もう一度、光の中に
「ここかな?」
小さな紙に書かれた住所と、スマホの地図アプリを照らし合わせながら、私はようやく足を止めた。
ここは、都会から少し離れた場所。町外れと言うのが正しいのだろうか。周りには大きな総合病院くらいしかない。
目の前に佇むのは、一軒家。
表式には『谷原』と書かれていた。
谷原は、蒼の苗字でもある。つまり、ここは蒼の家だということだろう。
でもわざわざ、どうして自宅の住所なんて渡したのだろう。
あの日、待ち合わせに来なかった理由。それがここにはあると蒼は言っていた。けれど、本当にあるのだろうか。
それでも、ここまで足を運んだんだ。ケジメをつけるためにも大事なこと。
そう私はインターホンを押した。
「はーい。どなたですか?」
「えっと、水野静奈です。谷原蒼さんに、ここに来るように言われて来ました」
インターホンの向こう側から聞こえた間延び声は、女性のものだった。
蒼のお母さんだったりするのだろうか。
少し緊張して、私は肩からかけていたカバンをギュッと握った。
「……蒼から?」
そんなことを考えていると、驚きの混じった声が響く。
「はい」
息子が女を連れてくるなんて、とでも思っているのだろうか。
僅かな沈黙が訪れたあと、ゆっくりと玄関の扉が開いた。
玄関から出てきたのは髪を一つに束ねて、柔らかい瞳をした女の人だった。
漂う雰囲気が蒼と似ている。その女性と視線が交わって、私は小さく会釈をした。
「いらっしゃい、静奈ちゃん。蒼の母です」
「突然ごめんなさい」
「いいえ。どうぞ、上がって」
「はい、ありがとうございます」
お母さんは突然訪れた私にも、嫌な顔一つもしなかった。
その優しい声に身を委ねて、私は家の中に足を踏み入れた。大きな蒼の家の中は光に包まれていて、寂しい冬の季節だとは思えない。
すぐ傍らで猫が日向ぼっこをしていそうな暖かさがそこにはあった。
「こちらです」
案内してくれるお母さんの後ろを付いて歩く。
パタパタとスリッパを這う音だけが響く家。
けれどその時、私はある一つのことに気がついてしまった。こんなにも家の中は光に満ちているのに、誰もいないかのように静かなのだ。
「あの、蒼さんって、今いらっしゃらないんでしょうか?」
小さくお母さんの背中に投げかける。
もし蒼がいないのであれば、私はこの空気に耐えられない。お母さんだって息子の元カノと、話すのは気が引けるだろう。
「蒼は……」
その時だった。
リビングの向こう側から、光が反射してある写真が浮かび上がる。
「……え?」
ここが人の家だということも忘れて、声を上げる。
その写真の中で、柔らかい笑みを溜めているのは間違いなく蒼だった。
あの時のまま。
昨日のまま。
そんな蒼を写した写真は、仏壇の上に置かれていた。
「蒼は、もう亡くなりました」
すぅと体から力が抜けていく。
力が入っていた手のひらなんてどこにもない。小さな紙切れが入ったカバンが床に落ちていく。
そんな中で、蒼と過ごした日々が走馬灯のように蘇ってきた。
なんで?
どうして?
昨日、私と会ったじゃない。
どうして、そこで笑っているの?
「こちら、どうぞ。熱いから気をつけて」
案内されたリビングの机。
湯気がゆらゆらと浮かぶ温かいココアが、目の前に差し出された。
「ありがとう、ございます」
指先が冷たい。
それに、震えている。
そんな指先を温めるように、私はマグカップを握った。ココアの入ったマグカップからは淡く、甘い匂いがした。
「蒼に会いに来てくれてありがとうね。きっと、蒼も喜んでいると思いますよ。あの子、静奈ちゃんのこと、本当に大好きだったから」
「……」
その言葉に私は何も言えなかった。
悲しいのか、ただ唖然としてるだけなのか。こんなにも心臓をかき乱している感情が分からない。
青いインクに白が混じったように、どうしても鮮明にならない。
ただ浮かび続けているのは、昨日の蒼の笑顔と涙だった。
まだ信じられなかった。
だって私は昨日、確かに蒼と会ったんだ。
そしてあの小さな紙切れをもらった。
マフラーを巻いてくれた。
けれど、ここはどこまで行っても現実だった。マグカップに添えた指先が熱を帯びていく。
「蒼、さんは、昨日、亡くなったんですか?」
声が震える。
けれど、その答えはもうどこかで知っていた。
でも信じたくなかった。
あんなに蒼に焦がれていた時間も、憤っていた時間も、流した涙でさえも泡となって消えていってしまうような気がしたから。
「──蒼が亡くなったのは、九年前です。もうすぐで、十年になります。寒い冬の朝でした」
「っ」
思わず口元を抑える。
やっぱり、そうだったんだ。
散らばっていた点と点が繋がって、緩やかな線となってゆく。
昨日会った蒼は、あまりにも変わっていなかった。
蒼が付けていたマフラーだって、私がいつかの放課後にプレゼントしたものだったから。
まるで十年前の蒼が会いに来てくれたように。
マグカップの輪郭が揺らいで、涙が私の瞳を囲った。
「どうして、亡くなったのですか? 私の前ではすごく元気で。元気付けられるのは、いつも私だったから」
大人なんだから、泣かないでよ。
蒼と付き合っていたのはもう十年も前の話だ。それなのに、あの時輝いていた思い出が重くのしかかる。
拳をギュッと握って、爪を食い込ませても、世界はどんどん輪郭を失っていく。
「……そうですね。きっと静奈ちゃんの前では格好よくありたかったんでしょうね。いつも私に静奈ちゃんの話をしていたから」
お母さんが遠くの記憶を辿るように、目を細めた。
「蒼は、病気だったんです。生まれつきの難病で──」
お母さんの口から溢れ出た記憶はとても残酷で、聞いているだけで苦しかった。
蒼は生まれつきの持病を抱えていて、余命宣告を通告されていたこと。
小さい頃からあまり学校に行けなかったこと。
けれど、高校生になってから学校によく行くようになったこと。
私に病気を隠そうと必死だったこと。
けれどそれでも耐えきれなくなって、倒れてしまったこと。
先が長くないって言われてしまったこと。
大きい総合病院で最期を過ごすために引っ越したこと。
そしてある雪の積もる銀世界で、静かに命を落としたこと。
そんな蒼の様子なんて少しも思い浮かばない。きっとどこかでへらへらと、のらりくらり笑っているんだと、そう思っていた。
「……そう、だったんですね」
手を強く握る。
自分が憎くて、憎くて仕方がない。
どうして大好きだった人の変化の一つも気づけなかったのだろう。私が気がつけていれば、違う未来だってあったかもしれないのに。
全力で受け止めて、今度は私が蒼の涙を拭って。
私だって恩返しがしたかった。ずっと一緒にいるつもりだったし、どんなことがあったって乗り越えていくつもりだった。
でもそれは、出来なかった。
大好きだった人の死さえ知らずに、堕落した日々を送っていたのは私だ。
悔しさや、悲しさ、憎さ、無力さ。
その全部が涙となって、拳に染みを落とす。
「静奈ちゃんは何も悪くないよ。泣かないで。これは蒼が選んだのよ」
「でも、気づいてあげられなかった、んです。あんなに近くにいたのに」
大きくて、少しだけしわくちゃな手のひらが、私の手のひらを覆う。
ココアのマグカップよりも温かい。
けれど今はその温もりが苦しかった。
「でも、今日来てくれたじゃない。それだけでも十分嬉しいわ」
「……」
優しい声が降りかかる。
確かに、ここに来た。
けれど、それは蒼に行ってみて、と言われたから。
来てくれなかった理由を見つけて、無力に過ぎ去った日々を正当化するため。
もし蒼に会わなければ、私はきっと来年も再来年も、その先もずっとあのままだった。
その時、ふと全身に鳥肌が立った。
「っ!」
そうだ。
煌びやかだったあの並木道が。冷たい風が吹く中で肩を寄せ合った昨日のことが。まるで映画のエンドロールのように頭の中に流れ込む。
私は昨日、蒼に会った。
本来ならば、姿を見ることすらできない人と。ましてや、言葉を交わすなんて。
ああ、そうなんだ。
規則で言えない。十分だけの時間。神様に怒られる。
昨日の蒼は意味が分からない言葉を羅列していた。
けれど、もしもそれが、私に会うためのことなのだとしたら。
いつまでも蒼が忘れられない私を、救いに来てくれたのだとしたら。
「……つっ」
幸せになって、と呟いた蒼の横顔が鮮明に浮かび上がる。
イルミネーションの電球に照らされて、潤んだ瞳がより一層輝きを伴っていた蒼。確かにその瞳孔は大きかった。
「ありがとう。蒼のために泣いてくれて」
「い、いえ。こちらこそ、蒼さんには、たくさんお世話になりました」
そしてお母さんは私の涙が枯れるまで、私の背中を撫で続けてくれていた。
その温もりが蒼の腕の中と重なって、大人とは思えないほどに泣き腫らした。
その時だけは、私も十年前の高校生だった。
そんな風に蒼の前で泣き腫らす私を見て、蒼は困ったように小さく笑っていた。そんな気がする。
きっと、蒼のことだから最後まで言うつもりなんてなかったんでしょうね。
でもそれでもずっと、足踏みしたままの私を救い出してくれた。真っ黒で光のない世界から、ゆらゆらと光で満ちた世界へ。
あの日会いに来てくれたから、ようやく前に進むことができた。
神様にお願いするという、そんな非現実的なことも蒼なら涼しい顔でやってしまうんでしょうね。
もしも神様がいるのなら、会わせてくれてありがとう。そう言ってください。
そして、ありがとう。
私も大好きでした。
そんな思いを秘めてから、また一年。
季節が移ろって、一つ歳も重ねてしまった。
そして、またこの日がやってきたんだ。
今日はクリスマス。
町中が、たくさんの色と光と音に包まれて輝く日。
私はいつものクリスマスマーケットで、人を待っていた。
けれど、今年は一人じゃない。
首には赤いマフラーが巻いてある。そのマフラーに顔を埋めていると、懐かしい匂いと、クリスマスマーケットの甘い匂いが混じっていく。
心地の良いその香りを嗅ぎながら、私は職場の後輩である向坂くんを待っていた。
クリスマスディナーのお誘いを断ったあの日から、もう一年も経つらしい。
悴んだ手のひらに白い吐息を被せる。
その時だった。
「お待たせしました。静奈さん」
その溌剌な声に振り返ると。思い切り腕を回して、嬉しそうに笑顔を浮かべている向坂くんがいた。
いい大人にもなってそんなに走ってくるなんて。
けれど、どこか愛おしい。
「大丈夫。そんなに待っていないから」
小さく手を挙げた私の指先が、向坂くんの温もりで溶けていく。どんなに寒い日だって、この温もりたちがあれば、もう一度光の中に溶け込んでいけそうな気がした。
もう一度、光の中に 早坂 椛 @hayasaka_tsuzuri
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