つまさきのせかい

ばけ

第1話


 世界はつま先の奥にある。


 どうしてなんて理由は知らない。

 そういうのをかしこい先生や博士とかが研究している、なんとか学、っていう専門の分野があるらしいけど、いつもテストで赤点すれすれの点数しか叩き出せない女子中学生の私には、なんか難しそうだなぁということしか分からない。高校生になったら少しくらい授業でやるんだろうか。


 けれどどんな仕組みで動いてるのかを理解できなくても私にスマホが使えるように、何で飛ぶのかを不思議に思ったままでも飛行機には乗れるように、みんな当たり前のようにを知っている。



 世界は、つま先の奥にあるんだ。




 制服を着て、忘れ物がないか確認して鞄を持つ。

 最後に大きな鏡で全身をチェックしながら前髪を少し直して、よし、とひとつ頷いた。そのくせ、鏡の向こうに映る私は何もよくなさそうな浮かない顔をしている。


 そんな自分を見なかったことにするようにふいと顔をそらし、部屋の中に置いてある自分用の靴箱から上履きを取り出した。

 私の通っている中学校の名前が書かれたそれを両足に履けば、登校準備は完璧だ。残念なことに。


「いってきまーす!」


 その場に立ったまま大きな声でそう言えば、部屋の外からお母さんの「いってらっしゃい」が返ってくる。

 はぁ、と小さくため息をついてから、私は上履きを履いた右足のつま先で、とんとんと床を叩いた。


 そうすれば、世界が変わる。


 周りを取り巻く風景がぐにゃりと歪んで、次の瞬間には、私は学校の昇降口に立っていた。

 自分の部屋とは違う、たくさんの人がいてがやがやとした空気が辺りに広がる。


「あ、おはよーう」


「おはよ」


 友達に挨拶しながら教室の前まで向かい、そこで止まりたがる足に気合いを入れて、一息で中へ踏み込んだ。


 いつもと変わらない平和な教室。

 見慣れたクラスメイトたちとも軽く挨拶を交わしながら窓際へと進み、自分の席まで来たところで、今度はいっそ止まりたくないと思う足を無理やり止めた。


 そして隣の席で、いつものように背筋を伸ばして座っている凜としたあの子をちらりと見て、口を開く。


「……おはよ」


「おはようございます」


 戻ってきた淡々とした返事が面白くないような、それでも無視はされなかったことにほっとしたような、ぐちゃぐちゃとした気持ちを持て余しながら私も自分の席についた。


 隣のあの子は、私の親友……の、はずだ。


 親友だ、と言い切るには私たちは一週間ほど前からぎくしゃくとした空気を漂わせていて、

 親友だった、と過去形にするには何一つ断ち切れていなかった。


 簡単に言ってしまえば、私たちは喧嘩中なのかもしれない。

 どうもあやふやな言い方になってしまうのは、私たちの間に喧嘩というほど大したことは何もなかったからだ。


 きっかけが何だったかは正直よく覚えていない。

 確か今となってはどうでもいいことで、少しだけ意見がすれ違ったのが始まりだった気がする。


 そのときは別に、本当に、喧嘩なんて呼べるような言い争いはなかったのだ。

 普通に会話を続けて、また明日ねって普通に別れた。


 でも家に帰ってお風呂に入りながら、あの時なんかちょっとイヤだったなぁって、じわじわとモヤモヤが広がって、けれど明日になればまたいつものようにおはようって言えるだろうと思ったのに。

 次の日おはようって言い合った私たちは、二人とも、ほんの少しだけぎこちなかった。


 そんな最初の小さな小さなひび割れが、一日、二日と経つごとに広がって、一週間も経てばご覧の通り。

 私たちは今までどうやって笑い合っていたのかも分からなくなってしまっていた。



 どちらかが謝らなければいけない、なんてことはないはずだ。

 さっき言ったように、きっかけなんて私たち自身もよく覚えていないのだから。誰が何に謝ればいいのかすら分からない。


 いっそあのとき思いきり喧嘩できていれば、どっちかが悪ければ、こんなことにはなっていなかったはずだ。

 今まで私たちの喧嘩はいつも、次の日にはごめんなさいで終わっていたのだから。


 喧嘩ならそうだった。

 だけど喧嘩ですらない、ごめんなさいが使えない変なぎくしゃくの直し方なんて私には分からない。きっと、あの子にも。


 ちっとも頭に入ってこない授業をぼんやりと聴きながら、じゃあこのままでいいの?と自分に問いかける。


 もしかしたら放っておいても、そのうち自然に前みたいに戻るのかもしれない。

 でも戻らなかったら。このままもう二度と、あの子と笑い合えなかったら。


 いいの?


「……よくない」


 ぽつりと零れた本音が、チャイムの音に紛れて消える。


 よくないよ。

 まったく、なんにも、よくなかった。



 ────だから私はあの子に、靴を贈る。



 靴は、履いてつま先で地面を叩けば基本的にみんなが同じ“その靴の世界”に行くけれど、たまに例外がある。

 たとえば自分で作った靴をだれかにプレゼントして、その靴を二人で分けて片足ずつ履く。

 それでつま先を叩くと、自分とその誰かしかいない“ふたりだけの世界”に行けるらしい。


 なんでなんて知らない。この世に靴というものが生まれたその日から、世界はそういうふうに出来ている。

 大人は、そうやって手作りの靴を贈ることで相手が大切で特別だという気持ちを伝えたりするんだと聞いたことがあった。


 私はまだ子供だけど、それでも伝えたい想いはある。

 ごめんなさいが言えないなら、それを押し流しちゃうくらいのとくべつをあの子に渡したかった。


 そう思って靴作りに取りかかってから、早数日。

 今日も今日とて放課後に空き教室を使ってひそかに作業を進めていた私は、どうにか形になった靴を目線の高さまで掲げて見つめながら、首をかしげた。


「でき……た? 出来てるのこれ? 本当に完成してる?」


 自分で自分に問いかけてしまう程度には、出来上がった靴は、なんというか、靴?っていう感じだった。

 まぁ一応靴の形にはなっていると思う。ぎりぎり。

 とはいえこんな出来では、とてもじゃないが特別を伝えることなんて出来ないだろう。


「作り直しかぁ」


 口をとがらせながら渋々一度分解しようとして、ふと思う。


 ふたりだけの世界とはどんなところなのだろう。

 私の作った靴からも、ちゃんと世界は繋がっているんだろうか。


 せっかく靴が出来上がっても中の世界がぐちゃぐちゃでは意味が無い。

 少し確認してみようか、と私は上履きを片方だけ脱いで、代わりに自作の靴もどきに足を入れた。


 そして、とんとん、とつま先を床に二回。

 周囲の風景がぐにゃっと歪んで、世界が変わる。


「わ」


 目の前に広がったのは、画用紙みたいな真っ白な空間に、クレヨンで塗りたくったみたいなのっぺりとした花々が咲き乱れるお花畑の世界。空にはぐるぐる模様の太陽が貼り付けられている。

 中学生だっていうのに、幼稚園のお遊戯会みたいなこれが私の作った“世界”かと思うとなんだか納得がいかないような、気恥ずかしいような、腹立たしいような、くしゃくしゃの気持ちになった。


「……私がこうだから、あの子とこんなふうになっちゃったのかなぁ」


 私がもっとかしこくて、ちゃんと立派な靴が作れて、素敵な世界が生み出せるひとだったなら。

 今日もあの子と笑えていたのだろうか。


 じわりと涙が浮かびかけた目尻を慌てて袖で押さえながら、もう戻ろう、と上履きのほうのつま先を持ち上げるために少し足の位置を変えた。その瞬間。


 すかっ、と地面に置いたはずの足がからぶった。


「……えっ」


 落ちる。

 世界の隙間に、落ちる。


 真っ白な画用紙の地面にはいつの間にか、それとも最初からあったのか、大きなひび割れが口を開けていた。

 そして私はそのまま、なにもないところに落っこちた。



 その場所は真っ黒にも、真っ白にも、透明にも、カラフルにも見えた。

 だけどなにもない。なにもないことだけがわかる。なのにぜんぶがある。

 自分の体が見える。見えない。よくわからない。

 感覚があるような。ないような。


 なにもかもがあって、なんにもない。

 ぐちゃぐちゃみたいで、おだやかみたい。


 ゆるゆるととけていく頭のなかで、ふとあの子のことが思いうかんだ。


「あのこの、わらってるとこ、もっかい、みたかったな」


 そしてできれば、そのとなりで私もいっしょに笑いたかった。

 ぼんやりと最後にそんなことを考えながら、目を閉じようと、した。


「────そんなもの! 見ればいいでしょ何回でも何百回でも!!」


 大きな声。そして強い力で腕を掴まれて、はっとする。

 声。腕。そうだ、体。私の体。わたし。


 そして、この声は。この腕は。

 あの子だ!


 あやふやになりかけていた世界が一気に引き戻される。


 ぱっと開いた目の向こうに、いつもの凜とした姿をどこかに落っことしてきたみたいな、必死な顔をしたあの子が見えた。


「えぇ、なんで」


「いいからこれ! 持って! 早く!!」


 普段めったに声を荒げないあの子がそう叫びながら私の手に何かを握らせる。


 靴紐だ。あの子のお気に入りの靴紐。

 どこかから伸びているその紐の端っこを私が持ったのを確認したあの子は、私の腕を掴んでいないほうの手で、腰の後ろから何かを取り出した。靴べらだ。これは学校のやつ。


 それを野球のバットみたいに持ったかと思うと、思いきり振りかぶって、


「せい!」


「いぃったぁ!!!!」


 私のお尻を打った。


 打たれた勢いで、私は野球のボールみたいにどこかへぐんぐん上がっていく。

 なにもなくてぜんぶある空間を突き抜けて、らくがきみたいな画用紙の花畑を通り越して、そして。


 気づけば私は、夕陽の差し込む学校の空き教室に転がっていた。


「え、え、えぇえ?」


 状況が理解できずに私が目を白黒させている間に、すぐ隣に誰かが降り立った気配がする。

 見上げれば、靴べらを片手に肩で息をするあの子が私をじろりと見下ろした。顔が怖い。


「あなた、あなたね、ほんと、ほんとあなた……」


「えっうん……いやえっと、ハイ……」


「ばっっっっっっかじゃないですか!!??」


 仁王立ちのあの子が、私の目の前にびしりと靴べらの先を突きつける。


「穴の開いた靴で世界を渡っちゃいけないなんて、幼稚園児でも知ってます!! 隙間に落ちたら自力じゃ戻ってこられないんですよ! それなのに靴べらも靴紐もなしに穴あき靴を使うなんて! 死にたいんですか!!」


 一言も口を挟む隙を私に与えないまま大きな声で怒っていたかと思うと、あの子はふと表情を歪めて口を閉ざす。

 それからまた何か言おうとして、やめて、もう一度同じことを繰り返したあと、今度はひどく小さな声で言った。


「わたしが、こんなふうだからですか。だからもう、イヤになっちゃったんですか。穴あき靴に飛び込みたくなるくらい」


 泣きそうな顔をして私を見下ろすあの子から、ぽつりぽつりと零される言葉に、目を見開く。


 あの子が悲しんでいる。じゃあいつまでもこんなバカみたいに寝転がっている場合じゃない。私は飛び起きた。

 そうして勢いよく立ち上がった私に驚くあの子の手を掴んで、声を上げる。


「穴あいてるの知らなかったの!!」


「……は、」


「ためしに入ったら中で足滑らせて落ちちゃって! ていうか靴! この靴、私が作ったやつで!!」


 いったん手を離して足下に転がっていた靴もどきの片方を拾い上げてぐいと突き出すと、あの子は思わずといったように受け取って、手の中のそれをまじまじと見下ろす。


「あげたくて! 私が作ったの! 特別だよって言いたくて!! ……へたくそで失敗しちゃったけど! もっときれいに出来たら渡すつもりで!!」


 まとまらない頭の中から、伝えたい言葉を手当たり次第に取り出してあの子にぶつけていく。


「また笑ってるとこ見たくて……いっしょに笑いたくてっ!!」


 ぐちゃぐちゃで、失敗しちゃって、へたくそな靴みたいな私の心を、そのまま丸ごと手渡した。


 するとあの子は少しの間ぽかんとした顔で私を見ていたかと思うと、ゆっくりと手の中の靴もどきを見下ろすように俯いて、黙り込んだ。

 その様子に、やっぱり笑ってもらえないのかと不安になりかけたところで、あの子はパッと顔を上げて私を見る。彼女の目尻は少しだけ赤くなっていた。


「さっき言ったでしょう。そんなのこれからいくらでも見ればいい。何回でも一緒に笑えばいいでしょう。──あなたと、私で」


 あの子は私が作った下手くそな靴を大事そうに胸に抱いたまま、そう言って、わらった。




「それにしても靴贈りって。あなた、これ結婚申し込む時とかにするやつですよ」


「えっそうなの」

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つまさきのせかい ばけ @bakeratta

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