第5話 耳を疑うお願い
正樹が買っておいてくれた昼飯のおかげで、なんとか空腹に苦しまずに午後の授業を乗り切れた。
とは言っても、昼休みに食ったわけではない。5限目と6限目、その間の休み時間に大急ぎで味わう暇もなく口の中に押し込んだ。
5限目は腹減ってイライラしたけど、早食いのおかげで残りの授業を耐えられたから良しとしよう。好きだった焼きそばパンとコロッケパンの美味しさを楽しめなかったことは今でも後悔しかないが……
俺が昼休みを丸々保健室で過ごしてしまった件については、戻るのが遅すぎて正樹達に心配されたが適当に誤魔化しておいた。
小岩井のことを話せない以上、答えられることも限られる。言えることなんて、冴木先生が急用で保健室からいなくなって留守番をさせられたことくらいだった。
そんな話を俺が休み時間にしている時も、小岩井はずっと机に座って本を読んでいた。
誰かと話すこともなく、誰にも話しかけられることもなく、ひとりでいる彼女を見ていると……彼女の存在が、このクラスに認識されてないのかと思えてしまう。
だが、そうではない。あれが彼女の日常なのだ。
めちゃくちゃ可愛い女子なのに仲の良い友達も作らず、ずっとひとりでいる。
いつも無表情で、クラスの奴等に話しかけられても不愛想な返事しかない。
そんなことを続けていれば、小岩井がクラスでひとりになるのも当然だった。
普通ならイジメられても不思議じゃないが、今ではクラスの触れてはならない存在として扱われている。いわゆるマスコットというやつだろう。小岩井が可愛いおかげなのか、それともクラスの奴等が良い奴しかしないのか……はたしてどっちなんだか。
とにかく、昼休みに俺が話していた小岩井と同じ人間とはまったく思えなかった。
保健室にいた時の小岩井は、もう少し表情豊かで可愛いと思ったくらいだ。人付き合いなタイプかもしれないが、話してみた感じ……そういうタイプとも思えなかった。
それと思うと、彼女なりの事情とか考えがあるのかもしれない。
アイツの考えなんて俺には関係ないことだが、あらためて放課後の約束を思い出すと嫌な予感しかしなかった。
◆
その日の放課後。グラファンの周回をしながら約束通り保健室に来ると、冴木先生が優雅にコーヒーを飲んでいた。
「ほぉ? 本当に来るとは思わなかったぞ?」
「……俺のこと脅しておいて、よくそんなこと言えますね」
「脅す? なんのことだ? 私はコレを見せただけだぞ?」
悪びれもせず、冴木先生が塩の入ったビンを見せつけてくる。
それで誤魔化せると思ってんじゃねぇよ。
塩を前にして、反射的に俺が後ずさる。
俺の反応に、先生がケラケラと楽しそうに笑っていた。
「マジで良い性格してますね」
「そんなに褒めても傷を診てやることしかできないぞ? 一応言っておくが、私に男の妄想の中にしか存在しない保健室の優しい先生を期待なんてしてくれるなよ?」
笑いながら男の夢を壊すな。いるかもしれないだろ、そんな先生。
男なら誰だって保健室の先生と聞けば夢くらい抱く。美人で可愛い先生に優しく診てもらって甘やかしてくれるシチュエーションなんて、男なら一度は妄想するものだ。
「褒めてませんし、そんな期待も冴木先生にしてません」
「ははっ、言うじゃないか。お前みたいな強気な生徒はガキでも嫌いじゃない」
俺の返事が随分と気に入ったらしい。冴木先生が終始楽しそうに笑っている。
しかし、ふと何かに気づいたのか、先生が怪訝に俺を見つめていた。
「む? なんで柏木が私の名前を知ってるんだ? 色々と立て込んでお前に自己紹介をした覚えはなかったはずだが?」
「学校にいる先生の名前くらい自然に覚えますよ」
実際は小岩井から聞くまで知らなかったが、それを馬鹿正直に言うと嫌な予感しかしなかった。
意外そうに冴木先生が目を大きくする。だけど、どこか意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
もしかして、バレたか?
「そういうことにしておいてやる。とは言っても、自己紹介もできない大人は子供に向ける顔がない。遅れて悪いが、私の名前は
運良く、新たに冴木先生の名前を知ることができたが使う機会はないだろう。
この先生を名前呼びする機会があるとは到底思えなかった。
「それで? 小岩井はもう来てるんですか?」
「来たぞ。だが今は少し前にトイレに行って席を外してる」
冴木先生がソファに視線を向けると、そこにはカバンが置かれていた。
おそらく、小岩井の物だろう。
俺がソファを見つめていると、おもむろに保健室の扉が開く音がした。
振り向くと、そこには小岩井が立っていた。
「あっ、ほんとに来てくれた」
俺を見るなり、小岩井が安堵した表情を浮かべる。
「約束したからな」
「ありがとう。来てくれて、安心した」
俺の返事に嬉しそうに微笑みながら、小岩井がトコトコと小走りでソファに向かう。
やっぱり教室と違って、今の小岩井は小動物みたいな可愛らしさを感じてしまう。
彼女が腰を下ろすと、テーブルを挟んだ対面のソファに向けて俺に座るように促してきた。
「座って、お話する」
「……わかった」
小岩井に促されるまま、俺もソファに座る。
そして俺と向き合うと、彼女は言いづらそうにしながらも口を開いていた。
「あらためて、お昼休みはありがとう。私の手握ってくれて、あなたのおかげでいつもより眠れた気がする」
「別にお礼なんて言われることじゃない」
あれは小岩井のことを心配してしたことだが、俺の気まぐれであることに変わりはない。
「ううん。嬉しかったから、ちゃんとお礼は言わないとだめ」
淡々と答える俺に、小岩井は小さく首を振っていた。
コイツ、本当にあの小岩井のなのか?
今のコイツを見てると、本当に俺の知ってる小岩井と違いすぎて反応に困った。
「あと、自己紹介もする。私の名前は
「……
「柏木千世君。うん、ちゃんと覚えた」
俺の顔をまっすぐ見つめて、一度だけ小岩井が頷く。
なんか互いに自己紹介してるけど、なんでこんなことしてるんだ?
そう思いながら、俺は話を進めることにした。
「それで? なんで俺を保健室に呼んだんだ?」
「それは、えっと……」
俺の質問に、なぜか小岩井が言葉を詰まらせる。
しかし、ゆっくりと深呼吸した後、その口を開いた。
「私の秘密にしてること、話そうと思って」
そう言われて、思わず俺の眉が怪訝に寄った。
「それ。言いたくなかったんじゃないのか?」
「そうだけど、秘密にしてもらうなら話しておこうと思って。あと、柏木君にお願いしたいこともあったから」
なるほど、小岩井の
おそらく自分の秘密を話すことで、同情でも誘って俺にお願いを聞いてもらおうとしてるのだろう。
悪いが、その手に乗るつもりはない。なにを言ってくるか知ったことじゃないが、俺だって忙しいのだ。
こんなことしてる時間すら惜しい。俺はグラファンの周回を1回でも多く回さないといけない。
レア素材を1個でも多く集めて、武器やキャラを強化しないといけない。戦力を上げるために1周でも多くクエストを周回することを強いられている身だ。
余計なことに時間を使ってる暇などない。
「私ね。毎日30分、お昼寝しないといけないの」
ふと、おもむろに小岩井が話し始めていた。
とりあえず話を合わせておこう。
「……なんでだ?」
「お昼寝しないと、倒れちゃう」
「倒れる?」
「うん。急に意識がなくなって、気絶しちゃうから」
もしかして、ただの不眠症か?
そう思っていると、小岩井が続けていた。
「知ってる人が少ない病気なんだけど……私はナルコレプシーって睡眠障害を患ってるの。夜以外に我慢できないくらいものすごい睡魔がきて、急に寝ちゃう病気」
「じゃあ、いつも小岩井が保健室で寝てるのは」
「仮眠しておくと、症状が出にくくなる。だから毎日30分、お昼寝しないといけないの」
めちゃくちゃ面倒くさい持病持ってるな、コイツ。
その話が本当なら、小岩井が保健室で寝てる理由も納得できた。
本人の意思すら関係なく気絶するということは、受け身も取れずに倒れることになる。
それがどれだけ危ないことか、考えるまでもなかった。
「小岩井が昼寝してる理由は分かったけど、それで俺にお願いすることなんてあるか?」
はたして……この話から、俺にどんなお願いをしてくるつもりなんだ?
その疑問を話すと、なぜか小岩井の頬が赤く染まっていた。
え? そんな要素、この会話にあったか?
「ものすごく恥ずかしいことなんだけど……私ね。寝てる時、誰かに手を握ってもらえないと安眠できないの」
わかってたけど、やっぱりそういうタイプの子だったか。
好きな女の子なら可愛いところだと思えるかもしれないが、傍から見れば小学生以下の子供としか思えなかった。
「なんとなくそんな気がしてたけど、それで?」
「症状が出ないようにするのは仮眠も大事だけど、同じくらい睡眠の質も大事なの。だから良い睡眠をするために――」
あ、マズイ。これめちゃくちゃ面倒くさいこと言われる。
その予感を、俺が感じた時だった。
「お昼寝してる時……柏木君に私の手、できたら握ってほしい」
案の定、耳を疑うお願いをされてしまった。
小岩井が寝てる間ってことは、30分も俺に握ってろと?
毎日、昼休みの30分を小岩井のために使えって?
冗談じゃない。そんなことしたらグラファンする時間が減る。
てか、なんで俺にお願いしてるんだよ。俺以外の奴で良いじゃん。
そもそも、俺が小岩井のお願いを受けるメリットがないし。
小岩井の考えが理解できなくて、俺は顔を歪めることしかできなかった。
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