夜光虫と歩道橋

柚木有生

夜光虫と歩道橋

 白い光に誘われて、私たちは集まった。取り戻しようがない時間を、いつだって後悔してしまう私たち。ふと見上げると、夜空に浮かぶ星々がこちらを見て笑ってる。

「いくらなんでも振り返るには早すぎるよね」

 輝く彼らのひそめた小言なんかに、耳を貸すもんかって思ってた。

 ひとりだったら、たぶん、ずっと思ってた。



 週末に、瑠美はひとりで夜道を歩いていた。

 家から大通りに出る道の途中には一台の自動販売機が置かれている。煌々と明かりを放ち、その可動音は静かな住宅街に響いていた。ここにしか売っていないメロンソーダを飲みながら夜に散歩をするのが瑠美の日課だ。といってもまだ高校生だから、あまり長い時間は出歩けない。

 小学校と公園のあいだの幅広い道を抜けると、ふと、歩道橋が目に映った。側には横断歩道があって、奥に伸びる並木道には開花を待ちわびる桜のつぼみを携えた木々が佇んでいる。ほのかな紅色が薄っすらと夜に浮かび、空気はどこか艶めかしい。

 青信号を確認し、瑠美は横断歩道を渡った。しかし、ちょうど半分ほど歩いたところで頭上から音が聞こえて慌てて引き返す。振り返っても音の出処は歩道橋しかなさそうだ。瑠美は気になって、歩道橋の階段をゆっくりとあがった。並木道には何本も外灯が設置されているけれど、明かりはついていたりいなかったり。辺りは比較的薄暗い。それでも歩道橋の真横に立つ一際背の高い外灯が発する光は眩しくて、瑠美はうえに行くにつれて目を細めた。

「え、」

 最後の段差をあがりきり、曲がったところで思わず声がもれる。歩道橋には先客がいた。しかも見覚えがある。そのひとは瑠美と同じ学校の制服を着て、身体が動くたび、灰っぽい銀色の髪を背中でひらひらと揺らしている。

 同じ学年の岡田紗季。

 外灯の白い光が、彼女を夜に浮かびあがらせていた。歩道橋に小さい水色のシートを敷いて座る彼女の姿はまるで、舞台でスポットライトを浴びる少女のように世界から孤立して、神秘的な空気をまとっていた。

 紗季は両足を膝で内側に折り曲げるようにして座っている。あんな上品な姿勢、瑠美はこれまでに一度もしたことがない。

 片方の手はスカートのうえに、もう片方の手は筆のような長細いものをもって欄干をなぞっているように見えた。

「あなたは」

 首をひねっていた瑠美に、紗季が気づいた。

「あ、すみません!」

 瑠美は反射的に驚いて、たったいまのぼった階段を急いで駆けおりる。

「待って!」

 呼び止める声が聞こえても足は止まらない。歩道橋をおりても走り続けて、気がつくとシャッターのおりた店舗が並ぶ商店街を歩いていた。立ち止まって額に滲む汗をぬぐいながら、瑠美はため息をついた。

「逃げちゃったなあ……」

 寝間着同然の服装を見られて恥ずかしかったから。しかもそれが同級生だったから。あとから思えば逃げた理由はいくつもあった。

 でも、多分どれも違う。

 相手が紗季だったから、瑠美は逃げたのだ。



「あまり話かけてこなくて構いません。あと一年半で卒業ですから」

 去年の秋、転校してきたばかりの紗季がした自己紹介はよく覚えている。

 あの日、窓際に座っていた瑠美は駐輪場を囲うように植えられた木を静かに眺めていた。木枯らしが強く吹き、ただでさえ残りわずかな黄色の葉っぱが木から離されるように空中を舞っていた。まだ朝のホームルームが始まったばかりで、ちょうど先生が転校生を教室へ呼び込むところだった。開いた引き戸から岡田紗季が現れて騒がしくなる教室から逃げるように、瑠美は駐輪場でかさを増していく落ち葉の数をだらだらと数えていた。転校生に興味はなかった。だから紗季の自己紹介も聞き流していた。そんな瑠美でさえ、彼女の言葉には耳を疑った。思わず正面に向き直って祥子をまじまじと見た。転校生に気分が高揚していた教室は、完全に静まり返っていた。

 紗季は目立つ要素が多かった。明るめな髪色。小さい顔に大きい瞳。身長は瑠美と同じく平均的だけど、姿勢がしゃんとしているからすらっとしている。廊下を歩けばすれ違った生徒は自然と彼女を振り返った。瑠美からしても、紗季は美人な人形みたいだった。

 それらが原因か、紗季は転校初日から話題の的だった。

 この半年、瑠美は紗季と同じクラスだったから、紗季の意思に反して教室のひとたちが彼女に話しかける場面をよく見かけた。瑠美の目には、それが善意ではなく、紗季を利用して己の欲求を満たすような、もっと邪悪な行いに映った。

 その証拠に季節が巡ると、あれだけ熱心に紗季へ声をかけていた同級生は彼女の周りから姿を消した。それどころか、むしろ紗季を避けるようになっていた。そんな変化をいつも観客気分で眺めていた瑠美は、だからあの日に歩道橋で彼女と出会って気づいてしまった。

 自分も紗季と同じで、学校という舞台に立つひとりの生徒だということに。スポットライトを浴びるのが怖くて、自分はただ逃げているんだってことに。

 転校初日から、瑠美も紗季に興味はあった。でも、話しかける勇気がなかっただけだ。

 自分はいつまでそうやって逃げ続けるのだろう? もしかして、これからずっと?

 踏みだすきっかけを、瑠美はずっと探していた。



「これは……」

 翌日、昇降口に貼りだされたクラス表を見て瑠美は唖然とした。瑠美と紗季の名前が、同じクラス列に印字されている。

 もしかしたら運命はあるのかもしれない、と俗っぽい言葉を言いたくもなる。言うような相手はいないけど。

「どうしよう……」

 そこからあっというまに一週間が経っても、瑠美はまだ行動を起こしていなかった。

「でも……」

 教師が黒板に書いた内容を一文字もノートに写さず、瑠美はシャーペンを持って左斜め前を見つめていた。その視線の先には紗季がいる。窓際の席に座る彼女の髪は、窓ガラスの向こうに広がる一面の淀んだ雲よりも澄んでいた。

 チャイムが鳴って授業が終わり、これから昼休みが始まる。それは瑠美にとって動きだす合図だった。

 昼ご飯を一緒に食べよう。そう決心して、瑠美は席を立った紗季のあとをつけた。

 教室を出た紗季の行き先は購買だった。瑠美もついでに昼食を買おうと列に並ぶ。すぐ横で、紗季が個数限定のメロンパンを買った。瑠美も彼女にならって残りふたつを買い占めた。それが原因で、後ろに並ぶ女子生徒たちに不満顔でひそひそ話をされてしまったが気にしてはいられない。支払いに時間がかかり、紗季は先に行ってしまった。校舎を歩き回って探すと、彼女は中庭のベンチに座りひとりでパンを頬張っていた。瑠美はなかなか話しかけることができず、木陰でうだうだと足踏みしていた。間もなく予鈴が鳴った。

 結局、瑠美は諦めて教室に戻った。ひとりで廊下を歩く瑠美の手には、食べきれなかった未開封のメロンパンがふたつ、力なく握られていた。



 廊下から聞こえる誰かの足音が遠ざかっていく。瑠美は放課後を実感した。

「ダメだったな……」

 誰もいない教室に残り、瑠美は自身のふがいなさを嘆いていた。動いたら動いたでこの体たらく。いや、動いていないのと同じなんだけどさ。

「瑠美さんって変わってますわよね」

「へっ!?」

 椅子に座って机でうなだれていた瑠美は、正面に立っていた予想外の人物に素っ頓狂な声をあげた。目の前で、紗季が腰を曲げて顔を寄せてきていた。

 瑠美は思わずのけ反ってから、必死に頭を使いなにか言おうとした。でも、言葉がでてこない。

 そんな瑠美をどう捉えたのか、紗季は困ったように笑う。

「話しかけない方が良かったかしら?」

「いや、全然大丈夫。その、驚いたから」

 瑠美は胸のまえで慌てて両手を振って否定する。段々と落ち着いて話せるようになってきた。

「こないだは逃げちゃってごめんなさい」

 紗季は覚えていないのか首を傾けていたが、少しして口を開いた。

「全然大丈夫ですわ。むしろこっちこそ急に声をかけてしまってごめんなさい」

 申し訳なさそうに深々とお辞儀をする紗季に、瑠美は立ちあがって全力で言葉を返す。

「いやいや! こっちこそ!」

 上手く弁明できない瑠美だったが、そんな彼女の慌てぶりを見て紗季が笑ったことには安堵した。

 よかった。不快な思いをさせてたわけじゃないんだ。

「もしかして、そのことを気にして私を見ていらしたんですの?」

「見てた?」

「はい。今日はずっと視線を感じたものですから」

 バレてたのか。

「見てたというか、まあ、その、うん」

「購買にまでいらして」

「そこまで気づいて……あの、変な自覚はあるから」

 指先を口元にあてて微笑む紗季に、壁の厚そうな彼女の印象が薄れていく。

 気品漂う口調と一緒に垣間見える、からかうような表情。その奥に隠れる温かい笑顔が祥子の本当である気がした。喋ってみると紗季は、大人っぽくも高校生らしくもあった。

 瑠美は初めて、誰かと友人になってみたいと思った。

でも、

「瑠美さん?」

 瑠美の様子をうかがう祥子の無垢な表情に、いま言葉を投げようとしていた。

 意味のない、ただ傷つけるだけの、最悪な言葉を。

「紗季さん、自分がした自己紹介の言葉覚えてる?」

 紗季の表情が、少し強ばった。

 もしも自分がここで普通に話すことができる人間ならば、瑠美はとっくにひとりではない。

「もしもいま無理して私に話しかけてるなら、そんなことしなくても大丈夫だよ」

 相手を気遣うふりをして拒絶する。いままでだってしてきたこと。

 瑠美はどうしようもなく、臆病者だった。



 柔らかい笑顔の紗季を目の当たりにしてから、もう数時間が経過していた。すっかり薄暗くなった教室で、瑠美はぼーっと時計を眺めていた。

 あのあと、紗季は静かに教室を出ていった。まるで希望が絶たれたように、哀しい瞳だった。

 私は、なにをしているんだろう。

 変わりたかった。紗季と話してみたかった。紗季さんじゃなく紗季と呼びたかった。ただ、友人と過ごしたかった。それだけだったはずなのに。

「帰ろう」

 瑠美は深く息を吐き、カバンを肩に提げてから教室の電気を消した。

 薄暗い廊下には窓ガラスから差し込んだ月明かりが道を作っていた。この道の先にはきっと別の世界があって、そこでの自分は寄り道をして友人と遊んでいるに違いない。

 逃避だと知りながら、瑠美は月の道をひとりで歩いた。

「バカみたい」

 自嘲した自分の笑い声に、瑠美はいつもと違うことをしたくなった。

 どこか遠くまで行ってみよう。

 学校近くのバス停で運行している路線図を確認し、どこまで行けて、何円かかるのかを調べた。そこまでして、瑠美はおとなしく徒歩で帰路についた。家に入ると無性に音が恋しくて、テレビを付けっぱなしにしたままリビングのソファに寝転んだ。

 世界に放り出された自分、という物語を考える。

 ばかばかしい。妄想を一蹴して目をつむり、今度は寝ようと努めてみたけど難しかった。なにをしても、紗季のあの表情が頭から離れない。

 ごめん。

 言葉にできない気持ちは、そこから眠りに落ちるまで、ずっと瑠美の胸のなかを泳ぎ続けた。罪悪感にいまにも泳ぎ疲れて、溺れてしまいそうだった。



 週明けに登校すると、教室の入口に生徒指導の先生が立っていた。大柄な図体をよけることもできず後ろに立っていると、

「岡田紗季いるか」

 瑠美はその名前に声をだしそうになった。

「はい」

 落ち着いた声で返事をした紗季が先生に歩み寄る。

「ちょっと職員室にきてくれ」

「わかりました」

 短い会話が終わるとふたりはすぐにその場を離れた。紗季は瑠美と目があうと、なにか声をだそうとする仕草をしたが、なにも言わずに歩いていった。

 その日は一日中、紗季の噂を耳にした。

「岡田さん、昨日補導されたらしいよ」

 誰とも話していない瑠美でさえ何度もそんな会話を聞いた。きっと本人の耳にも届いている。教室では紗季に声をかけ、その周りで笑い声をだす男女がいた。彼らはみな口元に蠱惑的な笑みを浮かべていた。

 ああ、やっぱり嫌いだ。彼らと関わりたくなんてない。紗季に話しかけようとした自分も彼らと同じ穴のむじなかと思っていたけれど、絶対に違う。それがはっきりとわかった。

 噂が事実かどうか瑠美は知らない。ただ、紗季がひとりで夜遅くに歩道橋に座っているのは知っている。もしかしたら補導は事実なのかもしれない。でも話に尾ひれがついて、紗季にこれ以上の悪い噂がついてまわるのはどうしても嫌だった。

 瑠美にとって大切なのは、自分が紗季をそう思っているという事実だけだ。



 放課後になると、瑠美は一目散に教室を出た。今日だけは、廊下に浮かぶ月明かりの道を歩きたくなかった。

 夕日のオレンジ色が差す鮮やな町の時間は穏やかに流れていた。いつも散歩は夜だから、慣れた場所も夕方だと新鮮に感じる。夜には目立つ自動販売機も町並みの一部と化していた。今日はいつものようにメロンソーダを買ったりしない。財布だって持ってきていない。心に蔓延るモヤモヤを取り除くために行かなければならない場所は決まっている。

 瑠美の足は、並木道に向いていた。

 夕日に照らされた歩道橋の長い影が車道に伸びている。古びた住宅街で車通りも少ない。辺りは静けさに包まれていた。

 そういえば近くに小学校がある割に、歩道橋を利用するひとをほとんど見かけたことがない。瑠美が遅刻したときに一度だけ黄色い帽子をかぶった小学生の集団と遭遇したときも、彼らはボタンを押して手を挙げると、すぐ側の横断歩道を渡って登校していた。毎年、春になると桜を一目見にこの並木道を訪れるひとがちらほらといる。彼らは写真を撮ろうと歩道橋にあがってカメラを構えていたっけ。歩道橋を利用するひとを見かけるのは、たぶんそのときくらいだ。

 利用者のいない歩道橋は大きい置物として道路に鎮座している。ただ、この前と決定的に違うのは、その両側にずらっと並ぶ木々の装いだった。

 いつのまにか桜が咲いていて、並木道は薄紅色で満たされていた。ときおり吹く風が花びらを舞わせて、幻想的な空間の演出に一役をかっている。

「綺麗……」

 瑠美が呟くのと、歩道橋から人影が現れたのがほぼ同時だった。

「あ、」

 たったいま橋の欄干から顔を出した紗季。目が合っても、彼女は瑠美から視線を逸らさない。

「こっち来ませんか?」

 歩道に立つ瑠美にも聞こえる紗季の大きい声。逆光で眩しさに目を細めながら、瑠美は逡巡した。そんな瑠美の手を掴んだのは、階段を急いで駆けおりてきた紗季の細く白い手だった。

「こないだは逃がしてしまいましたから、ようやく捕まえましたわ」

 紗季はそう言って瑠美の手を引いた。彼女も制服姿だから、まるで学校からの帰り道みたいだった。

「さあ、座って」

 歩道橋にはちょうどふたりが座れる広さの薄緑色のビニールシートが敷かれていた。紗季にならって言われるままに瑠美もそこに腰をおろす。シートの色は歩道橋によく似ていた。カバンを置いて、靴を履いた足だけは橋に触れるようにした。

 先日の夜と同じように、紗季は今日もここにいたようだった。彼女の奥にはパレットと絵の具が数本置いてあるのが見える。瑠美が不思議に思っていると、紗季は中断していた作業を再開するように慣れた手つきでパレットの筆を欄干へと向けた。塗料が剥がれて鉄材が剥きだしになった部分を、薄緑色で覆うように塗っている。

「なにしてるんですか?」

「見たままですよ。橋に色を取り戻してるんです」

 たしかにそのままだけど、そういう意味で聞いていない。ちょっぴり不服な瑠美の気持ちを知ってか知らずか、紗季は筆を置いた。

「瑠美さんもやってみてはいかがですか?」

 意外な提案に、瑠美は戸惑った。正直いってそんな奇妙な行動に付き合う理由はない。でも、紗季の提案なら返す言葉は決まっている。

「やる」

 瑠美の言葉にあのときと同じ微笑みを浮かべた紗季は、自らのスカートのポケットから筆を取りだした。少しこぶりで、毛先が柔らかい。てっきり使っていた筆を貸してもらうのかと思っていた瑠美はお礼を言ってから、パレットを受け取った。水で溶かした絵の具を筆先につけ、欄干に腕を伸ばす。剥きだしになった鉄材は、ところどころ赤いさびがついていた。その赤さを隠すように、瑠美は筆を押し付けた。何度も、何度も。色が薄くなったらまた絵の具を付けて薄緑色を重ねていく。隣で、紗季も同じ作業をしていた。

 互いに没頭したようで、気がつくと日が沈み、あっという間に藍色の夜になっていた。

 知らぬ間に点灯していた外灯が、瑠美と紗季を夜のなか白い光に包んでいる。

「これ、犯罪だよね」

 薄々気づいていたことを瑠美はわざと声にだして確認した。

 紗季は短く息を切り、鼻を鳴らす。

「ふっ。かもしれません。その場合は、共犯ということでよろしくお願いしますね」

 瑠美が思わず呆れたその表情は、ひとをバカにするようで、また紗季の新しい一面を知ってしまったようだ。

 そういえば、あの噂。あながち間違ってなかったのか。誰かと夜な夜な悪いことをしているってやつ。まあ、その誰かっていうのが自分で、まさか共犯になるとは想像もしていなかったけど。

 状況とは裏腹に、瑠美の心は段々と晴れやかな気分になっていた。彼女の共犯になった。たったそれだけでこんなにも。

「なんでこんなことって聞かれると思ってました」

 夜空を見上げながら、紗季が隣で言う。彼女の視線は夜空に向けられていた。その瞳には星空が映っているように輝きが瞬いている。

「いや、気にはなってたけど、聞かなかっただけ」

 筆とパレットをシートに置いて、瑠美は答えた。指が薄緑色になっているのに気がついて、思わず胸の前で爪を見る。

「思ってても聞かないタイプですのね、瑠美さんは」

「聞けないでしょ、ちょっと怖かったもん」

「まあ」

 手元を凝視していた瑠美は、急に静かになった紗季が気になって振り向いた。彼女は頬を膨らましていた。互いに顔を見合わせて、笑い声をあげる。

「そんな怒ってますなんて仕草実際にするひと初めて見た」

「瑠美さんこそ、顔に絵の具をつけるなんておかしいですわ」

 言われて頬を拭った手の甲には、たしかに薄緑色がついた。

「ほんとだ」

 でも言わなかっただけで、

「紗季さんもついてるよ」

「え!」

 紗季は自分のカバンから取り出した手鏡を見つめ固まった。

「私もでしたのね……」

 顔を赤くする紗季を堪能してから、瑠美は空へ手を伸ばしてみた。すると、なぜか隣で紗季も同じポーズをとった。

 いまなら言えそうだ。

「こないだはごめん。変なこと言って」

 歩道橋の下を一台の車がとおる。響くエンジン音の後に訪れた静寂のなか、瑠美は指と遠い空を見つめつづけた。紗季がどんな顔をしているか知るのが怖かったから。それでも顔が強引に横へずらされたのは、紗季が瑠美の両頬を両手で掴み、ぐっ、と自分へと引き寄せたからだった。

「なにすんの」

 思わず目を細めた瑠美に、紗季はただ一言。

「うん、許した」と、微笑んだ。

 その表情に根拠もなく安心した瑠美は、自分にも謝ってと言った。

「なにを謝ればいいんですの?」

 くりっとした目を開いて驚く紗季に、瑠美は不満げな声をだす。

「学校で私を避けたでしょ。今日の朝とか」

 ろくに会話をしたこともないのに、避けられたって言うのもおかしいけど。

 紗季は顔をしかめた。ばつが悪い話題なのかなって思ったけど、祥子は言おうか迷っているような、悩んでくぐもった声をあげた。やがて根負けしたのか、彼女は息をひとつ吐いた。

「だっていまの私と話せば、瑠美さんまで変な噂に巻き込んでしまいますから」

 それは想像もしていなかった理由だった。自分を気遣ってくれるひとがいるなんて、考えもしなかった。

「じゃあ、謝らなくていいかも」

「なんですの? それ」

 頭をさげた瑠美に、紗季は戸惑っていた。

「でも、不快にさせたのならごめんなさい」

 今度は紗季も頭をさげる。瑠美は彼女のその両頬を両手で挟み、今度は自分に向かせた。

「うん、許した」

 私たちが歩道橋でしていることを、ひとはなんと呼ぶのだろう。劇のような、じゃれあいのような。謝って、許してもらって、なにも変わらないようで、瑠美は自身の変化に胸が熱くなる。

「私、多分ずっと寂しかったんだよね」

 思わず心の声が言葉になった。紗季の顔から手を放し、瑠美は歩道橋の欄干に目を向ける。塗った絵の具が乾いて、だいぶ馴染んでいた。

「私も同じです」

 紗季を見やると、彼女も同じように絵の具を塗った個所を見つめて、指先で触れようとしていた。でも、直前になって伸ばした腕を下に垂らしうつむいた。

「自己紹介で言ったことも、本心といえば本心なんです」

 紗季はすぐに顔をあげるとそう言った。次いで瑠美の方へと顔を向けたが、その視線はもっと、遠く離れた場所を見ているように感じた。

「卒業まであと少しなのに、欲しい友好関係が持てるとは思いませんでしたから」

 紗季はまた筆を持ち、欄干に絵の具を塗る。目に見える限り、塗装の剥がれた部分はもうないのに。

「私、元々転校が多かったんです。だから新しい学校ではわざと冷たくふるまって、自分から孤立するようにしたんです。それが一番楽だったから。でも本当は」

 言葉の続きはなかった。それでも白い明かりのなかで紗季の仄暗い表情は、世界に哀しさを訴えているみたいだった。

「だから私は行く先々でこうして色を取り戻してるんです。褪せたもの補うって、まるでいままでをやり直しているみたいで生まれ変わった気分になりますから。たとえその下に本当の過去が埋まっていたとしても」

 紗季はたったいま上塗りした絵の具を指でなぞる。まだ乾いていないから、指に薄緑色がついていた。

 紗季の言いたいことを、瑠美は正確にはわからない。紗季もきっとわかってもらおうとは思っていない。それに、もし簡単にわかったなんて言ったら、きっと彼女はもう瑠美をこの場所に連れて来ないだろう。 

 ただ、それでも伝わってくる感情がある。瑠美にだって忘れたくない出来事が増えた。失いたくない関係ができた。いまはなにより、それを伝える機会を失いたくない。

「じゃあ、これからずっと絵の具を塗ろうよ。時間が経って色が褪せても、また塗り直せばいいじゃん。そうやってずっと目の前を彩っていけば、埋まった過去なんて見る機会も減ってくよ」

 瑠美は紗季の手を握る。

「それに紗季さんはここにいる。全然埋まってなんかない」

 瑠美はハンカチで、紗季の頬についた絵の具を拭う。顕わになった本来の紗季の肌はきめ細かくて白かった。

「化粧水ってなに使ってるの? 羨ましい」

「急になんの話ですの」

 紗季は呆れ、ため息をついた。瑠美は、伝わらなかったのかなって肩を落とす。

 でも、

「瑠美にはこれがお似合いです」

「あ、ちょっと」

 まだ絵の具のついた筆で、紗季は瑠美の顔をなぞった。顔が汚れたことより、呼び捨てになっていることに瑠美は驚いた。

「お返し」

「え、いや私は」

 瑠美も同じように紗季の顔に絵の具を塗る。

「あなた、さっきとやってること真逆じゃないですか」

「真逆じゃないよ。色を塗って、剥がして、これまでもこれからも見せ合おうよ。そういうのって楽しそうじゃん」

 瑠美が押し付けたのは筆だけでなく、そんな想いそのものだった。

「まったく、仕方ないですわね」

 紗季のため息はもう何度目だろう。でも、そのすべてに心からの不快感は感じられない。少なくとも、瑠美にとっては。

 道具一式とカバンを持って、ふたりは階段をおりた。紗季の家は、瑠美の家とそう遠くはなかった。この歩道橋を選んだのも、帰り道で偶然見つけたからだと、紗季が教えてくれた。

「そういえば、犯罪かなっていうのは気にしなくて大丈夫ですよ。あれ、水溶性の絵の具ですから」

 紗季は、瑠美へスマホを向けながら微笑んだ。画面に映った明日の天気予報欄で、傘マークが大粒の雨を降らせながら揺れている。

 いじわるな笑顔。してやったり、と声が聞こえてきそう。瑠美がこれからも、きっと見るであろう笑顔。

 瑠美は歩道橋を振り返る。外灯の淡く白い明かりに照らされたそこは幻想的で、あの場所こそが、ずっと行きたかった場所なのかもしれないなって思った。

 なんて、考えすぎか。

「そういえば祥子、こないだ私のこと変って言わなかった?」

 瑠美の問いかけに、紗季はまたあなたは突然、と目を細める。

「あれは褒めたんですのよ。他の子に睨まれてもメロンパンを買い占める勇気、私にはないですもの」

「私がメロンパン大好き女子みたいになってる」

「あら、違いますの?」

 でも、あの行動のおかげで紗季が私に興味をもったのなら、あれも無駄じゃなかったのかな。

 おかしさと嬉しさで、瑠美は軽くスキップをしようと足を動かした。慣れていないからか、すぐにつまずいてよろけてしまう。

「ちょっと瑠美、なにしてるんですか」

 紗季が呆れたように笑う。自分にちゃんと声をだしてくれる存在に、瑠美は少しだけ明日が待ち遠しくなった。

 その頭にたったいま、桜の花びらがふわりと落ちた。

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夜光虫と歩道橋 柚木有生 @yuzuki_yuki

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