第7話 日常

またしても、振り出しに戻ってしまったこの気持ち。


相変わらず夫は無気力状態だった。


そんな時に迎えた結婚記念日。

私は夫に手紙を書いた。今の気持ちを綴った、6年越しのラブレター。


でもそれは渡さなかった。


今すぐ読んでほしいわけじゃない。


また私に気持ちが戻った時に読んでくれたら、と思い、手紙ボックスの中にそっと閉まった。


夫への手紙の内容は、


今までの感謝とどれだけあなたを愛していたか気付かされたということ、


それからもし願うが叶うなら、


もう一度私と同じ気持ちに戻ってきて欲しいという今はまだ見えない小さな希望を綴った。


書きながら涙が出た。切なくなった。


夫婦なのに、私は夫の妻なのに、どうしてこんなに辛い片想いをしているのだろうという気持ちになって、悲しくなってしまったのだ。


その日は平日だった為、お互い仕事だった。


私は朝から夫からLINEくるかな、と落ち着かない気持ちと期待感でいっぱいだった。


携帯の画面には、共有しているカレンダーアプリが結婚6周年の文字をうつしだしていた。


思わずスクリーンショットをして、お気に入りフォルダにしまった。

今この瞬間をも、私にとっては大切な時間に思えた。

夫の休憩時間に届いた1通のLINE。


『今日結婚記念日だね。おめでとう』


嬉しかった。


去年の記念日は、有給を取って2人で旅行に行ったなと思い出に浸った。


『どんな気持ちで結婚記念日を迎えていますか?無理させていませんか?4年前、私を選んでくれてありがとう。愛してるよ。』


重くなりすぎないように、夫の負担にならないようにと気を遣って送った精一杯の記念日LINE。


夫からはそれに対しての返信はなかった。

一気に怖くなり、不安になり、私は思わず聞いてしまった。


『一つ聞かせてほしい。私に気持ちが戻ることある?相手にまだ気持ちがあるの?』と。


『辛い思いさせてるのも分かってるし、頑張ってくれてるのも分かるけど、今はもう何に対しても感情がない。相手に対してもない。人生が辛い。もう何もかもどうでもいい。』


夫からそう返信がきた。


仕事中だったにも関わらず、一気に私の心は壊れた。パニックになった。


それは、夫の逃げのような言葉にも聞こえたが、私はどうしたらいいか聞いた。


『もう頑張らない。詮索もしないし、信じるから、せめて子どもが生まれるまでは一緒にいてほしい。私はどうしたらいい?離れることなんて出来ないし、本当に一緒にいたいの。』


夫からは


『何も考えたくない』

と。


私は仕事を早退した。

行き場のない不安感と恐怖心が襲った。


夫も仕事中なのに、そんな重いことを話してしまったことにも後悔をしたし自分を責めた。


私が欲しい言葉を夫は何一つ言ってくれない。


それでも、諦めたくない、一緒にいたい。その気持ちだけは本当だったし、心から願っていた。


仕事からはどうやって帰ってきたかな。色んな思いを抱えて、家にたどり着いた時、ようやく自分の心を取り戻した。


『色々言ってしまってごめん。でも今日はせっかくの記念日だし、美味しいご飯、一緒に食べよう。』


今私が夫との再構築を目指す上で、何をしなくてはいけないかを思い出して送った文章だった。


私は夫が居やすい、帰りたいと思える家を作らなければいけないのだ。その気持ちがそう返信させた。


『せっかくの記念日だしね。』


夫からの返信に少しだけ、安堵した。


その日はトマトのスープパスタとローストビーフのサラダを作った。


ローストビーフはスーパーで買い足したものだけど、少しでも特別感を出したくて、ちょっとおしゃれな夕飯にしたくて。


いつかの結婚記念日には、家の近くのレストランで、パスタを2人で食べに行ったことを思い出しながら夕飯を用意した。


夫は普通に帰ってきた。


どこかいつもよりも明るいような気がして、その姿に再び安堵をしつつ、嬉しくもなった。


もしかして、相手と会ってたのかな、と一瞬頭をよぎったけれど、こうやって帰ってきてくれてる、今はまだ時間が経ってないから、あんまり気持ちをぶつけないようにしないと、と自分の心に言い聞かせた。


夫がお風呂に入っている間にパスタを温めた。お風呂から出た夫は、私がいるキッチンに来てパスタを見つめた。


『今日のご飯何?』


いつも夕飯の用意をしているとキッチンを覗きにきていた夫。

今までと変わらないそのちょっとした行動に私は思わず涙が出た。


お風呂で温まった夫の胸に顔をうずめると、ソフトな優しさで抱きしめてくれた。


その腕に強さはなかったし、安心をさせてくれているわけではなかったと思うけれど、それでも、心地よかった。


『ごめん。』


私の口からは、泣いてしまってごめんね、弱くてごめんね、私が一緒にいたいって言ったのに辛すぎて、ごめんね。


色んな思いのごめんねが溢れて、一言のごめんを口にした。


『大丈夫だよ。』


夫は確かそう言った。

面倒くさかったかな、また泣いてしまったし。弱い部分をまた見せてしまったし。


どう思っていたのだろう。


その場しのぎの抱擁だったのかもしれないけれど、夫の温もりを感じて嬉しかった。


それは以前、私だけに注がれていたはずなのに、と同時に悔しく、悲しくもなった。


その日から、今まで取り繕っていた私の心にヒビが入り、更に壊れていってしまった。


夫が離れてしまうのではないかという不安と、相手とのやり取りのフラッシュバック、今までの夫との思い出、見えない未来の恐怖が次から次に浮かんでは消えを繰り返した。


今まで泣くことはあっても、どうにか理性を保てていたはずだ。


でも、それが難しくなった。


1人になるとおかしくなって、泣いて暴れて、怒って、癇癪を起こした。


もう限界だった。


外に行こう、と思い立ったら鍵もかけずにサンダルで外に飛び出した。


寒いという感情が脳に送られたことで、ふと我にかえり家に帰ろうという気持ちにさせた。


自分がどうしたいのか、何をしたいのか、今何をしているのか、冷静に考えられる気力など私にはもうほとんど残っていなかった。


仕事も休んだし、高速に乗って行く宛もないのに1人で車を走らせたりもした。


その帰り、家の近くでバンっと何かが当たった音がした。


車をぶつけたのだ。


あぁ、なんかぶつけちゃった。


さほど気にせず家に戻ると、べこっと潰れた車、さっきの電柱にぶつけたんだ。


あれ、どこの電柱だったっけ、どこを通って帰ってきたんだっけ、しっかりと記憶になかったのだ。


そこでやっと自分が壊れていることを自覚し、何やってんだろうという気持ちで押し潰されそうになった。


夫は心配してくれた。


でも、心配かけたらいけないと心でも分かっていたから、どうにか、どうにか家では普通に明るく夫を迎えよう、それだけは毎日思っていたことだった。


この時、私と夫を繋いでくれていたのは、


それは、間違いなくお腹の子だった。


この子がいるから、夫は家に帰ってきてくれる。


子どもが生まれるのに不倫なんて、、、


そんな一般論も頭では分かっているものの、今はお腹の子がいるから、夫は一緒に居てくれているのだと感じることが出来た。


もし、生まれたら夫は変わってくれるのだろうか。


また私を愛してくれるのだろうか。


幸せな家族になれるのだろうか。


何度同じことを考えても分からない無限のループに苛まれながらも、私はお腹の子に感謝した。


『ねぇ今どうして私といる?やり直そうとしてくれてる?』


私の何気ない質問に、


『うんー、子どもかな。』


そう答えた夫。


じゃあ子どもが生まれたら?

いなくなっちゃうの?


声にならない疑問が頭の中を駆け巡ったけど、ぐっと堪えた。


楽しみにしてくれている事実がそこにある。


私は赤ちゃんを夫に最初に抱いて欲しい。


できれば立ち会いもしてほしいし、夫のために、夫に2人の愛の形を見せるために、今乗り越えて頑張らないといけないのだと思った。


『私には触れなくていいから、お腹は触ってあげてよ』


そう言った私の言葉に、素直にお腹に手をかけた夫。


寝る前によく2人でお腹に手を当てながら、


『動くかな〜』

『パパが触ると動かなくなるね笑』


なんて話をしながら眠ったっけ。幸せだった。


2人で胎動を感じた時は、この上ない幸せに包まれて眠りについた。


時々夜中に目が覚めてもぎゅっと背中から抱きしめてくれていた夫はもういない。


たった2.3週間前の話なのに。


今は私が夫の方を向いて、夫は私に背中を向けて、決して握り返してくれることのない夫の手を探し、そっと触れながら眠る毎日だった。


『今日も赤ちゃん元気?』


夫は時々そう聞いてくれる。その言葉で私の心はほんの少し明るくなる。


夫が私のお腹に手を当てて、私も夫の手に触れる。

今はそんな夜もたまにある。


胎動を感じて、あ、動いたと思った時には、いつももうとなりで静かな寝息をたてている夫。


今日もお仕事お疲れ様、帰ってきてくれてありがとうと心の中でそう呟いて、私も目を瞑るのだった。


朝が来るのが怖い。


目が覚めるのが怖い。


あぁ、全て夢だったらいいのに。


いつしかそんな風に思うようになり、朝を迎えることが怖くなった。


起きたらまた同じように考え、悩み、怖くなる。笑顔が出ることなんて今は1日の中で、1度もない。


夜眠れる時間は増えたものの、夫の目覚ましがなる少し前に目が覚めるようになった。


時計を見ると、だいたい目覚ましがなる少し前なのだ。


行かないで、そばにいて、そんな気持ちになって、夫がもし起きた時嫌な思いをしないように、と夫の背中からそっと離れて夫のパジャマの裾をぎゅっと握る。


目覚ましがなって、起き上がる夫の背中に向かって、私は手を伸ばす。


手を握って、おはよう、まだ寝てなよって前みたいに声をかけてよ。


けれど、こっちを振り向きもしない夫はそれに気が付かない。


いってきますのキスは、もうないのに、もしかしたら、今日はしてくれるかなと叶いもしない願いを胸に私も起き上がる。


準備が出来た夫は、そっと私を抱擁する。


キスはしてくれなくても、少しでも夫のぬくもりを感じられる瞬間だった。


日が昇るのはまだ先で、暗いリビングで1人、夫が仕事に向かうのを見送り、IQOSを手に取る私。


これがいつからかのルーティンになった。


だいたいこの時にお腹が動く。


赤ちゃん、おはよう。朝から苦しくさせてごめんね。弱いママでごめんね。


そんな気持ちになるから、IQOSはいつも途中で捨てる。


赤ちゃんのために、しっかりしなくてはいけないのに、夫のために頑張るのであれば、赤ちゃんのことを考えなければいけないのに。


夫に隠れて吸うIQOSは、私の最大限の夫への反抗心だった。


赤ちゃんは悪くないのに。

本当に、本当に、ごめんなさい。


不倫されても夫にすがる滑稽で醜い自分。


それにも気づいていた。

分かっていた。


どんな批判を浴びようとも、私自身も理解していることだから、どうか言わないでいてほしい。


分かっている、分かっているけど、でも、もうどうにも出来なくなってしまったのだ。


朝はいつもパニックになる。

怖くなる。

苦しくなる。

自分の醜さと愚かさを実感する。


あぁまた今日も1日が始まっちゃう。


そう思うと、また胎動を感じて、涙が出る。


早く、会いたいね。


どんな顔をして、どんな声で泣いて、どんな風に眠るのかな。

そしてどんな未来を過ごしていくのかな。

ママはあなたが生まれるまでに強くならないと。


もう1人じゃないんだもんね。

生まれるまで、あと2ヶ月。


2ヶ月後の私はどんな風になっているのかな。


幸せな未来を今は想像できない自分が、憎くて、そして心の底から悔しい。


それでも、あなたを全力で守りたい、幸せな未来に、幸せな人生にあなたを導いていきたい、その気持ちは本心だよ。

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