第8話

 一階の廊下の先にある保健室のドアをノックする。思わず気配をうかがってしまうのは、以前に男子生徒による告白シーンを目撃してしまったからだ。カーテンの下に見えた上履きの色を、私は今でも思い出す。きっと、健吾も。

 失礼しまーす、とつぶやきながら、ソロソロと引き戸を開けた。カーテンがあけられていたので、入口から保健室内を見渡せた。私の後をついてくるように、健吾も保健室へと足を踏み入れる。

 窓の開いていない室内は、消毒液の匂いが充満していた。安本先生の姿はどこにもない。いつもであれば、端にある教員用のデスクで仕事をしているはずなのに。

 喉の奥で準備されていた覚悟が、波打ち際のようにゆっくりと引いていく。そのあっけなさに脱力を覚えたのか、健吾がキャスター付きの丸い黒椅子に座った。


「膝、痛む?」

「よく分からない。じんじんする」


 私は薬品棚を開けた。委員会活動で一通りを教えてもらったはずだった。だけど、それらを手に取ろうとすると、緊張と不安で指先が震えた。ああ、そういえば傷の部分を洗わなくちゃ。グラウンドにある水道場に行かなかった事を後悔しながら、私は保健室の端にある水道水でガーゼを湿らせた。

 冷たい床に座り込んで、健吾のハーフパンツを少しだけ捲り上げる。日に焼けた皮膚は、私のものとは全く違う質感だった。震える手でガーゼを傷口に当てると、健吾が顔をしかめた。


「ごめん、痛かった?」

「いや……、大丈夫」


 凝固していた血液が、水分によって溶け出すようにガーゼを赤く染めていく。

 私は立ちあがって、棚から消毒液の容器を手に取る。やたらと清潔感を強調したパッケージ。銀色の筒状ケースに収納されているピンセットで、ガラス瓶に入れられた丸い綿球を掴んだ。先ほどの消毒液で綿球を濡らし、再び健吾の前で立て膝をついた。

 血が滲んだ傷口から見える、皮一枚下にある皮下組織にそれを押し当てると、今度こそ健吾が痛みに小さく呻いた。こんな拙い治療行為で、擦りむいたことによって失われた皮膚は元のように再生されるんだろうか。健吾が息を飲みこんだのは一度きりで、耐えるように眉根を寄せたその表情は、膝の痛みだけのせいではないのかもしれないと私は思う。

 それは、こんな消毒液ひとつで癒える傷なんかじゃない。

 ピンセットでつまんでいた丸い綿が、音もたてずに床にぽとりと落ちた。


「ハル……?」


 転がった綿もそのままに、床に座り込んだ私を健吾が呼んだ。


「どうしたんだ?」


 手に持ったピンセットの表面の感触が、指先に張り付いている。私はうつむいたまま必死に首を横に振った。その拍子で熱い液体がジャージの足元を濡らした。涙だった。

 ごめん、と私はつぶやいた。傷の手当てすら上手くできなくてごめん。応援できなくてごめん。三文字に詰まった言葉を、鼻をすすったことで粘度が高くなった喉元に押し込んでいく。

 健吾が好きになったのは、ピンク色の似合う華奢で可憐な安本先生であって、高身長でショートヘアで大雑把な性格の私じゃない。安本先生が結婚したからといって、健吾がいつか安本先生への想いを諦めたって、健吾の想いが私に向くわけではない。

 先ほど体育館で聞いた女子の噂話を思い出す。一組の誰かが健吾に想いを告げようとしている。羨ましいと思った。健吾の恋の向く先も知らずに、無邪気に健吾に想いを伝えられるその立場が。


「ハル、どうしたんだよ……」


 困惑に満ちた健吾の声が、うつむいた私の頭に優しく降りかかる。

 私が健吾に投げかけたかったのは、大丈夫だよ、という言葉でも、親友だよ、という言葉でもなかった。

 床に落ちた球状の綿から消毒液が揮発しているのか、つんとした匂いが鼻に触れた。それがますます涙腺を刺激し、涙が止まらない。

 ただ純粋に、好きだという気持ちだけを持っていられたらよかった。安本先生に対する嫉妬も、大人びていく健吾への焦燥も、知らないままでいられたらよかった。

 ハル、と何度目かに呼んだ健吾が、ゆっくりと立ち上がった。椅子のキャスターがかすかに軋みをたて、健吾は私の顔を覗き込むようにしゃがみ込む。


「ありがとう、ハル。ハルのおかげで、ちゃんと保健室に来られて、消毒もしてもらえて、擦り傷も化膿せずに済んだ」


 再び血液が凝固し始めた膝をかばうように体勢を整えながらも、健吾は私に寄り添うようにそこにいた。


「ハルは俺の大事な親友だよ」


 健吾が拠り所を探すように、右手で私の頭を撫でた。定期的に整えているショートヘアがさらさらと揺れる。私も安本先生のように髪の毛を伸ばせば、何かが変わったのだろうか。


「だから、俺はハルの味方だ。ハルの話を聞くよ」


 いつも俺の話ばかりを聞いてもらっていたから、と言う健吾の手の感触を頭部に感じながら、私は健吾の少し変形している右手小指を思う。

 ピンセットを持っていないほうの左手で涙を拭い、大丈夫、と答えた。なぜか左手までも消毒の匂いを放っている。ゆっくりと立ち上がり、健吾を見下ろした。私を見上げる健吾の澄んだ瞳は、きっと疑ってもいない。私達が親友という形におさまっている事を。

 言ってしまおうか。先ほど触れられた頭の裏側で、唐突な言葉が沸き上がる。

 好きだと言ってしまえば、私の心に沈んだ黒い感情もいつかは消えてくれるだろうか。望みのないこの恋を終わらせる事ができるだろうか。

 健吾、と私が口をひらきかけた時、


「――ごめんなさい! 大丈夫だった!?」


 ドアが開いたのと同時に、焦りを見せたソプラノ調の声が割って入ってきた。本来保健室にいるはずの、養護教諭。大きめの白衣を着た安本先生が、健吾の姿を見るなり、駆け寄ってくる。


「ああ、もしかしたら球技大会で擦り傷作っちゃった?」


 ごめんなさいね、と何度も謝る安本先生は、試合中に転倒して後頭部を打った生徒を病院に連れて行っていたとの事だ。保健室の鍵をかけ忘れたのは、慌てて出ていったかららしい。そういった隙も、彼女の人気のひとつなのだろうか。

 目敏く健吾の膝の擦り傷に視線を向けた安本先生に、いえ、と健吾が言った。


「こいつが手当てをしてくれたんで、大丈夫です」


 ゆがんだ小指を持つ右手が、私のジャージの袖を掴んだ。震えている。無理もなかった。健吾が私の腕を掴んだまま保健室を出る。挨拶もそこそこに、保健室のドアを閉めた。

 来た時とは逆だった。手を引かれて歩く私は、健吾の背中を眺める。あの秋の日のように。

 健吾の大きな歩幅は安本先生への想いを断ち切ろうとする覚悟のように思えた。そのスピードの上を、私も一緒に歩いている。そうか、と生唾を飲み込む。親友でいられるという事。安本先生にも、一組の女子にも譲れないもの。

 開いた窓の向こうからは歓声が響いている。隔たれた世界の向こう側。この時間がずっと続けばいいのに、と思う。

 やがてチャイムが響き渡り、球技大会が終了した。午後には通常授業が行われる予定だ。


「ハル」


 少しだけ歩幅を緩めた健吾が、ゆっくりと振り向いた。


「午後の授業、さぼろっか」


 窓から差し込む夏の光が、健吾の日に焼けた頬を照らした。私のよく知る幼馴染の顔だった。

 うん、とうなずき、私は袖元にあった健吾の右手をそっと振りほどいた。一瞬、健吾は目を丸くしたけれど、そのまま何もなかったように微笑んで、私の横を歩く。昇降口の辺りでは、ざわざわと生徒達が戻ってきた声が響いていた。二人きりの時間はもう終わりだ。

 だけど、あと少し。あともう少しだけ。


「ハル、急ごう」


 普段は真面目に高校生活を送っている健吾の声が軽やかに響いた。それさえも、少しずつ密度の高くなる生徒達の気配にかき消されていく。それでもはっきりと見える確かな道筋。

 私達はいつまで同じ秘密を抱えていくだろう。だけど、私の秘密は私だけのものだ。たとえ健吾にもあげられない。私はきっと健吾にとっての唯一の親友だから。

 胸に秘密を抱え直しながら、右足を前に踏み出す。上履きとの摩擦によって、廊下の床がきゅっと音をたてた。



Fin.

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秘密をあげない 宮内ぱむ @pum-carriage

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