ギャルのペディキュアを塗ることになった美術部男子の話

卯月 幾哉

『女神のつま先』

 年末もごく近い、冬の日の昼下がり。

 六畳ほどの室内に、同じ高校の制服を着た一組の男女がいた。


「じゃあ、早速さっそくやるか」

「うん」


 机のわきに荷物を置いた少年――芦江開人あしえかいとがそう言うと、少女はためらいもせずに自分のスカートの中に手を入れる。


「ちょっち待って。いまストッキングぐから」

「うわ、ばかっ! いきなりはやめろ!」


 開人はあわてて壁を向いた。数秒後、肩をちょんちょんとたたかれ、おそるおそる振り返る。視線の先では、生足姿の少女――常詰じょうづめ輝莉きらり悪戯いたずらな笑みを浮かべていた。彼女のもう一方の手には、脱ぎたてのストッキングが握られている。


「これ、どこに置いたらいい?」

「……からかうなよ。その辺にしまっとけ」


 輝莉は素直に「はーい」と返事をして、丸めたストッキングを自分の荷物の中に入れる。その間に開人は、ローテーブルの上に道具一式を用意する。それは、これから行うある作業・・・・の準備だ。


 ポスン、と音がして、輝莉がベッドに腰掛ける。そこは開人が毎日寝起きしているベッドであり、これからの作業における彼女の定位置でもあった。

 すっと開人が輝莉の前に踏み台を置く。上面にクッションが置かれたそれは、フットレストの代用品だ。


「今日はどんな風にしてくれるの〜?」

「ちょっと試したいデザインがあって……こんな感じで、全部バラバラの色でやってみたいんだ。……どう?」


 甘えたような声を出す輝莉に対して、開人はスマホでネイルデザインアプリを開き、用意していたサンプルを見せる。


「え〜、超楽しみ♪」

「よし。じゃあ、これで行くよ」


 目をきらきらとさせる輝莉に対して、開人の態度はあくまで淡々としていた。二人のこんなやりとりも、もはや何度目のことか。


    †


 ――足をじかれられる瞬間が、一番ドキドキする。


 女子のたしなみとして、輝莉はニオイには特に気を使っていた。家に来る直前にもスプレーをしておいたが、体臭に影響すると知ってからは食べる物にも気を使うようになった。――昨夜はゆず湯にたっぷりと浸かったし、問題はないはず……。


    †


 これからの作業――それは、開人が輝莉のペディキュアをり替える作業だ。開けっぴろげな態度とは裏腹に、内心で前述のようなことを考える輝莉に対し、無表情をよそおう開人にも決して余裕はない。


 今、自分のベッドに腰掛けているのは、クラスの男子たちの間でも評判の美少女だ。いつもバッチリとメイクを施し、ギャルだとうわさされているが、意外と家庭的な一面も持っているということを、今では開人も知っている。

 開人がちらりと輝莉の様子を伺えば、彼女の短いスカートから白い細脚がなまめかしいラインを描いている。視線があらぬところにまで及ぶ寸前、開人は理性を総動員して手元の作業に集中する。


「そ、そうだ。時間かかるし、マンガでも読むか?」

「えっ……うーん。ま、マンガは別にいっかな〜」

「そ、そっか」


 以前の開人にとって、輝莉は自分とは縁の遠い、別世界の住人のような存在だった。

 それがどうして、こうやって自宅に招き、足爪にネイルアートをほどこすほどの間柄あいだがらになったのか――。


 全ては四か月前。あの夏の日に始まった。




    †††




っぢい……」


 およそ人前では出さないような声を上げて、輝莉きらりは高校の校内をさ迷うように歩いていた。

 この日は、夏休み中に唯一設けられた登校日。ありがたくもない校長先生や市の職員やらの話を聞き流し、すでにホームルームも終わった後だ。

 金欠のためにギャル友達の誘いも断って、輝莉は次の予定までの時間をつぶすために涼しい場所を探していた。


 そんな輝莉がたどり着いたのは、ある教室の前だ。


「美術教室……開いてっかな?」


 輝莉は入口の引き戸に手を掛ける。特に抵抗もなく戸は開き、中から冷気がれ出してくる。空調がいているのだ。輝莉は深く考えることなく、冷気に誘われるように室内に入った。


「あ〜、生き返る〜」


 おっさんもかくや、というような声を出した後で、輝莉は教室内にポツンと一人の生徒がいることに気がついた。しかも、その男子生徒は輝莉のクラスメートだった。


「あ! 芦江あしえっちじゃん」


 そう。このとき、たまたまここに居たのが開人かいとである。

 輝莉はこのときまで開人と話したことはなかったが、クラスメートということもあって名前だけは覚えていた。


 開人の位置からは当然、入って来た輝莉の姿は見えていたはずだ。しかし、開人はキャンバスに向かって真剣に絵筆を動かすばかりで、輝莉に意識を向けようとはしなかった。

 一方の輝莉は、生来の好奇心と人懐ひとなつっこさを発揮はっきし、こっそりと彼の隣まで椅子を寄せて、キャンバスをのぞき込んだ。


「うわぁ……、すっご……」

「わわわっ!? じょ、常詰じょうづめさん?」


 開人の動揺など知らぬ顔で、輝莉は感嘆かんたんの声を上げていた。

 キャンバスには、夏の夜の花火か、星空をモチーフにしたような幻想的な光景が描かれていた。――その絵を描いた少年の目線はその時、隣の少女の胸元に吸い寄せられていたが。


「芦江っち、美術部だったの?」

「そ、そうだけど……何か用?」


 問い返されて、輝莉は少しばかり返答に困った。

 ――別に用はない。いや、「ここで涼みたい」というのが輝莉にとって最大の用だったが、それを言うと追い出されそうな気がした。


(そうだ! 美術部の芦江っちなら、きっと――)


 ここで輝莉は、妙案を思いついた。


「芦江っちの腕を見込んで、お願いがあるんだけどさあ」

「な、何?」

「ウチの足に、ペディキュアってくれない?」


 その妙案こそ、開人にペディキュアを塗ってもらうということだった。

 輝莉は以前から足爪にもマニキュアを塗りたいと思っていたのだが、自分の不器用さから断念していたのだ。


「…………は?」


 初めて会話したクラスメートからの思いもよらない頼み事に、開人の目が点になった。




    †††




 最初は散々だった――と、開人は当時を振り返る。

 別に美術部員だからといって、手先が器用とは限らない。特に、ハケで爪にマニキュアを塗るなんて作業は、開人にとってそのとき初めて体験するものだった。

 結果として、数か所ほど爪からはみ出して輝莉の指にマニキュアを付けてしまった。


 あせって謝る開人に対し、輝莉の態度はあっけらかんとしていた。


『あ〜、いいよいいよ。ウチより全然マシ〜』


 そのときの失敗が悔しかった開人は、百均でマニキュアを買って自爪じづめで練習をした。戸惑とまどう妹も練習台にした。そして二学期が始まった直後、頃合いを見計らって輝莉に話し掛けた。


『――リベンジさせてほしいんだけど』

『リベンジ……? ウチに何のうらみが……?』


 そんな言葉のすれ違いもありつつ、開人が『もう一度ペディキュアを塗らせてほしい』と言うと、輝莉は飛び上がって喜んだ。


『マジで? ヤバっ。超ウレシイんだけど』


 ただし、どこでその作業を行うが議論のまととなった。


『別に、ウチは気にしないけど』

『いや、オレは気にする』


 誰かに見られても構わないという輝莉に対し、難色を示した開人。それを受けて、輝莉も『それもそうか』と思い直した。

 先のような会話の後、ああでもない、こうでもないと案を出し合った二人の行先は、開人の次の言葉によって決まった。


『うーん、オレんでもいい?』


 こうして輝莉は初めて、芦江家の敷居しきいをまたぐことになった。

 このとき開人は練習の成果を存分に発揮して、前回よりもはるかに短い時間で完璧にペディキュアを塗り上げてみせた。


『すごすぎ! めっちゃ上達してるじゃん! ……また頼んでもいい?』


 その輝莉の要望に開人がうなずいたことで、二人の関係がその後も続くことになった。


『母さんからジェルネイルの道具を借りたから、使ってみてもいい?』

『開人っち、すごいね。もうその道で食って行けるんじゃん?』

『いやいや、さすがにプロにはかなわないよ』


 しょうな開人は、マニキュアだけでなくジェルネイルにまで手を広げ、めきめきと技術を向上させていった。

 また、この四か月の間には、逆に開人が輝莉の家に招かれて夕食を振る舞われる、といったイベントもあった。



 そして、高校で二学期の終業式があった日――クリスマス翌日の午後。輝莉はペディキュアの付け替えのため、いつものように開人の家をおとずれていた。それがこの話の冒頭のシーンにつながる。


 この日は、ちょっとした事件が起こった。


「――おにい、入るよ」


 と、二人がいる部屋にノックもなしに入ってきたのは、開人の妹の留花るかだ。


「「「あ」」」


 室内にいた二人を含む、三者の声が重なった。

 開人は、急な妹の入室に動揺して手を滑らせたことで。輝莉はそれに気づいたことで。そして留花は、二つ歳上の兄が同年代の女子の前でひざまずき、その素足を手にえて真剣に見つめて作業をするという、ややエロティックな瞬間を目撃してしまったことで――それぞれ、声を上げた。


「ご、ごめんなさい!」


 留花はあわてて回れ右をして、ひとまず退室しようとした。しかし、慌てていたために手に抱えていたお盆をひっくり返し、っていた二つの湯呑みが床に落下してしまう。


 ――ガチャンッ!


「あぁッッ!?」

「留花ちん!?」

「だ、大丈夫か!」


 その結果、ネイルの施術せじゅつ中だった輝莉のみをベッドに残し、兄妹は後片付けをすることになった。


 そんな一幕もありつつ、その日の開人による輝莉への素人なりのネイル施術はおおむとどこおりなく終わった。開人は、イメージ通りのネイルアートを実現できたことで満足していた。


「マジでプロ並じゃん! ……そろそろお金とか払った方が良くない?」

「いいよ、そんなの。絵の練習にもなってるから」


 輝莉と開人の間では、そんな会話もあった。


 夕食を前に輝莉が帰宅する際、開人は彼女を駅まで送って行った。

 それから開人が帰宅した後、彼の部屋を再び留花が訪れた。


「――いいか。さっきのはペディキュアを塗っていただけで、やましいことは何もやってないからな」

「ふーん」


 言いわけがましいことを言う兄を、留花はジト目で見据みすえた。


「……なんだよ」

「いや、輝莉さんが家に来るようになってしばらくつけど、二人の仲はどこまで行ってるのかなあって」


 そう問われて、開人はつい目をらした。


「……お前が想像しているようなことは何もないぞ」

「えっ」


 留花にとって、兄のその発言はさすがに看過かんかできなかった。


「なんだ、その『えっ』は?」

「お兄ってもしかして、ヘタレ……?」


 開人としては、妹に「ヘタレ」呼ばわりをされてカチンと来た。


「はあ? なんでオレがヘタレになるんだよ」

「え? それ説明しないとわからない? ……マジでヤバいよ、それ」

「……」


 いつになく真剣味をびた妹の態度に、開人は黙り込んだ。


 開人としても、留花の言葉に心当たりがないわけではなかった。

 つい先日、こよみの都合でクリスマスより二日早まった、初めてのデートらしいデートを経験したばかりだった。いつも派手なギャルメイクの彼女が、一転して正統派なきれいめの化粧をして現れたことで、隠れていた清純な魅力に改めて胸がときめいた。手汗で引かれないかとヒヤヒヤしながら、勇気を出して彼女の柔らかな手を握った。でも、別れ際に何かを期待するような表情の彼女に対して、結局ありきたりな言葉しか掛けられなかった。


 ――自分はこのままでいいのか。そんな思いはあった。


「もっと、ちゃんと輝莉さんのこと考えてあげなよ」

「……あぁ」


 神妙な顔をする開人を部屋に残し、留花はその場を後にした。




    †††




 それから一か月半ほどの時が過ぎた。この間にも一度、輝莉は開人の家をたずね、手のネイルを付け替えてもらった。しかし、それ以外ではほとんど接点がなく、やや疎遠そえんになっていた。

 その理由は、開人が美術部での作品制作に専念していたからだ。また、その作品の途中経過については、どうしても輝莉には見せてはくれなかった。


 そして二月上旬の日曜日、輝莉は開人に誘われ、市営の博物館に足を運ぶことになった。二人で家や学校以外に出掛けるのは、クリスマス前以来のことだ。輝莉は早起きをして、ウキウキと身支度を整えた。


「――ゴメン。待った?」

「おう……」


 しかし駅前で合流したとき、なんとなく開人が不機嫌なように感じて、輝莉の気持ちも沈んだ。二人は言葉少なに目的地である博物館に向かう。

 博物館に入るや否や、開人は輝莉の手を握って、足早に歩き出す。久しぶりの手つなぎデートに、輝莉の胸が高鳴ったのも一瞬のことだった。


「ちょっ……! もうちょっと、ゆっくり見て行こうよ」

「ゴメン。最初に見せたい絵があるんだ」


 困惑する輝莉を無視するかのように、開人はずんずんと博物館の奥へ進んでいく。輝莉の眉間みけんに小ジワが浮かび上がる。

 やがて二人は、一幅いっぷくの水彩画の前で足を止めた。六十から七十センチ四方ぐらいの淡いタッチの絵が、他の展示物よりも大きなスペースを取って飾られていた。


「お、金賞じゃん――」


 絵の説明が書かれたプレートに目を留めた輝莉が発した声は、途中からトーンを上げる。


「――ってこれ、開人っちが描いたの!?」

「……うん、まぁな」


 プレートには、二人が通う高校名と開人の名前がはっきり記されていた。


 その絵の題名は『女神のつま先』。

 一対の女性の足先を主に描いたものだった。

 その十の爪先は、それぞれ別々の色に彩られながら、一作品としての調和を融合させていた。また、絵全体としては水彩画でありながら、ペディキュア部分はジェルネイルをそのまま用いた、個性的な作品でもあった。


「え、これって……」

「さすがに、本人が見たらわかるよな」


 その足のモデルは、輝莉だった。

 輝莉が気づくのは当然だ。彼女のつま先には今、その絵と全く同じペディキュアが塗られているのだから。


「ヤバい。超ウレシイ……けど、チョットだけ恥ずかしいかも……」


 どこか夢見心地な気分で絵をながめていた輝莉だが、だんだんと事実を認識すると顔のニヤつきが止められなくなってしまった。

 そんな輝莉に対し、開人は滔々とうとうと語りかける。


「ずっと考えてたんだ。オレにとって輝莉さんってどういう存在なのかなって。きっかけは輝莉さんからだったけど、こんな関係も悪くないなって思ってた」

「開人っち……」


 輝莉が笑顔のままで振り返り、二人の視線がぶつかる。開人は気恥ずかしそうにほおを赤く染めつつも、視線だけは逸らさないように気を張っていた。


「別にこのままでもいいんじゃないかとも思ったけど、もし輝莉さんが他の誰かと付き合ったりしたら、今のこの関係も終わっちゃうと思うから――」


 開人はそこで息を切り、決定的なひと言を告げる。


「輝莉さん、好きだ。オレと付き合ってよ」




    †††




 それからしばらく経った後、芦江家の開人の部屋では、いつもと一風違った構図が見られた。


「あ〜。そこ、もうちょっと下。……もっと強くやってくれ」

「こ、こう?」

「そうそう……あ〜、気持ちいい」


 床にクッションをいてうつぶせになった開人の背中を、輝莉がグリグリとつま先で踏みつけていた。


「――おにい、入るよ」


 そこにまた、いつかと同じように入室して来る留花。

 彼女は快感でだらしなく顔を緩める兄を見て、表情を消した。


「……最低っ」


 吐き捨てるような留花の言葉に続いて、パタン、とドアが閉まる。


「ま、待ってくれ、留花! これはただのマッサージなんだ! やましいことなんてないんだ!」

「留花ちん、もう居ないよ」

「留花〜っ!!」



(終)

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ギャルのペディキュアを塗ることになった美術部男子の話 卯月 幾哉 @uduki-ikuya

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