世界樹の娘

かなぶん

世界樹の娘

 初めてその姿を見た瞬間、森宮もりみや和音かずねは息を呑んだ。

 濡れ羽色の長い黒髪、切り揃えられた前髪の下には形の良い眉、真昼の水面を映して輝く黒い瞳と縁取る長い睫。淡い輪郭の肌は滑らかで、鼻筋は通っており、続く唇は柔らかく甘く色づいている。簡素なワンピースは、その簡素さゆえに彼女の神秘性を高める羽衣のようにすら思えた。

 腰かけた岩から伸ばされた足はすらりとしており、つま先を湖に沈めた姿は、一服の絵画そのもの。

 知らず感嘆の吐息が漏れれば、背後から「どうだろう」と声がかけられた。

 振り向かなくても分かる相手の声音は、尋ねるようでいて、肯定以外はないという、盲信と評せる程の底知れない力強さがあった。

 だが、目の前の光景に魅入られた和音には、これを笑う真似はできない。

 確かに頷く他ないと思ってしまったのだから。

 そうして和音が次に起こした行動は、後ろの男へ頷くことではなく、このことをいの一番に知らせなければならない相手への連絡だった。

 もうすぐ臨月を迎える妻への――。



(真美には悪いが、今回限りだ。新進気鋭だかなんだか知らんが、もうダメだ。もう無理だ。俺にはあの先生の担当は務まらない。荷が重すぎる)

 蝉も鳴きたくなくなるような暑い日。眩い世界が濃い影によって辛うじて輪郭を保っている、そんな夏の日に、和音は黙っても流れ続ける汗を拭きながら、瓦屋根と漆喰で造られた塀の横を歩いていた。

(クソ、なんなんだ、この嫌みったらしく長い塀は! 由緒正しい家柄にしたって、一人暮らしじゃ手入れもままならないだろうに、これだから金持ちは! もっと利便性を重視した家にしろ、いいや、いっそ引っ越せよ! ついでに通いやすいとこにしてくれ! 後任の担当が可哀想だろうが!)

 僻み半分、本音半分。

 用がある時だけとはいえ、約一年、通ってきた道にいつもの悪態をつく。

 新進気鋭の作家鎌口かまぐち可的かてき――

 弱小出版社に突如振って湧いた金のなる木。

 それはいいのだが、そこまでの相手なら、自分のようなようやく新人を脱せそうな頃合いの奴よりも、経験豊富な先輩以上の人が担当になる、そう思っていた和音。今ではすっかり可的ファンを名乗っている妻の真美が、「そんな人の担当になれたらすごいじゃない」と言っていたのにも笑って返すだけだった。

 それがどういう訳か自分に決まり、最初の方こそ会社に期待されていると感じ、少しの驕りと共に担当業務をこなしていった訳なのだが……。

 まあ、何もかもが鎌口可的と合わないこと、合わないこと。

 普段様々な家電製品に囲まれ、ラジオもテレビも通信機器も難なく使え、便利に活用してきた和音に対し、可的は生活に必要な最低限の白物家電しか持ち合わせておらず、ラジオもテレビも通信機器の類いには一切の興味を向けない。

 そのせいで原稿はデータではない、手書き一択。ならば郵送して貰えばいいのに「大事な原稿が途中で盗まれたら大変だ!」という上司の一声で、毎度毎度、ド田舎と言って良い可的の家まで取りに行かなければならない。

 しかもこの家、何を考えているのか、だだっ広いだけでは飽き足らず、最寄り駅から一番遠い方角に玄関を構えていた。お陰で和音は可的を訪ねる度、止せば良いのに狭いアパートの一室と無駄に広い豪邸に思いを馳せてしまう始末。

 後半については完全に和音の僻みでしかないが、ともかく、ここに来る度に気持ちが沈むのは事実である。

 何より、可的という人物もあまり親しくありたい相手ではなかった。

 和音と同じくらいの年齢のはずだが、少なく見積もっても十は上に見える容姿に、神経質そうなギョロリとした目玉、不健康まっしぐらにしか見えない隈。

 一言で表わせば陰気。それも、近寄るだけで移りそうなくらい、雰囲気が暗い。

 時折、あまりの暗さにやられて、さすがに失礼とは思いつつもお祓いなんかを受けてしまったこともあるぐらいだ。

 逆に約一年よく頑張ったと自分を褒めてやりたい。

(この一年、大変だったな……。根回しに次ぐ根回しで、どうにかこうにか担当を外して貰える算段もついて。本当に良かった。出産前に終わって、本当に)

 重苦しい門扉まで辿り着いたところで、感慨深く思う。

 振って湧いた担当を辞めたいとは常々考えてはいたが、本気で実行しようと思ったのは、真美のお腹に子どもがいると分かった時からだ。ついついお祓いに足を伸ばしたくなるような人物、純真無垢な赤子を迎える以上、いつまでも関わっていては百害あって一利なし。家族のためにも担当は外れるべきだと決心がついた。

 夫きっかけでファンになってしまった真美には、少なからず悪いと思いつつ。


 そうして最後の仕事として、原稿をいつも以上に丁重に受け取った和音だが、その瞬間、強い力で可的に腕を掴まれた。

 本能的に払い除けたい衝動を押し殺し、「ど、どうしましたか、先生?」と聞いたなら、見たこともない光を爛々と瞳に宿した可的が、とんでもないことを言う。

「娘を貰って欲しい」

 普段から喋らないせいだろうか、やはり年齢にそぐわない嗄れ声だったが、届いた言葉の意味に和音は狼狽えた。

 妻がいる自分に?

 いや、そもそも彼は一人暮らし。この一年で見かけたのも家政婦くらいで、娘どころか配偶者すらいる様子はなかった。

 一体、彼の言う娘とは……?

 止せば良いのに、今日で終わりという心がそうさせたのか、ついつい興味を持ってしまったなら、案内されたのは鎌口邸の敷地内にある湖。

 いつも同じ塀ばかり見ていた和音は反対側を知らず、明かされた面積に度肝を抜かれる間もなく、可的の言う娘を目撃することになった。

 そして――。



「母さん、桜が咲いたぞ」

 縁側に座った和音は長年連れ添った妻を呼ぶ。

「まあ、今年も綺麗に咲きましたね」

 春の陽光の下、小さく色づいた枝に目を投じていれば、隣に座る気配。

 見れば、いつもの笑顔がそこにあり、和音は内心でほっと息をつく。

(最近は調子がいいみたいだな)

 冬の間、しばらく床に臥せっていた妻は暖かくなるにつれて回復していたが、こうして陽の光の下にあっては、なおさら良いように思えた。

「あとどのくらいで満開になりますかねぇ?」

「さあな。このまま暖かい日が続けば、すぐかもしれん」

 そんな話をのんびりしていたなら、二人の間にお茶入りの湯のみが乗った盆が置かれた。おあつらえ向きに桜餅まで添えてある。

「ありがとう、いつき

 和音の言葉を聞き、遅れて気づいた妻が斎に向かって「ありがとう」と言う。

 これににっこり笑った少女は、和音たちが見ていた桜に目を細めた。

 娘のその姿に、和音はもちろんのこと、妻も思わず見蕩れてしまう。

 

 それはあの日――今は亡きこの屋敷の前の主人、鎌口可的から彼女を譲り受けた日から、変わらない一幕であった。



 ――あれは世界樹だったのかもしれない。

 そう鎌口可的の曾祖父は言ったという。

 ある日神隠しに遭った彼の曾祖父は、知らない赤子を抱いて戻ってきたそうだ。

 彼自身には直前まで赤子を抱いていた記憶はなかったらしく、代わりにとても大きな木が生えているところで、夜露を凌いでいたことだけを鮮明に憶えていた。

 通常であれば見知らぬ赤子、警察に届けそうなものだが、曾祖父始め、親族は誰も赤子を余所へ任せようとはせず、自分たちの家で育て始めた。

 異変に気づくのはそう掛からなかったという。

 丁度、同じ時期に生まれた一族の赤子がハイハイを覚え、立ち上がり、歩き始めても、赤子は同じ姿を保ったまま。文字を憶えるくらいでようやく目が開いたなら、惹きつけられる黒い瞳に誰もが人ならざるモノを見た。

 だが、誰も赤子を手放そうとはしなかった。

 成長の遅い赤子に戸惑いはしても、疎かにすることそれ自体に考えが浮かばなかったと言った方が正しいかも知れない。

 ゆっくりとゆっくりと。鎌口の一族の中で育つ赤子は、樹木を彷彿とさせる成長速度と曾祖父の言葉から、いつしか「世界樹の娘」と呼ばれるようになっていった。

 その関係に変化が起こったのは、早逝した親に代わり、可的が娘の親になった時。

 娘のことを「斎」と名付けた可的は、個として扱うような名を付けてしまったせいで、その瞬間から自分の気持ちに気づいてしまった、と懺悔するように和音へ告げた。可的が多感な時期、同じ年頃まで成長していた娘に知らず恋をしていたと。

 本来であれば、可的の親がそうであったように、娘の親になれるような家庭を築くべきだったが、生まれてしまった恋心は一途に娘だけを追い求めてしまい、結果、可的は心身共に病んでいったという。

 思いの丈を解消する方法として作成した原稿が、何の皮肉か、世間で認められてしまったことも、可的の病状に拍車を掛けていく。

 誰もが認める作品なのに、誰よりも自分自身が認めてはならない想い。

 その中にあっても親の役割を忘れなかった可的は、最愛の「斎」のために次の家族を見つける必要があった。

 なるべく若い既婚者――娘の成長にも長く付き合える、それでいて自分のように娘へ懸想する可能性が低い存在。

 担当が付くにあたり、可的が望んだ条件を満たせる者は、当時和音しかおらず。

 そうして和音と真美が斎の次の家族と決まったなら、初めて見る明るい顔でほっとしたように笑った可的は、娘との暮らし方を屋敷共々伝授すると、それから程なく、萎れるようにこの世を去った。



 くぅ……と音が鳴った。

 妻の真美と皺の顔を見合わせ、揃ってそちらを見れば、斎が恥ずかしそうにお腹を押さえている。

「私たちのことはいいから、食べてきなさい」

 真美の言葉にはにかみながらコクッと頷いた斎は、そそくさと奥へ向かった。

 追わずとも分かるその先には、湖がある。

 人と同じ容姿でありながら、口からモノを食べず、水も飲まない斎は、植物が根から栄養を得るように、つま先を水面につけて食事を摂る。

 初めて和音がその姿を目にした時のように。

「名残惜しい、と思ってくれているのかもしれないわね」

「分からないが、そうかもな。斎はあまり負の感情を表に出さないが、彼が亡くなった時も、しばらくはぼんやりしているようだったから」

「そうね」

 この桜が満開になる前に、和音たちも代替わりを迎える。

 斎を迎えた後に生まれた息子の孫夫婦が、この屋敷を継ぐことになっていた。

 外界から隔絶された、ゆえに、娘が清らかに成長していくための屋敷を。

 反面、斎と暮らしてきた和音は思うのだ。

 もしかしたら斎は――「世界樹の娘」は、そうしてこちらが守らずとも、同じように育つのではないかと。誰の悪意に遭うことも、脅かされることもなく。彼女を一目見た誰もが、決して彼女を傷つけず、その考えに至ることもなかったように。

 ――願わくば、これからも穏やかな日々が続くことを。

 口当たりの良いお茶を啜りながら、別れを語るに似つかわしくない春に祈る。

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世界樹の娘 かなぶん @kana_bunbun

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