もしもあの日に戻れたら

花宮守

もしもあの日に戻れたら

「先生?」

 澄んだ声に足が止まった。耳に残っているものよりは大人びた、だがあの頃のまま明るい……出会った頃の彼女の声だ。

弓月ゆづき先生でしょ? こっち向いてよ! うなじのとこの、その黒子。私が見間違えるわけないんだから!」

 前言撤回。全然大人になっていないな。振り向くと、手を叩いて「やっぱり!」とはしゃいでいる。女っていうのはこういう生き物なのか? 自分が振った男の顔がそんなに嬉しいか。もちろんそんな思いは表情に出さない。俺は大人だ。

「久し振りだな……長山ながやま

「……うん。五年ぶりだね」

 彼女の返事はワンテンポ遅れた。俺の言葉も、もたついた。この子を下の名前で呼ぶ権利が、今の俺にはない。長く伸ばしていた髪は、肩の上で揺れている。

「……」

「……」

 何を言っていいか分からないまま、見つめ合う。距離を縮めることさえできない。大体、有名観光地だからって、研修のついでの余った時間だ。人混みはごめんだと、あえてガイドブックにも載っていないマイナーな寺を選んで立ち寄ったってのに。こいつは昔から変わり者で、そういうところが今思えば俺とお似合いだったのかもしれない。言わずに終わった関係だけどな。

「旅行か? それとも何かの仕事で来たのか」

「うーん、独身最後の一人旅ってやつ」

 反射的にズキンと痛むなんて、俺の胸も大概図々しい。へへっと笑った顔は、「サプラーイズ!」と誕生日を祝ってくれた日のようにかわいくて……でもあの日とは決定的に違う。

 彼女が、遠い。

 ゴロゴロと響いているのは雷だろうか。くそ、傘を忘れた。というか天気予報ではそんなこと言ってなかったぞ。

「やだ、傘ないよ……」

 黒雲がサーっと広がり、頭上が一気に暗くなった。まずい。来る。

 ぽつ、と一滴目が眉間を直撃した瞬間、俺は長山の――桃香ももかの体をぐいっと引き寄せた。

「走るぞっ」

「うんっ」

 バラバラと音を立て、大粒の雨が俺たちを襲う。服の半分ほどが水滴で色が変わった時、何とか二人で雨を避けられる程度の庇の下へ飛び込んだ。

「はぁっ……大丈夫か」

「ん。あんまり濡れてない。先生が……慎二しんじさんが、守ってくれたから」

「う、うん」

 付き合っていた頃の呼び方をしても、誰にも聞こえるはずがない。そう思ったんだろう。この雨じゃあな。ごうごうと唸るように降っている。背中に腕が回ってきたのは、そのくらいくっついてないと濡れるからだ。落ち着かない。

「すごい。何にも見えない」

「ん? ああ。すごい雨だな。一歩先も見えない」

 クスッと桃香が笑った。胸がくすぐったい。

「それもだけど……私が言ったのはこういうことだよ」

 腕の中から意味を込めて見上げてくる。

 ――慎二さんといるとね、ほかに何にも見えないの。私の世界全部、慎二さんでいっぱいなの!

 ――お前な、進路が決まったからって勉強やめるんじゃないぞ。俺を言い訳にするな。

――もー。こういう時はさ、「俺もだよ、桃香」って言ってキスしてくれればいいのっ。

 俺もだよ。俺もだったよ。君が目の前にいると、君のことを考えると、それだけでいっぱいになった。世界は最初、虹色に、それから赤い色が強くなって、その赤がだんだん寂しそうになったんだ。それは俺のせいだった……。

「きゃっ」

「おいっ」

 身動きできないくらいきつく抱きしめあってて、よろけるっていうのは何なんだ。

 見ると、足元の石を踏んでバランスを崩したらしい。俺はその石を土砂降りの中へと蹴り飛ばした。

「ありがと」

「まったく、お前は危なっかしいな……」

「それは先生もでしょ……どーせ、朝の天気予報だけ見て、こんなの聞いてない!って今怒ってるんでしょ?」

「朝見れば十分だろ……」

「ふふっ。相変わらずだね。そういうとこ、ほんと……」

 好きだった、と吐息のように呟いた。こいつと別れてから二年後、勧められるままに見合い結婚した俺には、短くなった髪を撫でてやるぐらいしかできなかった。何度も痕をつけた白い首筋。

 ――あー、もうっ。ここから上は駄目って言ったのに。

 ――制服をきちんと着ればギリギリ見えない。

 今も思い出せる胸の形。恥じらう声。……雨、頼むからやんでくれ。非常にまずい状況だ。身じろぎすると、桃香が察したように背伸びをしてきた。俺は身を屈めた。大雨のカーテンに閉じ込められ、時が戻っていく。

 合わせた唇は、かすかに桃の香りがした。


「好き。先生のこと……」

 四月だった。長山桃香は成績優秀で、俺が受け持つのは三年目になる。腰まで届きそうな長い髪を、ポニーテールに結い上げているのがトレードマークだった。「あの子は何の心配もない」と、ほかの教師からも同級生からも評判だった。人間ていうのは案外見る目がないもんだなと、俺はあの三年間で思い知らされた。

 まず、高校に入ってから丸二年の間にこいつが足をくじくところに遭遇した回数、実に六回。一学期に一度の割合だ。出くわすのは俺が仕事を終えてからか、休みの日。ひと駅しか違わない所に住んでいたから、そのたびにおぶって家まで送った。その辺りには学校関係者は住んでいなくて、変に噂になることもなかった。

 別に俺の気を引こうとしたわけじゃない。それなら叱ったり、突き放したりもできただろう。ところがこいつの場合は気を抜いてる時の運動神経が壊滅的で、年中転んだ。

「学校では何で平気なんだ……。くそ、この前より重いんじゃないか?」

 三回目の時にいい加減何か言ってやりたくてぼやくと、肩に張り付いた顔が喋った。

「私だって分かんないよ。緊張してるのかなあ」

耳がくすぐったい。

「学校の外でも最低限の緊張感は必要なんじゃないのか、お前の場合」

「そうかもね」

 頼りなく笑うもんだから、それ以上は責められない。

 家はマンションの三階で、いつ行っても誰もいなかった。担任だから当然知ってるが、父親は官庁勤めでほとんど家に帰れない。母親は外科医で、病院のそばのアパートを借りているから、このマンションには滅多に帰ってこない。暮らし向きに不自由はないが、十代の少女の生活としては寂しすぎる。

「……これでよし、と。今夜はあまり動かすなよ。明日は無理するな」

「ここにいても一人だもん。学校行く」

「あのな……。まあ、若いせいもあって毎回治りは早いんだろうが……この前もその前も、治ってないのに無理に動いたんじゃないのか?」

 家で孤独を感じているよりはいいのか、こいつは散歩が好きで、あとは本屋によく行く。沈黙の音を聞き続けるよりは健全かもしれないが……はぁっ。

 こうなると根負けだ。立ち上がり、上着を脱いでエプロンをする羽目になる。

「また作ってくれるの?」

「その代わり、俺も一緒に食ってくぞ」

「やった! 先生のワイルドな料理、好き!」

「俺の授業も好きだと言ってくれ……」

 と、まあ、そんなわけだ。長山桃香は学年一、いや学校一危なっかしい。どうせ理解されないから誰にも言っていないが。

 そういう女子が、またもや俺の背におぶさっている。通算七回目だ。卒業までに十回いくんじゃないか。やれやれ、と見慣れた扉の前に着いた時、俺の全身の力を奪うような何とも言えない声で「好き」と言われた。安易に返事はできない。俺は教師だ。まだ若造だが、それなりに理想はある。未成年に手を出したら合意でも犯罪だ。

 黙ったままいつもの椅子まで運び、黙々と手当をした。俺の手は、こいつの足首の太さも、足の形も、すっかり覚えてしまった。

 処置を終え、すぐさま立ち上がった。視線が痛い。目のやり場に困って、馴染みになった冷蔵庫の扉を眺めた。

「好き」

 怒ったように、もう一度言った。

「ああ……聞こえてた」

 視線は冷蔵庫だ。

「何も言わないのは、私には興味がないから?」 

 声が震えてる。自慢じゃないが告白されたのは人生二度目で、前の時はどうしたのか全然覚えてない。子供すぎてパニックになって、とんでもない言葉で相手を傷つけたんだと思う。今は逆だった。好きって言ったよな? なら俺と付き合いたいってことだろ? うん、いいよ。手を出すのはお前の誕生日の六月一日が過ぎてからだけどな。そんな風に、言葉がどんどん浮かんでくる。言い方はもう少し丁寧にしないといけないんだろうが、あっさり頷きそうな自分を持て余していたんだ。

 俺の葛藤なんか知ったこっちゃないドジ娘(正直、そこがかわいいと思ってる!)は、くすんと鼻を鳴らした。はらはらと、涙が頬を伝う。唇を引き結び、肩を震わせている。独りの時間が長すぎたせいか、声を立てずに泣く癖があるようだ。――泣いても、誰も来てはくれないから。

 俺はまたしても根負けした。再びしゃがみ、膝の上で握りしめている拳に手を重ねた。

「あのな……いいか、よく聞けよ。明日から付き合おう。な?」

「今日じゃないの? どうして?」

「お前もぽろっと男に好きだなんて言っちまうぐらいなら、少しは男心を勉強しろ。何かあったら男を殴り飛ばすぐらいの覚悟を持て」

「……ん?」

 首を傾げる仕草が、かわいい……ええいっ! 気をしっかり持てよ慎二!

「だからっ。この状況でお前に手を出さない保証はないって言ってるんだっ」

「……あ」

 ぽっと染まった頬。こ、こいつ。二人きりで告白してきたくせに、食われるのは想像してなかったのか。俺が野獣なのか? いやでも高校生だぜ!?

「……とにかく。明日、な」

「うん。……今日はもう帰っちゃうの?」

「そうするべきなんだけどな。そんな顔するな。今日はまだ、何もしない。だから今日はお前も、好き勝手言って笑ってろ」

「……ん。ね、明日から、二人の時は名前呼んでもいい?」

「明日からだぞ。今日は禁止」

「はーい」

 丸め込まれたというか丸め込んだというか、そうやって交際が始まった。翌日は日曜で、まだ足が痛い桃香を愛車に乗せて、遅咲きの桜を見に行った。花見団子に幸せそうに笑う顔を見ていると、やはり間違っているんじゃないかと自問自答した。それなのに――車の中に飛び込んできた花びらを、スカートから拾い上げた桃香を見て、気付いたら唇を奪っていた。

 誓ってもいいが、十七歳の間はキスしかしてない。誕生日も家族は帰らないというから、初めて俺の家に誘った。二人でケーキを食べて、その日は帰さなかった。告白してきたのは向こうだから。十八になったから。交際しているなら普通の流れだから。言い訳が頭の中を駆け巡った。

「慎二さん……好き」

「……うん」

 言葉を返してやったことはなかった。


 桃香は、初めは週に一日、それから週に二日、三日と、俺の家で過ごす時間が増えていった。ショッピングや娯楽にしても、学校の連中がわざわざ足を伸ばす町ではないから、見咎められることはなかった。 

 三月。見事に花をつけた桜を学校で眺めながら、俺は卒業式を心待ちにしていた。教師と生徒という形から解放されれば、桃香は気が楽になり、もっと甘えてくるだろう。ここのところ何か考え込んでいるから、旅行もいいかもしれない。転びにくい靴を買ってやろう。

 その日がやってきて、何の疑問もなく夜を共に過ごすつもりでいた。いっそ俺の家に引っ越したらどうかと、そんな話もするつもりでいた。その方がいいだろう? 桃香には俺が必要なんだからな。


 卒業式の後、姿が見えない桃香にメッセージを送った。

 ――今、どこだ?

 ――桜のとこ。

 近隣の名物になっている桜の老木は、樹齢何百年レベルってやつだ。桃香はこの学校と名残を惜しんでいるんだろう。思い出を振り返る間くらいは付き合ってやってもいい。その後、家に連れていこう。……そう、思っていたのに。

 音もなく散り急ぐ花びらと共に、異世界へでも旅立とうとしているかのような佇まいで、彼女はそこにいた。俺を見ても駆け寄ってくるでもなく、静かに微笑んでいる。不意に、子供の頃に聞かされてゾクッとしたおとぎ話を思い出した。相手が鶴にしろ、ほかの鳥にしろ、あっと手を伸ばした時にはもう遅い。女は飛び立ち、男は取り残されている。あんなのはただのお話だ。なのに今、足が竦んでいる。

「先生」

 神託を告げるかのように、桃香の口が開いた。

「何だ」

「私のこと、好き?」

 即答、できなかった。してやるべきだった。いや、「べき」じゃないんだ。そうじゃなくて――。

「桃香、俺は……」

 学校では名前を呼ばない。そのルールを俺から破った。だがこれじゃ、黙ってた方がましだった。

「うん、わかった」

 ほら見ろ。あいつは早合点しちまったじゃないか。違うんだ、もう少し時間をくれ。俺はお前を――。

「今までありがと」

 最後通告だった。俺は呆けたように動けなかった。

「桃香……」

「バイバイ、先生!」

 最高の笑顔で、今までで一番明るい声で、光を撒き散らすようにして、俺の手の中から零れ落ちていってしまった。走り去る背中を、花びらが隠していった。

俺は長いこと立ち尽くしていた。もう取り戻せない。あいつは、俺から卒業してしまったんだ。

 

 雨が弱まってきた。このまま、離さずにいられるのなら。五年前に時間を戻して、卒業式よりもずっと前、こいつが告白してくれたところからやり直せるなら。結婚前ならまだ間に合う。俺の方は何とかする。一度肌を合わせればきっと元通りだ。そうじゃないか? なあ……。

 もう離さないという意志をこめ、強く抱きしめた時だった。雨が、やんだ。

「わぁ、綺麗!」

 急速に居場所をなくした雨雲に代わり、日の光が辺り一面をきらめかせている。それを見てはしゃぐ彼女は、あまりにも眩しい。引き換え、欲を向けた自分のことが、あまりにも汚いものに思えた。

――魔法の時間は終わったんだよ。

 自然に体を離した桃香の、二十三歳の顔がそう言っていた。

「ああ。綺麗だ」

 お前は本当に綺麗になったよ。


 寺の門まで、何も言わずに並んで歩いた。

「じゃあ、私、こっちだから」

「そうか」

 俺の宿とは反対方向だ。本当にもう、これきりなんだな。

 もしも、あの頃に戻れたら。君を俺の、俺だけのものにできたら。その答えは、永遠に聞くことはできない。

「バイバイ、先生。幸せになってね」

 まただ。また俺は、即時に言葉を返すことができなかった。桃香はくるっと背を向け、一歩一歩離れていく。

「……長山!」

 彼女は立ち止まった。振り返った。

「なーに?」

「俺も好きだったよ」

「……もし」

 瞬間、高校生の桃香が重なった。転んでばっかりで、俺がいないと独りぼっちで。

「もし五年前にそれを聞けてたら、先生と結婚してたのかな」

「俺みたいな最低な男は駄目だ。忘れろ」

「先生は……忘れる?」

「……俺は無理だ」

「そっか」

 ふーん、と彼女は空を見上げて表情をごまかした。

「じゃあ、忘れないで。ずっと。来世まで」

「ああ」

 初めて、ちゃんと返事をした。さよならの代わりだった。手を振って、今度こそ長山桃香は去っていった。長い歴史の中、数えきれないほどの恋を飲み込んだこの街に、俺を一人置いて。

「来世、か」

 その時には、少しはましな男になっているだろうか。


 ――数百年後――


「きゃっ」

「おっと。大丈夫か?」

「はい。あー、また靴……」

「合ってないんじゃないか? また転ぶといけないから見てやるよ。大体お前は……ん?」

 抱き止めた初対面の女性の足元に、当たり前のようにしゃがんだ俺は、自分の言葉に首を傾げた。見上げると、なかなか際どいところに俺の顔があるのに、彼女は怒るでもなくこっちを見つめていた。同じく首を傾げている。

 道路端での、どこにでもありそうな出会い。何とはない懐かしさを覚えて、俺たちは間もなく付き合うことになった。

「シンジ」

「んー?」

 同棲しているアパートで、俺が何度も作ってやった料理に挑戦中の彼女の横を通ると、何でもない調子で名前を呼ばれた。

「好き」

「俺も好きだよ」

 冷蔵庫からドリンクを出しながら、心を込めて伝える。

「即答だー」

 このやり取りが大好きなモモは、手を止めて照れている。

「焦げるぞ」

 チュッとほっぺたにキスをして、後ろから彼女を包み込む。腕に手を添えて、焦げ付きそうなところを先に片付けていく。モモはぽーっとして、動きが鈍くなっている。

「このままだと俺が作ったも同然になるなー。まあ三分の二くらいはな」

「えー! 駄目だよっ。ちゃんとやるから貸して。大体、料理の途中でキスなんかするからっ」

「するだろ、普通」

「は? しないでしょ、いちいち。ま、まあ私は嬉しいからいいんだけどね? シンジってさ、見た目に反してすっごく甘いよね」

 くっついて離れない俺を多少は邪魔そうにしながら、でも嬉しそうにモモは料理を続けた。

「モモがかわいいからだよ」

「フフ……甘えん坊なんだから。そのくせ溺愛型で。この料理だって、私に三十回以上作ってくれたよね」

「お前、時々変なこと言うけど今もだぞ。いいか、九の次は十だ。三十じゃない」

「そうだっけ?」

 顔を見合わせる。もちろんこれは、数の数え方について聞き返してるわけじゃない。モモは、火を止めて俺に体重を預けた。

「私たちって、前世で運命に引き裂かれた恋人同士だったりしてね」

「そりゃあロマンチックだ」

「気持ちがこもってないー」

「まあいいさ。もしそうだとしても、今こうやってそばにいる。好きだと思った時に、すぐ伝えられる」

「……キスしたいと思った時に、すぐできるし、ね?」

「そういうこと……」

 顔をこっちに向かせて、唇を重ねる。甘い桃の香りがした。

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