかおおらかさがあり、彼らしいという印象を受けた。職歴に記入された「以上」の最後の一画は、ぴんと跳ね上がっている。 彼らしい、などという所感は、初対面だというのに変な話だと思う。連日の審査で、遠野は些か疲れているのかもしれなかった。立ち返れば今回のオーディション企画は、遠野が上層部に急かされるように始めたものだった。うちは零細芸能事務所だからね、と上の人間は元も子もないことを言う。零細企業の真ん中に位置する遠野は、彼らに追随するほかない。 

 氏名欄の横には、履歴書規定の枠をはみ出す大きさの証明写真が貼られていた。証明写真にしてはあまりにもでかすぎる。ていうかこれ、プリクラじゃないのか。背景が青色なせいで一瞬騙されてしまったが、よく見るとやけに写真全体がキラキラと光を放っている。写真の中でほほえむ、リクルートスーツに黒髪という出で立ちの彼は、なぜかピースをしていた。どういう感情なんだ。 

 幼い日、釦を掛け違えたときのような違和感が、遠野の心を支配している。へんなやつだ、と率直にそう思った。


 履歴書の写真とおなじ、吊るしのスーツを着た八雲が、にこやかに切り出す。

「ねえ遠野さん。聞いてくれますか。僕、だれでもいいから、かわいがられたいんです。有り体に言えば、ミュージシャンをしながら特定のひとの世話になりたいんですよ。たゆみのない愛が欲しいっていうか」

「ああ、うん。わかるよ。でもまあ、なにもしなくても、八雲くんならそういうことには困らないんじゃない。顔も声も良いし」 

 たゆみのない愛? 

 遠野は、もはやどうでもいいと思いながらそう言った。面倒ごとになるのを避けて世辞は言わない質だが、今回に限ってはべつだ。顔も声も良いのは事実として、ほんとうに心底、八雲の相手をするのが面倒だったのである。なにしろ、彼のとりとめもない話をすでにもう1時間近くも聞かせられている。今日の審査は彼の番で終わりとはいえ、いくらなんでも限度がある。   

 家庭訪問みたいだな、これ、とばかげたことを思う。順番が最後の家庭では、担任も保護者も長期戦となって話し込む。あれに似ている。  

 この男――八雲くらいの年齢だと、そんな経験もないのだろうか。パンデミックの時期に青春時代を過ごした若者だ。家庭訪問も一般的でない世代だろう。そういえば、と記憶を手繰る。遠野が受け持っていた生徒も、そろそろ八雲くらいの年齢になっているはずだ。 

 とりあえず一刻も早く、胸ポケットに忍ばせている煙草を肺のすみずみにまで行き渡らせたかった。正体不明の苛立ちを発散させるように、遠野は長机の下で軽く膝を揺すった。  

 八雲はなぜか、まっすぐに目を合わせてくる。人懐っこい、純粋な好意を示す笑顔で。遠野はそのたびに窓のほうを向き、視線を交差させないようにつとめるが、彼は折れなかった。

「……なんか、遠野さんて、へんなひとですよね。ふつうの大人じゃあ、なくないですか?」 

しくじった、と反射的にそう思う。一瞬、目を合わせてしまった。

「あの。僕も、遠野先生みたいになれますか」 八雲は夏の湖をたたえたような瞳で、遠野をみていた。 ああ――似たようなことが、以前にもあった。かつて、スコールの降る在外教育施設で教師をしていた頃、これとおなじ台詞を聞いたのだった。 

 クソ、こんなタイミングで。 

 思い出さなくていい過去を、無理やり掘り起こされてしまう。 どうぞお帰りくださいと突っぱねたくなるのを抑え、「はは、なんなくていいよ」と乾いた笑い声を出した。あの生徒とは顔も名前も違う。彼ではないはずだ。ただ、八雲の瞳が、遠野の奥底にある記憶に、なにかをうったえかけている。考えを巡らせていると、扉をノックする音があった。現実に引き戻されながら、どうぞ、と返す。

「お取り込み中にすみません。遠野さんにお電話です。ちょっと、急用だそうで」 

 申し訳なさそうな表情をした部下が、わずかに扉を開けてそう呼んだ。助け舟を出してくれたのだろう。遠野はこれ幸いと立ち上がり、部下に向かって軽く手を上げて応じる。

「……というわけですんで、八雲さん。すみませんが本日の審査はこれで終わりということで。結果はまた、追ってご連絡差し上げます」 八雲はぽかんとした表情を浮かべたあと、すぐに人懐っこい笑顔に戻って「遠野さん。貴重なお時間、ありがとうございました。じゃあ、また来ます」と言って、長く一礼した。 

 へんなやつだ。

 遠野はふたたび、そう思った。 


 後日、八雲は宣言どおり事務所に現れた。

 スコールばかりが降る国で、まだ青年だった遠野と幼い八雲、ふたりが写った写真を持って。


 ✳


「変すぎるだろ」 

 遠野は、八雲のぶんのお好み焼きを取り分けてやりながら言った。彼の記念すべき初ライブ終わりに立ち寄った正月の商店街は、当然というべきか、どこもかしこも混んでいた。

 家で食おうという遠野の提案を、八雲は「それじゃあいつもとおなじじゃん。僕は、遠野先生と酒が飲みたいんだから、だめだよ」と一蹴し、頑として認めなかった。いまは一緒に暮らしているのだから(なかば強引に八雲が遠野の住むマンションに押しかけたためである)、べつに家でも飲めるだろと思ったが、それは心のうちに押しとどめた。 せっかくのハレの日に、野暮というものだ。

「だからあ、遠野先生のほうが変だよ。オーディション中、目も合わせないし、なんかずっと、オーラがこわいし。まあ、目が合わないのは、先生やってた頃とおんなじか……。ていうか、なんで僕のこと気づかなかったんですか」 

 八雲はまだ敬語とため口が入り混じった口調で、そう詰った。彼はかつての教え子だった。もう一生、会わないのだろうと思って生きてきた。当然だ。遠野は生徒たちに別れを告げないまま、あの場所を発った。

「素性隠してまで再会しようとすんなよ。八雲は八雲のままでいいんだよ。自分の教え子が、名前も顔もちょっと変えて会いに来るなんか思わないだろ」 

「先生が日本に戻って芸能プロデューサーやってんのも、まあまあ意味わかんないよ」  

「いいだろ、人生なんか何通りもあって然るべきなんだから」 

 真冬だというのに店の中は鉄板と客の両方の熱気で暑く、そして煙たかった。ちょっと一回換気させてくんないかな、と言いつつ遠野が羽織りを脱ぐと、八雲は「それもまた乙なもんですよ」と適当な返しをした。 

 有線では、10代のあいだで流行っているらしいドラマの、主題歌が流れていた。こんなに思っているのに、君はもう帰らない。広い部屋に、ぼくはひとりきりでいる。そんなありふれた歌だった。ありふれた歌が、なぐさめになる歳になってしまった。 

 隣の座敷で杯を重ねる男女たちは、にぎやかに談笑している。みんな変わってないだとか、誰某の結婚式以来だとか、そういう話をしていた。遠野は、彼らの一定の速度で交わされる言葉たちを、さざ波のように感じ取る。過去のあまたの決断にとりたてて後悔はないが、ああいう会話に重きを置く人生を過ごすには、大事なものを手放しすぎた。 

 八雲はいまにも光のこぼれそうな瞳で彼らをみつめたあと、「先生。僕、ふつうのひとみたいに生きられる気がしなくて、こわいんだよね」とつぶやいた。

 遠野も八雲も、当然たがいの孤独の内訳については知り得なかったが、「じゃあ、俺も八雲も、おんなじだな」と返した。詳細が判らずとも、彼の荷物をいくらか引き受けることはできる。 

 八雲は目を細めて、ぱちぱちと瞬きをした。それから、「やっぱり、よかったなー。先生にまた会えて」と、さきほどの深刻さを打ち消すみたいにグラスを軽く傾けて笑う。透明なグラスの内側で、橙色が綺麗な光を伴って揺れる。遠野はソフトドリンクメニューの烏龍茶をふたりぶん頼んだあと、酒にそこまで強くない八雲に、あんまり飲みすぎんなよと釘を差した。わかっているのかいないのか、八雲がはーいと生返事をした。 

 店内は、子ども連れの家族や、カップルや、常連の男たちで溢れている。店員たちはたがいに声を掛けあいながら、絶え間なく客の訪れる店を回していた。光も喧騒も哀しみも、すべてを呑み込むほどにあかるいこの場所で、遠野は居合わせた客たちの抱えた孤独のことを思った。


「ほら、先生、どんどん食べて。焦げちゃうよ!」 

 八雲が、あたたかな湯気の立つお好み焼きをめちゃくちゃに切り分けながらそう笑った。

 おまえに憂いはないのか。あるいは隠しているのかもしれなかった。そのけなげさを眩しいと思う。 

 隣の男女らはいつのまにか会計を終え、扉の近くで手を振りあっている。その光景が、遠野の目にはスローモーションめいて映る。

 ――じゃあね、またね。また、会えたらいいね。 

 八雲は突拍子もなく、スコールみたいにあらわれた。ならばいずれ、遠野の許を去る日が訪れるのだろう。いつかの自分のように。 


 彼はめちゃくちゃに切り分けたお好み焼きを勝手に遠野の皿によそうと、A4のコピー用紙になぐり書きしたものを鞄から取り出して、「僕、この曲で一世を風靡しようと思うんです」と言った。こいつ、全部めちゃくちゃだ。

「八雲ならできるよ」 

 心の底からそう言うと、彼がなんだか泣きそうな顔で笑うので、とりあえず俺も笑っておいた。


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