まどろみの中で
渚音
第1話
微睡の中でそっと躯を起こして、ふと隣にいるひとの顔を覗いた。
昨日のことは私が描いた都合のいい夢ではなくて、現実だったんだな…と静かに寝息を立てる彼の顔を見ながら考えた。
「信頼」とは何かのきっかけで急に0だったものが1になる、というものではなく、少しずつ少しずつ積み重ねていくものなのだと昨日知ったばかりだった。
ずっと不安だったことを打ち明けた。思っていたよりもすんなりと彼はそれを溶かしてくれて、これからも不安になることや嫌なことはたくさんあるだろうけどこの人ならなんとかなるだろう、という直感に前よりも確信が持てた。
21歳になった日だった。2年前、好きだった人と話していて21歳になったらこんなに大人になれるのかなと思ったことを思い出す。
自分がなってみるとどうということはなかった。私は私のままで、変わったことといえば少しだけ友達が増えたことと、勉強で知識が増えたことくらいだった。
だけど少しだけ怖がりになった。経験を重ねたら、その分挑戦するのが怖くなるのは年を重ねることの必然なのかもしれない。
愛おしさが止まらなくて、普段は撫でない彼の髪にそっと手を伸ばす。思っていたより彼のそれは細く柔らかく、心が震えた。
忙しい人だ。それなのに昨日私のためにたくさん準備してくれたことを思うと、きっと知らないところで相当無理をしてきたに違いない。
彼は繊細な性格だった。しかもその繊細さを本人が嫌い、周囲に隠して普段は明るく振る舞っているというたちの悪い人間だった。
ほんとうは明るくない人間の明るく振る舞っている姿ほど見ていて辛くなるものはない。でもそんなことを彼に打ち明けたら、自分の暗さが隠し通せていないことにショックを受けてしまうから絶対に言えないけど…むしろ私はあなたのその暗さと繊細さが好きなのに。
でも私にだけたまに、ふと勉強が辛いとか自分が嫌いとか溢してくれるようになった。
この人はたった1人で、誰にも自分の内面を明かさずどれたけの辛さを抱えているのだろう…と思うと胸が苦しくなった。
眠っている彼はいつもよりずっと頼りなくて繊細で、なんだかまるで普段私にすら見せない彼の弱さを見せられたような気さえした。
ふと自分が泣いていることに気がついた。
普段泣くことがあっても悔しい時だけなのに、これほどまでに人を好きになって、かつ失恋したわけではないのに泣いたことがあっただろうか。
希望とはなにかが足りない時に抱くもので、絶望とは満たされている時に抱くものだ、と、どこかの小説で読んだことを思い出す。
“ずっと一緒にいられたらいいのに。”
前から思っていた、ぼんやりしたなにかが私の中で輪郭をもった。
「ずっと一緒にいられますように」という言葉が浮かぶほどには長い時間を過ごしていなかった。
いや、もしかしたら彼の中ではそのつもりなのかもしれない。でもお互い将来の約束ができる年ではないし、お互いにお互いのことを信頼に値する人だと確信できるだけの時間はまだ過ごしていない。少なくとも私にとっては。
この切なさを独りで抱えないで、ねえずっと一緒にいてくれる?と今すぐ彼を起こして尋ねることができたらどんなに楽だろうと思った。
でもそんなことは尋ねても仕方のないことだった。もし彼がここでうんって言ったり、抱きしめたりしてくれたとしてもそれで私のこの大きな絶望がなくなるわけじゃないからだ。いくら私が若くても、「ずっと一緒にいようね」なんて、そんな薄っぺらくて空虚な約束を信じられるほどは子供じゃなかった。
喪うのが怖いから大切なものを手に入れたくなかったのに、どうして手に入れてしまったのだろうと告白を受けた自分を恨んだ。喪うのが怖いと思うほど想える人がいるなんて幸せじゃないか、と大人は言うけど全く無責任な意見だ。他人事だと思って。
それを持たない時よりも、守るものがあってそれを無くしたら怖いと思う方が余程臆病になってしまうのに。私にとってははまだ、その幸せより喪う怖さの方が大きいのに。
でも未来がどうなっても、今の気持ちと時間を忘れないだろう。そしてきっとそれはもし私がひとりになっても、他の誰かと過ごしてもきっと私の人生を支えてくれるものになるだろう、ということがなんとなく判った。
そうか。だからそれだけで十分なのだ。
どっちみち未来のことなんて誰もわからない。もしかしたら私自身がふと別れたいと思うの時が来るかもしれないし…それにもし彼を喪ったとしても、もうあの時みたいに私は純粋でも傷つきやすくもなくなった。喪う痛みを知ったし、その時に自分が傷つきすぎないように気持ちにブレーキをかけてしまうくらいには私はもう大人になってしまったのだ。
今この瞬間幸せだからそれでいいって、そうやって自分を納得させていくしかないのだろう。少しずつ信頼を積み重ねていくのと同じように。
そしてそうやって知らなかった気持ちを知ることができているだけで彼と付き合ってよかったし、だからどういう未来を迎えようと無駄な経験ではない。
喪うのが怖いと思うほど想える人がいるなんて幸せじゃないかという大人の意見は間違っていないのかもしれない。たとえ本当に喪ったとしても、その時の気持ちは無くなるわけじゃないし、きっとその記憶がふとした時に私の人生を支えてくれるはずだ。
わたしはまたひとつ大人になったような気がした。
遠くから新聞を配達するバイクの音が聞こえる。
私は髪からそっと手を離した。さっきよりもほんの少しだけ彼に近づいて目を閉じる。
未来はどうなるかわからなくても、せめて明日は一緒に迎えられるように。
まどろみの中で 渚音 @nagine_28
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