知らない夫が口説いてくる話

hibana

知らない夫が口説いてくる話

 聞いた話によると。

 私は有給休暇を使って雪国のペンションに泊まりに行き、深夜二時にそのペンションが吹雪で倒壊し、巻き込まれた私は病院に運ばれて、それから三日間眠っていたらしい。ファッキン欠陥住宅、許すまじ。


 あくまで聞いた話になる。私は目覚めた時点で直近の自分が何をしていたかよく覚えていなかった。ペンション? 行ったっけなあ、そんなところ……という感じだ。


「まあ、でもよかったわね。あんた、検査しても何の異常もないのに目が覚めないもんだから心配したわよ」と病室で母が言った。「ほんとになあ。せっかくの旅行先が物理的に崩壊するなんてお前もツイてないな」と父はしみじみ嘆いてくれた。

「この分なら明日にでも退院していいって。仕事の方は先生が診断書かいてくれて、三か月は休みにしてくれるって言うから、ゆっくり休んだら?」

「うーん……まあ、今の時期はそんなに忙しくないからいっか」


 目覚めた瞬間から元気な私は、別に明日からでも仕事に復帰できるような気がしたが、お言葉に甘えることにした。というか正直『ラッキー』という気持ちもあった。

 突然降って湧いた三か月の休暇を思ってちょっとワクワクしていたところ、突然病室のドアが開いた。


真勿まなかちゃん!? 目が覚めたんだって!?」


 男の人だ。腕をギプスで固定し、頭に包帯を巻いて、点滴を引きずっている。突然現れたその男性に、父と母はまったくうろたえることなく、「あらハルヨリさん、体は大丈夫なの?」「真勿ならさっき起きたところだよ」と答えている。

 誰だろう。たまたま同じ病院に入院している親戚だろうか。自慢じゃないが私は人の顔を覚えるのが苦手だ。年に数回会うレベルの親戚なら、絶対に顔を覚えられない自信がある。

 男性の後ろから走ってきた看護師さんが「こらーっ、ダメでしょ走っちゃ!」と怒っていた。男性はそんな看護師さんを振り切り、私のところまで歩いてきて、じっと目を見てきた。


「よ、よかった……」


 気が抜けたようにその場にへたり込む。

 看護師さんが「ほら、言わんこっちゃない。車椅子と血圧計持ってきてー!」とどこかに叫んだ。

「歩けますよ……」

「青い顔して何言ってるんですか。今度勝手に走り出したらベッドに縛り付けますからね」

 見かねた母が「看護師さんの言うこと聞きなさいね、ハルヨリさん。あなたの方が重傷だったんだから」と男性の肩をたたく。男性はそれっきり、気分が悪くなったのかだんまりで、看護師さんに連れていかれてしまった。


 私は恥を忍んで「今の誰だっけ?」と言ってみる。母はそれを軽口のたぐいだと思ったらしく、「ねー、イメージ変わっちゃったわよねー。あの髪型似合ってたのに、坊主にされちゃったみたい」と肩をすくめた。そういうことではなかったのだが、これ以上言うと『いい加減にしなさいよ、あんたは人に興味がないからそうやって顔を覚えられないのよ』とか言われそうだったのでやめた。


 次の日は一日精密検査をして、やはり異常なしということで私の退院は翌日に決まった。三日間まったく歩かなかったからか足が不健全に細くなってしまって不安だったものの、それ以外は何ら支障もなさそうだった。

 両親が私の住むアパートに送ってくれた。

「しばらく泊まろうか?」

「いいよ。体は全然大丈夫そうだし」

「そう? なんかあったら呼びなさいよ」

「いろいろありがとね」

「それはいいけど。とりあえず食料だけ置いてくから、ちゃんと食べてよ」

「うん」

 両親を見送った後で、私は自分の住処を見渡した。


(なんか……こんなんだったっけ? 私の家)


 そこはかとない違和感と、不安。玄関の靴置きや、廊下に貼られた写真、リビングのカーテンの色、テレビの前に置かれたクッション。それら全てが、なんとなく馴染みなく目に映る。

 しかし自分の部屋に入れば、そこに置かれたパソコンや枕の色は確かに私のものであるような気がする。

 なんだろう。気のせいかな。気のせいに決まってるよな。

 一週間近くも離れていたから妙に懐かしいだけだろう。そう思い、私はベッドの上で仰向けに寝そべった。


 そのまま日々を淡々と過ごしていると、ある日玄関のドアが開けられた。その時、私は風呂上がりだった。


 ドアノブが回される。開く。ドアチェーンをかけていなかったことを後悔する。「……うそ」と声が漏れる。


 鍵なら閉めていたはずだ。なぜ? 合鍵? それともピッキング?

 私は大パニックになり、とにかくテーブルの下に隠れた。携帯電話は自室のベッドの上だ。取りに行こうにも震えてしまってここから動けない。


「ただいま~」


 そんな私とは裏腹に、呑気そうな声が響く。

「いやぁ、ひどい目にあったね。というか知らないうちに退院してたんだ。真勿ちゃんの病室行ったらいなくてさ、俺泣いちゃったよ」

 四つん這いで覗くと、男が玄関で靴を脱いでいる。右腕がギプスで固定されていて、靴を脱ぐのも大変そうだ。勝てそうかも、と内心思った。

 というか。


(あの人、病院で会った人だ……)


 推定親戚の人である。もしや両親が私を心配して、お使いに寄越したのか? そんなに仲のいい親戚ならさすがに覚えていそうなものだけど、やはりというか私の記憶の中にその人の顔はない。

 ちょっとだけ警戒心を解きながら、「あのぉ」と私は声をかける。


「うおっ、そんなところにいたんだ。何してんの?」

「すみません。恥を忍んでお聞きしますが、どなたでしたっけ。失礼なのは重々承知しておりますが、顔を覚えるのが苦手で……。小さいころに会ったっきりのイトコとかですかね?」


 男性は「あはは」と軽やかに笑った。

「何それー」

「あ、はい。すみません」

「……マジで言ってる?」

「怒らないで……。今パニックです……」


 口をあんぐり開きながら、男性は私を指さす。「え……? いや……、なんで……?」と呟いていた。尋常じゃない驚き方だ。この感じ、どうやら年に数回会う程度の親戚じゃなさそうだぞ、と私は思う。だとすれば、覚えていないのは問題かもしれない。もう一度男性の顔をまじまじと見た。ダメだ。全然思い出せない。

 私が何か言う暇もなく、男性は私の腕をつかみ、タクシーを呼び、気づけば病院に到着していた。病院の受付で男性が何やら必死に訴えているのを私はぼんやり見ていた。私に異常があることは間違いなさそうだ。また入院になるのかなぁ、と他人事のように考えていた。


 結果的に言うと、入院にまではならなかった。散々お世話になった私の主治医が、「脳には異常がないからね」と腕組みして話す。

「心因性の部分健忘ということになるだろう。それにしても随分と大きなものが抜け落ちたね……」

「やっぱり記憶喪失なんですか?」

「一般的に言うとそうだね」

「違和感はちょっとあったんですけど、自分ではわからなくて……」

「部分健忘だと、何を覚えていて何を忘れているかはなかなか気づけないよね。脳っていうのは自分が壊れないように、自己認識と世界との乖離は上手く辻褄を合わせるように出来ているからね」

「治りますか?」

「心因性なら治らないってことはないだろう。ただ、それがいつになるか、生きているうちに取り戻せるのかは未知数だ。一応心療内科にも予約を入れておくから、通院してみるといい」

「はい……」

 そんな感じで病院を出て、私は男性と二人きりになってしまった。


 気まずいながらもはっきりさせておかなければならない、と私は口を開く。

「一緒に……暮らしてたんですか?」

「……そうだね」

「そういう、ことですよね」

「そうだね」

 よりによって。

 よりによって、同棲までしている男性のことを忘れてしまったのか。「すみません」と言うと、「君のせいじゃないよ」と男性は言った。


「俺は榛頼ハルヨリ。君と一緒にペンションに行って……一緒に潰されちゃった。守れなくてごめんね」

「あ、いえ……災難でしたね」


 榛頼という人はくすっと笑って、「ペンションに行ったこと自体覚えてないんだっけ?」と尋ねてくる。私は頷いて、これからどうなるんだろうと考えた。

 すると榛頼が「提案があるんですが」と言い出す。

「君はご実家に帰られたらいかがですか?」

「えっ」

「そうじゃなければ俺がホテルに泊まりますが」

「あの、」

「君にとって知らない男でしょ? 急に同棲なんて言われても困るだろうから」

 それは……そうですけど……。


「でも、今まで一緒に暮らしてたんですよね」

「『今まで一緒に暮らしてたんだよ』って言われて納得できる? 真勿ちゃんは……知らない人でも『久しぶり』って声かけられたら話を合わせてついて行っちゃうタイプだから心配だよ。もっと人を疑った方がいいですよ」


 ぐうの音も出ない。確かに私はその手のナンパとか詐欺とかに弱かった。


「でも、」

「大丈夫。もう一回最初から口説くから」

「えっ」

「俺のこと忘れてるんだよね? じゃあ最初からやり直すよ。俺たちまだ若いしさ、のんびりやりましょうよ」


 私が呆けている間に、彼はどうやら私の父に電話で話を通したようだった。私を実家に帰すことに決まったようで、「送りますよ」と言った榛頼の手には私の旅行用のバッグが握られていた。


 あれよあれよという間に私は実家の玄関に立っており、心配そうな顔の母が「あんた、よりによってハルヨリさんのこと忘れてるんだって? やだよもう」と言っていた。


 リビングでアイスを食っていた3つ下の弟が、「あれ? 何してんの、姉ちゃん。ついにハルヨリさんに愛想つかされた?」と生意気な口をきいている。私は私でちょっと落ち込んでおり、「たぶんそうじゃない……」と答える。たぶんそうじゃないから、落ち込んでいる。悪いことをしたな、という気持ちでいっぱいになっている。

 十代まで私の部屋だったところが空いており、私はしばらくそこで過ごすことになった。


 せっかくこっちに帰ってきたんだし、と飲みに誘ってくれた中学からの友人に事の経緯を話したところ、「記憶喪失? ウケる」と言われた。「ウケない」と私はちょっとキレた。

「なんか……同棲までしてた彼氏のこと忘れるとか……」

「マジウケる。同棲までしてた彼氏ってゆーか、結婚までした男じゃん」

「けっ……こん……?」

「ハルヨリってあのタカハシハルヨリでしょ? あんたの旦那じゃん。自分の名字も高橋なのにおかしいと思わなかったん?」

「高橋なんてありふれた名字じゃん……」

「式も去年挙げてたよ」

「え……あの人、本当に夫なの??」

「そうだよー! 本気で覚えてないのヤバすぎ。え、てかさ、うちらのこと覚えてんのにハルヨリのことだけ覚えてないの? かわいそー」

 友人はゲラゲラ笑っているが、私としては全然笑っている場合ではない。なんかもうヤバすぎて鳥肌が立ってきた。とりあえずその場で弟にLI〇Eで『私って結婚してたっけ?』と確認してみた。弟からは、なんかブサイクな動物が呆れているスタンプだけが送られてきた。


 帰り道、意を決して私はあの人に電話をかけてみる。ワンコールで繋がって、『もしもし?』と声がした。


「あの……真勿です」

『はい』

「確認なんですが」

『はい』

「私たちって、結婚してたり……しました?」

『えー、結婚ですか? この前出会ったばっかりなのに、それはちょっと僕も心の準備が出来てないです。真勿ちゃんって結構大胆ですね』

「よくそのテンションでいられますね!?」


 電話の向こうで笑った彼が、『君が気になるなら一回別れてもいいですよ。たかだか紙の上の話ですし』と言う。

『ただ、一年……いや、半年猶予をくれたら嬉しいです。俺が君をもう一度口説き落とせたら、わざわざ戸籍にバツをつける必要もないので』

「……あの」

『はい』

「あなたは……いいんですか? 都合よくあなたのこと忘れる女ですよ? 愛を疑ったりしないわけ?」

『君にとって会ったばっかの男が謎に好感度マックスだったら気持ち悪いよね。たんに離婚届とか出すのが面倒なだけですよ』

「そう、ですか」

『まあでも、本当に嫌だったら別れてもいいと思ってるので。そんなに気にしないでね。俺は人生かけてもう一度口説くけど』

「正直重いです」

『じゃあポップな感じで口説きますね』

「どんなですか?」

 自分で言ったくせにうーん、と悩んだ榛頼が「考えておきます」と言った。




 次の日真勿が家の前を歩いていると、「こんにちは」と他人行儀に榛頼が声をかけてきた。腕にしていたギプスは外れたようで、それだけはよかったなと思う。しかしどう反応していいものかわからず、私も「こんにちは」と返した。

「道に迷ってしまったのですが」

「はあ……」

「高橋さん宅はどちらですか?」

「どの、高橋家ですか」

「高橋……真筝まことくんに会いに来たのですが」

 真筝は私の弟の名前だ。仕方なく、「それならここです」と我が家を指さした。


「わあ、助かったな。もし間違いだったら申し訳ないのですが、真筝くんのお姉さんではないですか?」

「もうやめましょう、そういうの。しんどいです」

「しんどいっすか」

「茶番すぎます」

「実は真筝くんじゃなくて君に会いに来たんですけど」


 そうでしょうねと思いながら、しかし『そうでしょうね』と口に出すのはさすがに傲慢すぎるので黙っていた。

 榛頼は背中から花束を「じゃーん」と出して、私に差し出す。

「俺と、付き合ってください」

「これってポップですかねえ……?」

「ダメか。やり直します」

「うーん……」

 しばらく唸ったあとで、その花束を受け取った。


「一旦お受けします。この花、高そうだし」


 榛頼はふっと笑って、「真勿ちゃんならそう言うと思った。なんせ、存在しない息子からかかってきたオレオレ詐欺に引っかかるくらいだから」と肩をすくめる。それから「ちょっと歩こうか」と近くの公園を指さした。


「俺も色々考えたんだけど、一度目の時だって俺は君のそういうところに付け込んで交際までこぎつけたんだし、今回もどんどん付け込んでいこうと思う」

「そう言われると断ればよかったかなってちょっと後悔しますね」

「なかったことにはならないですけど、いつでも振ってくれていいですよ」

 私が「ふーん」と言うと、榛頼は「たぶん振られても諦めないけど」と瞬きをした。なんでこの人こんなに私のこと好きなんだろう、意地になってるのかな、と考えてちょっとため息をつく。


「ちなみに一回目ってどんな感じで付け込んだんですか?」

「そうですね……。俺と君は中学のクラスメイトだったんですが」

「昨日友達と会った時、そんなことを言ってました」

「俺野球部だったから、君に告白するときに言ったんだ。『次の試合でヒット打てたら付き合ってください』って」

「ホームランじゃないあたり小賢しいですね」

「そしたら試合中全部空振り三振。一回もバットにボールが掠らず」

「なんでその条件にしたんですか?」

「でもそんな俺のことが可哀想だと思ったのか、君が『とりあえず一か月ぐらい試してみよっか』って言ってくれてね」

「言うかもなぁ……」

「一か月記念日はかなり冷や汗かいたね。これで終わりかもしれないって」

「でも終わらなかったんだ?」

「『別れるつもりないよ』って君に言われた時、俺たぶん泣いたと思う」


 榛頼が歩みを止める。それから私を見て、言った。

「優しくて流されやすい君のことだから、いま俺とのことを渋ってるのは俺のためだろう。でも、少なくとも俺からは別れるつもりないよ」

「……私たぶん、そんなにいい人間じゃないと思います。夫のこと忘れるくらいだし……なんというか、不義理でしょ。あなたは見たところ顔も悪くないし、仕事もちゃんとしてるみたいだから、今からでもいい人見つけられるんじゃないですか? 一度籍を入れた女だから、責任を感じてるのかもしれないですけど」

「……俺は、」

 私の腕を掴んだ榛頼が、「責任なんか感じてない。君のことが好きで好きでしょうがないから言ってる。ゼロからでいい。もう一度チャンスが欲しい」と真っ直ぐ目を見てそんなことを言う。私はといえば目をそらして、「あなたといると悲しくなる」と呟いた。


「私には、どうしてあなたがそこまで私を好いてくれるのかがわからない。その理由はじまりを、私は覚えていない知らないから」

「じゃあ何度だって教えるよ。俺が好きになった君のことを」

「それじゃあ何も解決してない。あなたはまるで、別の人今の私好きな人前までの私の面影を重ねているみたい。あなたも薄々それを感じていて、たまにひどく悲しそうに見える」

「今の君も、前までの君も、みんな君だよ」

「そうじゃない。あなたが私を愛してくれているのは本当だと思う。だけど今の私には、あなたに返せるほどの情熱がない。私とあなたとの間には温度差があって、それは決してあなたのせいではなく私が記憶を失ったせいで、このまま一緒に進んだら、あまりにもあなたが可哀想だと思う」


 榛頼はしばらく黙ったまま私を見ていて、それから俯き「君にプレッシャーをかけるつもりはなかったんだけどな」と言葉を零す。

「……わかった。自分が思ってるより、焦ってたのかもしれない。一度帰って考えてみる」

「ごめん」

「君は『私が記憶を失ったせい』と言ったけど、そうじゃないんだ。たぶん、元から俺たちの間には温度差があったと思う。なんせ、俺が付け込んでここまで付き合ってもらったようなもんだし」

 そうじゃないと思う、と言いかけてやめた。記憶のない私には何も言えることがなかった。またね、と手を振る榛頼は笑っていたが、もう会いには来ないかもしれないなと思った。




 湯船につかりながら、私は自分の膝を抱く。


 私たぶんあの人のこと好きだったんだろうな、と榛頼の笑った顔を思い浮かべていた。

 好きだったんだろうな。全打席見逃し三振じゃなく、空振り三振なところとか。とりあえず振るだけ振って、ボールに全く掠らないところ。そういうところが、たぶん好きだったんだろうな、私は。

 何か一つでも同じ思い出があったらよかったけど、なんにもないんだもの。あの人にはああ言ったけれど、きっと耐えられないのは私の方だ。もしまたあの人と一緒になったとしても、あの人はずっと記憶を失う前の私のことを見ているに違いない。やっぱりそれって、別の人の面影を重ねられているみたいだ。私の知らない思い出を慈しむのはやめてほしい、なんて。元カノに嫉妬するならまだ可愛げがあったものを、自分が勝手に忘れたせいでこんなことになっているのに。そんな女より、他の人と新しい思い出を作った方が絶対にいいはずだ。

 そう思いながら湯船に沈む。「姉ちゃん早く風呂出ろよ」と弟の声が聞こえてきた。




 もう来ないんじゃないかと思っていた榛頼は、三日後普通に私の実家のチャイムを鳴らしていた。

「あらハルヨリさん、久しぶり」と母が笑顔で出迎えている。


「ねえハルヨリさん、もしうちのと別れてもあなたは私たちの息子なんだからね。遠慮せずにまた来てよね」

「ありがとうございます」


 榛頼が照れくさそうに頭を掻いた。

 私は「ねえねえ」と弟の肩を叩く。

「あの人、もしかしてうちに婿入りしたの?」

「婿入りっていうか、養子縁組もしてるんじゃなかったっけ?」

「ま、まじ……?」

「だからさぁ、早く思い出しなよ姉ちゃん」

「んなこと言われて思い出せるなら思い出してるっつうの」

 まじまじと榛頼の顔を見る。そういえばこの人の家族は一体どんな人たちなのだろう。決して資産があるわけでもない我が家に婿入りして、うちの両親の養子になるなんて。


 じっと見ていると、榛頼がこちらへ歩いてきた。それから私に、「俺たちって付き合ってるんだよね?」と尋ねてくる。

「え?」

「この前、『一旦お受けします』って言ってたし、俺たちって付き合ってるんだよね?」

「まあ……そうなりますかね……」

「じゃあ行きますか、デート」

「この前かなりお別れの空気感だったと思うんですけど、行くんですか、デート」

「お別れの空気感だったんですか、気づかなかったです」

 腕組みして「うーん」と唸ったあとで、榛頼は振り向いて「デートに行くべきだと思う人」と呼びかけた。私の両親と弟が手を上げる。「まあ……民意、ですかねえ」と榛頼が言った。たぶん我が家で私に味方してくれるのはもはや榛頼この人だけなのだと思う。榛頼この人が敵に回ったら高橋家において私に人権はないのかもしれない。


 仕方がないのでワンピースを着て、私は外に出た。家の前に車が停まっていて、榛頼がそれに乗れという。

「どこに行くんですか?」

「しっかりデートプランを練ってきているので安心してください」

「あーあ、フラグ立っちゃった」

 そういうわけで榛頼が考えたデートプランはことごとく瓦解した。まず、十分もドライブしないうちに予報外れの大雨が降って、そのせいで行きたかった動物園は閉まっており、近くの水族館に行ったら停電していて、ランチに予約した店は予約していたにもかかわらず食材が入荷できなかったとかで時間の三十分前に『今日は店を開けられない』と電話があった。


 仕方がなく行きつけだという昔ながらの洋食屋に足を運ぶことになった。榛頼が「こんないつもの……目新しさのない店でごめん……」と言って、それが聞こえていたらしい店主が「目新しさのない店で悪かったな」と榛頼を睨んだ。

「ここ、何度も来た店なの?」

「君は俺にまつわること全部忘れたんだっけ。そうだよ。月に一回は二人で来るぐらい、馴染みの店だ」

「そうなんだ。不思議だな……来たことがあるような気もするけど、具体的なことは何も思い出せないや。ここは何が美味しいの?」

 そんな私たちのやり取りを不思議に思ってか、「久しぶりだねえ、お客さん。なんかあったのかい?」と店主が声をかけてくる。


 私が榛頼に関する記憶を失ったことを話すと、店主はひどく気落ちした様子で「そうなのかい。そりゃあ、災難だったねえ。あんたたちは常連さんだし、本当にお似合いの夫婦だったが」と呟いた。

 注文は榛頼に任せることにした。私はいつもビーフシチューを食べていたらしい。待っている間、榛頼はまず「デートがこんなんでごめん」と謝った。


「別にいいよ。楽しかった」

「気を遣われると尚更惨めだ……」

「あなた、雨男?」

「そうかもしれない」

「縄文時代とかだったらかなり重宝されただろうにね」


 頬杖をつき、「前の私は、あなたのことをなんて呼んでたの?」と尋ねてみる。榛頼はたじろいで、「“ダーリン”かな」となぜかごまかした。

「最初から?」

「そう。最初から」

「榛頼くん、でいい?」

「……ああ。いいよ、なんだって」

 そう言いながらも榛頼はほっとした様子で、水の入ったグラスを傾ける。私は彼のその様子から、どうもこの呼び方で正解だったらしいと察した。


 こういう、正解を探るような付き合い方をしたくないと思っていたのに、やっぱりどうしてもこの人の愛した“高橋真勿”になりたいと思ってしまう。


「なんでなんだろう」

「何が?」

「あなたのことだけを、忘れたの」


 榛頼は黙った。それから、「この前言っていたことだけど」と口を開く。

「俺と君の間には温度差があるって話。そりゃそうだよな、と思うし同じだけのものを返してくれとは言わないからさ」

「でもそれだとやっぱり、あなたばかりつらいよ」

「そこは俺の腕の見せ所かなって。俺が君に、同じだけの情熱を持ってもらえるように頑張るしかないのかなって思うんだよね」

「……そうまでして、」

「そうまでしても君とずっと一緒にいたい」

 昔から流されやすい私がここまで言われて情を感じないはずがなく。この人となら、こんな私でもやっていけるだろうかと考える。


 運ばれてきたビーフシチューを冷ましながら口に運んだ。

「美味しい」と呟けば、榛頼は嬉しそうに笑う。


 会計をしていると、店主がぽつりと言った。

「うちの女房もすっかりボケちまってよ。今は施設に入ってんだ」と。

 ジジイの自分語りで悪いね、と瞬きをする店主に榛頼が「そうだったんですか……」と心配そうな顔をする。

「俺のこともわかんなくなってよ、たまに自分の親父さんと間違えて『お父さん、お父さん』って呼ぶんだわ。そういうの、やっぱつらいんだよね」

「……そう、ですよね」

「でもね、忘れただけ。なくなったわけじゃない。あんたたちにもわかるよ、きっと」

 レジを打ちながら店主は、「美味いもんは何度食っても美味いだろ。忘れてても、好きなもんはそうそう変わらねえんだわ」と言って笑った。




 車に乗って、雨空を眺める。フロントガラスを叩く雨粒の音を聴いている。

「また誘ってもいいかな」と榛頼が言った。私は「うん」と頷いて、助手席でシートベルトを握りしめている。

 たぶん、私はまたこの人を好きになるだろうと思う。そしてきっとこの人の言うとおり、すぐにでも私の感じている温度差はなくなって、この人と同じくらいの情熱を私も持つようになるだろう。有体に言えば、私はきっとすぐにでもこの人を好きすぎるぐらい好きになるだろう。

 それなら、何も難しいことじゃないな。そんな風に思って、私はそっと彼の横顔を伺い見た。




 家に帰って私は、母と父に「榛頼くんと付き合おうと思う」と報告する。両親は案外真面目な顔でそれを聞いて、「十年前にも聞いた台詞だ」と笑った。




 それから私と彼はデートを重ねた。毎度榛頼は懸命にデートプランというものを考えてくれていたが、その通りになっても上手くいかなくても、私はなんだって楽しかった。『あなたといればそれでいいや』と言おうかなと思ったけど、なんだかそれも流されているみたいで上手く言えなかった。

 実際、本当に彼のことを好きになっているのか、それとも“この人と夫婦だった”という事実に流されて相応しい態度を身に着けようとしているのか、自分でもよくわからなかった。


「ねえ、榛頼くん」

「なんですか?」

「榛頼くんは、何が好きなの?」

「真勿ちゃん……ですかねえ」

「そういうのいいからさ」


 えー? と榛頼は笑ってごまかす。どうしてだかこの人は、自分のこととなるとこうしてごまかしがちだ。

 前の私は知っていたのかしら、と考える。たぶん知っていたんだろうな。この人の好きなものも、嫌いなものも。

 ため息まじりに「時々、あなたも私と一緒に記憶喪失だったらよかったのにって思う」と言えば、榛頼はつんと私の額をつつきながら「やだよ」と言った。妙に晴れやかに、子供みたいに笑って。


 何度目かのデートでリベンジ動物園を決行したとき、「あなたは動物が好きなんだね」と私は言った。榛頼は照れくさそうに頭を掻いて、「バレたかぁ」と言っていた。

「前の私には言われなかった?」

「バレてたかもしれないけど、言われなかったね」

「ふうん」

 ふと、私は思いつきで「小学生のころ飼育係だったりして」と言ってみる。今度こそ驚いた様子で、榛頼は「なんでわかったの?」と私の顔を見た。


 しばらく真面目な顔をしていたけれど、耐えきれなくなって私は笑った。榛頼はきょとんとしたまましきりに感心している。

「えー、すごいな。よくわかったね」

「当てずっぽうなのにそんなにびっくりするなんて思わなかった」

「ウサギと金魚飼っててさ、うちの学校。飼育係って全然人気ないのな。六年間勤め上げましたよ。好きだったからね」

「やるじゃん」

「やるんですよ俺は」

 ひとしきり笑った後で、歩き出した。はじめて、私から手を繋いだ。彼は一瞬たじろいだけれど、汗ばんだ手でしっかり私の手を握った。


 その帰り道、事故に遭った。十台が絡む玉突き事故だった。




 運悪く私たちの後ろの車が何か燃料を運んでいたらしく、ひどく炎上していた。私たちの車にも燃え移るんじゃないかと思って、私は「車を降りよう、榛頼くん」と声をかけた。

 榛頼の反応は鈍く、しばらく返答がなかった。どこか視線を彷徨わせてから、「ごめん」と言った。

「足が挟まってる。動けない」

 私は助手席から彼の足元を見た。ぶつかった時かなりの衝撃で、車の前も後ろも潰れてしまった。そのせいで足を挟まれたのかと思ったが、どうも彼は足どころか体全体を動かすことができないらしかった。私は身を乗り出して、「どこが痛いの?」と彼の体をさする。

 榛頼は呻きながら、「真勿ちゃん、外に出て助けを呼んできて」と言った。咄嗟に彼が左手で庇ってくれたおかげか、私はほとんど事故の影響を受けていない。彼の言うとおり誰かを呼んでくるのが最善手かもしれないが、こんな時に他人を助けてくれるような人がいるだろうか。そんなことよりとにかく榛頼を車から降ろして、後ろの火災から離れなければ。

「君の力じゃ無理だよ。俺結構重いんだ」と彼は言った。こっちは何も言っていないのに、何もかもわかってる顔をして。


 ふっと笑った榛頼が、「ああでも……」と言いながら目を細める。

「君が記憶を失くしててよかったなぁ」

 私の頬を撫で、「君にとっては出会ってほんの数か月。だからきっとまた、忘れられるよな。よかった……本当に、よかった」と言って、彼は泣いていた。


 ああ、この人は。

 やっぱり心のどこかで、傷ついていたんだなと思う。私がこの人を忘れてしまってから、ずっと。

 この人は優しいから、こんなにも“忘れないで”という顔をしながら、忘れてくれと言う。


「ごめんね」

 私は彼の手を握って、言う。「忘れちゃって、ごめんね」と言う。

「あなたの言うとおり。私にとってはほんの数か月」

 彼は辛そうに目を瞬かせて、やがて耐えきれずに目を閉じた。体が揺れる。


「ほんの数か月で私、もう取り返しがつかないほどあなたのことが好き」


 榛頼の手を握りしめたまま、私は前を向く。皮肉なほど空は青い。


 ――――どうか。


 どうか神様、


『どうか神様』


 声が聞こえる。自分の声だ。

 強い吹雪の中で私は、彼のことを探している。瓦礫をかきわけた中に血溜まりを見つけて、私はその手を掴む。祈るように握る。


 この人を助けてくれるなら、

『この人を……助けて、くれるなら』


 私の、

『私の一番大切なものを、持っていってくれて構わない』


 全部言えばよかった、と今さら思う。

 あなたとだったらどんな時も楽しいと思えたこと。前の私があなたを好きになったわけがよくわかったこと。あなたのことをもっと知りたかったけれど、それが何もかもを忘れてしまったことの証明のようで、あなたに愛想をつかされたくなくて言えなかったこと。バカみたいに記憶を失う前の自分に嫉妬していたこと。

 

 それら全てを正直に話していたら、彼はきっと照れくさそうに笑いながら自分のことを一つ二つと話してくれただろう。


「ねえ、榛頼くん」と私は彼の目尻に滲んだ涙を拭った。彼は気を失ったままだ。

「私はあなたのことを知らなくて、あなたとの思い出もなくて、あなたに愛された“高橋真勿”が羨ましくて」

 私は瞬きをする。雪すら降りそうな冬の日に、なんだかひどく熱かった。

 榛頼の頬に口づけながら、「こんな私で良ければ、最後まで一緒にいさせて」と囁く。


 それからのことは覚えていない。というか私は、何も覚えていない。

 ただ、それからすぐに雨が降ったのだと聞いた。予報外れの大雨が。




 白いドレスを引きずりながら、ヴァージンロードを歩く。私の腕を引いている父も心なしか苦笑気味だ。

 私はそこに待っていた夫と誓いのキスをして、粛々と式は進行する。

 堅苦しい式が終わり、披露宴では中学からの友人たちが「二回も式挙げやがって! もうこれ以上ご祝儀は出さねえからな」とヤジを飛ばした。私の夫である榛頼がそれに対し「何度でもやります!」と応え、ブーイングを受ける。

 そもそも婚姻関係はずっと継続しているので、私たちは新郎でも新婦でもない気がするし、彼らの不満はもっともである。それでもご祝儀を出してくれているあたり、友達には恵まれたようだ。


 お祝いムービーでは『なんと奥様の真勿さんは、二度の記憶喪失を乗り越え……』とナレーションがついた。

 別に乗り越えちゃいないよね、と思いながら私は榛頼を見る。榛頼はあの事故で大怪我したにもかかわらず、傷痕が少し残ったくらいで奇跡的に元気だ。


「ねえ、榛頼くん」

「なんですか真勿ちゃん」

「本当に私でいいの? 二回も夫のこと忘れるような女ですよ?」


 榛頼は笑って、「仕方ないなぁ、真勿ちゃんは」と言う。

「いいよ。何回忘れたって」

「嘘ばっかり。ほんとは気にしてるでしょ」

「同じ夫婦で式を挙げた回数のギネス記録って何回かな」

「さすがにそんなお金ないと思うなー」

「稼いでくるよ。君に何度だって花嫁をしてもらう」

 それから榛頼は私を見て、言った。


「ありがとう。何度も俺を選んでくれて」


 私は驚いて、目を丸くした。こっちの台詞すぎる。

 榛頼の肩に頭を載せて、「こちらこそです」と言った。


 友人たちが私たちを見て、「せめて俺らの余興を真面目に見ろ!」と怒っていた。

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