救済の時
正鵠は手紙をしたためた。それは「宮へ来い」という、たった一行の文だった。宛名は書かず、署名も押印もしなかった。正鵠は蘭児に文を渡した。
〈李子鳴へ〉
蘭児は、朝の兵士の交代時間に裏門へ行った。小蘭の姿が見えた。彼を手招きして呼ぶと小銭を渡し「雷おじを呼んで。下五ツ刻」と耳打ちした。小蘭は走っていった。夕方になると雷が裏門へやってきた。雷に正鵠の文を手渡した。「李家の旦那さまに」と囁くと雷は辺りを見渡し、文を懐に突っ込んですぐに歩き出した。
翌日の朝、子鳴がやってきた。正鵠は蘭児に砂版を用意させ、内院の接見の間に通させた。皇族が親族や臣下と会って話す部屋である。会話をするつもりでいた。
子鳴が接見の間に入ってきた。ひどい仏頂面である。明らかに機嫌が悪い。正鵠は蘭児に下がるよう命じた。子鳴をもてなすつもりはなかった。
蘭児が部屋を出ていくと、正鵠は砂版に字を書いて子鳴に見せた。
〈座れ〉
子鳴は、待っていたようにどかりと腰をおろした。
「業腹だが、お前の手蹟だとすぐにわかった」
雷が持ってきた文のことである。子鳴は正鵠の特徴的な文体と筆跡を知っていた。妹は正鵠から来た手紙を、すべて大事に保管していた。どれも一、二文程度の簡潔なものだった。子鳴は遺品である文箱を改めた際に、それをいくつか読んでいた。
文を読み、正鵠が呼んでいると知ってやってきた。案の定、出てきた正鵠はこれまでとは明らかに違った。見るからに正常な意識があり、泰然としている。
子鳴は正鵠を睨み、忌々しそうに言った。
「なるほどな。真っ当な字が書ける、配下を使って文も送れる。精神薄弱でも痴呆でもなかった。今までのお前は詐病だったってわけだ」
正鵠も軽蔑をこめた目で睨み返した。子鳴とは生まれたときからの深い因縁がある。宿業といってもいい。これまでの彼の暴虐を思えば、顔も見たくないというのが本音だった。
左手でさっと砂を撫でて文字を消した。再び書いた。
〈鳳髄はうまかったぞ〉
もちろん嫌味である。
「お前にやったんじゃねえよ」
子鳴は即座に切り返した。蘭児に贈った鳳髄は、こいつの血肉になったのかと思うと腹が立ったがどうしようもない。
「それで、わざわざ呼びつけて何の用だ」
正鵠は最初の質問を書いた。
〈お前に妻はいるのか〉
単刀直入すぎる問いかけに子鳴はぎょっとし、前のめりになった。
「いない」
質問を薄気味悪く思いながらも、きっぱりと言った。
〈妾は?〉
「いない」
〈屋敷に囲う女は?〉
「いない。いきなりなんなんだ。お前の知ったことか」
子鳴は噛みつくように言った。花街では遊ぶものの、彼の身辺はきれいだった。家にも婢はいるが、面倒なので手はつけていない。
正鵠は砂版を前に何事かを考えた。それから慎重な手つきで書いた。
〈お前は蘭児を妻にするか〉
子鳴は文面を、特に「蘭児」という字を食い入るように見つめた。なぜ正鵠がこんなことを問うてくるのかわからず戸惑った。とにかく、彼が蘭児を女だと知っていることは確かである。激しい焦燥に駆られた。
「する」
子鳴は断言した。彼の望みでもあった。
〈あれを罵倒したり殴ったりしないか〉
子鳴は迷った。しないと思うが……蘭児と喧嘩した場合、うっかり不適切なことを言ってしまう可能性はある。
「……善処する」
「……」
正鵠の柔和な左目がつりあがった。
「しない」と子鳴は言い直した。
〈あれを凰琳よりも大事にするか〉
ふざけるなと子鳴は思った。正鵠も知っているはずだ。子鳴がたった一人の妹をどれだけ大事に想い、彼女の幸福を願ってきたかを。子鳴の中で凰琳……逸琳以上に大切な女はいなかった。今は違う。妹は死んだ。蘭児は生きている。生きていればこそ、誰よりも大事にできる。
子鳴はぐっと堪え、ひと呼吸おいて言った。
「ああ、妻だからな。李家で婚儀をあげてやるし、使用人もつけてやる。あいつの家族も面倒を見てやる。できる限りの贅沢な暮らしをさせる。李家の財力は知っているだろうが」
思いつく限りの好条件を述べた。さらに正鵠は書いた。
〈あれの年季を繰り上げ、丁から解放しろ〉
「当たり前だ。丁を妻にできるか」
〈正妻だ〉
「あ~もううるせえな。お前はあいつの親父か。なんで条件が上がっていくんだよ。逸琳を嬪に、側妃にしたお前に言われる筋合いはない」
子鳴は恨みごとを言い、卓をどんと叩いた。
「……」
正鵠は砂版から手を離し、竹串も置いた。子鳴から顔を背けると、椅子に深くもたれた。腹の前でゆっくりと両手を組んだ。目を閉じるとそのままじっとしている。
「おい、どうした。なんとか言え。書け」
子鳴は続く沈黙に焦れた。正鵠は会話を放棄し、無視を決め込んでいる。室内は静まり返り、冷ややかな空気が流れた。子鳴は根負けした。ここは要求を呑むしかない。
「わかった。蘭児は正妻にする。あいつが産む子は男でも女でも李家の跡取りだ。だから、きちんと話をしろ」
砂版を正鵠の方へ押しやった。正鵠は目を開け、ゆっくりと身を起こした。竹串を持つと、くるくると指先で回した。子鳴は苛々としながら、尚も譲歩した。
「疑うなら一筆書いてもいい」
〈いらん、気色が悪い〉
「お前なあ……喧嘩売ってるのか」
子鳴は膝に手を置いたまま、大きく息を吐いた。まだ朝なのに、どっと疲れを感じた。玩弄されているだけかもしれないと思うと気が滅入ってくる。
子鳴は懐から、蘭児の割符を取り出して卓に置いた。丁を所有する証である。どうしたら彼女を取り返せるかを考えていたら、常に持ち歩く形になっていた。
「蘭児を買った証だ。今も法的な主人は俺だ。元来俺のものなんだよ。早くあいつを返せ」
「……」
正鵠は興味がないのか、割符を無視した。指先で砂を撫でながら、何かを待っている。他に何か言うことはないのか、とその目が語っていた。
子鳴は苦悶した。彼の内で、矜持と恋情が火花を散らしてせめぎ合った。そしてとうとう観念した。
「その……悪かったと思っている。お前に暴言を吐き、蘭児を置き去りにしてすまなかった。あいつを雇って面倒をみてくれて……心から、感謝している。従僕が減って困るなら、代わりになる者を必ず探して連れてくる。だから、蘭児を返してくれ。頼む」
一字一句を絞り出すように言い、思いきってがばりと頭を下げた。妹を奪い、死に至らしめた男である。ずっと私怨を募らせてきた相手である。謝罪も感謝の念を述べるのも、はなはだ屈辱だった。が、こうするより他はない。正鵠が承知しない限り、蘭児は戻ってこないのだ。
頭を上げると、正鵠は砂版にさらりと書いた。
〈善処する〉
「考えておく」という意味だろうか。
正鵠は杖を手繰り寄せると、悠然と立ち上がった。子鳴との会談はそれで終わりだった。
数日後の夜、風呂から上がった正鵠は寝所の手前の部屋でくつろいでいた。宿直の蘭児は茶と菓子を出し、寝所の支度を整えた。南門を閉めてから戻ると、正鵠の前までいって跪いた。
「殿下、他に御用はありますか」
正鵠は蘭児を見た。彼女は自分を一心に見つめ、健気に指示を待っている。
惜しむ気持ちはあった。蘭児は有能だった。女で凰琳によく似ているという点を除いても、得難い人材に思えた。
それでも正鵠は蘭児を手放す決心をした。彼はゆっくりと手を動かした。
〈お前は明日ここを出よ〉
蘭児の目が大きく見開かれた。見違えたのかと何度もパチクリさせた。正鵠は努めて冷酷に言った。
〈お前を解雇する〉
「殿下、どうして……」
蘭児の声は動揺から掠れた。
「私が、何か粗相をしましたでしょうか」
〈違う〉
正鵠は指を二回打ち、そこははっきり否定した。蘭児の仕事は完璧だった。細やかな気配りがあり、正鵠の単調な生活を心地よいものにしてくれた。指文字や読唇で話すのも楽しかった。彼女と共食することで、正鵠の心は安らいだ。
「私が女だからですか」
〈そうだ〉
それはどうしようもない。蘭児は項垂れた。自分が円華宮の秩序を乱す異分子であることは間違いなかった。
正鵠は眉根に皺を寄せ、躊躇らしきものを見せた。少し苦しそうに息を吐き、指を動かした。
〈子鳴を呼ぶ。あれのところへ戻れ〉
「嫌です」
蘭児は弾かれたように立ち上がった。では、先日子鳴が宮へやってきたのは、自分を返す相談だったのか。そう思うと、やりきれない気持ちになった。正鵠の対応は何も間違っていない。譲渡や転売ができない丁を持ち主の元へ返す、ただそれだけだ。それでも、蘭児は自分を待ち受ける運命を到底受け入れられなかった。
「旦那さまの元へは戻りたくありません」
正鵠は仕方なく言った。
〈子鳴がお前の主だ〉
「法的にはそうかもしれません。でも私の主は殿下です。旦那さまに捨てられた私を、殿下はお傍においてくださった。私は拾ってくださった殿下にお仕えしたいんです。殿下に尽くすことで、ご恩を返したいのです」
〈子鳴はお前を好いている〉
蘭児の声は悲痛なものになった。
「私は好いていません。嫌です。想像するだけでも、身の毛がよだちます。犯されるとわかっていて旦那さまの元に戻るなんて耐えられません」
〈お前は妻になれる〉
正鵠は子鳴に約束させた。子鳴は蘭児が戻ってきたらわがものとするだろうが、その責任はとる。
蘭児は首を横に振った。
「そんなこと望んでいません。妻になりたいなんて一度だって思ったことはありません。嫌です。妻でも妾でも婢でも同じことです。私はあの方とは、どうにもなりたくないのです」
〈あれはお前を怒鳴らない、殴らない〉
「それでも嫌です」
〈嘘ではない〉
と諭しつつも、正鵠は憂鬱になってきた。これまで自分も子鳴には散々乱暴狼藉されてきたのだ。止めに入った寧までも容赦なく打ち据える、殴り飛ばす、あの狂ったような様を思い出すと、蘭児も同じ目に遭うのではないかという懸念がわいてくる。先日呼び出した時には蘭児を虐待しないと約束し、謝罪もしたが、本当に改心したのかどうかはわからない。
この嫌がりようでは、彼女は戻ったところで子鳴の求婚を頑として拒むだろう。子鳴は当然怒る。怒り狂って収拾がつかなくなったらどうなるだろう。蘭児は罵倒され、殴られ、辱められるかもしれない。抵抗したところで、男の力には叶わず屈服させられる。想像しただけで、正鵠の心はざわついた。正鵠が知る限り、子鳴が凰琳に暴力を振るったことは一度もない。まさか妹と同じ顔をした女を打ったりはすまい? いや、しかし……。
蘭児は、その場に平伏した。頭を床に擦りつけて懇願した。
「殿下、お願いします。なんでもします。御膳番を外されても構いません。この宮に置いてください。私を旦那さまの元へ返さないでください」
必死に正鵠を見上げてくる。
正鵠は心を鬼にして、指を二回打った。
〈だめだ〉
蘭児の顔は絶望に歪んだ。奈落の底へ落ちてゆくように、顔が蒼白になる。何度も瞬きし、悲しげに睫毛を震わせた。正鵠は彼女が泣くのではないかと思った。蘭児が泣く。凰琳が泣く。凰琳が……?
蘭児の目に涙が滲むことはなかった。彼女は泣かなかった。生まれつきの気性であり、そういう女だった。顔は似ていても凰琳とは違う人間であり、生きものだった。
重い沈黙が降りた。正鵠は動かなかった。決定を覆すつもりはなかった。蘭児は手放さなくてはならない。男しかいない宮に置いて、もしなんらかの間違いが起きた時、自分はこれを助けてやることができない。この不自由な身体ではどうすることもできない。子鳴なら……できる。彼は二つの目、健脚、大きくてよく通る声、強靭な肉体を持っている。これを、この世のありとあらゆる荒波から守ってやれる。
微動だにしない主に、蘭児は彼の固い意志を読み取った。どうにもならない。従僕は命令を呑むほかない……。
とうとう蘭児は言った。
「わかりました。私はご命令どおり、旦那さまの元へ戻ります。ですが、その前に……殿下」
蘭児は立ち上がり、正鵠にふらふらと近づいた。正鵠は思わず身を固くした。蘭児はゆっくりと腰を落とすと、彼の膝にひしとしがみついた。
「どうか、私の想いを遂げさせてください」
「!」
正鵠に衝撃が走った。激震といってもよかった。もし声が出せたのなら、「えっ?」とか「は?」とか随分間の抜けた言葉を発したかもしれない。彼は信じられない思いで、自分にしがみつく女を見下ろした。まったくもって予期せぬ展開だった。
「殿下、お許しください。私は……許されないと知りつつも殿下をお慕いしています」
蘭児は血が出そうなほど、ぎゅうと唇を噛みしめた。
「わかっています。殿下が亡くなったお妃さまを愛しておられることは。私がお妃さまに似ているからよくしてくださることも……。私はひどい人間です。叶わぬ想いを知ってからは、ずっとお妃さまに嫉妬していました。死後も殿下に想われているお妃さまが羨ましくて、妬ましくて、苦しくて仕方ありませんでした」
蘭児はこれまでの想いを切々と語った。どのみち明日には宮を出るのだ。子鳴の元へ戻る。彼のものになる。もう最後なのだ。殿下に会えなくなるのだ。ならばこの想いを、胸の痛みを洗いざらいぶちまけてしまおうと思った。人を呼ばれてもいい。不敬罪で打ち首になってもいい。死体は宮の外に投げ捨てられて犬に食われたっていい。もうどうにでもなれだ。
「殿下、お毒見であっても三食食べられるだけで幸せだったのに、私はすっかり、もうすっかり、救いようのない欲深い人間になってしまいました。どうしようもないのです。飢えた畜生のように、あなたさまが好きなのです。旦那さまではなく、あなたさまがいいのです」
蘭児はずりずりと這い上がるようにして正鵠の胸に顔をうずめた。薄い寝巻きを通して体温が伝わってくる。湯でぬくめられた肌は温かかった。蘭児は誓った。何がどうなっても、この温もりだけはけして忘れまいと。首筋に顔を寄せると、湿った髪の匂いがした。
「蔑まないでください。私は丁ですが、売女ではありません。誰かれ構わずこんなことをするわけではありません。私は……殿下だけにすべてを投げ打ちたいのです」
蘭児は正鵠に抱きついた。正鵠は蘭児を受け止めながらも、安楽椅子からずり落ちそうになった。傍からは蘭児に押し倒されているようにしか見えない。
「後生です。どうか一度のお情けをください。旦那さまとどうにかなるときは、目をつぶって殿下を想います。殿下に抱かれ、睦んでいるのだと思えばいくらでも耐えられます。ですから、どうか」
正鵠は蘭児の告白が終わるのを待った。彼女のか細い声が消えると、そっと背中に触れた。あやすように優しく叩いた。
自分の想いの丈を吐露してしまうと、蘭児はしばらくそのままじっとしていた。それから名残惜しそうに身体を起こした。正鵠は覆いかぶさる蘭児を、困惑しきりな表情で見上げていた。怒ってはいない。拒絶してもいない。許容もしていない。ただじっと嵐が過ぎるのを待っている。
蘭児の胸は痛んだ。急に途方もなく恥ずかしくなった。自分は身体が不自由な殿下に、かつて自分を襲った男と同じことをしようとしている。最低だ。最悪だ。これじゃただのけだものじゃないか。
遅かりし理性が蘇ると、途端に悲しくなった。自分の願いは叶わない。とてつもなく辛く、やるせないけれど、この想いは諦めなくてはならないと思った。誰よりも大事で愛しい人を己の淫欲で辱めてはならない。
「申し訳ありません。殿下のお気持ちも考えず、私は最低なことを……どうかお許しください」
蘭児は諦めて、身体を離そうとした。すると背中に触れていた手にぐっと力がこもった。正鵠の端正な顔が近づいてくる。ぶつかると思った瞬間、唇が合わさった。蘭児は驚愕し、それから目を閉じた。めくるめく幸福と押し寄せる快感に酔いしれた。正鵠は麻痺が出る右手は使わず、左手で蘭児を支えた。強く吸ってやると口を離した。
蘭児は微細に震えた。たまらなくなった。こんな甘い施しをうけて、どうして正気でいられようか。どうして新たな無礼を働かずにいられようか。おずおずと頬に触れた。両手で包むようにして、今度は自分の方から口づけた。一回目よりも長く、角度を変えて何度も貪った。
正鵠は蘭児の愛を受け止めた。黙って、声が出ない以上黙っているしかないのだが、あますことなく受け入れた。その瞳に恋情はない。諦念もない。彼は天地や天地をいろどる花鳥風月を、ただ過ぎゆくままに愛でるような憐れみぶかい表情をしていた。蘭児を許している。彼女の無体を、想いを許している。蘭児は思った。仏法のことはよくわからないが、末法の世で衆生をあまねく救済するという菩薩さまはこういう顔をしているのではないかと。
二人は衣越しに互いの体温を感じた。
蘭児は救いを求めるように、耳に口づけた。光を失った右目に口づけた。頬に、鼻に、口づけた。また唇を幾度も吸った。
次第に女体にはありえない猛々しい熱のようなものを感じた。正鵠に密かな躍動がある。
唇を離すと、蘭児は恐る恐る言った。
「殿下?」
下半身に反応があった。思いもせぬ僥倖である。正鵠は目を逸らした。急に人間味のある照れくさそうな顔をした。
〈わかった〉
彼は手を右に振った。蘭児の告白に対する返事である。
「殿下、どうか、私を」
……救ってください。蘭児は拝むように乞い願った。卑しく浅ましい願いである。
〈お前の願いはわかった〉
と彼は再度言った。
「私を抱いてくださるのですか」
正鵠の指が一回だけ打った。
〈ああ〉
蘭児の心は喜びであふれた。
正鵠は奥を、寝所の方を振り返った。さすがにここで致す気にはなれない。身体にも負担が大きい。寝台に横たわってならなんとかなるかもしれないが……あまり自信はなかった。蘭児の願いを叶えてやれるかどうかはわからない。ただこうなってしまった以上、後に引けない。場。蘭児。発露してしまった情欲。色んなものを収めるべく、なんとかせねばならない。彼もまた密かに困っていた。蘭児の唇はしっとりとして柔らかく、応えているうちに久しく忘れていた官能を思い出してしまった。触れ合ううちに、男の本能が疼いた。葛藤する心とは裏腹に、生々しく機能する肉体が開放を求めていた。
儚くも、なまめかしい救済の時が過ぎた。
夜半過ぎに、蘭児は寝台からそっと滑り降りた。正鵠は疲れて眠っている。彼の寝顔をしばらく眺めた。無理をさせてしまったと、蘭児は申し訳なく思った。同時に彼を占めて過ごした時を思うだけで、心は甘く優しいもので満たされてゆく。動くと身体の芯が痛んだが、その痛みさえも愛しく、誇らしい。正鵠は受け身になりながらも、蘭児の想いを遂げさせてくれた。蘭児は、救われた。
さらに正鵠は眠りにつく前、眠たげなまなこをしばたかせながら手指を動かし、
〈明日も早餐を支度せよ〉
と言ってくれた。ここにいてよいという意味だった。蘭児は深く安堵した。これで子鳴のところへ戻らなくていいし、彼とどうにかなることもない。蘭児は貞女でいたかった。正鵠はその願いも叶えてくれた。
蘭児は起こさないように注意しながら、鮮血が散った敷布を剥がした。
正鵠に毛布と掛け布団をかけると寝所を出た。さらさらと細かい雪が降っていた。寒風が蘭児の火照った身体を冷やした。
蘭児は敷布を処分すると、御膳房へ行った。隆善その他二人の夜勤が、鍋に仕込みを始めていた。蘭児はかまどへ近づき、椀に白湯を汲んだ。ひと口ひと口ゆっくりと飲んだ。喉が潤うと、やっと夢の世界から現世に戻ってきたような気がした。
「おう、仕事終わったのか。お疲れさん」
隆善が蘭児に気づいて、声をかけてきた。
「お疲れさま」
蘭児も答えた。まだ足もとがふわふわしている。身体の熱は昇華しても、頭の中は依然興奮状態にある。いや、混乱状態かもしれない。とてもじゃないが、今夜は眠れそうにない。
誰かと軽く話したい気分だった。蘭児は言った。
「あのさ、前に話していたよね。隆善のおじいさんが、御膳房で初めて皇帝陛下に拝謁したときのこと」
「おう」
「その時のおじいさんの気持ち、今はわかる。あまりにも嬉しくて、もう死んでもいいってやつ」
もう死んでもいい、と蘭児は反芻する。彼との触れ合いは、何もかもが幸せすぎて頭がどうにかなりそうだった。死にたくはないが、死んでもいい。至福の頂きに昇りつめたまま、パツンと弾けて泡のように消えてしまいたい。
「そうかよ。良かったな」
「うん、良かった」
蘭児は、隆善には見えないように含羞んだ。
今夜は朝まで起きていようと思った。寝てしまったら、身に余る僥倖がすべて夢となって消えてしまいそうで怖かった。冬の夜明けは遅いけれど、起きてさえいれば必ず朝が来る。朝が来れば、また殿下に会える。
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