第8話 蜷川課長

 蜷川課長は、地獄の一課の叩き上げらしい。

 優秀社員賞も取ったことがあって、営業成績も良好。資格取得とかもしてるし、人事評価も連続で最高のA評価だから早期に管理職に上がっている。

 人事考課は上司が評価するけど、蜷川課長はこの柴松課長がA評価を認めた相手だって、……だからあんなに最初厳しかったんだって、思い知ることになった。


「一崎! お前は」


 噂で聞いていた通り、柴松課長は叱責が一度で数分続いた。

 蜷川課長みたいにチクチク嫌味を三十秒だけ言われた方がマシな気がしてくるくらい、長く怒鳴られた。

 おかしいと思ったことに意見したらさらに一時間以上かけて叱られて、泣き出したって普通のことらしく全く手を緩めずに日頃の行いを細かく怒られた。暇なんですかなんて言えるわけもない。


 昔、新入社員の心を一度粉微塵に折って砕いてから、会社に従う人材に育て直す企業もあったそうな。

 慣習を丸々受け継いでる気がする柴松課長に叱られ、怒鳴られ、本当は代打だったはずの二課の山本課長があまりの様子に庇おうとしても「お前らは甘い」と課長ごと叱られた。申し訳ない。

 営業は追い立てられるように外出させられ、電話番で泣いてる暇もない。

 帰ってきた三井くんが気づいて寄り添ってくれたけど、その頃には山積みになった書類を前にして、仕事マシンになるしかなかった。見張りの柴松課長に咎められたくないから、机の下に隠れてくれても前だけ向くしか出来ない。仕事人間矯正ギプスに逆らえない。


「一崎さん、山本課長から聞いてきたんだけど、気にしないで。三課が変に目の敵にされてるだけだから。柴松課長は普段関わりないし、辛いのは今だけだよ」


「おい三井、帰ってきたならまず報告を出せ、無駄に喋ってる時間がお前にあるのか!」


 蜷川課長のやり方がずっとご不満だったらしい柴松課長が繰り広げる地獄の一日は長く、見たこともない時間に仕事が終わった。

 営業が必死になって動いて帰ってきた分の書類仕事が増えたからかもしれないけど、ミス出来ない恐怖からの悪循環もあって柴松課長がずっと怒ってた気がする。耳痛い。

 帰ってようやく晩ご飯。

 寝る支度が全部終わったら日付も変わってて、楽しみにしてた大型アプデもログイン出来ないまま終わった。


 ……起きてなんとか会社に行けば、また今日も柴松課長に怒鳴られる。

 パワハラって規制されてるはずなのに、仕事の指導のために抑揚をつけてるから声がでかいだけらしい。会社はよほど柴松課長が大事なのかもしれない。


「一崎!!」


 今日は気をつけてるはずなのに書類に不備が見つかって「柴松課長にもチェックお願いしたはずです」って言ったのが悪かった。

 普段の生活態度から何から問い詰められて叱られて、心が砕けるような時間が多分二時間くらい続いて、終わった頃には退職のマニュアルを眺めてた。

 何を見てるのか見つかった方が怖いから印刷してすぐカバンに入れたけど、また別の書類で呼び出されてネチネチ言われて、もう辞めようって心に決めた。……最初から蜷川課長とも色々あったし、私にはこの仕事向かなかったんだって、最近少しだけ楽しくなり始めた仕事も嫌いになった。


 就業時刻の間、柴松課長の怒鳴り声はいつまでも続く。

 今日は夜九時に終われた。

 コンビニに晩御飯を買いに寄って、初めてお酒も買ってみた。ガラスカップの日本酒飲んでる大人、昔の映像でよく見たなって思い出す。

 飲まないとやってられない気分で水みたいに飲んで、持ち帰った退職マニュアルに目を通して……気づいたら泣きながら意識が飛んでた。寝不足もあったんだろうけど、アルコール怖い。


 そんな、夜十一時のことだった。

 ピンポーン、って、チャイムが鳴って起きた。


 えっ、こわっ。


 宅配業者が来る時間じゃない。

 いやありえないこともないけど、私最近、頼んでない。

 マンションは女性向けでセキュリティがしっかりしてるから、こっそり通報ボタンに指をかけながら来た人を見た。

 彼氏連れ込んでる人もいるから、別の部屋と間違えたのかもしれない。部屋番号押し直すのなら無視しよう。


 ……映ってるのは、男の人だった。

 マスクは一応口元にあるけど、顔を写すのに下げてるメガネの上司。コンビニの袋も提げてる。

 なかなか出ないから流石に遅い時間だし帰ろうって思ったのか、携帯端末いじってるのを見てたらメッセージが届いた。


『アプデ終わったのに、ミツハログインしてこないよーってみんな心配してました。

 もし良かったら少しだけ会えませんか』


 いつも一緒に遊ぶサークルメンツがすぐに思い浮かんで、心配してくれる気持ちが何より嬉しくて、気づいたら泣いてた。

 いつもより少しだけかしこまった文面の人が帰らず待ってるから、共有玄関のロックを開けた。多分ピピピ、カシャッて音がしてるはず。

 応答せずに開いたから驚いてるみたいだけど、恐る恐る玄関を開けて、ダンジョン攻略みたいに入ったのまで見えた。

 オフ申請で部屋番号知ってるから上がって来られる課長は置いておいて、とにかく化粧崩れがひどい顔だけ洗う。

 戻った頃には部屋の呼び鈴が押されたから開けると、マスク付け直した蜷川課長を睨みつけた。


「自分はログインしたんですか。風邪って嘘ついてズル休みですか」


「いや、ようやく体調良くなって。明日から復帰予定だし、そろそろ遊ぼうかなーってインしただけ。決してズル休みではないよ」


「おかげでひどい目に遭ってるんです。風邪引いた課長のせいですからね。体調管理くらい、ちゃんとしてください」


「あー、やっぱり……山本さんにお願いしてたんだけど、しばっち来ちゃった?」


 そんな可愛い子犬を連想するあだ名じゃない。柴松課長は闘犬の血が入ったブルドッグの方が何もかも近いんだ。

 立ち話も近隣にご迷惑な時間だし、私も話したいことがあるから、とにかく中に入ってもらった。

 テーブルにはお酒のカップと食べっぱなしのコンビニ飯が見えたからすぐに掴んで、机の前に立ってる課長に座ってくださいってお願いして、片付けながら冷蔵庫を開ける。


「課長が嫌われてるから三課は柴松課長に怒られるんですか? 営業もみんなひどい目にあってて、タバコタイム増えて。体育会系の赤澤さんまでグロッキーで口から煙こぼしてましたよ」


「残念ながら、俺は好かれてる。柴松課長は仕事に誰より熱心だから、三課は新卒もいるし成長促したくて一課の流儀をかましておこうと思ったんじゃないかな。全員転勤させるわけにもいかないからね。

 ……一崎も随分怒られた?」


 怒られたなんてもんじゃない、って文句を言おうとしたら、広げっぱなしのA4用紙を見てるからお茶を置いて、退職マニュアルだったのに気づく。

 しれっと取り除いて、カバンに入れた。はい、ここには何もありませんでした。


「お酒飲んで泣きながら退職マニュアル眺めてた跡が」


「違います」


 事実だけど。

 私も座ると、課長がコンビニの袋からプリンを出した。二つある。


「一緒に甘いものでも食べながら、愚痴聞かせて。……俺も休みの日には会社の電話もメッセージも飛んでこないようにされてるから、状況把握出来てないんだ。ゲーム内の方がよければシートは持ってきたから、ログインする?」


「……プリンいただきます」


 新エリアを楽しんでるみんなに水を差したくないし、甘いものを口にすると少しは気分が楽になる。

 カップに入ったプリンをすくって、口にした。……甘くて、すぐにとろけて、美味しい。私にはお酒よりも、よっぽど気晴らしに合ってる気がした。

 顔を上げると、マスクにメガネの課長がおとなしく待ってる。


「風邪ひいて寝込んじゃったせいで迷惑かけたけど、一崎に何があったか聞いてもいい?」


 いつも嫌いな上司が、優しく愚痴を促してくる。

 蜷川課長だって、新卒に冷たくして、性格悪いくせに。私が会社辞めても仕方ないって思ってたくせに。

 なのにまたボロボロ泣きながら、社員としての甘さを柴松課長にこっぴどく言われた話をした。

 ひどい二日間だった。毎日ずっと一緒にいた。

 蜷川課長は甘くてぬるいんだって。

 現代にそぐわないパワハラ上司に「蜷川は何を教えてる」とか「躾がなってない」とか言われて、お前こそだよって思った話をした。

 地獄の一課出身の男がとにかく愚痴を聞いて、わんわん泣いたら近くにあったティッシュを差し出してくれたからゴミ山が出来るくらい泣いた。


「……もう、会社辞めようと思ってて。行くの辛いし。嫌になって」


「俺も明日には復帰する。柴松課長は一崎に関わらないよう対応掛けるから、退職マニュアルは捨てよう。

 最近一崎も仕事に身が入ってきたし、ちゃんと成長見せてる。営業もみんな頼りにしてる」


「だって、元から蜷川課長が嫌いで。辞めようって思ってて」


「今も俺が嫌い?」


 今も。

 問いかけに……答えが出てこなくて口を閉じた。

 蜷川課長は関係改善のために、最近は考えてくれてる。

 指導もいつも通り細かいけど、言葉が少し柔らかくなった気がするし、ネチネチ柴松課長と比べたら雲泥の差だったって分かった。

 プリンはすっかり空になって、二個目までやけ食いさせてもらったけど、それでも気長に話を聞いてくれた。


「……今は、そこまでじゃないですけど」


「じゃあ辞めなくていい。明日はいつも通りの営業課だから、一崎も普通に出ておいで」


「止めるとか、地獄の一課に放り込んでやろうかって思ってた人のいうことじゃないです」


「今となっては後悔してる。……上司への口答えが許されない環境で育ったから、俺も頭が硬かった」


「今日とか二時間ずっと怒られたんですよ。ただのパワハラです」


「一週間くらい怒られてる社員もいたな……あれもパワハラじゃなく職務上の指導扱いで異動が決まった」


 一週間。

 ……私はたった二日なのに、地獄を味わった。想像しただけでゾッとした。

 でも蜷川課長にとっては当たり前なんだって、平然とお茶を口にする姿で分かる。


「関わらないようにって、出来るんですか」


「一崎から退職の相談があったって、部長経由で言えば出来る。柴松課長も一崎に絡むメリットがないから今後は近づいてこない。

 そもそも俺の代わりは山本さんにお願いしてたし、今回はイレギュラー。二度目はないよ」


 落ち着いて状況を説明してくれるのを聞いていると、単純なもので『もう明日会社行きたくない』から『……まあ課長、明日帰ってくるなら良いか』に切り替わる。

 マスク姿の上司は持ってきてた11Gシートパックを出したけど、SHOT D RAIN仕様で売られてたやつだった。学生時代の私には手が出せなかったやつだ。いいな。


「だからいつも通り会社行って、いつも通り帰ってゲームしよう。

 俺も協力するから一緒に新エリア回って楽しもう。な、ミツハ。エリミアの新シナリオ神ストーリーだってリーダーが泣いてた。俺はダンジョン優先なんで、先に見てきて」


 まだ見ぬ新エリア。今日も結局ログイン出来ずだ。攻略情報すら見てないから、楽しみにしてる。

 ミツハって呼んでるくらいだから私も、目の前の背が高くて顔はいいけどメガネとマスクで完全防備の『タツキ』相手に膨れた。


「でもタツキはログインしたんでしょ。私アプデすら終わってないのに。裏切り者」


「えー、俺もほとんど中見てないって。ログインしたら『ミツハが一度も来てない』って安否確認されて、これは会社で何かあったなって察したから来るの待ってたけど、来ないからリアルで突撃にきたし。

 今日もほぼ下準備で、みんなが楽しそうなの横目にしてただけ。久しぶりの有給休暇なのに辛い」


「夜の十一時に凸ってくると思ってなかったから、最初不審者かと思った」


「俺も非常識なのは自覚してる。でも遅くてもいいから直接声かけようって思ってさ。……減らず口叩けるくらい元気出たみたいだし、来てよかった」


 涙は止まったし、やる気も何もかもがポッキリ折れて砕けてた気がしたけど、ちょっと持ち直した。

『タツキ』こと蜷川課長のマスクの下は、まだ少し鼻声だ。

 なのに放置しておいても明日には会えたかもしれない部下を心配して、声掛けしようとわざわざ来てくれたんだって思うと優しい気がする。


「あ。……まさか好感度稼ぎに来た?」


「好感度?」


「だって。狙ってる部下が落ち込んでるの知ってて、慰めて得られるのは好感度でしょ。三井くんよりポイント稼ごうとした説が濃厚なんだけど」


「は!? それ本当だったら下心すごすぎない?

 うっわ、そうなるとしばっち降臨すら味方追い込む策略かーそこまで腐ってないわー」


 面白そうに笑ってる課長を見て、現実なのにタツキが困ってるみたいで、私もつい笑ってしまう。


「ごめん、冗談。ちゃんと山本課長が『俺が代打頼まれてるのにごめんな』って言ってた。だから柴松課長が全面的に悪い。分かってる」


「いくら嫌われてても、好きな子泣かせてまで好感度上げようとは思いませーん。子供じゃないんだから」


 好きな子。

 その言葉にタツキが『一崎蓮花も気になってる』って言ってくれたのを思い出して、なんとなく恥ずかしくなって壁掛け時計に目をやった。

 夜中の二時に好意を持ってる男性と二人きり。普通はアウトだ。

 課長も自分の言動に気づいたらしく、慌てて制止をかけている。


「今度は語弊を生みそうだけど、やましい気持ちは全くないから」


 ないんだ。

 ……つまり本当にただ心配してきてくれたってことだ。

 割り切ってゲーム楽しめばいいのに、部下はログイン出来ないくらいの何かがあったはずだって、プリン持ってわざわざ会いに来てくれた。

 夜遅いって分かってるし……話せるとも限らなかったのに。


 自分の首に手を当てて恥ずかしそうな課長が居住まいを正したから、私も慌てて同じくした。


「ということで元気も出たみたいだし、そろそろお暇させていただきます。

 どう、明日は来られそう?」


「大丈夫、元気出たから行くよ。

 ……その、タツキ、来てくれてありがとう。課長としても心配してもらえて嬉しかったです」


「部下のケアも俺の仕事。でもこんな遅くまでごめん。時間ないけどゆっくり休んで」


 立ち上がった課長をマンションの下までお見送りに出ようとすると、夜中なこともあって玄関までで止められて、マスク姿の上司は静かに帰って行った。

 いつもの出勤だったら、課長こそほぼ徹夜なんじゃって気付く。病み上がりなのに。


 ……でもおかげで、明日は会社に行こうかなって気分になれた。

 何もしたくないブルーな気持ちも吹き飛んだから、言われた通りゆっくり休もうと、お風呂に入ってぐっすり寝た。


 起きたら十時だった。


「……十時?」


 会社の始業時刻は八時半。

 大遅刻に飛び上がって叫んだのは言うまでもない。

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