ドニャ・キホーテ
@salsa_de_avendanno
初章 にて扱うは彼の高名なる孤娘ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャの行状、 及び女騎士ハナと三茶の村乙女チヨさんとの特筆すべき出逢い
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
初章
にて扱うは彼の高名なる
及び女騎士ハナと三茶の
Capítulo primero.
Que trata del comportamiento de la famosa huérfana doña Quijote de la Sancha,
y del encuentro trascendental de la caballera Hana con Chiyo-san, una doncella de la aldea de SANCHA.
三軒茶屋のと或る
同じ屋根の下に暮らすのは六十代半ばの祖母と
名をカナだかサナだかと、これも音の具合によって如何様にも聴き取れるのだが、物語の進行につれ蓄積される情報を信じると《
さて劈頭から興を殺ぐようで恐縮なのだけれど、この辺りはどう足掻いたところで半ば
仔細は追って詳述するとして、戯曲宛らに
ただ現時点で
祖母と妹のトーニャ[訳註:花がそう呼んでいただけで実名は不明]も甚だ気に病んで労を尽くしたが、部屋の中で一体何をしているものやら自室から出てくることすら稀な、夢と現を行き来するだけの
いや、実際そんなことばかりしていたのである。[訳註:断言しているがこれこそ著者の完全なる当て推量に過ぎぬ]
それがふた月を経て、丁度夏休みに入る前の学期末試験が実施される頃――《
この佳日の同じ刻限、花が昨冬まで在籍した中等部、その三年生の或る教室のひとつに高く響く声があった。(《
――
「チヨさんチヨさんチヨさあん!」[訳註:登場人物の発言を文字化する際、訳者が聴き取った音の印象により――例えば《さあん》《さぁん》《サーン》というように――幾分書き分けをしているが、正式の音声学や発声法に則った区別ではない旨ご留意いただきたい]
椅子に掛けたまま、千代[訳註:これも暫定的な借字である]は嬌声の主を探す。久仁子という名のその少女は教室に駆け込んで入るなり千代の前の席を勝手に寸借し、その背凭れに顎を預けながら彼女の顔色を窺うとこう言った。「チヨさん大変なことになったよ」
「ちょっと人の名前を大声で連呼しないでよ」千代は
「ちょ、メガネ触んなって」のんびりと伸ばされた手をペシャリ跳ね除けながら、「パッツンはアルト様リスペクトだよ。それはそれとして、」ニコに悪びれた様子はない。「――よし、それなら好い物を進ぜよう!」
馬乗りになったまま椅子に胸元の重心を預け、ゴソゴソと制服の
「何何? 進ぜて進ぜて?」千代さんも然して怒っていなかったのである……飽くまでこの時点でという意味では。「ちょうわ何これカワウィー。何これ水晶?」
ニコが取り出したのは
端折って明かしてしまえば、これは
無論この瞬間には
「いやあ、チヨさんにはいつも世話になってますもんで……」齢十四にして大した
千代は鼻を鳴らして、「ふうむ、ヴォルフ閣下には別の物をお納めすることにしやうう」と満更でもない様子。「三千円ってとこかな」
「いや、ハナマサの前で貰った」
「ちょ、タダかよ! つか試供品かよ!」
ニコは巧みに
「捨てろよ! もう~」そう云いながらも千代さんに
「いやいや千代さん、大変なことは変態のオサーンとは別のことでして」とニコ。
半坐千代の、
ふたりの、といってもこれは稀代の美姫にして高潔なる
[訳者補遺:文中に修飾節を挿入する際に
花にとっては幾十日か振りにその網膜が直に捉えた、家族以外の人間だったにもかかわらず、通り過ぎんとしたその
「あいや暫く、暫し待たれよ」[訳註:西訳では「¡Ay! un momento, un rato espera.」]
これが筆者の鼓膜を初めて震わせた
「不躾ながら、御仁は諸国遍歴の武人とお見受けしたが如何か」
これが
おっさんは厳かに言い放つ。
「如何にも、拙者はと或る西方の旧領にてマルグラーベの称号を持つ騎士である。故あってその名は明かせぬが、そこもとが拙者を呼び止めた由を伺おう」[訳註:尚、《
「忝のう御座います」花はその場に跪くと以下のように続けた。「それがしは当地の名にし負うドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャと発します、駆け出しの山出しながらその血気のみ
「誠
ドニャ・キホーテが
そうして剣をドニャに返還すると、本を仕舞ったその懐中より、そう、件の首飾りを手に取るや、
祝福の言葉を口にするや颯爽とその場を去るマルグラーベのおっさん、そして頭を垂れて平伏したまま石像のようにじっと動かない花であったが、その心中は遂に正式な騎士として叙されたその栄誉により打ち震え、差し詰め
これら、阿僧祗花が玄関の門戸を潜り、往来に足を踏み出してからほんの三分ほどの出来事であったにせよ、その神聖な儀式の最中に下校途中の小学児童や買い物帰りの主婦などが通りすがらなかった幸甚を、彼女と我々は先達の
場面は中等部の教室に戻る。第一の災難がまだ語られておらぬのだ。
「いやっ、」久仁子は両手で目潰しを防護すると、「メガネに指紋付けないで」と距離を取りつつ懇願した。その直前に発した言葉は、「ごめん渋谷取れなかった」である。
「ちょっとちょっとちょっと」千代さんは俄に倉皇を来しながら、ゆるゆるとした和やかな声質を上ずらせつつ以下のように詰問した。「取れなかったってどーすんのよ。三日間とも? 一枚も?」
「いやあ」頭を掻くニコ。
「チケ発からどんだけ経ってんのよ――ってか、今からあたしの会番使っても絶対取れないじゃんよー間に合わないじゃんよー東京」
ニコが何とか彼女を宥めようと、「大丈夫だよチヨさん、
要は、このふたりの少女が愛好する
「ちょちょちょっとおい、名古屋までなんてヴィーンまで往くのとおんなじだよもー」
「大阪ならチケ的にもスケ的にも大丈夫じゃん?」
「ちょおおお」
ここで一時限目の始業を告げる鐘が
ここから四半日は、退屈な授業と千代さんの不機嫌な吐息しか聴くことが出来ないので先を急ごう。
阿僧祗花、否、我等が愛らしい女傑にして新進の
千代は教室の違うニコを詰問する為に
万策尽きた哀れにして善良なる
「おいあれ」
「やっガン見すんなて」
「ねえあの人あの人じゃね?」
「アソーキ先輩?」
「あああの人がそーなんだ」
「え、アソギ来てんの? どこどこ?」
「うっわ、マジきれつかほっそ!――髪すご」
「おおハナちゃんやん……」
「つか下校時間に登校して堂々とチャリで乗り入れてんぞ」
「コッチ見た」
「いや見てねーし全然」
「ヤバイんじゃないペネロペとかに見つかったら」
「ロペつか教師全員職員会議じゃね」
「やだって職員室からガン見えだろ校庭」[訳註:ほぼ皆男言葉だが全員女子生徒の声]
ロペとは恐らく阿僧祗花の
「なんかキョロキョロしてっぞ」
「病欠とかだっけ」
「いや単に登校拒否だろ」
「不登――こっ……」
全てはとても聴き取れないものの、
千代さんも田舎娘特有の愛らしき
――次の瞬間までは。
「ハナ!」
――あ、
校舎から飛び出してきたその安藤さんは、一直線にドニャ・キホーテの許へ駆け寄ったとみえ、花の前で急停止した彼女が膝に手を付きながら呼吸を整える際の息遣い、延いては鼓動までもが千代の佇む辺りからでも聞こえてくるかのよう。
「おお!」
阿僧祗花は
「吾がオリアーナ、潔浄にして優艶なる愛しの想い姫よ、そなたの美しさや貞淑に加え慎み深さと溢れてやまぬ機知を予てより賛美してまいったそれがし
「なんか小芝居始まったぞ」
「演劇部の実演か」
「え、アンドーさんはそうだけどアソーギさん別にちげーでしょ」
中学生と高校生が入り交じっているらしき外野の囁きを気に留めながらも、安藤先輩は部活動で務める
「ハナ……ちょっともう、来るんなら連絡くらい入れてよ何ヶ月も休んどいて」
「忠実にして恒久の下僕たるこのラ・サンチャのドニャ・キホーテ、」安藤さんの澄んだ声音がその耳に届いたものかどうか、ドニャ・キホーテは以下のように続けた。「――驍名を馳せんと荒野に繰り出すその壮途、験担ぎにせめて、玉敷ける御屋敷の窓辺に佇む御麗姿をひと目この眼に焼き付けんと、唯それだけを欲してここまで参上いたしましたのに、まさか目映きばかりの御尊顔拝するのみならず、直にウェヌスが金声をば賜う栄に浴するとはこの偶さかの
安藤さんはひとつ大きな溜息を吐くと、
「私たち物凄い目立ってるよ。丁度今日カガミさん来てるし取り敢えず中に……自転車があるのか、じゃあ直ぐ戻ってくるから校門出たとこで待ってて。折角顔見れたんだから、話したいこともあるしこれからのこととか……いい? そこ、中から見えないとこで待っててよ」そう念を押すと騎士の両肩を抱いて――少女たちの黄色い声の波長がその刹那大きな振れ幅を描いたことを鑑みれば、ひっしと抱き締めたのかもしれない――いずれにせよ安藤さんは急いで校舎の中に駆け戻ったようだが、その前にひと言、「……トボソは今は使ってません」と小声で言い捨てるのだけは怠らなかった。[訳註:エル・トボーソというのは中央イスパニアに実在する村で、その村名は当地に多く群生する《
美しいふたりの束の間の別れを、砂煙舞う――これは筆者の想像だが――校庭の上の残り香が、艶やかな余韻と共に彩っていた。
「あれがアソーギ先輩……初めた見た[訳註:音源まま]」千代さんは己の置かれた境涯、すなわち贔屓にしている
さて、ここで半坐千代にとっての
「チヨさんチョさんチョさあああん!」
「ううゎあああビックリしたあ!」
「大変大変、――ってゆか今アンドー先輩出てって戻ってきたけど。あ、あの人やっぱそうだアソーギ先輩だ!」なかなか友人が言葉を挿む隙を与えない。
「ちょっと、大声で人の名前連呼しないでよもう恥ずかしいじゃんか」
「え」
「えじゃないよもう、ていうかチョサンになってるし。国籍変わっちゃってるよちょっと」
ニコには通じないらしく、「違いがわからんけど」と一拍だけ間を置いて、「そうじゃなくて朝から探してたんだよ教室居ないし。うち今日携帯忘れてっから部活遅刻してもチヨさんに伝えとかないとと思って」――とこう捲し立てる。「今日部長のお知り合い来っから全員出席なのに」
「忘れてたのかよおおおこっちこそ超探したじゃんよもう」千代は天を仰いだ。
一方、立ち上がる際に聞こえて然るべき衣擦れの音が未だ聴こえていないところからして、まだ片膝を地に付けたままであったと思しきドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャこと阿僧祗花は、
「アインラードゥン取れた」ニコが場違いな話題を再開した
「え、ちょ、――うそ渋谷?」千代も色めき立つ。
「うんにゃ和やかナゴーヤ」ニコの即答だ。「これにて水に流せ。一生のお願い」
「なんて?」
「後生だ」
「じゃなくて……ゴーヤチャンプル?――沖縄?」
「名古屋だみゃー」――後で調べたところによると、会話の最中に
「名古屋って、あんた……二枚?」おっとりとした声で張り詰めた空気を出す手腕といったら流石は
「うんにゃ一枚」
「貴様のは?」
「えだってニコ東京獲れてるし」ニコにとっては名古屋行きを手配してやることが、戦友に対する
「殺意」
「おっと深呼吸深呼吸……」親友の背中を優しく摩ってやりながら、「しかも次の週から家族旅行でアロハの島に高飛びとはもっぱらの噂」
「いやお前それどうなんだ人として」
「
「ちょっ!」
「もし!」
「お前あたしにだけ名古屋行けって? 独りで味噌カツ食べてこいって?」ミソカツとは
「はい?」
「もし、」阿僧祗花は仕切り直すと、「――其処な宮仕えの花娘」と千代を呼び止めた。
「私ですか?」首を振って周りを見廻す千代さん。
次に、久仁子の方を見やると、阿僧祗花はこう云った。
「そちはこの娘を何と呼んだか」
「名古屋?」と小首を傾げる。
「ちょ、誰が名古屋」女騎士の威儀を忘れてすかさず友人に切り返す千代さん。
「テヘベロ――おっと危ない」友人の拳骨を見るや慌てて舌を引っ込める眼鏡の少女。
「それじゃ――いやそれではない。もっと前だ」ドニャ・キホーテは再び問う。
「みゃー?」初めて顔を合わせた年上の麗人にも物怖じせぬニコの図太さは、彼女がまだ中学生ながら安藤部長の手解きを受けるほど高等部の演劇部に入り浸っているが故か、「あ、チケ取れた……です?」質問を質問で返す。
「おぬしはこれを、サンチョと申したのではないか?」花が訊きたいのはそこだ。
「チヨさんと申したのですよ」やっと会話が繋がった。
「サンチョサンチョと聴こえたのだが」喰い下がるドニャ・キホーテ。
「惜しいですね。チヨさんチヨさんチョさああんと申し上げたまでです」余計なことを言う床屋の娘。
「それが聴ければ他に云うことはない」ドニャ・キホーテは
久仁子は「ほんじゃうち部活戻っから」と身を翻し、「ちょ」と吃りつつその腕を掴もうと伸ばされた千代さんの指先に空を切らせると、三歩ほど飛び跳ねてからひょっこと振り返るや敬愛する部長の幼馴染たる引き篭もりの阿僧祗先輩に一礼してそのまま、校舎に駆け入った。かと思えば、下駄箱から直近の階段に向かう途中の廊下の窓のひとつから、それは通風目的で開け放たれていたわけだが、そこから顔を出して、「みゃーのアイラはメールで送っとっからあ。よろ」と片目を閉じながらまた校舎の中へ消えていった。
[訳者補遺:この辺りから著者の自由な想像から生まれた状況描写や感情の代弁等が頻繁に見られるようになる。手元の音声資料から当該する場面周辺に於いて聴き取れる、登場人物たちによる実際の発言や録音された
「むぅ」長い唸り声を絞り出してから再び肺の中を空気で満たし、今度は一気に吐き出す千代さん。「……ハァァァ、めんどくさ――さが勝った」
「チヨさんと申したか」不意に阿僧祗花は中等部に在籍する初対面の後輩に声を掛ける。
虚を衝かれた千代は「は! はい、私です!」と図らずも自分の日除けになってくれていた、そしてすっかりその存在が場に馴染んでしまっていた騎士に訳も分からず向き直った。
千代にとってはこの麗人の発する
花が続けて云うにはこうだ。
「花娘のチヨさんや、ここでの
「ええと私は名前はチヨですけど……花娘は、あれ?――ハナさんはアソーギ先輩じゃないんですか? あれ違ったっけ?」
「ハナか、身共がそう思えば、そうなり得るかも知れん」花は感慨深げにそう呟くなり、「然れど、天地神明に誓って明明白白たる事実だけを述べれば、何を隠そう拙者こそかの豪胆なプラティールすらもその名を聞かば盾を落として震え上がるという勇壮この上ない豪傑にして、天が与え得る数多の美徳の中で比類なく良質な物のみをその身に宿した醍醐のような貴婦人ドニャ・ドゥルシネーアに
「うわあ……、はい」この時千代さんは呆気に取られながらも、よく解らないけれど眼前に立つのは退屈な日常生活の中でそう幾度もお目に掛かる機会のない
[訳者補遺:翻訳では余り意識されていないものの、物語の序盤では花の一人称に所々揺れが見受けられる。相手によって使い分ける狙いもあったのだろうが、察するにどの代名詞が自分にしっくり嵌るか試行錯誤していたのではないか]
「驚天動地の冒険に赴く前に、只ひと目吾が想い姫の姿容を遠巻きながらこの眼に焼き付けようとこのエル・トボーソの御殿まで罷り越したが、これはどうして思わぬ収穫であった。騎士たるもの遍歴に従士を伴うのは、かのガンダリンの例を持ち出すまでもなく免れ得ない慣例であるからな」
花の言葉は《
「――では参ろうか」見れば花は校門の外へ出よと、その面差しを以て花娘に促している。
突然踵を返した出逢って数秒の先輩に対し後手に回った純朴な千代は再びたじろいでしまったが、一転「はい――えっ、ちょっと待ってください」と云って咄嗟に花を呼び止めた。
花は自転車を引く手を止めて一旦顧みる。その機敏な反応にハッとした千代は「いえいえいえ何でもないです!」と前言を撤回した――そういえば高等部の、そして演劇部の安藤先輩が阿僧祗花に「
元々自分も帰宅するつもりだったし、部活に戻った久仁子を今から追ったところで捕まるとは思えない……面識のない他の部員たちに分け入ってまで悪しきニコを問い質す気力もない。今更足掻いても詮無いことだと仕方なく彼女の後に付いて学校の敷地外まで踏み出す千代さんだったが、思い掛けず阿僧祗花が、
漸く上下に揺れる馬の尻尾が顔を撫でるくらいの距離まで追い付いた半坐千代は、息を整えながらも何とか「あの……アンドーさん、アンドー先輩待たなくていいんですか?」という問い掛けを絞り出した。
「アルドンサ」花は歩速を緩めることなく後輩の当然の疑問に答える。「――いやドニャ・ドゥルシネーアの学舎[訳註:つい先程安藤さん本人には「御屋敷の窓辺に」と伝えているので、聴衆の存在が影響してか途中で設定がより現実寄りへと修正されたものと考えられる]には、身共が先達て述べたように、垣根の外より御姿を透かし見ることのみを目当てとして参っただけなのじゃ。鼻向けとしてその朱唇皓歯より御言葉賜っただけでも望外であるし、それ以上を欲するのは過分というもので、何よりもう一度双方の水晶体に言を通わすふたりの面立ちを映してしまったなら、それこそ互いに別れ難くなるは必定……晴れがましき出立が互いに泣き腫らす愁嘆場と化するのもそれがしの望むところではない。かの姫君に再び御目見得する資格を得んが為にもこのキホーテ、幾多の険難を制覇してその名を世に轟かし、故郷に錦を
中途まで右から左へと聴き流していた千代も、「ああ、首級は喜ばれますよねえ」という見当外れな返答だけは欠かさなかった。そもそもこの少女が、部活で少なからず世話になっているだろう馬場久仁子がというならまだしも、間もなく待ち合わせをすっぽかされて消沈する安藤さんのことにまで思いを馳せその心中を慮るには及ばないのだ。言葉を交わしたこともなければ、先方に至っては自分の顔すら識らないわけで、その場に偶然居合わせたという以外何ひとつ
「さてサンチョ、いやチヨさんや」
千代さんが気付かぬ内に、この比類なく華麗な女丈夫は車輪の幅が細く腰掛けの高い自転車に跨っていたのだが、それはトボトボと歩く明日の従者の足に合わせつつも器用に
「後の世まで語り継がるる
「あ、アソーギ先輩どっか出掛けるんですか夏休み……」ここまで反射的に返答して、もう一度「――あ、」と口を噤んだ千代。憂鬱な試験週間とそれに続く短い連休、そして残り二三日の登校日さえ遣り過ごせば晴れて長期休暇へと突入する一般の生徒たち相手ならいざ知らず、どうやら一学期丸々登校していなかったらしい高等部の先輩に《
「うむ、どっか出掛けるのだ。枷
「あたし、私は月末――いや八月になんのか――はアマデのライブ行かなきゃなんですよ。なんか名古屋くんだりまで」間を保たせる為そう零した千代は横目で後方に睨みを効かせたが、校庭を後にして暫く経った今となっては呪わしき馬場久仁子の
「あまで?」阿僧祗花が問い返す。
「あっそか、ですよね。アマデウスってのがですね……」説明せんとする千代を――
「アマディス?」――
半坐千代の、これが数えて
「え、あ、はい」細かいことまでは気にしない、
「ブイケー……《
「つってまァインディーズですが……今月の渋谷のチケットが――」
「
デガウラって何だろう(《ヶ浦》の日本語での意味は《
「さっき一緒にいた子が、ババのクニコっていうケチな遊び人なんですけど」
「バーバー……
「エセニコルというかベロベーロ……それです」深くは考えなかった。「今度会ったらあの舌引っこ抜いてやりますわ……あの子もまァ、バンギャ仲間なんすけど」
「アバンギャルとは是則ち、
「あ、そうですバンギャルです。ニコがあたし、私の分だけ取れなかったとかであたしひとり来月に名古屋まで行く羽目になって」初めて言葉を交わす年上の佳人に何故こんな愚痴を零しているのか、千代自身もよく分からなかった。
花は暫し自転車を、つまり
「成程、バンドとは腕に覚え在りし荒くれ共を掻き集めた
「そんなわけでして、――」千代が纏めに掛かった。「ええっと、アソーギ先輩?とご一緒することが出来ないんですよ……つってもその前に名古屋行き実現の為にはまずうちの親を説得しなきゃなんですけど」
「よし」花は心に決めたようだ。「身共がこの身を惜しみなく投じるところの騎士道、その嚆矢にして泰斗たるかのアマディスが乱世を憂いて世直しを志し独立軍を結成なさるのであらば、このドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャも後れを取って後世の謗りを受ける謂れはない」
「そんなわけでして……はい?」千代も会話が噛み合っておらぬことに漸く気が付いたようだ――
「うむ……うなむーの」
「共に来るがよいサンチョ。身共が其方ともども、アマディスの許へ馳せ参じようぞ」
名古屋まで同行してくれるって話かしらとも考えたが、先輩はアマデの
「ふん」満足げに鼻を鳴らした阿僧祗先輩は、「では何れ時を待たずして迎えに行く。暫しの別れじゃ」と嫋やかに言葉を結んでから、その腰まで届く
「あ、はい。おつかれさまです!」
千代さんはいつも遣り慣れているのだろう日本人独特の、あの玩具の
「にしてもほっせえなあ……髪長っ」そう漏らしながら自分の通学路を再度歩き始めた千代は、矢庭に「あっ」と声を上げて一旦立ち止まったようだが、「……まァいいか」と呟くとそのまま家路に就いた。
偶然の成り行きとはいえ美形の、そして面白い先輩と知り合えたのは嬉しいことだけれど、もうこの先会う機会はないだろう。再会を願おうにも彼女の
《
ここまで
先ず第一には、
第二には、半坐千代がこれから八月の半ばまでの三週間に渡る艱難辛苦に及ぶ直接の切っ掛けとなった厄難であるが、眼鏡のニコが阿僧祗花の聴覚の冴える範囲で、千代の名前を連呼することにより騎士にあらぬ誤解と期待を与えてしまったことがある。詳述には及ばないと思うけれど、兎にも角にもこのことだけで、ドニャ・キホーテはその連れ合いとして千代に
最後には、ふたりの女子中学生が恋焦がれる楽隊の名と、ドニャ・キホーテが最も崇拝し規範とする騎士道物語の主人公の名が、発音の違いを越えて偶然の一致を見てしまったことの帰結として、花の破天荒な旅立ちにひとつの目的が加わると共に、素直に夏期講習を受けていたらどれだけ
尤も、花が呼ぶところの
ではこの章の締め括りに向けて物語を進めることにしよう。
あの、自転車で乗り入れてきた
この間交わされた彼女たちの会話には、日本人ではない筆者の理解を超えたところが多々含まれていたので、ざっくりと割愛させていただく旨ご寛恕いただきたい。[訳註:日本人である訳者にもよく解らなかったのでこの処置には賛成である]
ただ確かなことは、馬場久仁子が前言通り名古屋公演の入場券を電書で転送し、已むを得ず千代がそれを受領した件だろうか。
「夜行バスって中坊ひとりでも乗れんのかいな」との呟きも虚しく響く、
[訳者補遺:この三日間の出来事が記録された資料として訳者が査収したのは千代さんの音声のみ。本稿で阿僧祇家の場面が描かれなかったが為に彼女の分の音源を訳者へと転送しなかったのかと思い、この件を著者に問い合わせたところ、日を置いて回答が得られた。それに拠れば下校時に千代と別れてから再び相対するまでに花の胸元で録音された九十時間弱は元々欠落していたのだという。但しこの箇所に限らず、訳者が手にした音源は少なからず編集されたものである。執筆背景に関することの次第は第三章冒頭で語られよう]
変わったことといえば、
高等部は幾日か前ひと足お先に夏季休暇へと突入している筈だから、彼女が部活を目的として登校したのか、確認したわけではないものの、もしかしたら千代に面会する為だけにわざわざ足を運んだのかも知れぬ。
「ごめんなさい突然呼び出したりして」安藤部長は挨拶もそこそこに頭を下げた。
千代は緊張して、「いえいえ近くで見るといやなんか本当にすごいキレイですねい」と意味不明な供述が口を衝いて出た。そこで漸く、「あ、アソーギ先輩」――淑女らしい目の前の麗人とはまた違った、凛とした可憐さを持ち合わせた女騎士のことを、そして彼女と交わした
「そう、」期せずして初見の後輩が要点を突いてきた(ように思えた)安藤さんは、「ハナのことなんだけど」と前置きを省略しつつ付け加えた。「ハナってアソーギさんのことね」
「はいわかってます」頼んでもいないのに久仁子が脇から口を出す。
一度
「ああ、はい」校庭どころか途中まで一緒に下校したのだ。千代さんは可能な限りふたりの間で交わされた会話の内容を思い起こそうと試みるが――「すみませんあんまよく憶えてないってゆうか」千代は首を傾げて続ける。「あんまよく意味が解らなかったので」
安藤先輩は落胆の色を隠せなかったが、「そうかあ……」と額に手を当てながら、後輩の手前だからか無理に笑顔を取り繕った。
「あ、でも」唐突に声を上げる千代に、教室と廊下を隔てる引き戸の敷居の外にいたふたりは視線を向けたようだ。
「何?」と演劇部部長が訊き返す。
「いやなんか、」千代は何と説明したものか数秒間云いあぐねてから、「……《シェンよと》の名古屋ミサに付いてってくれるとかくれないとか」そう云って語尾を濁した。
「はァ?」これは馬場久仁子の声だ。当然の反応だろう。「なんでアマデ?」
安藤部長が割って入って質す。「アマデウスってババちゃんの好きなやつでしょう」
「聴きます?」と即座に制服の隠しから
「うん、また今度」軽く優雅にいなしたドニャ・キホーテの
「いや、多分行かないとは思いますけど……冒険がどうとか云ってたんで。アソーギ先輩も演劇部の方なんじゃないんですか?」千代がいまだに誤解していたのも無理はないのだ。それだけ阿僧祗花の立ち居振舞いはその口調も含めて芝居臭く、そして大層堂に入ったものだったのである。
「うーん……」安藤さんは考え込んでしまった。
「いつの間にそんな仲良くなったんよハナ先輩と」ここで久仁子がどうしてなかなか気の利いた提案をする。「そんならユー実際連れてってもらっちゃいなよ名古屋。そんで一緒にいる時間先輩に勉強みてもらえばいいんじゃん」
今度は千代の方が「はァ?」と呆れた声を上げた。「どういう流れでそうなる」
「だってチヨママって年末の昇級にビビってチヨさんに夏期講習受けさせるっつってんでしょ」余程の
「おかしいってあんた……」
「紙一重?」
「いやっ、パッチリ二重でらっしゃって、その」千代はこれ以上の失言を慎む代りに冗語で畳み掛ける道を選んだ。「――私の目は節穴ですからおつむの出来までは見通せませんがあの……ほら、うちらの学年じゃ美人っつってもせいぜい上の下止まりですけど、その、部長さんとアソーギさんはおふたりだけで青の顔面偏差値相当上げておられますよね!」
「何気にうちら助かったよね黄色で。つまらんけど」[訳註:中高一貫校となると六種の学年色を設定している可能性が想定できる。偏差値が低い環境の方がぬるま湯が如くで居心地は好いが、周囲を見回しても目の保養が出来ない故につまらない?]
「充分面白そうだけど――ていうかあんなまともな子どこ探してもいないから……まあでも、たしかに中三の時の昇級は首席だったみたいよ」
「おお、アンドーさんとワンツーフィニッシュですか!」
「いやいや私なんかは、物凄く運が良くてギリギリ一桁入れるか入れないか」一学年に於ける生徒数にも依るけれど、彼女も優秀な学生であることに変わりはないようだ。「平均点取れてたらそれ以上は望まないです」
「天は二物三物与えまくってますよね~それに比べて我々ときたら……」
「――南無阿弥陀仏」千代は仏像にも似た
「幸福量保存の法則ってヤツですかね……少しでも不公平な格差を是正するために何かオゴッてください部長」個人の資質に多少の不満があったにせよ、日本に生まれている時点で平均以上に幸福だと自覚すべきであろう![訳註:《
「世界はそんな単純なゼロサムゲームじゃないとは思うぞ」安藤は慣れているとみえて久仁子の
「追試……受ければ上がれるんですよね?」
「ニコも貼ってあんの見ました見ました」友人の焦燥を余所にはしゃぐ久仁子。「ひとりだけ四八〇点くらいじゃなかったでしたっけ? 頭おかしい!」
「なんで中一の分際で中三の昇級試験の結果覗きに行ってんのよアンタ……」そう云って友人の
「ハンザさん、下の名前チヨっていうの?」
「なんかハナ先輩にも似たようなこと訊かれた気が」千代は正直にそう答えた。「そんなに珍しいすかね。まァ苗字はともかくチヨは普通でしょう」
「ハンザさんチヨっていうんだ下の名前」
「え、ああはい」
「大事なことなので二度訊かれた!」
「うううううん、そうかあ」かなり長い間の煩悶を終えた安藤先輩は、「本来なら私の役目なんだけど……」との前置きを挿んでから、千代の両肩に手を置いてこう結んだ。「大変だと思うけど、ハンザさんに頼むしかないわね」
何かを頼まれたらしい。
「はぁ、はい」千代も何となく諒承してしまった。
「あ、ハンザさん連絡先教えてくれる? メアドとか、出来れば電話番号も」
やっと自分にも通じる日本語が聞こえたので、その反動からか威勢よく「はいはいはい、全然かまわないですよ! 光栄です」と調子よく受け応え、千代は
「この人コミュ障だからラインとかバカッタやってないんですよ」
「いやアンドー先輩相手だったらやるよ」
「のぉぉぉぉおおお!」
花先輩は高等部の終業式にも顔を出さなかったのだろうか?――千代は安藤部長と、金魚のフン宜しくピッタリとくっ付いて行く久仁子の後ろ姿を見送りながら、聞きそびれた諸々について暫く考えていたが、担任が廊下を歩いてくるのが見えたのでそそくさと席に戻った。
「あ――っちゃあ、ハナ先輩のアドレスとかも教えてもらっときゃよかったよ」
そう漏らしながら着席した千代はこの時まだ、何だかんだで
アマデウス《
さて、夏休みに入ってからの五日間、半坐千代は特に外出するでもなく、冷房の効いた屋内で日がな一日
そんな中、翌日つまり六日目に当たる日だが、二日後の土曜日にアマデの渋谷ミサ(東京公演は七月最終週の金土日、名古屋・大阪はそれぞれ翌週の土曜と翌々週の土日に開催予定)、そしてその翌々日からはサイパンへの家族旅行[訳註:最前の会話ではハワイ旅行だった筈である]を控えた薔薇色の休暇真っ只中の
「《劇部合宿アット
善良なる千代さんは「いや知らんし」と呟いた後、「えアタシん家?」と声を発してもう一度携帯端末の画面に目を遣った。暫く間を置いてから、
「実際、」枕に顔を埋めながら思わず心中を漏らす千代が続けるに、「――あの変だけどカッ……いいセン……が……変だけど、一緒に付いて……れれば……」名古屋行きの許可が出るのではないか、そういう
しかし忠義深い
同じ頃、まんまと
翌日、則ち千代にとっても馬場久仁子にとっても等しく夏休み七日目の早朝のこと。
払暁の微睡みを
充分と空は白んでいたが、日輪の顔さえ東の山に遮られている今時分は空気も清涼で寧ろ肌寒いほどである。柵を開くと又伸びをしながら通りを見渡す。日本には《
「あ」千代は声を上げた。「今晩渋谷初演か……」
今一度半座宅の門扉に手を掛けて、内部に片足を踏み入れたその刹那――千代の耳には、そして千代の、驚くべきことに親友にして
「ん?」そんな音を鼻から漏らした千代は寝ぼけ眼のまま、東の空のその下の、遥か彼方の
柵に手を掛けたまま、片足を庭先に踏み込んだまま、
「――ァァァアアアア? ちょっちょっちょ、うそうそうそ……え!」
一気に目が覚める半坐千代。
[訳者補遺:本稿に於いて登場人物――概ね阿僧祇花嬢――の物する発言中で外国語が使用されていた際、それが原語生来の発音・抑揚に忠実であると判断した場合に限り該当言語の文字表記に従い、それが所謂カタカナ発音に聴こえた場合は親文字にその意味を記した上で実際にその人物が発した言葉として
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ドニャ・キホーテ @salsa_de_avendanno
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