第2話 星の囁きの使徒
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優は、どこか遠くから響く不安定な音に包まれたような感覚の中で、何かを必死に叫んでいた。その声は空気に吸い込まれ、どこへともなく消えていった。目の前に広がるのは、ただひたすらに広がる闇の中に浮かぶ青い星。そして、無数の目が、静かに、じっと、優を見つめていた。
その目は、どこか冷たく、無慈悲な圧を放っていた。優はその視線に圧倒され、逃げることもできず、ただその恐怖に飲み込まれそうになっていた。呼吸が浅くなり、胸の中で激しく鼓動が鳴り響く。何かが、近づいてくる。
それは、無形の恐怖でもあり、形を持たない存在でもあった。
優は動けない、ただその星を見つめ続けることしかできなかった。
そして、突然、その目の中から何かが飛び出してきた。優は思わず目を閉じ、身体を強く震わせた――その瞬間、鋭い音が耳元で鳴り響く。
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優は、荒く息をつきながら目を開けた。頭が重く、まるでずっと寝ていたような感覚。
辺りには薄暗い光が差し込んでおり、その中で無機質な灰色の天井が見える。
身体は動かそうとするが、力が入らない。薬品の匂いが鼻をつき、すぐに吐き気を催した。
「夢……?」
優は呆然としたまま、周囲を見渡す。
そこは、全く見覚えのない場所だった。まるで異世界にいるかのような錯覚に襲われ、胸がざわつく。
思い出そうとするが、記憶はぼんやりとしていて、どうして自分がここにいるのか全く思い出せなかった。
だが、心の奥底に感じる不安だけが確かに残っていた。
やがて優はゆっくりと、まだ頭の中がぼんやりとした状態で、辺りを見渡した。
石造りの壁は無機質で冷たく、冷気が肌を刺す。時折、部屋のどこかで水滴が落ちる音が響き、空間の静けさをさらに際立たせる。
視線の端には、黒い鉄格子が薄暗い空間にひっそりと存在しており、その向こうに広がる空間は、何もないはずなのに異様な重みを感じさせる。まるでその先に何かが潜んでいるかのようだ。
壁の上部には、古びた燭台が取り付けられており、そこに火が灯ったロウソクが微かに揺れ動いている。
揺らぐ炎の影が、壁面に不気味に踊り、部屋の中を不安定に照らしている。その灯火の揺れが、まるでこの場所そのものが歪んでいるかのような錯覚を引き起こす。
「ここは……?」
優はか細い声で呟いたが、その言葉は空虚に消えた。答えはどこからも返ってこない。
再び、その静寂が彼女を飲み込む。
優は体に異変を感じて、ゆっくりと視線を下ろした。手首にひんやりと冷たい金属が触れ、重い鎖がしっかりと繋がれているのを見た。手錠が食い込む感覚は、ただの拘束以上の何かがあるような、ぞっとするような感覚を伴う。無理に動こうとしても、金属が軋む音だけが響く。
足元にも同じように鎖が巻かれており、その冷たさと重さに、全身を包み込むような圧迫感を覚える。自由を奪われていることを、心底から実感した。
その後、目を落とした先で、優は自分が着ているものに気づいた。普段の学校の制服はどこにもなく、代わりに滑らかな白いローブが全身を包んでいた。布は柔らかいが、肌に触れる感触が妙に冷たく、冷気を感じさせる。
だが、その白いローブの下には、恐ろしいことに下着の類は一切存在していなかった。無意識に手をそっと当てると、肌がひんやりと感じられ、どこか不自然なまでに潔白なその感触が、逆に恐ろしいものに思えてきた。
胸の奥がひどく重く、恐怖がじわじわと染み込んでくる。感覚が鋭くなるたびに、周囲の不穏さが強調され、身体を包むこのローブが、単なる衣服ではなく、もっと深い意味を持っているような気がしてならなかった。
やがてその恐怖は、確実に優の心を締め付けていく。
優の胸は激しく鼓動し、息が苦しくなる。
手首に食い込む手錠の金属が冷たく重く感じられ、その存在が彼女をより圧迫していた。
どうしてこんなところに...... どうして私がこんな目に......その問いが ぐるぐると頭の中で渦巻くが、答えはどこにも見つからない。
彼女は震える手で自分の体を抱きしめよう としたが、鎖が引き裂くように腕を引き戻 し、何もできない無力さに襲われる。目の前 が真っ暗になりそうだった。恐怖が身体の 奥底から湧き上がり、呼吸が浅くなる。これが現実だと、無理にでも認めなければな らないという現実があまりにも重たかっ た。
頭の中で家族のことを思い出す。母の優しい声、父の厳格な言葉、弟の無邪気な笑顔。 それらが目の前でぼやけ、どんどん遠くなる。家に帰りたい、温かい我が家に戻りたい ――そんな気持ちだけが膨らんでいく。
「帰りたい……家に帰りたい......」
優は涙を滲ませながら、心の中で繰り返す。 家に帰りたい。穏やかな日常に戻りたい――そう願うたびに、冷たい床の上で感じる恐怖と、手首と足首を覆う鎖の冷たさが現実を突きつける。
「お願い……夢なら早く覚めて......」
必死にそう願いながら、目を閉じても、その 現実は変わらない。目を開ければ、鎖と石壁と、不気味な暗闇が視界に広がるば かりだ。夢であれば、すぐに目を覚まして、 全てが元通りになるのに――
だが、目の前に広がるこの世界はあまりに も現実味を帯びていて、希望という希望は消え失せていく。
優は恐怖と絶望に打ちひしがれ、膝を抱えて蹲ることしかできなかった。冷たい床に押し付けた額から伝わる石の感触が、現実の冷たさをさらに突きつけてくる。ここから抜け出す手立てもわからず、心は次第に追い詰められていく。
そんな時、暗闇の中から、鈍く低い靴音が響いた。規則的に近づいてくるその音に、優は息を詰めて顔を上げる。
鉄格子の向こう、闇の中から三つの人影がゆっくりと浮かび上がってきた。
後ろに控える二人の姿には見覚えがあった。
無機質で不気味な仮面を被り、帰り道で優を襲った男と同じだ。しかし今の彼らは、黒いローブではなく、異様なほど純白で滑らかなローブを身にまとっていた。
この二人の前に立つ人物――この男は明らかに異質だった。
男がつけている仮面はまるで人の顔と深海生物が融合したかのようだった。表面はぬめりと光沢を持ち、触手を連想させる突起が周囲から蠢くように伸びていた。そして目の部分には、何とも言えない異様な眼球がむき出しで嵌め込まれていた。それは人間の目のようでいて、明らかに違った。大きすぎるその目は、薄い膜に覆われており、時折その膜が瞬きをするように動く。瞳はぎょろりと回転し、無秩序に動き回りながらも、一瞬一瞬、優を正確に捕捉している。目が動くたびに、その奥深くから不気味な輝きが漏れ、まるでそこには別の次元が広がっているように見える。
その男の手に握られた杖は、さらに悪夢的だった。柄は腐った木のような質感をしており、そこから無数の細い触手が先端に向かって蠢いている。触手は自らの意志で動いているかのようで、見る者に嫌悪感と恐怖を植え付ける。杖の先端には巨大な目玉のような球体があり、その表面には異形の瞼が蠢きながら閉じたり開いたりしている。目玉の中央にある瞳孔は、じっと優を見つめているかのようで、そこに吸い込まれるような錯覚を覚える。瞳孔の奥では何かが渦巻いており、それを直視すると狂気に飲み込まれるような感覚が走った。
男の赤いローブは血のように鮮やかで、染み込んだ色がどこか生々しく見える。縁には奇怪な刺繍が施されており、それが地上のどの文明とも異なる異界の文字であることを直感させた。
ローブ全体が微かに呼吸するように膨らんだり収縮したりしており、それがただの布ではなく、何か生きた存在であるかのような印象を与える。
異形の仮面、動く杖、そして生きているようなローブをまとったその男は、この世のものとは思えない禍々しいオーラを放っていた。優の心臓は恐怖で強く脈打ち、息をすることさえ忘れてしまう。ただその場に縫い付けられたように、彼らの姿を見つめるしかなかった。
「目覚めたか」
仮面の男が低く響く声で語りかける。その声音は、人の声とは思えない異質なものであり、重低音のように耳の奥で振動し、不気味に耳に残った。
同時に仮面についた目玉がギョロリと動き、優を鋭く見つめた。その動きは生物的でありながら、どこか機械的でもあり、ただその視線を受けるだけで身体が硬直する。
恐怖に押し潰されそうになるなか、優は震える唇をどうにか動かし、絞り出すように言葉を放った。
「な、なに……あなたは……誰なんですか……? ここは……どこ……?」
声は途切れ途切れで、かすれ、震えた。その響きには、完全に支配された恐怖と、逃げ場のない現実に対する絶望が滲んでいる。問いかけた自分の声でさえ、耳に不快に響いた。
仮面の男はしばらく無言のまま、優を見つめていたが、やがて深く息を吸い込むような仕草を見せた。
「我らは――『星の囁きの使徒』。かの古き光の深淵より遣わされし者……」
その言葉は何か呪文を唱えるかのように、ゆっくりと紡がれる。その声には得体の知れない威圧感が込められており、まるで脳髄に直接響くかのようだった。
「そして――そなたは『星の神子』なり。選ばれし者、定められた器……我らの主、渇望の中心に、刻まれし運命を担う存在よ。」
意味不明な言葉の羅列に、優は目の前が真っ白になるほどの困惑を覚える。何を言われているのか理解できず、ただ目の前の男の姿と言葉が恐怖を一層募らせるばかりだった。
だが、優が何か反論しようと口を開く前に、男の声が再びその場を支配した。
「喜ぶがいい。そなたは『星喰らう者』に見初められし運命の器。その身はこれより『星の子』の母胎となる。そは祝福……崇高なる役目……喜悦に満ちた無限の苦痛をもたらす新たなる生命の門……」
言葉は荘厳でありながら、冷たく残酷な響きを帯びている。それが何を意味するのか優には全く理解できなかったが、ただ恐怖だけが身体中を駆け巡る。
仮面の男の目玉が再びギョロリと動き、優を見据えた。その視線には逃れられない運命のようなものが宿っており、優の心臓は激しく脈打ち、冷や汗が頬を伝う。
優は恐怖に震えながらも、全身の力を振り絞るようにして叫んだ。
「……わけが、わからない……! お願いです……なんでも言う通りにしますから……どうか、どうか私を家に返してください!」
声は掠れ、涙混じりの懇願となって闇に響く。それは理不尽な状況から逃れようとする一縷の希望に縋る、必死の叫びであった。
しかし、その懇願は目の前の異形の仮面に遮られ、無情にもかき消される。
「案ずるな――今日よりここがそなたの家となるのだ。ここは星喰らう者の聖域、選ばれし者のみが辿り着ける運命の地。そなたは、この地にて新たな役割を授かるのだ」
その声は冷たく、響き渡るように低い。冷徹な宣告に、優はこの男に何を言っても無駄なのだと悟る。
理屈や感情が通じる相手ではない――それを理解した瞬間、優の胸には再び絶望が染み渡り、全身から力が抜け落ちていく。
その時、闇の奥からまた一つ、足音が響いてきた。やがて現れたのは白い仮面を付けたもう一人の男。彼は緩やかな動作で異形の仮面の男に近寄ると、恭しく口を開いた。
「ウルスズ様――『苗床の儀』は、今より二日後には挙行可能でございます」
その言葉に、優の心臓は再び激しく脈打つ。「苗床の儀」――その不気味な響きが暗闇に広がり、言葉の意味が理解できないまでも、ただならぬ恐怖感を植え付ける。
「うむ」
短く返答した異形の仮面の男――ウルスズは、再び優に視線を向けた。その異様な仮面のギョロリとした目玉は、すべてを見透かすかのように優を見据え、まるでその魂を捕らえようとするかのようだった。
「休むがよい――明日、星喰らう者の御名の下に、『苗床の儀』を執り行う。おのが運命を祝福と思うがよい。そなたの身は、星喰らう者への門たる器となるであろう。その役目にこそ、そなたの存在の意味があるのだ。」
その声は深く、低く、重々しく――それでいて、どこか恐ろしく厳かな響きを持っていた。まるで神託を告げるかのようなその言葉は、優の耳に呪いのように焼き付いて離れない。まさに、その音が優の心を深く切り裂き、絶望の闇に沈めていく。
言い終えるとウルスズは、白い仮面の男たちを従え、再び闇の中へと姿を消した。その仮面に宿る目玉がギョロリと最後に動き、優を一瞥したその瞬間、彼女は寒気に似た恐怖を覚えた。それは、自分が完全に捕らえられた獲物であることを否応なく実感させる視線だった。
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部屋は再び静寂に包まれた――だが、それは安堵の静けさではなく、狂気と孤独が優を苛む冷たい空間だった。優は膝を抱え、崩れるようにその場に座り込んだ。石壁の冷たい感触が背中に伝わり、それがまた現実であることを突きつける。
「どうして……どうして……」
震える声でそう呟くも、返答はない。ただ、自分の声が虚しく反響するだけだった。その孤独さえも彼女を追い詰めていく。涙が頬を伝い、顎からぽたぽたと冷たい石床に落ちる。そのわずかな音さえも彼女には重荷だった。
優の脳裏には、平穏だった日常の光景が次々と浮かんでは消えた。友達と笑い合う瞬間、家族との何気ない会話、温かい布団の中で迎える朝――そんな当たり前だったはずの記憶が、今となってはあまりに遠い幻に思える。
それが、彼女の胸に深い悲しみを呼び起こした。
「帰りたい……」
そう絞り出すように呟いた言葉も、彼女自身にとっては虚しい響きに過ぎなかった。
手足を縛る鎖の感触と冷たさが、彼女を現実に引き戻す。その現実は、どこまでも逃げ場のない暗闇だった。
やがて優は、喉の奥から震える嗚咽を漏らした。恐怖が冷たい手を伸ばし、心臓を締め付ける。目を閉じれば、浮かぶのはウルスズの異形の仮面と、その背後に見え隠れする名状しがたい存在の影。彼女はその影から逃れようとして必死に目を開けたが、目を開けても救いなどどこにもなかった。
「助けて……誰か……」
声は掠れ、消え入るようなものだった。もはやそれは、誰かに届くことを期待して発せられたものではなく、自分の心を保つためだけの、か細い祈りだった。彼女はただ膝を抱え、震えながら涙を流し続けた。
時間の感覚すら失われ、暗闇と静寂だけが支配するこの空間の中で、優は一人、恐怖と絶望に飲み込まれていくのだった。
星喰らう者 @oscars_tavern
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