もう一度、光の中に

早坂 椛

10年越しの君

寒い。

悴む指先を吐く息で温めても、指先は赤く染まっていく。

目の前に広がるのは、綺麗で、煌びやかな世界。街全体が色づいていて、その美しさを求めに人々がやってくる。

そう、今日はクリスマス。

年に一度の大イベント。白く染まる息でさえも美しく、光の中に溶けていく、そんな日。

けれどそんな世界に私はいなかった。

薄暗く電球が点灯する木の下で、立ち尽くしている。

辺りを見渡せば手を繋いだカップルや、笑顔を浮かべ合う人が無数にいるのに。

ベルや鐘の音、包まれながら、目の前に佇むクリスマスツリーを眺めているのに。

今年も私の周りは静かだった。

当たり前か、一人なんだから。

もう慣れきってしまった、クリぼっちというやつだ。


「ははっ、惨めだな、私」


ポツリとつぶやいた自嘲の言葉でさえも、喧騒に溶けていく。

この中で一人でベンチに座る私は、本当に惨めだろう

せっかく向坂こうざかくんにディナーを誘ってもらったのに、それも断ってしまった。

どうしてだろう。

こんなところで一人いたって、何にもならないのに。

あの人が来るわけでもない。

けれどこの季節に染まると、どうしても、十年前のことを思い出してしまう。

一人でクリスマスツリーの下に待っていたあの日のことを。

服装だって、メイクだって、慣れない髪型だって不器用な手で頑張ったことを

色んなインフルエンサーのSNSを見て研究したのに、あの人は来なかった。

来たのは、一週間が過ぎた日に送られた『別れよう、ごめん』という短いメッセージだけ。

何度も忘れようとした。

あの声も、匂いも忘れられれば、楽になれると思った。

けれど一向に忘れられなかった。

今でも恋愛感情を抱いているかどうかは、分からない。

それでも、誰から告白されても、誰と夜を過ごしても、一番に浮かぶのはあの人だけ。


「終わりにしないと、いけないのに」


どうして、終われないの。

その言葉は、言葉になることもできず喉の奥に封じられた。

けれどいつまでもこのままじゃいられない。

忘れられない男がいたって、時間の流れは止まってくれない。私に合わせてはくれない。

そう、ようやく私は重たい腰を持ち上げた。

最後にクリスマスツリーを一目見て、踵を翻す。

その時だった。

一人の男性とすれ違う。

途端に、クリスマスマーケット特有の甘い香りの中に、懐かしい匂いが混じった。甘いけれど、石鹸のように爽やかで、自然で、落ち着く匂い。

十年前に大好きだった、匂い。


「……あお?」


反射的にその名前が口から溢れ出す。

その響きでさえ、胸が締め付けられるように痛い。


「蒼!」


もう一度その名前を呼んで、私はすれ違った男性の腕を掴んだ。その細い腕と、より一層溢れる匂いに、心臓が暴れだす。


「……静奈せいなちゃん」


ああ、やっぱり。

その顔を見た瞬間、抱えていた感情が全て溢れ出した。会いたくて会いたくて堪らなくて、十年間も独りを拗らせている、一番の原因。

私を見て、戸惑ったように眉を寄せて笑う君。

全く変わらないその姿に、あの頃の感情、その記憶の全てが溢れ出す。


「やっぱり、蒼だったんだ。どうして? どうして、ここにいるの?」


並木道には冷たい風がゆるりと流れているのに、私の中は燃えるように熱い。

またどこかに行かないように、その腕を掴んだまま、言葉を紡ぐ。


「どこか、座ろうか」

「……」


小さく笑うと、蒼は横にあったベンチに腰掛けた。

そうやって余裕そうに微笑むところも変わっていない。

どうしてあなたはそんなに平気そうな顔をしているの?

どうしてあの日、約束を破ったの?

どうして別れようって言ったきり、私の前から姿を消したの?

この十年間、どこにいたの?

もしも会えたら聞こうと思っていたこと。たくさんあったはずなのに、いざその存在を前にすると、言葉が出ない。

ただ十年間ずっと焦がれた存在を前に、私は固まってしまう。


「そんな見つめないでよ。静奈ちゃん」

「だって」


困ったように、恥ずかしそうに蒼は私を向く。

けれど、まだ状況を整理しきれない私は、そうする以外方法がなかった。ふわふわと彷徨っているような、夢のなかにいるみたいだ。


「変わらないね、静奈ちゃんは」


先に言葉を発したのは、蒼の方だった。

いつまで経っても口を割らない私を見て、静かに呟く。首に巻いた赤いマフラーに身を捩りながら、何でもないように。


「そんなことない」

「ううん。あの時のままの静奈ちゃんだよ。俺が好きだった、静奈ちゃん」


その一言で、私の中に抱えていた何かが溢れ出すような気がした。


「変わってないなんて、嘘。私は変わったよ。蒼が来てくれなくて、急に別れを告げられたあの日から。ずっと行き場のない気持ちだけがここにあるの。大好きなクリスマスだって全然楽しめない。私は変わっちゃったんだよ。変わってないのは、蒼だよ! 好きだった、なんて言わないでよっ。どうしてあの日、来なかったの?」


ああ、こんなつもりじゃなかった。

こんな風に子供のように感情を荒ぶりたかったわけじゃない。

でも、いつまでもあの時のように余裕な君が、気に入らなかった。

どんなに季節が巡ったって、歳を重ねたって、見える景色が移ろったって、私の心には君がいた。煩わしいくらいに、消えてはくれなかった。

いつもいつも君は、私をかき乱す。


「──ごめん。あの日、行かなくて」

「本当だよっ。急に別れようなんて言われて、家だって引っ越して、私の前からいなくなって。どんなに悲しかったか、知ってる? どんなに泣いたか知ってる?」

「うん。……傷つけてごめん」

「どうして、ごめんの一言しか言わないの?」


また涙腺が緩んで、世界がぼやけだす。

話す声だって、震えていた。

並木道に取り付けられた電球たちが、幾重にも重なって見えた。

けれどやっぱり君は私の方を向かない。いつだって私が君だけを見てて。それが悔しくて、悲しくて、仕方がない。

私だけが君に囚われている。


「許して貰えないのは分かってる。本当に、ごめん」

「……」

「でも俺は、静奈ちゃんを守りたかったんだ。泣かせたくなかった。そして幸せになって欲しかった。でも俺は、また泣かせてしまったんだね」

「……」


君の声も震えている。

その様子を見て、これ以上問い詰めることができなかった。

だって君は強い人だったから。

どんな時でも余裕があって、冷静で、怒るのはいつも私ばかりで。

嫉妬するのだって、愛が重いのだって全部、私。

だから一方通行に怒ったことは数えきれない。

高校の帰り道だって、何度君を困らせたことか。それでも君は、私を温かい腕で包み込んで、安心させてくれた。

好きだよって、一番欲しい言葉をくれた。

そんな君だったから、涙なんて見たことがない。

でも今、隣に座る君の頬には涙が流れている。

形のいいその瞳から涙が流れているのを見るのは、初めてだった。


「──何か、事情があったの?」


もしかしたら、私に言えないような事情があったのかもしれない。

ふとそう思った。

それに蒼は、無闇に私を傷つける人には、どうしても思えなかった。

あんなに抱いていた怒りも苦しさも、蒼を前にすると水に溶けるように薄れていく。

何だか悔しかった。


「静奈ちゃんには言いたくなかったことが、あったんだ」

「……そう」

「ごめんね。静奈ちゃんに心配かけたくなくて。ほら、静奈ちゃん、すぐ泣くから」

「──うるさい。自分だって泣いてるくせに」

「ははっ、言うね」


揶揄うように、蒼は小さく笑う。

そうやって笑うときに目元がくしゃってなるところも、変わっていない。まるで十年前にタイムスリップしたみたいだ。

でも。


「それじゃ納得できないよ。急にいなくなって、急に現れて。そうやって、散々私を振り回してきたの」


我ながら可愛くないな、と思う。

それなのに、君の前ではまた我儘になってしまう。


「それは……俺の口からは言えないんだ。ご法度。約束を破っちゃうから。また何も言えないままで、ごめんね。でも、本当は俺だって行きたかったよ。クリスマスマーケットに行くの、楽しみにしてたんだ。それだけは知っていて欲しい。ちゃんと好きだった」


その代わりに、とでも言うように、君の手のひらが私の手のひらに重なる。

冬の空気に染まったその手は、とても冷たかった。

でも、それだけでは首を縦に振ることは出来なかった。


「どういうこと? 言えないって」

「それが規則なんだ。静奈ちゃんに会えるための。だから俺の口からは言えない。だから知りたかったら、ここに行ってみてくれないかな? 答えがある」


そう言うと、着ていたジャンパーのポケットから小さな紙切れを取り出した。それを、私に手渡す。

さっきからずっと、蒼の言っていることが理解できない。

でもそう話す君の横顔は、見たことがないくらい苦しそうで。

私は何も言えなくなってしまった。

ずっと十年間言えなかったことが言えたんだ。それだけでもいいのかもしれない。

そして私は渡された紙切れをしっかりと握った。


「うん。じゃあ、もう時間だ」

「え? もう行っちゃうの?」


ゆっくりと君が立ち上がる。右側に感じていた温もりが薄れていった。ゆるりと冷たい風が吹き抜ける。


「──十年だから、十分。それが俺に与えられた時間だからさ。破ったら神様に怒られるからね」

「ん? なんて?」

「ううん。なんでもないよ」


黒く染まり切らない夜を眺めながら、その瞳に柔らかい弧を描いた。

よく聞き取れなかったけれど、大好きだったその横顔を見ていると、出るはずだった言葉も静かに消えていく。

そう私が頷くと、蒼がマフラーをゆっくりと外す。

この赤いマフラーだって、私がプレゼントしたんだっけ。ドキドキ胸を弾ませながら、お店に入った記憶が蘇る。

ずっと付けていてくれてたんだ。

その事実が分かっただけで、この十年間の澱みが透き通っていくような気がした。蒼も私を忘れないでいてくれてたと知れたのだから。

私だけが蒼に囚われていたわけじゃなかった。

そしてその赤いマフラーを私に被せる。途端に淡く甘い、石鹸のような香りと、僅かな温もりが私を覆った。


「え?」

「寒そうだから。付けていって」

「大丈夫だよ」

「いいから」


返そうとしてマフラーに掛けた手が、静かに抑えられる。

そしてあの頃と全く変わらない笑顔が降り注いだ。

私を愛おしそうに見つめてくれる、あの瞳。余裕のあるその眼差しで、優しく私を包み込んでくれる、大好きだったその笑顔。

そんな笑顔を見ていると自然とマフラーから手が離れていく。すると蒼は満足そうに微笑んだ。


「じゃあね、静奈ちゃん。また会えて嬉しかった」

「──ん」

「こんなこと言ったら怒っちゃうかもだけど……。俺のことなんか、忘れて。ちゃんと、幸せになってね」


ポンと、頭の上に手が置かれる。

相変わらず冷たいままだったけれど、何だか心地が良かった。

でも、まるで、最後の挨拶みたい。

どうしてそんなに苦しそうに笑っているの?

聞きたいけれど、聞けなかった。

でも、あの日から十年越しにまた会えたんだ。いつかまた会える。私も先に進まないといけない気がした。


「うん。蒼も」

「じゃあね、静奈ちゃん」


私を呼ぶ柔らかい声が散っていく。

君はベンチに座ったままの私を見て、踵を返した。どこか夢見心地のまま、その背中をずっと眺めていた。

ようやく会えたのに、どこか釈然としない。

どうして泣いていたのか、苦しそうに笑っていたのか、どうしてあの日、来なかったのか、それは結局分からないまま。

幸せになって、の一言を残して去ってしまった。

一人になったベンチで、私はそっと小さな紙切れを開く。

そこに書かれていたのは何処かの住所だった。

どうせ、このあとも暇なんだ。

ひとりぼっちの部屋で、一人寂しく年末年始を過ごすだけ。それならいっそ、この場所に行ってしまおうか。

また君に会った時に、幸せだと、君がいなくても大丈夫だったって言えるように。このままだと次もまた、蒼に笑われてしまいそうだから。

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