コバルトブルーの20立方センチメートル

セオリンゴ

ポアント。フランス語で先端を意味し、バレエ用語でトゥシューズのこと。

  12月30日の夕暮れ、今年も巴茜ともえあかねと一ノ瀬渡いちのせわたるは冷凍庫から医療用ラップに包まれた物体を取り出した。

 一ノ瀬のマンションは環状7号線に面し、彼が住む9階までトラックの騒音が這い上がる。茜は痩身に墨色のコートを纏い、渡は白髪をきれいに撫でつけて喪服を着ていた。2人共に70歳前にして背筋がピンと伸びている。

 渡は冷凍の物体に「やあ、美鹿みか」と言った。茜はそれを盆に乗せ、机に安置した。

「あなた、完全にイカレてる。美鹿のつま先はポアントの内側で乾燥した血と骨だけよ」

「共犯者の君に言われたくないね。ご覧よ、コバルトブルーに染めたら趣が違う。側面の滑らかさが強調されて神々しいよ」

「共犯て言わないで、一ノ瀬くん。妹の供養が先よ。シャンパンをグラスに注いでちょうだい。定年後勤務の外科医に重労働させたいの?」

「美鹿のポアントの切断面を整えてくれたのは、茜、君じゃないか」

 茜の眉間の皺が深くなる。

「昔のことよ。一ノ瀬くんは大学の非常勤講師を辞めたの? 芸能ライター稼業はどうなの」

「今年の夏に上梓した舞踊史本はそこそこ売れてる。読んでないだろ?」

 渡はシャンパンの栓を抜きながら、喋りまくった。

「美鹿が45年前の今日、品川の大正ホールで事故死した。水守バレエ団の年末公演『ジゼル』の本番直前、巴美鹿は落下した照明器具の下敷きになって。照明が16個もついたサスバトンが落ちて、美鹿は後頭部を打って即死。君は客席でビデオ録画していたね。違うか?」

シャンパンの栓は茜のすぐ脇を飛んだ。渡はなおも喋る。

「僕は何事かと舞台に行ったら、君は客席から舞台に這い上がってたね。美鹿の足元にうずくまっていた。君は照明器具ですっぱり切断された妹の左足のポアントの先を、破片になったつま先を拾いあげた。拾った理由はどうでもいいんだ。僕はそれが欲しかった。だから2人だけの秘密にしたんじゃないか」

 茜は注がれたシャンパンを一口飲んだ。

「どうかしてたんだわ。たった20立方センチメートルのポアントの先が目の前に転がっていた。美鹿は助けようがなかった。私はまだ半人前の医学生だったもの。ただ、あの破片を見て、ああ、あの子のつま先だって思ったのよ。

 それをあなたは奪った。僕が元に戻しておくなんて言って、アイシング用の保冷バッグに入れて持って帰った。どうかしてるのはあなたの方だったのよ」

「いや、君もどうかしてる。神聖なつま先を綺麗に保存しようと手を貸してくれた。さすが外科医は違うね」

 渡もグラスを傾けた。

「美鹿は僕が死ぬまでずっと一緒だ」

「馬鹿みたい。美鹿はあなたを『物足りないプリンス』って見下していたのに」

「承知してるよ。僕だけじゃない、彼女は誰に対してもそうだった。高慢ちきで強気で常に舞台を独り占めして当然のエゴイストさ。だからこそ唯一無二の踊りが出来たんだ。

 僕は忘れない、忘れようがない。美鹿の最後のパートナーで、彼女のつま先の持ち主だからね。茜、それは君が最もよく知る僕だろ?」

「さすがプリンス渡、そのきざったらしさは美鹿と最後に踊った貴族の坊ちゃんアルブレヒトそのものよ。舞台を離れて舞踊研究家になってもプリンスよ、70歳の王子さま」

「君は姉だから美鹿のつま先が特別と分からない。燦然と輝くポアント(トゥシューズ)のつま先が空間を華麗に切取り、床を刺し、観る者の魂を鷲掴みにする。彼女はこの上なく強烈なプリマだった。

 獰猛な白鳥オデット、嫣然な黒鳥オディールオーロラの閃光、過剰なまでに愛くるしい村娘スワニルダ、高貴なる女王ライモンダ、コケティッシュな灰被姫シンデレラ、アルブレヒトの恋人ジゼル

「ふふん、あの子は何を踊っても自分中心だった。プリンスの存在が霞むほどの踊りりに意味がある? 舞台は美鹿一人のものではないと、最期まで分からなかった。だから舞台に復讐されたんだわ。舞台で殺されたのよ。いくら古いホールだからってサスバトンが落ちる? 美鹿を殺した奴がいるのよ」

「それこそ馬鹿らしい」

 茜はシャンパングラスを取り、美鹿のグラスに当てた。乾いた音がした。

「私、撮影したビデオをDVDに移して何回も見た、美鹿の踊り以外の部分をね」

「何が言いたいんだ」

「例えば一ノ瀬渡はいつも美鹿に見下されて頭にきてた。勝手知ったるホールの舞台袖で作業スタッフの恰好してサスバトンの昇降ロープに細工しようと思えば」

 渡は溜息をついた。

「バレエ団の皆を巻き込むような賭けはしない。だいいち、昇降ロープ操作域はスタッフ以外立入禁止で施錠してるし、美鹿が死んで僕に何の得があるんだ」

「彼女が欧州のバレエ団に移籍するの、知ってたでしょ? 行くのが許せなかったのよね」

「君こそ高校生で脚を傷めてバレエを止めたら妹が急成長を遂げてプリマになった! 嫉妬しない方がおかしいね」

「じゃあ、あなたの美鹿への独占欲と私の嫉妬が他の誰かに利用されたのかしら」

「茜、DVDで何を見たんだ」

 日が落ちた環状7号線の騒音はいっそう激しくなっていた。

「普通、舞台の仕込みはゲネの前に終わってる。でも、あの日は違っていた。ゲネが終って袖幕位置の変更があった。だから、しばらくの間、昇降ロープ操作域は施錠されてなかった。危険だからゲネの後、30分は舞台に入らないようアナウンスしてたわ。覚えてない?」

「分からないな、45年前のそんな細かいこと」

「ビデオはしっかり音を拾っていたわ。舞台監督が団員を集めて注意してるのが映ってた」

「その中に美鹿はいたのか」

「それが『ジゼル』でしょ? 32人も同じ白い衣装つけてちゃ分からないわよ。それに美鹿のことだから、うまく騙されて1人で舞台にいたのかも。あの子、踊りのことになると現実がうわの空だから」

「仮に美鹿が舞台に1人でいたとして、昇降ロープを引くのはかなりコツと力が要るんだ。少なくとも女じゃ無理だ」

「単独犯でなけりゃ共犯者がいたのかもね。美鹿はスタッフに挨拶しないプリマで有名だったし」

「スタッフは舞台を支えこそするが、舞台で人を殺したりしないよ」

「じゃ、やっぱりあなたが美鹿を手元に置きたくて?」

「そう言って欲しいのかい。僕は美鹿と踊り続けたかった。物足りないプリンスでもいつか追い付けると誓った。誓ったのに彼女は鼻で笑った。でも、茜、君の妹を殺すほどの度胸はない。僕はスタッフジャンパーを持ってないからな!」

「嘘つき! あなたはバレエ団のロゴ入りジャンパーを着てたけど、その下にスタッフジャンパーを着込んでいた。袖口が二重になって、スタッフのマークが見えてた。私、不思議だったのよね、なぜスタッフマークがあなたの手首にあったのか」

「茜、僕は……」

「状況証拠しかないのよね。疑わしきは罰せず! 代わりにこうするわ!」

 茜は言うなり、凍えたつま先を掴んで、ベランダに走った。

「ええい!」

彼女は渾身の力で干からびたつま先を投げた。放物線を描き、環状7号の片側2車線の上に落ちていく。

「うわぁ!何てことするんだあああ!」

渡の叫び声は掻き消された。ダンプトラックの一群が通り過ぎ、彼の秘匿物は粉々に散った。

「茜ぇ! 君は!」

「これがあなたへの罰、そしてあなたに協力した私のけじめ。美鹿もこれで成仏したと思うわ。馬鹿よね、私たち。この歳まで青春の澱を引きずって。

 もういいのよ。一ノ瀬くん。あなた、もう一冊本を書きなさいよ。何かに追い付きたいのでしょ?」

「君はこのことを墓場まで持っていくのか?」

 茜は軽くうなずき、右肩に手をやった。

「湿布薬ある? 上腕の外側を傷めたわ。ウォーミングアップはして来たけど、外科医は全力でモノを投げたりしないのよ」

そう言って外科医は初めて微笑みを見せた。

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