七、愛を乞う者、守る者 -つがいの二人-
鴆毒を呑む日
蘭児が御膳番になってから月が数回巡った。彼女は日々職務をまっとうし続けた。そうできたのは単純に運が良かったからであるが、いよいよ御膳番の本領が試される時がやってきた。
蘭児はその日も手際よく午餐を供していた。寧も手が空いたのか進膳房へやって来て、正鵠の後ろに控えた。
前菜と主食を出し、羹の番になった。御膳房に
鍋から木椀に湯を入れ、ひと口分食べた。そこで彼女は違和感を覚えた。胡椒と酢が効いているが、汁が苦いような気がする。傷んでいるのかと考えたがそんなわけはない。湯はいつも作りたてのものを出している。隆善が作り置きなどの手抜きをするはずはなかった。蘭児はもうひと口分食べた。やはり苦い……。これはおかしい。
「兄さん」
蘭児は寧を呼び、立ち上がろうとした。膝を伸ばしかけたところで、彼女はうっと呻いた。息が苦しい。呼吸ができない。喉を押さえたまま前のめりに倒れた。眼前に黒木の床が見えた。木目が近くなったり、遠くなったりする。声を出そうにも舌が痺れて発することができない。
「蘭児、どうした」
寧の声がぐわんぐわんと響いた。懸命に腕を動かして立ち上がろうとしたが、身体はぴくりとも動かない。
寧は倒れた蘭児に駆け寄ろうとした。咄嗟に正鵠が左腕を掴んだ。彼は寧を引き留めると言った。
〈宋茶をもて〉
寧は目を丸くした。
「ですが、殿下。あれは……」
〈早く。茶を淹れよ〉
正鵠は恐ろしいほどの速さで指を動かした。寧は言われた通りに宋茶、霍山黄芽が置いてある居間へと走った。
寧はわかっていた。これまでに殉職した御膳番たちと同じだった。湯に毒が入っていて、蘭児は毒を呑んだのだ。
あれも……死ぬのか。そう思うと胸が絞めつけられる。折角仕事を教えてここまで育てたのに、読み書きもできるようになったのに、ここで蘭児を失うのか。
茶を持って進膳房に戻ると、正鵠は蘭児の頭を膝に乗せて、その口に茶碗で水を注いでいた。蘭児の目は虚ろで、身体は小刻みに震えていた。痙攣が始まっている。一刻の猶予もない。寧は白湯の入った瓶に霍山黄芽の茶葉をすべて放り込んだ。銀箸を突き入れてかき回した。茶の入った瓶と水差しを正鵠の傍に置いた。正鵠は茶碗に素早く茶と水を入れ、それを蘭児の口に注ぎ込んだ。寧は医務室へ走った。段先生を呼びに行った。
段先生が応急処置の道具を持って駆けつけた。寧は蘭児を抱き上げて進膳房の隣の部屋へ行き、長椅子に寝かせた。段先生が診察を始めたので、寧は部屋から出た。
正鵠は午餐を中止にした。御膳番が倒れた以上、それどころではない。彼は黄茶の残りを飲みながら、診察が終わるのを待った。
寧は毒物に触れないよう、注意深く床を片付けた。御膳房へ行き、料理人たちに華餐は中止して料理はすべて廃棄すること、夜に新たに作り直した間食を用意するように言った。蘭児が毒を呑んだことは伝えなかった。料理人や雑役夫に動揺が走るし、毒を入れた犯人捜しを始めて疑心暗鬼になる。犯人と決めつけられた者は、私刑に処される可能性もあった。宮の内部で暴力が横行すれば統制が取れなくなる。隆善たちは何も言わず従ったが、料理を取りに来る蘭児の姿が見えないことに何かを察したようだった。
診療を終えた段先生が扉を開けた。
寧と正鵠は隣室に入った。蘭児は意識を失って横たわっている。顔は蒼白だが、その胸はかすかに上下していた。生きている。
正鵠は長椅子の傍に置かれた椅子に腰かけた。蘭児を心配そうに見つめた。
段先生は蘭児の腕の脈をとりながら言った。
「一命は取りとめたぞ。処置が早かったのが功を奏した。胃の洗浄を行いあらかた吐かせたことで、毒を外に出すことができた。これから体内に残った毒を叩くため高熱が出るが、それを乗り越えれば回復するじゃろう」
「そうですか。ありがとうございます」
寧は蘭児が助かることに安堵した。そこで段先生は寧に振り返った。
「寧よ、これはおぬしの弟ではないな」
寧は段先生の唐突な指摘に驚いた。どうして嘘がバレたのだろうと思ったが、今更言い繕っても仕方ない。
「おっしゃるとおりです。私と蘭児に血の繋がりはありません」
「そうではない、妹ではあるかもしれんが弟ではないという意味じゃ」
「どういうことです」
「これは女じゃ」
寧は段先生を凝視した。何を馬鹿なことを言いだしたのかと思ったが、先生は至って真面目な顔をしている。冗談を言っているようには見えなかった。
「呼吸しやすいように胸のあたりを楽にしようとして気づいた。これには乳房があるとな。不思議に思って調べたら、これの股には睾丸も陰嚢もない。宦官なのかとも思うたが切除痕がない。始めから男性器がないなら、これは生まれつきの女じゃ」
「そんな」
寧は絶句した。
「本当に知らんかったのか」
「……はい」
寧は蘭児を見た。顔色が悪くぐったりとしているが、それ以外はいつもと変わりないように見えた。寧はこれまで蘭児の寝顔を何度も見てきた。深夜に部屋に戻ると大抵眠りこけていたし、蘭児の方が気づいて目を覚ますこともあった。まさか自室に女を住まわせているとは思わなかった。
寧は十二の歳に円華宮に放り込まれて以来、約十年もの間、女というものを見たことがなかった。当然女と話したことも触れ合ったこともなかった。
母親を始めとして、女性の身内もいなかった。彼が知る女とは、実家にいた使用人や市井や宮城で通りがかりに見た女たちのおぼろげな記憶、書物や絵巻物の挿絵で見る平面的かつ型板的な女だけだった。
目の前に横たわるものを、これが女なのか……と思う。別世界の生きものを眺めているような心地がする。
段先生はいっそ感心したように言った。
「男と女では身体の構造がまるで違う。これくらいの歳なら初花も迎えておろう。わしはともかく、お前はこれとは一番多くの時を過ごしたはず。よく今まで隠しおおせたものじゃ」
本当にそうだと寧は思った。つきっきりで仕事を教え、読み書きも教え、同衾までしたのに気づかなかったなんて。自分はあまりにも女というものを知らなすぎる。そこが盲点になるとは。
「蘭児は……李公子が連れてきたのです。置き去りにされてしまい、急遽私の弟ということにしたのです」
「女を置いていくとは、またよくわからん嫌がらせじゃのう」
「おそらく李公子も知らなかったのだと思います。あの方は我々以上に、外が決めた宮の掟を知っています。女と知っていたら連れてはきません」
寧は今こそ蘭児を巡る先日のあれこれに合点がいった。子鳴も蘭児を男だと思っていたが、なんらかの理由で女と気がついた。だから焦って取り戻しに来たのだと。彼は蘭児に執心しており、妻にする、結婚すると言って口説いていたのだと。
「とにかく女なら女で、女用の薬湯を煎じなくてはならん。毒見程度ならどうということはないが、男用の薬は女には強すぎるのでな。適量でものぼせてしまう。今から作るから夜にでも取りに来い。わしにできることはそれくらいじゃ」
段先生は医療道具を持つと部屋を出ていった。
寧は正鵠へ向き直った。
「殿下はお気づきでしたか。その、蘭児のことです」
正鵠は明確に指を二回打った。
〈いや、今初めて知った〉
蘭児を見つめながら、正鵠は彼女との会話を思い出した。確かこれは来歴で「妓にならずに済んだ」と言った。男娼ではなく妓と言った。
〈女だと思い当たる節はある〉
正鵠の返事に、寧は大きく息を吐いた。
「そうですか、私は疑いすら抱きませんでした。これを男だと信じていました。……でも私の鈍感さが蘭児にとって救いだったのなら、それはそれで良かったのではないかと思います。女人禁制の宮で男と偽って生きるのは、とてつもない重圧と恐怖があったでしょうから」
だから把田に襲われた時はあんなに怯えていたのか……と思い至りながら、寧は蘭児の頭の下に腕を差し入れた。彼女を抱き起こした。
「宿直でもないのに、ここに寝かせておくわけにはいきません。部屋へ連れ帰ります」
寧はくるりと身体を返し、蘭児の両腕を背中から前に回すと彼女をおぶった。両足をしっかり抱え上げると歩きだした。女と知った途端、蘭児の身体は軽く柔らかいもののように感じられた。
正鵠は二人の背中を見送った。そして寧の健常な身体を心の底から羨ましく思った。
蘭児は女だった。その事実は、正鵠にも少なからず衝撃を与えていた。これは女でありながら、自分の代わりに毒を呑んで倒れた。女の方が男よりも弱く、男よりも少ない毒で死に至るにも関わらず。
正鵠は無念だった。蘭児は忠義者であるのに、折角助かったのに、自分はこれを背負って運んでやることすらできない。他の男が当たり前のようにできることができない。一生、どう足掻いてもできない身体になってしまった。なんと虚しく、もどかしく、やるせないことだろう。
夜に差し掛かる頃、蘭児は意識を戻した。住居房に戻り、寝台に寝かされていた。すぐ傍に寧が腰かけている。
寧を視認した蘭児は真っ先に尋ねた。
「殿下は?」
「ご無事だ」
「……そう」
ならば良かった。蘭児はうっすらと微笑んだ。殿下さえ無事ならそれでいい。
「お前は毒であやうく死ぬところだった」
「うん……。でもそれでよかった」
蘭児はとろんとした目で寧を見つめた。
「だって兄さん、毒を呑むのが私の役目だもの。殿下をお守りして代わりに死ぬ。それが御膳番の務めでしょ」
「そうだ。お前はよくやった」
寧は褒めながらも、込み上げてくるものを懸命に堪えた。主のために命を投げ打つ。下僕なら当然のことだ。蘭児はそのために雇われ、生かされている。これが男であれば、寧は惜しく思いつつも、非情に割り切ることができた。女と知ってしまった今は、あまりにも哀れで痛々しい。
蘭児は呟いた。
「もう死ぬと思ったのに、どうして助かったんだろう」
「殿下がお前に大量の宋茶を飲ませて吐かせた。霍山黄芽には解毒作用があるそうだ」
蘭児は思い出した。舌が痺れて息が苦しくなって……意識は朦朧とし、視界もぼやける中で自分に近づいてきた人を。カツンカツンといつもよりも性急な音がして、ああ、あれは白檀の杖の音だったのか。その人は自分を仰向けにすると顎を掴んで口を開いた。冷たいものを一気に流しこんできた。むせて何度も吐き出したけど、それでも水を飲ませた。それから温かな液体を流し込んできた。茶碗で何杯も飲まされた。とろりとしてとても良い香りがしたが、全部飲むのは辛かった。やっと飲みきって解放されると思ったら、今度は長くて細い指が口に入ってきた。喉の奥を叩くように探られた。息ができなくて悶絶した。指を突っ込まれたまま顔を下に向けさせられた。胃に入った液体が逆流して何度もえづいた。手洗い用の桶に向かって食べたもの飲んだものを全部吐いた。それはもう苦しくて、とうとう吐くものがなくなって、苦い胃液だけになって、頭がぼうっとして……。そこで記憶が途切れている。
「宋茶なんて、あんな高価なもの」
宋茶を自分の救命に使うなんて信じられなかった。とてつもなく勿体ないことだし申し訳ない。下僕の命は安い。丁なら尚更だ。自分はあの繊細な黄色い茶葉のひとかけらの価値もないだろうに……。
蘭児はぼんやりと思った。もしかして殿下は自分をお妃さまと重ねられたのだろうか。だから助けてくださったのだろうか。愛妃と似た顔をした下僕が、また毒で死ぬのは忍びないと。自分のことを特別に思し召してくださっている? ……自惚れすぎだろうか。きっとそうだ。
寧は卓に置いた蓋つきの椀を手に持った。段先生が煎じた薬湯だった。
「先生が女のお前用にわざわざ煎じてくださった。ありがたく飲め」
「……うん」
蘭児は素直に言った。段先生が自分を診て、女と気づかないわけがない。とうとう先生や寧にも知られてしまったが、焦りや悲しみはなかった。心は風のない湖面のように静かだった。諦念だけがゆっくりと沈殿していく。
薬湯が入った椀を持とうとしたが、指先が痺れて掴めない。椀を持てないと知ると、寧は薬湯を匙ですくって蘭児の口に運んだ。蘭児は飲むと、うっとえづいた。
「まずい」
毎日毒見で飲んでいても慣れることのない味だが、これは正鵠用の薬湯よりもひどい味がした。
「文句言うな。殿下は宋茶の出がらしもくださった。これには下熱作用もあるそうだ。茶も飲め」
茶は薬でもあり、貴重な宋茶はきっちり使いきらないと勿体ない。寧は薬湯を全部飲ませると、茶壺に入れて持ってきた霍山黄芽の出がらしで再度茶を淹れた。それも蘭児に少しずつ飲ませた。とにかく水分をたくさんとらせなくてはいけない。食事の時には茶葉も食べさせる気でいる。
「毒が全部輩出されたわけじゃない。段先生の話じゃ、これから熱が出るそうだ」
「うん、もう出ていると思う。身体が……熱い」
寧は、蘭児の額や頬に手を当てた。確かに熱い。
なんとか茶を飲み終わると、蘭児はもう限界とばかりに目を閉じた。寧は木桶に水を汲んできて、濡らした手巾を額に乗せた。蘭児の白い肌は上気し、やがて大量の汗をかき始めた。肉体が命を燃やして体内の異物を、毒を出そうとしている。しきりに荒い息を吐いた。
寧は被服房へ行って、以依から真新しく清潔な衣類をもらった。部屋に戻ると蘭児の服を脱がせ、なるべく裸を見ないようにしながら、汗だくの身体を手巾で拭いてやった。身体を転がすようにして新しいものに着替えさせた。正鵠が重症の頃から看病してきたため、病人の世話には慣れているが……女に触るのも世話をするのも初めてである。機械的に手を動かしつつも、寧は困り果てていた。いっそ頭を抱えて机に突っ伏したい気分だった。
思わず呟いた。
「お前は俺が死んだら一体どうするんだ」
蘭児は時折熱にうなされながらも、昏々と眠っている。
自分がもしいなくなったら……その先を考えただけで、寧はいたたまれなくなった。
蘭児が倒れている間、寧は毒見を料理人たちにさせた。隆善たちは身の潔白を証明するため、喜んで毒見した。料理に毒が入れられた場合、自分たちが真っ先に疑われることはわかっている。特に皇帝が毒を盛られると、下手人が誰であろうと、御膳房の料理人全員が連座して処刑される。料理人の命も安い。連帯責任で殺されないだけ恩の字だった。
寧は、彼らに逐一毒見させながら思った。殿下が毒を盛られて身罷られれば、円華宮で働く者たちも口封じで殺される。高待遇の仕事を捨て、みすみす自分の命を縮めるようなことをするだろうか。いや、救命と大金を約束されれば毒を入れるかもしれない。疑い始めればきりがない。宮の外から入って来た者が、毒だけ混入してすぐ外へ出た可能性もある。珂家の手先なら出入りは自由だ。
蘭児の熱は三日ほど続いてようやく下がった。
その間は寧が仕事の合間をみて看病を続けた。以依が体調不良と聞いて見舞いに来たが、窓から中の様子を覗かせるだけで入室は禁じた。
夜、起き上がった蘭児が自力で粥を食べた後、寧は言った。
「お前を女と知るのは殿下と段先生と俺だけだ。以依や他のやつらは知らないし、教える気もない。そこは安心していい」
「うん、今まで黙っていてごめん」
「謝らなくていい。お前は何も悪くない。悪いのはお前をここに放り込んだ李公子だ」
「それはそうなんだけど」
蘭児の心中は複雑だった。李子鳴がここに置き去りにしたからこそ、自分は殿下に出会えたのである。最愛の人に巡りあい、今も密かに愛している。
「旦那さまのことは恨んではいない。ここでの暮らしに不満はないし、働くうちに男として生きたいと思うようになった。男であれば、きちんと仕事をすれば褒めてもらえる。兄さんは私を初めて褒めてくれた。嬉しかった」
「そんな理由でここにとどまったのか」
「うん」
と蘭児は頷いた。仕事を頑張った直接の動機は、クビになりたくないのと正鵠への憧憬だ。彼のお役に立ちたい、傍にいたいと思って必死にやってきたが、寧に褒められて働く意欲が上がったことも確かだった。
「いつ死ぬかわからないんだぞ」
「それは外でも同じだよ。私は丁だもの」
蘭児は深い諦念を滲ませながら言った。宮の外に出られたところで、もののような扱いだ。どうせもの扱いされるなら、少しでも大事にしてもらえるところにいたい。
「ここでは人間扱いしてもらえるし、人間のままで死んでいける。もし殿下がお許しくださるなら、これからも近侍としてお仕えしたい」
寧はとんでもないとばかりに首を横に振り、声を荒げた。
「お前は女だ。お前が悪いわけではないが、女である以上はここの異分子だ。女官でもない限り、お前が殿下に仕えることはできない」
寧にとっては、円華宮にいることが蘭児のためになるとは到底思えなかった。処遇を決めるのは自分ではないことは重々承知だが、それでも蘭児の言い分は甘ったれたものに聞こえた。
蘭児は寧の剣幕に委縮して黙ってしまった。女官……自分の身分では、官になれるはずもない。
翌日から蘭児は仕事に復帰した。内院に入ると、取る物も取り敢えず正鵠の元へすっ飛んで行った。彼の前に平伏すると言った。
「幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、我らの偉大な香宮殿下。殿下が私のような卑小の命を助けてくださったことは、大変恐れ多くも感謝の念に堪えません。私には宋茶一杯分の価値もありませんが、どうかこれからも存分にお使いください」
女と知られても傍に置いて欲しい。蘭児は強く願いながら、顔をあげた。
正鵠は言った。
〈毒が吐けてよかった〉
「はい、吐いたので助かりました」
〈私も水と茶を飲まされて吐いた〉
正鵠が毒を盛られた時も、香宮付きの医務官たちが駆けつけた。すぐに胃の洗浄を試みたが、処置が遅れたため毒の大半は吸収されてしまった。正鵠の右目は潰れ、右半身と喉は麻痺してしまった。
正鵠は目の前の奇跡を、眩しい心地で眺めた。宋茶など惜しくもなんともない。茶が飲みたければ、別のものを喫すればいいだけだ。蘭児は、毒を呑んで助かった初めての御膳番だった。こうして無事に回復し、後遺症らしきものもない。実に幸運である。
〈前の者たちは死んだ。お前は生きている〉
正鵠は口元に穏やかな笑みを浮かべた。
〈それならいい〉
「はい」
蘭児は感謝感激で胸が熱くなるのを感じた。何十回目かもわからないまま、目の前の主に見惚れた。
痛いくらいに思った。この方の傍にいられるなら、いつ死んでもいいと。彼への想いは、
その日の午餐から蘭児はまた御膳番を務め、正鵠の私的な用事もこなすようになった。宿直もした。
正鵠は蘭児に女であることは一切触れず、特別扱いすることもなかった。これまでと同じように淡々と、時に情け深く接した。けれども、彼は心の内では別のことを考え始めていた。
蘭児が復帰してしばらく経ったころ、寧が正鵠のもとにやってきて言った。
「殿下、私が口を出すことではありませんが……どうか蘭児を、宮の外に出すことをお考えいただけないでしょうか」
寧の顔は青ざめて見えた。
「蘭児は、もちろんそのものに罪はありません。ですが女です。殿下の身代わりで毒を呑むために雇われていますが、私にはいっそ……あれが毒のようにも思えます」
正鵠は寧の苦しい心情を察した。何せ十年ぶりに見る女である。しかも自室という私的な空間に戻れば、当たり前のようにいて生活している。働いている時とは違う、ごく打ちとけた、くつろいだ顔も見せる。男のなりをしていようが、服をきっちり着込んでいようが、その下が女であることを知ってしまった今は目の毒以外のなにものでもない。蘭児は甘美な毒である。清廉な容姿と、快楽の源泉たる女の肉体を持っている。
「ここは蘭児のとって危険すぎます。宦官たちはともかくとしても、その他の使用人は罪人もいます。もし珂家の兵士たちに女と知られて略取されれば、殿下の威光も及びません。あれは……地獄を見ます」
いや、と寧は心中で自嘲する。罪人や兵士たちも危険だろうが、一番危ないのは自分ではないかと思う。
自分こそ切羽詰まって理性のねじが飛んでしまえば、あれに無体を強いるのではないかと危惧していた。人間であることを捨てて、けだものになってしまうかもしれないと。
信頼されているのだろうが、蘭児の呑気さも腹が立つ。兄と呼ばれているが、自分は身内でもなんでもない。あかの他人で、ただの男だ。寧は今こそ李子鳴の焦燥も理解できた。自業自得とはいえ、恋慕する女を男の巣窟に置かなくてはいけない彼の心中はいかばかりだろう。
〈確かに〉
正鵠も神妙な面持ちで同意した。寧は畳みかけるように言った。
「蘭児をここから合法的に連れ出せるのは、所有者である李公子だけです。男だからと捨てて、女と知ったから取り戻すなんて身勝手の極みですが、あの方でも蘭児が女だとは暴露しなかった。ここで暮らすことがどんなに危ういかわかっているのです。蘭児の安全を一番願っているのは彼でしょう」
〈あれか〉
子鳴のことを考えると、正鵠は不愉快になった。大人げないので表には出さないが、正鵠も子鳴を心底毛嫌いしていた。凰琳の死後、子鳴には毒の声としか言いようのないひどい言葉で面罵され、暴力を振るわれてきた。身体の傷は癒えても、心は深い傷を負ったままである。子鳴に対しては、否定してもしきれない憎しみがあった。
子鳴が蘭児の本来の主人と理解しているが、返すのはどうにも……抵抗がある。
正鵠も寧と同じで、蘭児を女と知ったことで彼女への意識は一変してしまった。あくまでも男の使用人、近侍として気に入っていたはずが、今では……。
寧は主に迷いがあると見て、さらに言った。
「これまでの慣例としても、御膳番は必ず男が務めます。女が務めた例はありません。蘭児がここを出たら、内院にはしばらく以依を常駐させます。蘭児ほど気は利かないでしょうが、筆談は問題なくできます。その間に次の御膳番を入れて教育します。ですから、蘭児をどうか外へ」
〈わかった。考えておく〉
正鵠は言った。寧の主張と懇願ももっともだと思った。
蘭児は法的に李子鳴のものである。彼が蘭児を所有する権利は、他ならぬ国が保証している。丁は譲渡も転売もできない。子鳴は蘭児に求婚するほど恋慕し、取り戻したがっている。組合から保証人を呼ぶか証明書を提示すれば、子鳴は蘭児を円華宮から連れ出すことができる。
難しいことは何もない。あとは自分の内で、折り合いをつければ済むことだろう。
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