ドニャ・キホーテ

@salsa_de_avendanno

初章 にて扱うは彼の高名なる孤娘ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャの行状、 及び女騎士ハナと三茶の村乙女チヨさんとの特筆すべき出逢い

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



初章

にて扱うは彼の高名なる孤娘ウエルファナドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャの行状、

及び女騎士ハナと三茶の村乙女ドンセージャ・デ・ラ・アルデーアチヨさんとの特筆すべき出逢い

Capítulo primero.

Que trata del comportamiento de la famosa huérfana doña Quijote de la Sancha,

y del encuentro trascendental de la caballera Hana con Chiyo-san, una doncella de la aldea de SANCHA.


三軒茶屋のと或る街郭バリオに、その番地までは断定しかねるもののデ・クジョ・ヌメロ・ノ・キエロ・アセグラールメ然程昔日のことでもない、両親のないひとりの少女ウナ・チカ・スィン・パードレスが住んでいた。その屋敷が六畳間の衣裳部屋カメリーノ・デ・セイス・タターミス居心地好い箪笥コーモダ・コーモダ、加えて今や乗り手なき細身の路上競技用自転車ビシ・デ・ルタ・デルガーダ泥棒相手にも吠えぬ労農狩猟犬コブラドール・デ・ラブラドール・ケ・ノ・ラドラーバ・ア・ラドローネスを備えていたとはいえ、爵位ティートゥロもなければ女郷士イハダルゴ――況してや海藻の精イダ・アルガ――の地位にもないと思しき娘の持ち物からは骨董品の革盾アダルガ・アンティーグアひとつ見出すことすら叶わなかったに違いない。

 同じ屋根の下に暮らすのは六十代半ばの祖母と中学セクンダーリアに上がったばかりの妹のふたりのみ。我等が才媛ヌエストラ・ホーベン・デ・タント・タレントはというと然る女学校アカデーミア・フェメニーナが郊外に居を構える高等部の制服ウニフォルメ・デ・バチジェラートに袖を通して間もない年頃[訳註:学年に関しては後程修正される]であった。長身にして痩躯の細し女フィナ・ダーマはその風貌も切れ長の双眸に形の好い鼻、そして引き締まった口元は秀麗ながら一見端正な美丈夫チコ・アプエストを思わせる精悍さ、通学の途上に袖触れ合う全ての老若男女が顧みるほどの佳人ベジェーサなれど、ある一時期を境にめっきり路端で垣間見る機会も絶え、彼女を密かに贔屓ファボリータとしてきた名もなき近隣の者たちたるやその無聊も弥増すばかりであったと謂う。

 名をカナだかサナだかと、これも音の具合によって如何様にも聴き取れるのだが、物語の進行につれ蓄積される情報を信じると《はなアナ》――フロール――と呼ぶのが最も近しいようだ。


さて劈頭から興を殺ぐようで恐縮なのだけれど、この辺りはどう足掻いたところで半ば創造的想像力の産物プロドゥクト・デ・ラ・イマヒナシオン・クレアティーバになってしまうのである。尤も大まかに言って家居が三茶に在るのは確かな筈だし、主人公の容姿にしてもその名の通り華やかフロリーダだったのだろうが、何分筆者エスクリトールとて実地で取材したのでもなければ当人と面会したわけでもない以上、如何せん細部に於いては推測の域を出ないのだ。ここは《想像力なき現実レアリダ・スィン・イマヒナシオン其は現実の半分に過ぎぬエス・ラ・ミタ・デ・レアリダ》という先人の金言を以てご容赦願いたい。

 仔細は追って詳述するとして、戯曲宛らに科白リーネアスを只文字起こししたのでは解り難いし、乗り物の音や人いきれを聴解の及ぶ限り書き込んだところでそれではとても読み物にはならないだろうという管見メンテ・スペルフィシアルによりこのような体裁フォルマート[訳註:小説形式]を採った。

 そんなこんなでアスィ・コモ・バーモス、彼女らの声が実際に届き始めるまでの水向けとしてパラ・プロボカール、我等がハナ嬢が謂わば薫陶を受けたであろうことが明白な、《創作史上最大の(所謂邪気眼系)中二病罹患者/El paciente más grande en la historia de creatividad que fue infectado por el síndrome del segundo de secundaria (con el llamado mal de ojo)》として誉れ高いキホーテ翁ビエーホ・キホーテの語り始めをば畏れ多くも剽窃させていただいた次第――と、ここで詮無き弁解イヌーティル・エクスクーサをしておこう。


ただ現時点で蓋然性が高い史実エチョ・イストリカル・コン・アルタ・プロバビリダと言えるのは以下の経緯デタージェ、則ちこの阿僧祗あそうぎ花[訳註:仮にこの漢字を宛てておく。他の人物名も地の文パルテ・デスクリプティーバでは逐次適当な宛字を用いることとする]が優秀な成績で高等部へと進学したものの、物心付く前に両親を亡くした彼女を大層可愛がってくれていた祖父と死別して以来、学校にも通わず自宅に引き籠もるようになってしまったという経緯だ。

 祖母と妹のトーニャ[訳註:花がそう呼んでいただけで実名は不明]も甚だ気に病んで労を尽くしたが、部屋の中で一体何をしているものやら自室から出てくることすら稀な、夢と現を行き来するだけの不毛な日々ディーアス・エステリーレスが長く続いた。どうやら本を読んだり鍵盤を叩いたりプルサール・ラス・テークラスといった益体も無いことしかしておらなんだとみえ――

 いや、実際そんなことばかりしていたのである。[訳註:断言しているがこれこそ著者の完全なる当て推量に過ぎぬ]

 それがふた月を経て、丁度夏休みに入る前の学期末試験が実施される頃――《梢の夏ベラーノ・コパード》と呼ぶには些か陽射しが映え過ぎる時節――になって漸く、花の英姿を日輪の下に認める日がやってきたこと、我々にとってもそれだけは望外の僥倖インプレビースタ・スエルターサと認めざるを得ない。


この佳日の同じ刻限、花が昨冬まで在籍した中等部、その三年生の或る教室のひとつに高く響く声があった。(《昨冬までアスタ・エル・ウールティモ・インビエールノ》とはつまり、日本では学校に限らず年度の区切りペリーオド・アヌアルが三月と四月の境目なのだ)

 ――ガラガラッスラーム

「チヨさんチヨさんチヨさあん!」[訳註:登場人物の発言を文字化する際、訳者が聴き取った音の印象により――例えば《さあん》《さぁん》《サーン》というように――幾分書き分けをしているが、正式の音声学や発声法に則った区別ではない旨ご留意いただきたい]

 椅子に掛けたまま、千代[訳註:これも暫定的な借字である]は嬌声の主を探す。久仁子という名のその少女は教室に駆け込んで入るなり千代の前の席を勝手に寸借し、その背凭れに顎を預けながら彼女の顔色を窺うとこう言った。「チヨさん大変なことになったよ」

「ちょっと人の名前を大声で連呼しないでよ」千代は姦し娘チャルラターナの開口一番をそう引き取ってから、「あたしをパッツンにした以上に大変なことを仕出かしたら、閣下降誕祭の供物としてニコの首級を捧げるから覚悟しときなよっつって」とその物騒な言承けコンテスタシオン・トゥルブレンタにはおよそ似つかわしくない呑気な口調でエン・トノ・センシージョ釘を差した。

「ちょ、メガネ触んなって」のんびりと伸ばされた手をペシャリ跳ね除けながら、「パッツンはアルト様リスペクトだよ。それはそれとして、」ニコに悪びれた様子はない。「――よし、それなら好い物を進ぜよう!」

 馬乗りになったまま椅子に胸元の重心を預け、ゴソゴソと制服の隠しボルスィージョを探る。

「何何? 進ぜて進ぜて?」千代さんも然して怒っていなかったのである……飽くまでこの時点でという意味では。「ちょうわ何これカワウィー。何これ水晶?」

 ニコが取り出したのは首輪ガルガンティージャか何か、兎に角首飾り状の装身具アクセソーリオ・エン・ティポ・デ・コジャールである。吊るし玉ディヘが付いているのだから首元飾りコルガンテ[訳註:原義は仏pendant同様、《吊るされた/ぶら下がった状態の物》。玉の位置に依っては《胸元飾り》か]と呼ぶべきかもしれない。


端折って明かしてしまえば、これは盗聴録音器グラバドーラ・エスピーアの類いである。筆者はそう結論付けている。今現在書き連ねている文章が何よりの証左である。尤も確信を持つにはこの物語の主人公たる深窓の花嬢ドンセージャ・フローラ・デ・クラーセ・アルタが、その忠実なる従者セギドーラこと千代の手にしたのと同じ(と思しきケ・パレーセ・セール水晶玉ヘマ・デ・ビードリオ叙任の儀式セレモーニア・デ・インベスティドーラと共に授けられるその刹那まで待たねばならぬのだが。

 無論この瞬間にはニコ某ウナ・タル・ニコ――この娘は美容室の跡取りエレデーラ・デ・ウン・サロン・デ・ベジェーサだそうだ――も我等が善良なる千代さんもその事実に気付いていないし、今後気付くことがあるのかも疑わしい。

「いやあ、チヨさんにはいつも世話になってますもんで……」齢十四にして大した老猾ぶりタイマーダだ! ニコは軽やかに後ろへと回り、千代さんの項の辺りで首飾りの留め金シエーレを嵌めてやる。

 千代は鼻を鳴らして、「ふうむ、ヴォルフ閣下には別の物をお納めすることにしやうう」と満更でもない様子。「三千円ってとこかな」

「いや、ハナマサの前で貰った」

「ちょ、タダかよ! つか試供品かよ!」ツッコミコントラゴルペを入れようにも背後に隠れたニコには後ろ手が届かない。

 ニコは巧みに鉄拳プニョ・イエーロを避けながら、「ちゃうちゃうチヨさんそうゆんじゃなくて。スレ違いざまに妖しいおっさんがくれてん。これが似合うお友達居たら上げてくださいって」

「捨てろよ! もう~」そう云いながらも千代さんに装身具アクセソーリオを外す素振りはない。「それは大変なことじゃなくて変態なことだよ」[訳註:《テーヘンなことじゃなく大変なことだノ・エス・アルゴ・テリーフィコ・スィノ・テロリーフィコ》と翻訳されている。西terríficoは恐らく英語由来の中南米方言であり、奇しくも千代が生粋の西語へと訂正させた形になった]

「いやいや千代さん、大変なことは変態のオサーンとは別のことでして」とニコ。

半坐千代の、第一の災難ス・プリメーロ・デスカラーブロである。


ふたりの、といってもこれは稀代の美姫にして高潔なる花娘チカ・フロレアーダ[訳註:語感としては《花のような》というよりは《花に囲まれた》《花柄を着た》が近いか]とその愛嬌逞しい従僕ラカージャ千代さんのふたりということだが、彼女らの運命的な偶然の出逢いエンクエントロ・ポル・カスアリダ・デスティナーダから逆算するに、これはくだんの盗聴器が蓄えた膨大なる音声情報アルキーボ・デ・アウディオに則っての作業であるのだけれど、阿僧祗家の長女が耐久前の隠逸エンシエーロ・プレドゥラーブレ[訳註:《永のペルドゥラーブレ》の誤記か]を辞して、久方振りにその身を天日の下曝けつつ往来に踏み出すのにはそれから四半日クアルト・デ・ディーアを待たねばならなかった。[訳註:もし西medio día《半日》同様にcuarto díaであれば週或いは月の《四番目の日》という語意になるだろう。尚、半日を十二時間と捉えるか日の出ている時間の半分と捉えるかに就いては意見の分かれるところだが、ここでいう《四半日》は六時間の意味]

 遍歴の騎士の門出パルティーダ・デ・ロス・カバジェーロス・アンダンテスといえば朝まだきマドゥルガーダと相場が決まっているとはいえ、花はまだ自分が何者かを判っていなかったし、それでも成るべき何者かでないことケ・ノ・エス・アルギエン・ア・キエン・デベリーア・セールだけは解していたこともあって、先ずは近在で最初に行き会った貴族か領主、爵位かせめて儀礼称号アル・メーノス・デ・コルテシーアを持つ(DonとかVonとかBarónとか)由緒ある貴人こそが、これより世界の果てに至るまでその名を轟かす勇者、ラ・サンチャ地方の奈辺より舞い出た不世出の女傑マチョーラドニャ・キホーテを叙任するに相応しいとこう決めたものだから、明朝の旭日を望むまでの半日あたら時間を無駄にするよりは思い立ったが吉日とばかりアスィ・コモ・ケ・オイ・エス・エル・ディーア・セニャラードその白く滑らかな肌を炎威に晒すことを選んだのである。

[訳者補遺:文中に修飾節を挿入する際に読点コマで区切る作法は徐々に中線記号ギオンで挿む形へと移行される。構文を取り難いという点では大差ないと思われるが、恐らく登場人物の話し振りを模したものと解釈し拙訳もそれに倣った。又、文章の段落パーラフォスセクシオーネスそのものもどんどん長文化していく為、少し目を離すと何処を読んでいたのか分からなくなる点に注意]


阿僧祗邸レスィデンシア・デ・ロス・アソーギのまさに玄関先、此処に来て我々はやっとこさこのドニャ・キホーテ則ち阿僧祗花の鶴声ボス・デ・ルイセニョールを耳にする機会に恵まれる。何のことはない、今朝方メガネのニコニコ・デ・ラス・ガーファスが通学途中あの首元飾りを譲り渡した当の不審者ミスモ・カラークテル・ドゥドーソと、門口で出喰わしたということだ。

 花にとっては幾十日か振りにその網膜が直に捉えた、家族以外の人間だったにもかかわらず、通り過ぎんとしたそのおっさんティーオへと果敢にも、手を翳してこう呼び止めたのであった。

「あいや暫く、暫し待たれよ」[訳註:西訳では「¡Ay! un momento, un rato espera.」]

 これが筆者の鼓膜を初めて震わせた玉音ソニード・ブリジャンテであり、何度再生してもこれを聴く度にジョ[訳註:yo《私》]は、如何なる要件もその手を止めて暫し、待ってしまうのだ。それが哀しい哉己に向けられた言の葉オーハス・コン・パラーブラス[訳註:但し西hojaは紙や花弁・刃等、他の薄く平たい物をも意味する単語である]ではないと知りつつも。


おっちゃんティーポは足を止めたのだろう。花は口上を続ける。

「不躾ながら、御仁は諸国遍歴の武人とお見受けしたが如何か」

 これが凡百のおっさんティーオ・プロメーディオであれば、突如閑静な住宅街の一角より制服の美少女チカ・ベジャ・コン・エル・ウニフォルメ[訳註:実際何を着ていたかまでは断定できない]が飛び出して斯様に面妖な物云いを浴びせ掛けてきたとするなら、すわアラこれは一体、演劇部の度胸試しプロバール・エル・コラーヘか将又ドッキリ番組プログラーマ・デ・ブローマスに類するものかと、自分を狙い撃つ撮影機の透明な目オホ・トランスパレンテ・デ・ラ・カーマラを探しつつ自身の目を泳がせてしまいそうなものだが、そこは妖しいおっさんティーオ・エクストラーニョなのである。

 おっさんは厳かに言い放つ。

「如何にも、拙者はと或る西方の旧領にてマルグラーベの称号を持つ騎士である。故あってその名は明かせぬが、そこもとが拙者を呼び止めた由を伺おう」[訳註:尚、《辺境伯マルグラーベ》も後に成立した《侯爵マルケース》も語頭のmarkō-は境界、つまり異教徒や蛮族に対する最終防衛線を意味する。謂わば外様が故に国王の目も届かぬ僻地で勢力を増していった貴族のこと]

「忝のう御座います」花はその場に跪くと以下のように続けた。「それがしは当地の名にし負うドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャと発します、駆け出しの山出しながらその血気のみ百千足ももちだる子、郷士だてらに不義と悪徳の蔓延る世を正す為漫遊の旅を始めんとその門出にある新参なれど、願わくばこの場を出立の時宜として尊公に騎士叙任の儀を賜りたく」

「誠分外ぶんがいなるお役目、然りとて何かのご縁だ。謹んでお引き受けしましょう」マルグラーベの騎士はそう口にすると、「剣をこれへ」と言って右手を差し出した。

 ドニャ・キホーテが大振りの日傘パラソール・デ・マジョール・タマーニョを傍らより取り出し、それを先輩騎士カバジェーロ・マス・エクスペリメンタードの手元に両手で恭しく献じると、懐から何やら分厚い煉瓦の如き本リーブロ・コモ・ラドリージョ――つまりは煉瓦本リドリージョないし本煉瓦ラブリージョ、でなければ《先生には各々自分の遣り様があるカダ・マエストリージョ・ティエーネ・ス・リブリージョ》[訳註:librilloは《小さな本》という以外にも《動物の胃》《煙草用の巻紙》他の意味を持つ]――を引き抜いて広げた辺境伯は、羅甸語ラティーノだか希臘語グリエーゴだか、亜剌比亜語アーラベだか猶太語エブレーロだか或いはそれらを取り込んだ日本語だかで書かれた文章らしき何かをムニャムニャとムニャムニャンド[訳註:《囁き声でムルムランド》]一頻り唱え、傘の先で彼女の右肩をポンポンクと叩いたのだった。

 そうして剣をドニャに返還すると、本を仕舞ったその懐中より、そう、件の首飾りを手に取るや、希望に満ちた新米騎士カバジェーラ・コン・マス・エスペランサ・ケ・エクスペリエンシアの首元にそっと掛けてやる。


祝福の言葉を口にするや颯爽とその場を去るマルグラーベのおっさん、そして頭を垂れて平伏したまま石像のようにじっと動かない花であったが、その心中は遂に正式な騎士として叙されたその栄誉により打ち震え、差し詰め欣喜雀躍の体でコン・ガーナス・デ・ダンサール・コン・ゴソあったろう。

 これら、阿僧祗花が玄関の門戸を潜り、往来に足を踏み出してからほんの三分ほどの出来事であったにせよ、その神聖な儀式の最中に下校途中の小学児童や買い物帰りの主婦などが通りすがらなかった幸甚を、彼女と我々は先達の十二英雄ドセ・エーロエス回転卓の騎士たちカバジェーロス・デ・ラ・メサ・ヒラトーリア[訳註:《円卓のデ・ラ・メサ・レドンダ》]の加護が故と甚く深謝せねばなるまい。


場面は中等部の教室に戻る。第一の災難がまだ語られておらぬのだ。

「いやっ、」久仁子は両手で目潰しを防護すると、「メガネに指紋付けないで」と距離を取りつつ懇願した。その直前に発した言葉は、「ごめん渋谷取れなかった」である。

「ちょっとちょっとちょっと」千代さんは俄に倉皇を来しながら、ゆるゆるとした和やかな声質を上ずらせつつ以下のように詰問した。「取れなかったってどーすんのよ。三日間とも? 一枚も?」

「いやあ」頭を掻くニコ。

「チケ発からどんだけ経ってんのよ――ってか、今からあたしの会番使っても絶対取れないじゃんよー間に合わないじゃんよー東京」平板且つ棒読みボス・モノートナ・イ・プラーナながら絶望感デセスペランサだけはひしひしと伝わってくる嘆きの声。

 ニコが何とか彼女を宥めようと、「大丈夫だよチヨさん、此度こたびの《シュロス》は東名阪あるんだから!」などと軽口を叩くものだから、より一層千代の緩やかな苛立ちエンファード・スアーベは掻き立てられてしまう。《東名阪》とは東京・名古屋・大阪という、地理的直線上にある日本の主要三都市を指す。マドリード・サラゴーサ・バルセローナの位置関係を思い浮かべると近い。[訳註:この物語の著者は西班牙イスパニア人であり、少女たちの声が日本語で録音された資料を元に本稿を執筆している在所自体もイベーリア南部のアンダルシーア地方、則ち日本から見れば欧亜大陸東西の対極、実に二千五百里の彼方である。叙述箇所は日本を知らぬ彼の国の読者に向けられた解説なので、本邦の諸兄にとっては逆に文の繋がりを煩雑にしているであろうことをお詫びするが、訳者には改鼠の権限がないので原本に準ずることとする]

 要は、このふたりの少女が愛好する楽隊の演奏会入場券ボレートス・デル・コンシエルト・エン・ビボ・デ・ラ・バンダの確保を、片割れにして相棒たるニコがしくじったという次第なのだが、対して地元の東京公演が無理なら他二都市の予約を試みて、運良くそちらが成功すればそこまで足を運べばいい話ではないかというのがメガネガフォータの提案した緊急時の方便レクルソ・デ・エメルヘンシアである。

「ちょちょちょっとおい、名古屋までなんてヴィーンまで往くのとおんなじだよもー」

 ヴィーンビエーナとはシェーンブルン宮殿を擁する都市だが、矢継ぎ早に言葉を繰り出す千代に拠れば、「そもそも名古屋だって今からラドン取れっかわかんないよ! どっちんしたってあたし八月の最初の週夏期講習行け言われてるし……」とのこと。

「大阪ならチケ的にもスケ的にも大丈夫じゃん?」

「ちょおおお」

 ここで一時限目の始業を告げる鐘が拳闘試合一巡目終了の銅鑼ゴング・アル・フィナル・デル・プリメール・アサルト・エン・ボクセーオとなり、久仁子某の首級は美容師の卵の殻の中で胴体と別離サヨナーラせずに済んだのであった。

 ここから四半日は、退屈な授業と千代さんの不機嫌な吐息しか聴くことが出来ないので先を急ごう。

 阿僧祗花、否、我等が愛らしい女傑にして新進の女流騎士カバジェーラ・ムヘールドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャが長期欠席期間アウセンシア・ア・ラルゴ・プラーソを経て彼女の通う、つまり本来なら通っているべき高校に、その高等部は中等部と正面入口を同じくしているのだが、その校門に姿を現すその時までということである。


千代は教室の違うニコを詰問する為に通話ジャマーダス通信エンビアーダスを試みたり、彼女が在籍しているという演劇部クルブ・デ・テアートロの門戸を叩いたりと、八方手を尽くしたようだが梨の礫よろしくコモ・ウナ・ピエルダ・ランサーダ何等音沙汰がなかった。はて怒りで我を忘れた千代さんが落ち着くまでは顔を合わせぬようにと部室にすら顔を出していないのか、それとも居留守を使われたのかフィンヘ・エスタール・アウセンテ

 万策尽きた哀れにして善良なる帰宅部クルブ・デ・ボルベール・ア・カサ所属の千代さんは上履きサパートス・デ・インテリオールを履き替えて、今後の展望をあれこれ考えあぐねながら昇降口を後にしたものの、いざ校庭に出てみるとどうにも外が騒がしい。


「おいあれ」

「やっガン見すんなて」

「ねえあの人あの人じゃね?」

「アソーキ先輩?」

「あああの人がそーなんだ」

「え、アソギ来てんの? どこどこ?」

「うっわ、マジきれつかほっそ!――髪すご」

「おおハナちゃんやん……」

「つか下校時間に登校して堂々とチャリで乗り入れてんぞ」

「コッチ見た」

「いや見てねーし全然」

「ヤバイんじゃないペネロペとかに見つかったら」

「ロペつか教師全員職員会議じゃね」

「やだって職員室からガン見えだろ校庭」[訳註:ほぼ皆男言葉だが全員女子生徒の声]


ロペとは恐らく阿僧祗花の学級担任ドセンテ・デル・アーウラなのだろう。[訳註:論拠は特に述べられていない。余談だが女性名Penélopeと男性名Lopeはそれぞれ古希πηνέλοψ《アヒルペーネーロプス》と羅lupus《ループス》に由来する人名で、語源が全く異なる]


「なんかキョロキョロしてっぞ」

「病欠とかだっけ」

「いや単に登校拒否だろ」

「不登――こっ……」


全てはとても聴き取れないものの、ガヤの台詞ムルムージョス大凡おおよそこんなところだ。

 千代さんも田舎娘特有の愛らしき野次馬根性エスピーリトゥ・デ・クリオシダが剥き出しとなったか、ドニャ・キホーテを中心として半円状に形成された遠巻きな取り巻きシルクンフェレンシア・フォルマード・ア・シエルタ・ディスタンシアの方へと徐々にだが引き寄せられていた。尤もけたたましい蝉時雨の中、銀色の騎士カバジェーラ・プラテアーダ[訳註:英語でsilver knightというと豪州東部に生息する《縞蝉プサルトーダ・プラーガ》を指す]に声を掛けるに足るほどの勇者エーロエ[訳註:何故か男性形が取られているが、男子学生は兎も角男性職員であれば或いは在籍していたかもしれない]は終ぞ姿を見せぬ……

――次の瞬間までは。


「ハナ!」


――あ、安藤さんだエス・アンド=サン。思わず千代さんの口から漏れた呟きムルムージョである。

 校舎から飛び出してきたその安藤さんは、一直線にドニャ・キホーテの許へ駆け寄ったとみえ、花の前で急停止した彼女が膝に手を付きながら呼吸を整える際の息遣い、延いては鼓動までもが千代の佇む辺りからでも聞こえてくるかのよう。


「おお!」


阿僧祗花は豪邁にして狂おしき嘆声ススピーロ・ピラード・イ・バリエンタレントーソを上げると、千代が安藤さんと呼んだ女生徒の前に、自転車から下馬もとい下乗してデスカバルゴ・オ・セ・デスモント、どうやら跪いた様子だ。

「吾がオリアーナ、潔浄にして優艶なる愛しの想い姫よ、そなたの美しさや貞淑に加え慎み深さと溢れてやまぬ機知を予てより賛美してまいったそれがしのこの罪深き不肖の唇がその高貴なる芳名を発音する栄誉をお与えくだされ」一際声を高めてドニャ・キホーテは朗々とその名を唱えた。「麗しのドゥルシネアよ!」


「なんか小芝居始まったぞ」

「演劇部の実演か」

「え、アンドーさんはそうだけどアソーギさん別にちげーでしょ」


中学生と高校生が入り交じっているらしき外野の囁きを気に留めながらも、安藤先輩は部活動で務める女役ローレス・フェメニーノスの習性からか、その華奢な五指を女騎士の目前に差し出して、その手の甲に接吻させた……周囲が歓喜ともどよめきとも取れる嬌声を上げたことからもこれは間違いあるまい。オマケのようにソロ・コモ・エークストラ、「ちょ、うおぅ……チューした」という千代の独り言がそれを決定付けた。


「ハナ……ちょっともう、来るんなら連絡くらい入れてよ何ヶ月も休んどいて」

「忠実にして恒久の下僕たるこのラ・サンチャのドニャ・キホーテ、」安藤さんの澄んだ声音がその耳に届いたものかどうか、ドニャ・キホーテは以下のように続けた。「――驍名を馳せんと荒野に繰り出すその壮途、験担ぎにせめて、玉敷ける御屋敷の窓辺に佇む御麗姿をひと目この眼に焼き付けんと、唯それだけを欲してここまで参上いたしましたのに、まさか目映きばかりの御尊顔拝するのみならず、直にウェヌスが金声をば賜う栄に浴するとはこの偶さかの幸御魂さきみたま、前途洋洋の吉相と思うより他ありませぬ……美妙みみょうなること比類なきドゥルシネーア・デル・トボソよ」

 安藤さんはひとつ大きな溜息を吐くと、

「私たち物凄い目立ってるよ。丁度今日カガミさん来てるし取り敢えず中に……自転車があるのか、じゃあ直ぐ戻ってくるから校門出たとこで待ってて。折角顔見れたんだから、話したいこともあるしこれからのこととか……いい? そこ、中から見えないとこで待っててよ」そう念を押すと騎士の両肩を抱いて――少女たちの黄色い声の波長がその刹那大きな振れ幅を描いたことを鑑みれば、ひっしと抱き締めたのかもしれない――いずれにせよ安藤さんは急いで校舎の中に駆け戻ったようだが、その前にひと言、「……トボソは今は使ってません」と小声で言い捨てるのだけは怠らなかった。[訳註:エル・トボーソというのは中央イスパニアに実在する村で、その村名は当地に多く群生する《ゴロツキアザミトバ》ないし《石灰石トバ》を豊富に含む土壌に由来するのではないかと考えられている。発音の似た日本語の《とぼそ》は扉の回転軸を嵌めて回す為に戸口の上下に開けられた一対の穴のこと、転じて扉そのものをも意味する]

 美しいふたりの束の間の別れを、砂煙舞う――これは筆者の想像だが――校庭の上の残り香が、艶やかな余韻と共に彩っていた。


「あれがアソーギ先輩……初めた見た[訳註:音源まま]」千代さんは己の置かれた境涯、すなわち贔屓にしている楽隊の公演アクトゥアシオン・デ・ラ・バンダに行けないかもしれないという非常事態を暫し忘れ、ギリギリ我々が聴き取れるくらいの声帯を震わさぬ無声でスィン・ビブラシオン・デ・ラス・クエルダス・ボカーレスささめいたのだった。


さて、ここで半坐千代にとっての第二の災難ス・セグンド・デスカラーブロが語られよう。


「チヨさんチョさんチョさあああん!」

「ううゎあああビックリしたあ!」姦しい裏切り者のニコニコ・ルイドーサ・イ・ベスティーダ・デ・アマリージョが千代さんの背後から跳び付いたのである。「ちょっ、ニコあんた……」

「大変大変、――ってゆか今アンドー先輩出てって戻ってきたけど。あ、あの人やっぱそうだアソーギ先輩だ!」なかなか友人が言葉を挿む隙を与えない。

「ちょっと、大声で人の名前連呼しないでよもう恥ずかしいじゃんか」

「え」

「えじゃないよもう、ていうかチョサンになってるし。国籍変わっちゃってるよちょっと」

 ニコには通じないらしく、「違いがわからんけど」と一拍だけ間を置いて、「そうじゃなくて朝から探してたんだよ教室居ないし。うち今日携帯忘れてっから部活遅刻してもチヨさんに伝えとかないとと思って」――とこう捲し立てる。「今日部長のお知り合い来っから全員出席なのに」

「忘れてたのかよおおおこっちこそ超探したじゃんよもう」千代は天を仰いだ。


一方、立ち上がる際に聞こえて然るべき衣擦れの音が未だ聴こえていないところからして、まだ片膝を地に付けたままであったと思しきドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャこと阿僧祗花は、安藤部長ヘファ・アンドー(どうやら安藤さんは演劇部の責任者エンカルガーダのようなのだ)の立ち去ったその場に留まり暫時物思いに耽っていたようだが、ふと何か聴き付けたのか徐ろに自転車に跨ったかと思えば、明日の従者セギドーラ・デ・マニャーナたる千代さん(とその付属物アクセソーリアたる床屋のニコ嬢)の方へ近寄ってきた――というのも、千代がそれと知らずに身に付けた録音機には自転車を引く音が、そして花のそれにも千代たちの話し声が紛れ込んでいたからそう断言できるのである。


「アインラードゥン取れた」ニコが場違いな話題を再開したその空間の中心地点エピセントロ・デル・エスパーシオはつい今し方目にした衆人環視の示威行為デモンストラシオン・デ・ラ・アテンシオン・プーブリカが為されたばかりの現場であったということを、暫くの間ふたりが忘却してしまっていたとしてもそれは無理からぬ話であった。アインラードゥングとは招待状インビタシオンのことで、思うに演奏会の入場券を意味する符牒ヘルガなのだろう。

「え、ちょ、――うそ渋谷?」千代も色めき立つ。

「うんにゃ和やかナゴーヤ」ニコの即答だ。「これにて水に流せ。一生のお願い」

「なんて?」

「後生だ」

「じゃなくて……ゴーヤチャンプル?――沖縄?」

「名古屋だみゃー」――後で調べたところによると、会話の最中に猫の鳴き真似マウジャール・デ・ガティートスのような語尾を付ける習わしコストゥンブレ名古屋人ナゴヤーノスにはあるのだという。可愛らしいが切羽詰まった身にとってはさぞや苛立ちが募ろう。「名古屋のシェーンブルン宮だみゃー」

「名古屋って、あんた……二枚?」おっとりとした声で張り詰めた空気を出す手腕といったら流石は愛嬌者パジャーサの半坐千代、我等の支持を盤石のものとしつつある。

「うんにゃ一枚」

「貴様のは?」

「えだってニコ東京獲れてるし」ニコにとっては名古屋行きを手配してやることが、戦友に対する最大限の手向けマーキスィモ・レガーロ・デ・デスペルディーダ[訳註:恐らく《別れのデスペディーダ》のつもりかと察せられるのでそのように訳した。《紛失したペルディーダ》ないし《行方不明のデサパレシーダ》と混ざった?]だったようだ……というより償いレサルシミエントだろうか?

「殺意」

「おっと深呼吸深呼吸……」親友の背中を優しく摩ってやりながら、「しかも次の週から家族旅行でアロハの島に高飛びとはもっぱらの噂」

「いやお前それどうなんだ人として」

88TEESハチジュウハッチーズのマホケース買ってきたげっから!」

「ちょっ!」


「もし!」


「お前あたしにだけ名古屋行けって? 独りで味噌カツ食べてこいって?」ミソカツとはトンカツチュレータ・デ・セルドに味噌を掛けた料理で名古屋人の主食バセ・アリメンティーシアだという。[訳註:但し西chuletaは肋骨付きの厚切り肉を指す言葉ゆえ調理法は未指定である]「云ったじゃんか私八月は夏期講――」

 単身遠征エクスペディシオン・ソリターリアを押し付けておいて悪怯れもせぬ友人が発した独創的過ぎる創見オリヒナリダ・クレアティビースィマに対し、これまで蓄えた鬱憤を発散させんとばかり一気呵成に責め立てようとした矢先、自身に落ちる影に、若しくは己に影を落としたその長身の女丈夫マリマーチャ・アルタの存在に気が付いた千代は、恐る恐る午後の光背マンドールラ・デ・ラ・タルデを背負ったが如きドニャ・キホーテの方を振り返った――否、見上げたのだった。

「はい?」

「もし、」阿僧祗花は仕切り直すと、「――其処な宮仕えの花娘」と千代を呼び止めた。

「私ですか?」首を振って周りを見廻す千代さん。

 次に、久仁子の方を見やると、阿僧祗花はこう云った。

「そちはこの娘を何と呼んだか」

「名古屋?」と小首を傾げる。

「ちょ、誰が名古屋」女騎士の威儀を忘れてすかさず友人に切り返す千代さん。

「テヘベロ――おっと危ない」友人の拳骨を見るや慌てて舌を引っ込める眼鏡の少女。

「それじゃ――いやそれではない。もっと前だ」ドニャ・キホーテは再び問う。

「みゃー?」初めて顔を合わせた年上の麗人にも物怖じせぬニコの図太さは、彼女がまだ中学生ながら安藤部長の手解きを受けるほど高等部の演劇部に入り浸っているが故か、「あ、チケ取れた……です?」質問を質問で返す。

「おぬしはこれを、サンチョと申したのではないか?」花が訊きたいのはそこだ。

「チヨさんと申したのですよ」やっと会話が繋がった。

「サンチョサンチョと聴こえたのだが」喰い下がるドニャ・キホーテ。

「惜しいですね。チヨさんチヨさんチョさああんと申し上げたまでです」余計なことを言う床屋の娘。

「それが聴ければ他に云うことはない」ドニャ・キホーテは満足げサティスフェーチャ


久仁子は「ほんじゃうち部活戻っから」と身を翻し、「ちょ」と吃りつつその腕を掴もうと伸ばされた千代さんの指先に空を切らせると、三歩ほど飛び跳ねてからひょっこと振り返るや敬愛する部長の幼馴染たる引き篭もりの阿僧祗先輩に一礼してそのまま、校舎に駆け入った。かと思えば、下駄箱から直近の階段に向かう途中の廊下の窓のひとつから、それは通風目的で開け放たれていたわけだが、そこから顔を出して、「みゃーのアイラはメールで送っとっからあ。よろ」と片目を閉じながらまた校舎の中へ消えていった。

[訳者補遺:この辺りから著者の自由な想像から生まれた状況描写や感情の代弁等が頻繁に見られるようになる。手元の音声資料から当該する場面周辺に於いて聴き取れる、登場人物たちによる実際の発言や録音された環境音ソニード・アンビエンテを根拠として各人の性格や状況を敷衍させた、ある程度説得力のあるものもあれば、こちらでは正誤判断のしようがない完全な創作も含まれるが、読者の誤解を忌避する観点から後者に関してのみ訳者が註釈を付するものとしたい]

「むぅ」長い唸り声を絞り出してから再び肺の中を空気で満たし、今度は一気に吐き出す千代さん。「……ハァァァ、めんどくさ――さが勝った」


「チヨさんと申したか」不意に阿僧祗花は中等部に在籍する初対面の後輩に声を掛ける。

 虚を衝かれた千代は「は! はい、私です!」と図らずも自分の日除けになってくれていた、そしてすっかりその存在が場に馴染んでしまっていた騎士に訳も分からず向き直った。

 千代にとってはこの麗人の発する玉の声ボス・エンホジャーダの意味するところよりも、野次馬どもの視線を一身に背負っている感覚こそが居心地の悪さの原因であったらしく、徐々に蝕まれつつある彼女の平常心プレセンシア・デ・アーニモは独り残されるに至ってその加速度を更に強めたかのようだった。

 花が続けて云うにはこうだ。

「花娘のチヨさんや、ここでの身共みどもとおぬしとの邂逅は偶然であるが、それを運命と捉えることによってこそ、新たな渺獏たる世界が啓けるとは思わんかな」

「ええと私は名前はチヨですけど……花娘は、あれ?――ハナさんはアソーギ先輩じゃないんですか? あれ違ったっけ?」上の空の返答レスプエスタ・バシーアだ。

「ハナか、身共がそう思えば、そうなり得るかも知れん」花は感慨深げにそう呟くなり、「然れど、天地神明に誓って明明白白たる事実だけを述べれば、何を隠そう拙者こそかの豪胆なプラティールすらもその名を聞かば盾を落として震え上がるという勇壮この上ない豪傑にして、天が与え得る数多の美徳の中で比類なく良質な物のみをその身に宿した醍醐のような貴婦人ドニャ・ドゥルシネーアにとこしえの忠誠を誓った騎士、ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャなるぞ」とその華奢な胸デリカード・ペチョを張った。

「うわあ……、はい」この時千代さんは呆気に取られながらも、よく解らないけれど眼前に立つのは退屈な日常生活の中でそう幾度もお目に掛かる機会のない綺麗所パラーヘ・ベジースィマ[訳註:語義としては《絶景》が近い]だし、妙ちくりんなことコーサス・ラーラスばかり喋っているのとてきっとこの見目床しき先輩が高等部の安藤さんや裏切り者の床屋の娘と同じく演劇部の一員だからだろう――というのも一般的に芝居を打つような手合いは多かれ少なかれ奇矯な振る舞いコンポルタミエント・エクセーントリコで衆目を集めるのを生き甲斐とするが如き酔狂な連中ヘンテ・ボラチャメンテ・ロカなのだろうから――と、そう思って辻褄を合わせようとしていたに違いないのであった。

[訳者補遺:翻訳では余り意識されていないものの、物語の序盤では花の一人称に所々揺れが見受けられる。相手によって使い分ける狙いもあったのだろうが、察するにどの代名詞が自分にしっくり嵌るか試行錯誤していたのではないか]


「驚天動地の冒険に赴く前に、只ひと目吾が想い姫の姿容を遠巻きながらこの眼に焼き付けようとこのエル・トボーソの御殿まで罷り越したが、これはどうして思わぬ収穫であった。騎士たるもの遍歴に従士を伴うのは、かのガンダリンの例を持ち出すまでもなく免れ得ない慣例であるからな」

 花の言葉は《驚天動地の冒険アベントゥーラ・スィースミカ》くらいまでしか聴き取れなかったが、尤もそれすらも語意パラーブラスを解したところで文意オラシオーネスについては全く意味不明だったので、ひと通りその科白が終了するまでの数秒間、千代さんには自分の置かれた状況を如何に打破すべきかという懸案事項にのみ、その多少足りない頭を振り絞っているより他することもなかった。

「――では参ろうか」見れば花は校門の外へ出よと、その面差しを以て花娘に促している。

 突然踵を返した出逢って数秒の先輩に対し後手に回った純朴な千代は再びたじろいでしまったが、一転「はい――えっ、ちょっと待ってください」と云って咄嗟に花を呼び止めた。

 花は自転車を引く手を止めて一旦顧みる。その機敏な反応にハッとした千代は「いえいえいえ何でもないです!」と前言を撤回した――そういえば高等部の、そして演劇部の安藤先輩が阿僧祗花に「校門出たとこで待っててエスペーラメ・フスト・アフエーラ・デ・ラ・プエルタ」と注文したのを鑑みれば、学校に面した往来に向け敷居ウンブラールを跨ぎ出るまでは何ら問題ないのでは? 人集りから漏れ聴こえた情報通り校舎内で教師が目を光らせているとするなら、今ここに留まることこそ得策ではない……寧ろ一刻も早く大人たちの死角アングロ・ムエルト・デ・ロス・アドゥルトスへと退散すべきなのだ。

 元々自分も帰宅するつもりだったし、部活に戻った久仁子を今から追ったところで捕まるとは思えない……面識のない他の部員たちに分け入ってまで悪しきニコを問い質す気力もない。今更足掻いても詮無いことだと仕方なく彼女の後に付いて学校の敷地外まで踏み出す千代さんだったが、思い掛けず阿僧祗花が、学校を出た所フスト・フエーラ・デ・ラ・エスクエーラ、という表現からは随分と逸脱した地点まで、というよりもその先のもっと先までどんどんと歩いていくのが見えてしまったものだから、どうしようか考える間も頭もないままにスィン・ウン・モメント・ニ・ペンサミエント「ちょっとちょっと!」と後を追うことになったのである。


漸く上下に揺れる馬の尻尾が顔を撫でるくらいの距離まで追い付いた半坐千代は、息を整えながらも何とか「あの……アンドーさん、アンドー先輩待たなくていいんですか?」という問い掛けを絞り出した。

「アルドンサ」花は歩速を緩めることなく後輩の当然の疑問に答える。「――いやドニャ・ドゥルシネーアの学舎[訳註:つい先程安藤さん本人には「御屋敷の窓辺に」と伝えているので、聴衆の存在が影響してか途中で設定がより現実寄りへと修正されたものと考えられる]には、身共が先達て述べたように、垣根の外より御姿を透かし見ることのみを目当てとして参っただけなのじゃ。鼻向けとしてその朱唇皓歯より御言葉賜っただけでも望外であるし、それ以上を欲するのは過分というもので、何よりもう一度双方の水晶体に言を通わすふたりの面立ちを映してしまったなら、それこそ互いに別れ難くなるは必定……晴れがましき出立が互いに泣き腫らす愁嘆場と化するのもそれがしの望むところではない。かの姫君に再び御目見得する資格を得んが為にもこのキホーテ、幾多の険難を制覇してその名を世に轟かし、故郷に錦を三色さんしき飾ると我が五識とラ・サンチャの屋敷に誓おう。巨人ブリアレーオの首級を手土産とすれば、吾が想い姫の栄誉も弥増すというものだからな」

 中途まで右から左へと聴き流していた千代も、「ああ、首級は喜ばれますよねえ」という見当外れな返答だけは欠かさなかった。そもそもこの少女が、部活で少なからず世話になっているだろう馬場久仁子がというならまだしも、間もなく待ち合わせをすっぽかされて消沈する安藤さんのことにまで思いを馳せその心中を慮るには及ばないのだ。言葉を交わしたこともなければ、先方に至っては自分の顔すら識らないわけで、その場に偶然居合わせたという以外何ひとつ因縁ある繋がりコネクスィオン・プレデスティナーダのない――全くないナダ・デ・ナーダ――相手を含む今後一切関わる運命にない筈の雲の上の女神たちディオーサス・ソーブレ・エル・シエーロが内輪で愉しむ戯れディベルスィオンに、自ら進んで首を突っ込もうなどという出しゃばりイントゥルスィオンを己の果たすべき義務と履き違えなかったとして、一体誰が彼女を責められようか?


「さてサンチョ、いやチヨさんや」天然物の娥眉セーハス・ナトゥラーレス・コモ・アンテーナス・デ・マリポーサが馬上もとい車上から、傍らを歩いている千代の許へとその視線を落とす。

 千代さんが気付かぬ内に、この比類なく華麗な女丈夫は車輪の幅が細く腰掛けの高い自転車に跨っていたのだが、それはトボトボと歩く明日の従者の足に合わせつつも器用に垂直を保ちながらマンテニエンド・ラ・ベルティカール進んでいたのだった。

「後の世まで語り継がるるいさおしが挑ましき者待つ堅忍不抜の気構えをドニャ・キホーテは持たざるものかと訝しむ向きもあるとは思うが、実を申せば出立に先立ち灯る明けの明星待つことすらも歯痒いのじゃ」花は遥か遠方まで伸びる諸国漫遊の旅路を望みながらその眉間に皺を寄せた。「――時におぬしをその栄誉ある供とする上での報奨として身共は何を約すればよいのかな?」

「あ、アソーギ先輩どっか出掛けるんですか夏休み……」ここまで反射的に返答して、もう一度「――あ、」と口を噤んだ千代。憂鬱な試験週間とそれに続く短い連休、そして残り二三日の登校日さえ遣り過ごせば晴れて長期休暇へと突入する一般の生徒たち相手ならいざ知らず、どうやら一学期丸々登校していなかったらしい高等部の先輩に《夏休みバカシオーネス・デ・ベラーノ》なる表現を敢えて用いたことで、果たして彼女の気分を害してしまったのではないかと気後れしたのである。

「うむ、どっか出掛けるのだ。枷ほどくまま、足抜くままにな」キュッキュッと音を立て随時制動を掛けながら、絶妙に車体の均衡を保持しつつ花は答えた。その声音には己が騎乗、つまり乗車している自転車への、揺るぎない信頼と愛着が聴いて取れた。

「あたし、私は月末――いや八月になんのか――はアマデのライブ行かなきゃなんですよ。なんか名古屋くんだりまで」間を保たせる為そう零した千代は横目で後方に睨みを効かせたが、校庭を後にして暫く経った今となっては呪わしき馬場久仁子の残像イマーヘン・ペルスィステンテも最早霧散し、その恨みがましい視線ミラーダ・クリーティカとて只々空を切るばかり。

「あまで?」阿僧祗花が問い返す。

「あっそか、ですよね。アマデウスってのがですね……」説明せんとする千代を――

「アマディス?」――遮るようにコモ・インテルンピエンドラ

半坐千代の、これが数えて第三の災難ス・テルセール・デスカラーブロ・エヌメラーブレであった。


「え、あ、はい」細かいことまでは気にしない、ざっくばらんな気質カラークテル・アビエルト・イ・フランコを備えた千代は構わず以下に続ける。「バンドなんですけど、V系の」

「ブイケー……《私は残メ・ボイ・ケ――ろうダンド》?」

「つってまァインディーズですが……今月の渋谷のチケットが――」

新印度人部隊バンド・デ・ラス・インディアスとな、」花は驚きの声を上げた。「よもや徒党を組んでおられるというのか……それもアトラスの大洋を渡って? 騎士の中の騎士たる、あのアマディス・デ・ガウラが?」[訳註:西bandoには《分派した団体》というような語感がある。花がどのような部隊を想像したかを窺い知ることは出来ないが、ざっくり見積もって数十人から数千人単位、軍隊編成でいえば小隊ペロトン旅団ブリガーダ程度の規模だろうか。因みに《楽隊》という意味での英bandはイスパニア語ではbandaとなる]

 デガウラって何だろう(《ヶ浦》の日本語での意味は《の入り江エンセナーダ・デ》)と思いつつも、千代さんはそうですエソ・エスと適当な返事をしてしまった。次いで、――

「さっき一緒にいた子が、ババのクニコっていうケチな遊び人なんですけど」

「バーバー……床屋バルベーロ親方マエセニコラスの娘じゃろうか?」

「エセニコルというかベロベーロ……それです」深くは考えなかった。「今度会ったらあの舌引っこ抜いてやりますわ……あの子もまァ、バンギャ仲間なんすけど」

「アバンギャルとは是則ち、前衛部隊バングアルディアのことかしら……」花の澄んだ声はいつの間にやら紅潮の色コロール・ソンロサードを帯びている。

「あ、そうですバンギャルです。ニコがあたし、私の分だけ取れなかったとかであたしひとり来月に名古屋まで行く羽目になって」初めて言葉を交わす年上の佳人に何故こんな愚痴を零しているのか、千代自身もよく分からなかった。

 花は暫し自転車を、つまり愛馬ケリード・カバージョイポグリフォの車輪ルエーダスを止めて呟く。[訳註:作中で花の口からこの半鷲半馬の名が明かされるのを、我々は第三章まで待たねばならない]

「成程、バンドとは腕に覚え在りし荒くれ共を掻き集めた義勇軍トロパ・ボルンタリアを意味するのだな」

「そんなわけでして、――」千代が纏めに掛かった。「ええっと、アソーギ先輩?とご一緒することが出来ないんですよ……つってもその前に名古屋行き実現の為にはまずうちの親を説得しなきゃなんですけど」

「よし」花は心に決めたようだ。「身共がこの身を惜しみなく投じるところの騎士道、その嚆矢にして泰斗たるかのアマディスが乱世を憂いて世直しを志し独立軍を結成なさるのであらば、このドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャも後れを取って後世の謗りを受ける謂れはない」

「そんなわけでして……はい?」千代も会話が噛み合っておらぬことに漸く気が付いたようだ――ペロジャ既に遅しエラ・タルデ

「うむ……うなむーの」四ツ辻インテルセクシオン・ビアルにて手綱を引き、片足を地に付けた阿僧祗花は、「本来ならば遍歴の騎士たる者、その門出に於いて行く先を定めてから手綱を取るなど正道足り得ぬのだけれど……」と暫し沈思した後、「後ろ髪を引かれながらも何とか我が思慕する想い姫への暇乞いを遂行したのだ。この上幸運の女神フォルトゥーナの前髪すら掴み損なうこととなれば、栄達を求める騎士としての矜持に悖ると後ろ指を指されかねぬからな」と、千代には解することのない何処か弁明めいた言葉を嘯いてからこう続けたのだった。


「共に来るがよいサンチョ。身共が其方ともども、アマディスの許へ馳せ参じようぞ」


束の間放心してしまっていたデスピスターダ・エン・ウン・インスタンテ千代さんは、「あ、はい。よろしくおねがいします」と咄嗟にそう返事してしまった。

 名古屋まで同行してくれるって話かしらとも考えたが、先輩はアマデの信者セギドーラ[訳註:《従者》に同じ]どころか別の何かと勘違いしているだけのようだし、出逢ったばかりの、同じ付属校エスクエーラ・アネーハの下級生という間柄以上でも以下でもない己に対しそのような面倒見の良いコンプラシエンテ――というよりは都合の好いコンベニエンテ――申し入れをしてくるとは夢にも思わなかったのである。

「ふん」満足げに鼻を鳴らした阿僧祗先輩は、「では何れ時を待たずして迎えに行く。暫しの別れじゃ」と嫋やかに言葉を結んでから、その腰まで届く烏の濡れ羽色の御髪ペリネーグラ・ベジャ・コモ・デ・プルーマ・デ・クエルボを優美に振り撒くや、意気揚々たる足捌きで拍車を掛けるなり交差点を左へと折れていった。

「あ、はい。おつかれさまです!」

 千代さんはいつも遣り慣れているのだろう日本人独特の、あの玩具の水飲み鳥パーハロ・ベベドールが如き正確さで腰を直角に折り曲げて一礼し、奇人麗人ベルダ・エクセーントリカを地で行くような格好の好い先輩の背中を見送った。[訳註:千代が帰宅部であることを鑑みれば、中三の現時点で体育会系特有のお辞儀に親しんでいるという設定自体、無意識に紋切り型エステレオティーポを求める著者の先入観ありきだと考えていい]

「にしてもほっせえなあ……髪長っ」そう漏らしながら自分の通学路を再度歩き始めた千代は、矢庭に「あっ」と声を上げて一旦立ち止まったようだが、「……まァいいか」と呟くとそのまま家路に就いた。

 偶然の成り行きとはいえ美形の、そして面白い先輩と知り合えたのは嬉しいことだけれど、もうこの先会う機会はないだろう。再会を願おうにも彼女の連絡先ダートス・デ・コンタクトを教えてもらっているわけでなし、相手とてこちらの携帯番号も郵便住所ディレクシオン・デ・コレーオも、電書郵便の宛先コレーオ・エレクトローニコすら知らないのだから。


一期一会ウナ・ベス・ウン・エンクエントロ》というヤツかな――仏教用語集グロサーリオ・デ・テールミノス・ブディスタスから代表的な一句を選んで独りごちた千代は[訳註:この科白は著者の創作だが、仮にそう独りごちたとしても当然日本語で独りごちた筈だ]、それでもつれない諸行無常トランスィトリエダを嘆く無駄を省き、代りに如何にして母親の小言を潜り抜けつつ夏期講習の予定もずらせ、最終的には再来週の名古屋行きを無事敢行するところまで漕ぎ着けられるか、その糸口を手繰り寄せる為の精神的没頭レコヒミエント・エスピリトゥアル[訳註:近い概念であれば《三昧》か]に明け暮れるのだった。


ここまで何となくデ・アルグーナ・マネーラ読み進めたものの何が半坐千代にとっての三つの災難トレス・デスカラーブロスだったのか今ひとつ釈然としない読者諸賢の為に、確認の意味も含め解説を施すとしよう。

 先ず第一には、前衛仲間コレーガ・デ・バングアルディアの久仁子某の手抜かりにより、といっても予期し得ぬ不運の類なので彼女にその咎を課するのは理不尽であろうけれども、夏季休暇バカシオーネス・エスティバーレスに入って程なく渋谷にて開催される贔屓の楽隊の東京公演への入場資格を、自分の分だけ手にし損ねたことである。これは後になって判明することだが、十一月には六本木(これも渋谷と肩を並べる東京有数の繁華街のひとつである)にて追加公演が行われたようなのだけれど、調べるところに拠るとこの手の熱狂的な信者にとっては、それこそ一期一会という言葉が示す通り、ひとつひとつの公演が掛け替えのない神事リト・レリヒオーソ・イレエンプラサーブレに等しく、他の汎ゆる俗事タレーアスに優先される。猛者ベテラーノスともなれば全国行脚ヒラ・ナシオナルの全てに参加するという(全通ゼンツと呼ばれる)くらいだから、そういった意味合いもあって彼女らからするとどうしてなかなか代替が利かぬものなのだ。

 第二には、半坐千代がこれから八月の半ばまでの三週間に渡る艱難辛苦に及ぶ直接の切っ掛けとなった厄難であるが、眼鏡のニコが阿僧祗花の聴覚の冴える範囲で、千代の名前を連呼することにより騎士にあらぬ誤解と期待を与えてしまったことがある。詳述には及ばないと思うけれど、兎にも角にもこのことだけで、ドニャ・キホーテはその連れ合いとして千代に一目惚れア・プリメーラ・ビスタ、もとい一耳惚れア・プリメール・オイードしてしまったのだろう。

 最後には、ふたりの女子中学生が恋焦がれる楽隊の名と、ドニャ・キホーテが最も崇拝し規範とする騎士道物語の主人公の名が、発音の違いを越えて偶然の一致を見てしまったことの帰結として、花の破天荒な旅立ちにひとつの目的が加わると共に、素直に夏期講習を受けていたらどれだけ自分孝行ソリーシタ・コン・エジャ・ミスマだったろうと千代さんに悔悟させるに充分な受難が生み出されたことも挙げておかねばなるまい。

 尤も、花が呼ぶところの偶然ながらも運命的な邂逅エンクエントロ・ノ・ソロ・アクシデンタール・スィノ・タンビエン・ファティーディコ[訳註:《致命的出会い頭事故》?]――或いは側面衝突事故アクシデンテ・デ・チョケ・ラテラール――から三日間、千代は何とか夏期講習を一日だけ休ませてもらって(というのも午後の授業を終えてから新幹線に飛び乗ったところで開演に間に合うとは到底思えなかったからなのだが)、日帰りで名古屋を往復する許可を、彼女同様物腰だけは鷹揚な母親からどうすれば得られるか、試行錯誤を繰り広げる中で、精悍なる女騎士との出逢いのことなどすっかり忘れてしまっていたのだった。しかし、それこそ運命が引き寄せた偶然により、千代はその望んでいた遠乗りラルゴ・ビアーヘを、望まなかった形で実現させることになるのである。


ではこの章の締め括りに向けて物語を進めることにしよう。


あの、自転車で乗り入れてきた不登校の女騎士カバジェーラ・アシエンド・ノビージョス[訳註:《若牛を相手するアセール・ノビージョス》とは、闘牛士に憧れる学生が学校を抜け出し草原で牛相手に訓練をしていたことに由来すると謂う話だが、語感としては《ズル休み》の方が近かろう]が学園に小さな騒動を巻き起こしてから一学期の終業式までの三日間、結局四月から数える程しか高校に顔を出していなかったとされる不良優等生アルムナ・デスタカーダ・イ・ディソルータの出現も学校側に露見することはなかったのだが(女学生というものは総じて口さがないものであるけれど、同時にこういった共同体の中では互いを牽制し合うという性質上この手の噂話チスメが生徒間の域を出ないことがままあるのだ)、一方で千代は何とか久仁子に、一緒に名古屋まで付いてきてくれるよう頼み込んだものの、この薄情な前衛仲間はあくまで穏便に、床屋一家は一族郎党揃って、月が明けたらお盆を過ぎるまで《慰安バカンス@ワイハバカシオーネス・レクレアティーバス・アローバ・ハウアイ》なのだ、恒例に従いセグン・ラ・コストゥンブレ、《真っ赤な悪魔の子イホ・デル・デモーニオ・マカダミエン》の召喚ジャマール及び、モーツくん(アマデウスの打楽器担当タンボリレーロであるらしい)が十代の頃ワイキキの片隅で椰子の木に彫ったという《丸々参上アキ・ビエネ・**!》なる落書きがまだ残っていたらそれも写真に収めてくるから、諸々のお土産を愉しみにしていてほしい、そのお返しはと言っては何やら催促しているようだけど、もし《金鯱ヴォルフ閣下ス・エクセレンシア・エル・セニョール・ボルフ・コモ・ラ・オルカ・デ・オーロ携帯吊紐コレーア・パラ・モービル》のような物販が名古屋公演限定で出ていた際に代金は後払いするから立て替えておいてくれなどとシレッと言ってのけたものだから、我等が幸薄い半坐嬢もこいつはもうこういう奴なのだと見切りを付けて、何か別の手を講じるより策がなかった。[訳註:本段落は取り分け読み難くて心苦しいが、《》内に限って馬場嬢の言葉をそのまま書き起こした。尚、織り込み済みの言葉遊び故別段著者が混同しているわけではないながら、《バンギャル》が仏avangardeでも西vanguardiaでもなく英band galから成る和製英語だということは今一度確認しておこう]

 この間交わされた彼女たちの会話には、日本人ではない筆者の理解を超えたところが多々含まれていたので、ざっくりと割愛させていただく旨ご寛恕いただきたい。[訳註:日本人である訳者にもよく解らなかったのでこの処置には賛成である]

 ただ確かなことは、馬場久仁子が前言通り名古屋公演の入場券を電書で転送し、已むを得ず千代がそれを受領した件だろうか。遅きに失するエス・デマスィアード・タルデもう後戻りは出来ないのだパラ・ボルベール・アトラース・ラ・ルエーダ

「夜行バスって中坊ひとりでも乗れんのかいな」との呟きも虚しく響く、小銭入れの軽いコン・エル・モネデーロ・リヘーラ半坐千代であった。

[訳者補遺:この三日間の出来事が記録された資料として訳者が査収したのは千代さんの音声のみ。本稿で阿僧祇家の場面が描かれなかったが為に彼女の分の音源を訳者へと転送しなかったのかと思い、この件を著者に問い合わせたところ、日を置いて回答が得られた。それに拠れば下校時に千代と別れてから再び相対するまでに花の胸元で録音された九十時間弱は元々欠落していたのだという。但しこの箇所に限らず、訳者が手にした音源は少なからず編集されたものである。執筆背景に関することの次第は第三章冒頭で語られよう]


変わったことといえば、三学期制最初の終業式が終わりデスプエス・デ・ラ・セレモーニア・デ・クラウスーラ・デル・プリメール・トリメーストレ、最後の学級活動ペリーオド・エスコラールを待つまでの時間、雑然とした教室後部の扉からいつもの大声で呼ばれてのこのこと廊下まで顔を出してみれば、お馴染みの憎めぬ声の主の後ろに如何にもお嬢様、いやお姫様然とした制服の美少女が待ち構えていたことである。つまり安藤先輩である。

 高等部は幾日か前ひと足お先に夏季休暇へと突入している筈だから、彼女が部活を目的として登校したのか、確認したわけではないものの、もしかしたら千代に面会する為だけにわざわざ足を運んだのかも知れぬ。

「ごめんなさい突然呼び出したりして」安藤部長は挨拶もそこそこに頭を下げた。

 千代は緊張して、「いえいえ近くで見るといやなんか本当にすごいキレイですねい」と意味不明な供述が口を衝いて出た。そこで漸く、「あ、アソーギ先輩」――淑女らしい目の前の麗人とはまた違った、凛とした可憐さを持ち合わせた女騎士のことを、そして彼女と交わした胡乱なる約束プロメーサ・クエスティオナーブレのことを思い出したのだった。

「そう、」期せずして初見の後輩が要点を突いてきた(ように思えた)安藤さんは、「ハナのことなんだけど」と前置きを省略しつつ付け加えた。「ハナってアソーギさんのことね」

「はいわかってます」頼んでもいないのに久仁子が脇から口を出す。

 一度愛娣子ディシープラ・ケリーダを見やってから「うん」と頷くと、「ババさんから聴いたんだけどね、」馬場とは久仁子の苗字だろう、安藤女史ドニャ・アンドーはこの二学年下の中等部の後輩に甚く目を掛けているようだった。「ハナとハンザさんが、あの後校庭で話してたって」

「ああ、はい」校庭どころか途中まで一緒に下校したのだ。千代さんは可能な限りふたりの間で交わされた会話の内容を思い起こそうと試みるが――「すみませんあんまよく憶えてないってゆうか」千代は首を傾げて続ける。「あんまよく意味が解らなかったので」

 安藤先輩は落胆の色を隠せなかったが、「そうかあ……」と額に手を当てながら、後輩の手前だからか無理に笑顔を取り繕った。

「あ、でも」唐突に声を上げる千代に、教室と廊下を隔てる引き戸の敷居の外にいたふたりは視線を向けたようだ。

「何?」と演劇部部長が訊き返す。

「いやなんか、」千代は何と説明したものか数秒間云いあぐねてから、「……《シェンよと》の名古屋ミサに付いてってくれるとかくれないとか」そう云って語尾を濁した。

「はァ?」これは馬場久仁子の声だ。当然の反応だろう。「なんでアマデ?」

 安藤部長が割って入って質す。「アマデウスってババちゃんの好きなやつでしょう」

「聴きます?」と即座に制服の隠しから耳用受音器アウリクラーレス・デ・オイードを取り出す、布教活動ラボール・ミスィオネーラに如才ない久仁子。

「うん、また今度」軽く優雅にいなしたドニャ・キホーテの想い姫アモール・コルテース[訳註:直訳は《宮廷的恋愛》だが、前述の花の科白でこの訳が当てられていた為それに従う]――日本人はこういう少女同士の関係を《エスエセ》又は《百合リーリオ》と呼ぶ。何と愛らしくも慎ましい形容デスクリプシオンだろう![訳註:西eseは字母Sの名称であると共に指示代名詞の《それ》も兼ねる]――は、もう一度教室内の千代に向き直ると以下のように訊ねた。「ハナが名古屋に行くって云ったの? いつ?」

「いや、多分行かないとは思いますけど……冒険がどうとか云ってたんで。アソーギ先輩も演劇部の方なんじゃないんですか?」千代がいまだに誤解していたのも無理はないのだ。それだけ阿僧祗花の立ち居振舞いはその口調も含めて芝居臭く、そして大層堂に入ったものだったのである。

「うーん……」安藤さんは考え込んでしまった。

「いつの間にそんな仲良くなったんよハナ先輩と」ここで久仁子がどうしてなかなか気の利いた提案をする。「そんならユー実際連れてってもらっちゃいなよ名古屋。そんで一緒にいる時間先輩に勉強みてもらえばいいんじゃん」

 今度は千代の方が「はァ?」と呆れた声を上げた。「どういう流れでそうなる」

「だってチヨママって年末の昇級にビビってチヨさんに夏期講習受けさせるっつってんでしょ」余程の落第生エストゥピディアンテ・インナータでない限り合格できる飽くまで形式的な試験エクサーメン・ソロ・コモ・ウナ・メラ・フォルマリダとのこと。「ハナ先輩頭おかしいけどめちゃんこ頭いいらしいよ――ですよね部長」[訳註:昇級とは中学三年次、高等部進学を希望する内部生に課せられる試験のこと。作中、《内部評価考査プルエーバ・デ・エバルアシオン・インテールナ》又は《進級試験エクサーメン・デ・プロモシオン》等と翻訳されるが、特に説明不要な場合は単に《試験エクサーメン》と記される]

「おかしいってあんた……」相思相愛の親友たる両者の片割れの前でエンフレンテ・デ・ウナ・デ・ラス・ドス・アミーガス・エナモラーダス、筆者にはこの物語に於けるアロンサ・キハーナとアルドンサ・ロレンソはどうあってもそうとしか思えないのだが、この場面に不在のもうひとりを頭おかしいインサーナ呼ばわりした同胞の発言を、何故か千代の方が気遣って安藤さんの顔色を窺う始末だ。「まァたしかにこの理髪店の娘とは対照的に利発そうなお顔立ちとはお見受けしましたけども……言動についてはあの、素人目には紙一重な感じと申しますか」

「紙一重?」

「いやっ、パッチリ二重でらっしゃって、その」千代はこれ以上の失言を慎む代りに冗語で畳み掛ける道を選んだ。「――私の目は節穴ですからおつむの出来までは見通せませんがあの……ほら、うちらの学年じゃ美人っつってもせいぜい上の下止まりですけど、その、部長さんとアソーギさんはおふたりだけで青の顔面偏差値相当上げておられますよね!」

「何気にうちら助かったよね黄色で。つまらんけど」[訳註:中高一貫校となると六種の学年色を設定している可能性が想定できる。偏差値が低い環境の方がぬるま湯が如くで居心地は好いが、周囲を見回しても目の保養が出来ない故につまらない?]

「充分面白そうだけど――ていうかあんなまともな子どこ探してもいないから……まあでも、たしかに中三の時の昇級は首席だったみたいよ」

「おお、アンドーさんとワンツーフィニッシュですか!」

「いやいや私なんかは、物凄く運が良くてギリギリ一桁入れるか入れないか」一学年に於ける生徒数にも依るけれど、彼女も優秀な学生であることに変わりはないようだ。「平均点取れてたらそれ以上は望まないです」

「天は二物三物与えまくってますよね~それに比べて我々ときたら……」

「――南無阿弥陀仏」千代は仏像にも似た原始的微笑ソンリーサ・アルカーイカを浮かべつつ静かに合掌した。

「幸福量保存の法則ってヤツですかね……少しでも不公平な格差を是正するために何かオゴッてください部長」個人の資質に多少の不満があったにせよ、日本に生まれている時点で平均以上に幸福だと自覚すべきであろう![訳註:《幸福量保存の法則レイ・デ・コンセルバシオン・デ・ラ・フェリシダ》]

「世界はそんな単純なゼロサムゲームじゃないとは思うぞ」安藤は慣れているとみえて久仁子の無邪気な無神経インセンシビリダ・イノセンテなど意に介する様子もない。「追試組は結構居たみたいだけど、五教科で四五〇超えハナだけだったもん」[訳註:久仁子の説に則れば、最高評価≒得点率九割?を叩き出した生徒数と最低評価≒不合格に甘んじた劣等生の数も同値になる筈という理屈だろう]

「追試……受ければ上がれるんですよね?」恩赦インドゥルトの如き追試まで落第したら、最早外部の高校を受験するしかあるまい。尤もそこまで学力の低い受験生が合格できる学校が他にあればの話だが。「結構居るのか……」

「ニコも貼ってあんの見ました見ました」友人の焦燥を余所にはしゃぐ久仁子。「ひとりだけ四八〇点くらいじゃなかったでしたっけ? 頭おかしい!」

「なんで中一の分際で中三の昇級試験の結果覗きに行ってんのよアンタ……」そう云って友人の鉄面皮カラドゥーラに圧倒されている千代に向かって、安藤部長はこう言って言質を取った。

「ハンザさん、下の名前チヨっていうの?」

 聴き覚えのある問いクエスティオン・デジャ・オントンデュだ。

「なんかハナ先輩にも似たようなこと訊かれた気が」千代は正直にそう答えた。「そんなに珍しいすかね。まァ苗字はともかくチヨは普通でしょう」

「ハンザさんチヨっていうんだ下の名前」

「え、ああはい」

「大事なことなので二度訊かれた!」

「うううううん、そうかあ」かなり長い間の煩悶を終えた安藤先輩は、「本来なら私の役目なんだけど……」との前置きを挿んでから、千代の両肩に手を置いてこう結んだ。「大変だと思うけど、ハンザさんに頼むしかないわね」

 何かを頼まれたらしい。

「はぁ、はい」千代も何となく諒承してしまった。

「あ、ハンザさん連絡先教えてくれる? メアドとか、出来れば電話番号も」

 やっと自分にも通じる日本語が聞こえたので、その反動からか威勢よく「はいはいはい、全然かまわないですよ! 光栄です」と調子よく受け応え、千代は携帯モービルを取り出した。

「この人コミュ障だからラインとかバカッタやってないんですよ」

「いやアンドー先輩相手だったらやるよ」

「のぉぉぉぉおおお!」

 花先輩は高等部の終業式にも顔を出さなかったのだろうか?――千代は安藤部長と、金魚のフン宜しくピッタリとくっ付いて行く久仁子の後ろ姿を見送りながら、聞きそびれた諸々について暫く考えていたが、担任が廊下を歩いてくるのが見えたのでそそくさと席に戻った。

「あ――っちゃあ、ハナ先輩のアドレスとかも教えてもらっときゃよかったよ」

 そう漏らしながら着席した千代はこの時まだ、何だかんだで綺麗なお姉さまエルマーナ・エルモスーラの知り合いが又ひとり増えたことに、訳もなく上機嫌だったのかもしれない。


アマデウス《シェーンブルン宮殿の夜伽ビースペラス・エン・エル・パラーシオ・デ・ションブルン》の名古屋公演は一晩のみで、それは中等部の終業式から数えて半月足らず後の催し物エベントであった。[訳註:西vísperaは前夜を示す言葉だが、複数形のvísperasには《晩の典礼》の意味もある。《閨の相手コンパニェーロ・デ・カマ》の語義も兼ねる日本語の《夜伽》の訳出に迷った挙句、弥撒ミサから連想されるイスパニア語を当て嵌めたのだろう]


さて、夏休みに入ってからの五日間、半坐千代は特に外出するでもなく、冷房の効いた屋内で日がな一日地上波や衛星放送の番組カナーレス・テレーストレス・イ・サテリターレスを視たり母親や弟との電子遊戯フエーゴ・エレクトローニコに明け暮れたり昼前から午睡したりエチャール・ウナ・スィエスタと[訳註:通常起床後の二度寝や昼食前の惰眠をsiestaと呼ぶことはない。元の意味だと正午付近だが、実生活では昼食後――特に午後三時前後の時間帯を指す場合が多い]、不毛で実もなき日々ディーアス・エステリーレス・スィン・フルートを費やしていた。

 そんな中、翌日つまり六日目に当たる日だが、二日後の土曜日にアマデの渋谷ミサ(東京公演は七月最終週の金土日、名古屋・大阪はそれぞれ翌週の土曜と翌々週の土日に開催予定)、そしてその翌々日からはサイパンへの家族旅行[訳註:最前の会話ではハワイ旅行だった筈である]を控えた薔薇色の休暇真っ只中のメガネ娘チカ・デ・ガーファスから受け取った一通の意味不明理解不能な電書が以下に記されたものだ。その文面を我々が知る機会を得たのは、ひとえに千代自身が自室にて気前良くヘネロサメンテ――そして気分悪くイ・フリオサメンテ――音読してくれたからに他ならない。[訳註:実際聴き取れる内容は途切れ途切れであり、随時訳者が空白部分を補填した]

「《劇部合宿アット三女さんじょ矢印コンビニ校門付近でアソさん発見かっこ阿蘇山はラドンではアイーンは……ラドゥン》……うざい、《チヨさんちきかれ地図かいたった部長窓から先輩チャリで逃走先輩かわいいよ先輩そしてでかいよ惚れた……サプライズあるよ?》」

 善良なる千代さんは「いや知らんし」と呟いた後、「えアタシん家?」と声を発してもう一度携帯端末の画面に目を遣った。暫く間を置いてから、まァいいかプエース・ビエンという科白に続き聴こえたバフンバムという音は、彼女がそのまま寝台へと身投げしたことアベールセ・ランサード・ア・ラ・カマを教える。

「実際、」枕に顔を埋めながら思わず心中を漏らす千代が続けるに、「――あの変だけどカッ……いいセン……が……変だけど、一緒に付いて……れれば……」名古屋行きの許可が出るのではないか、そういう算段カールクロである。もとい皮算用ベンデール・ラ・ピエルである。

 しかし忠義深い未来の従士エスクデラトラースたる半坐千代の母親は己の娘の学年順位に多少なりとも危機意識を抱いているが故に、高校への昇級試験で一番だったという阿僧祗花の社会的評価エスタートゥス・ソシアルは――無論彼女の直近の概況エスタード・ヘネラル・マス・レシエンテを知らされなければという条件が必須とはいえ――千代の策謀にとって有利に働くのではないか……そこまで千代の頭にあったかまでは定かでないが、実際そのようになるのである。


同じ頃、まんまと想い姫の侍女ダマ・デ・コンパニーア・デ・ス・アモール・コルテスから明日の従者の家居を聞き出した花は、或いはアマディスの軍勢にて一番槍を務め、見事な武勲プロエーサを上げてからでなければその尊顔再び拝することまかりならぬと軍神マルスがスキタイに伝えたという一騎当千の戈ピカ・カパース・デ・マタール・ア・ミーレスと戦略の女神アテネがペルセウスに貸し与えた鏡面状の盾エスクード・ア・モド・デ・エスペホ(こちらは彼女が手にするまで幾日か待たねばならない代物だが)に懸けて誓ったからにはどうしても対面を避けたかった当の想い姫からまんまと逃げ果せ自邸まで帰着した花は、屋敷に籠もり、早速旅支度に掛かるのであった。


翌日、則ち千代にとっても馬場久仁子にとっても等しく夏休み七日目の早朝のこと。

 払暁の微睡みを愛犬ス・ペリートペロ――というのもこれがこのペロの名前なのだが[訳註:半坐家の飼い犬に付けられた名の由来は不明だが、pero《しかし》やpelo《髪》との混同を避ける為か著者はperro《犬》の綴りを用いている。西語では単語の語頭のr及び語中のrrは日本語でいう巻き舌レングア・ロダンテとなる。勿論家人が犬を呼ぶ際に逐一歯茎振動音ビブランテ・アルベオラール・ソノーラで発音しているわけではない]――の散歩をせがむ吠え声に破られた純朴な千代さんは、ウンンンンと伸びをして大窓を開け露台バルコン越しにその鼻っ面を認めると、家族の誰一人としてその切望に応えることなく、また近所迷惑を省みることもないのに業を煮やし、欠伸をして頭掻き掻き終いにはたくもうノ・メ・ディーガスなどとボヤきながら階段を降りて突っ掛けサンダーリアス・スィン・タロン履いて、寝間着ピハーマスのまま(これは寝台を降りてから玄関の鍵を開け外に出るまでの時間の短さと、衣擦れの音が聴こえなかったという二点から得られた推測に過ぎぬものの)庭先へと小さな怪物モンストリートを誘導した。

 充分と空は白んでいたが、日輪の顔さえ東の山に遮られている今時分は空気も清涼で寧ろ肌寒いほどである。柵を開くと又伸びをしながら通りを見渡す。日本には《早起きする者に神は三文を支払うアル・ケ・マドゥルーガ・ディオース・レ・パガ・トレス・モーネス》という金言があり、この三文トレス・モーネスとは現代の通貨に換算すると五十厘貨センティモス[訳註:西céntimoは中南米ならcentavoに該当する]に満たない額面だったと筆者は記憶しているが、つまりこの日この瞬間こそが、これより幕を開ける我等が愛すべき悲運の女学生半坐千代の半欧貨メーディオ・エウロほどの幸福と値踏みしかねる惨劇アトロシダ・インバルアーブレの予兆となる一連の場面セクエンシアなのだと考えていただければ都合が宜しい。

 さてプエース。流石にペロを伴って路上を歩くのならば首に引き綱コレーアを付けねばならぬし、何より彼女自身着替える必要がある。近所といえど鷹揚な千代にもその程度の慎みはあるのだ。

「あ」千代は声を上げた。「今晩渋谷初演か……」

 今一度半座宅の門扉に手を掛けて、内部に片足を踏み入れたその刹那――千代の耳には、そして千代の、驚くべきことに親友にして背信者フーダスの久仁子から齎されたままずっと胸元にある、その吊るし玉を通して今同じ音を聴いているであろう筆者の耳にとってもこれは同様である筈だが、ギコギコクリック・クリックという何とも珍妙な響きが、微かに鼓膜を揺らすばかりではあるものの、届いたのであった。

「ん?」そんな音を鼻から漏らした千代は寝ぼけ眼のまま、東の空のその下の、遥か彼方の煌めく舗道アスファルト・ブリジャンテの上に目を遣った。面妖な影法師スィルエータ・ラーラが、ヨタヨタとこちらに接近してくる。

 柵に手を掛けたまま、片足を庭先に踏み込んだまま、半目の半坐家長女プリモヘーニタ・デ・ロス・ハンザス・コン・ロス・オーホス・セミセラードスは、なんぞケ・パサと呟いて、もう一度大きな欠伸をアアアァァァっと――

「――ァァァアアアア? ちょっちょっちょ、うそうそうそ……え!」

 一気に目が覚める半坐千代。

 過分なる善き日々をブエニースィモス・ディーアス神が汝等に与えたまわんことをオス・デ・ディオース。[訳註:《おはようございますブエーノス・ディーアス》]


[訳者補遺:本稿に於いて登場人物――概ね阿僧祇花嬢――の物する発言中で外国語が使用されていた際、それが原語生来の発音・抑揚に忠実であると判断した場合に限り該当言語の文字表記に従い、それが所謂カタカナ発音に聴こえた場合は親文字にその意味を記した上で実際にその人物が発した言葉として振り仮名カラークテル・ルビ(例えば文字を意味するこのcarácterという単語には便宜上、《カラークテル》の仮名を振っているが、便宜上長音記号の《ー》を用いた部分は《ラ》を伸ばすのではなく強く読むこと――《カクテル》――を意味している。西語の音韻は母音の長短や高低ではなく、強弱が意味を持つ強勢揚音アセント・デ・インテンスィダである点、及び訳者の気紛れによる表記揺れが少なからずある点も併せて注意されたい)を付することとした。前者については必要に応じ、訳註の中にその和文翻訳を補足している。尚、ギリシャ語だのアラビア語だのという訳者にとってイロハのイの字程度しか解さないような言語に関しては、恐らく同様に大した知識も無いだろう著者の記述を鵜呑みにし、そのまま転写している旨をこの場を借りてお断りしておく。又、過剰な量の訳註は元々訳者本人の備忘として挿入されたものであり、大半の読者諸賢がそう思われるように極めて煩瑣且つ不要な註釈が多いので、憚りながら適宜飛ばしつつ読み進めていただくことを推奨いたします]

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ドニャ・キホーテ @salsa_de_avendanno

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