愛及屋烏の女
李子鳴は脂粉の香り漂う部屋で目を覚ました。朝日が差し込む妓楼の一室である。
起き上がるとひどく頭が痛んだ。昨夜登楼してから、散々飲んだことは覚えている。ひたすらに飲んで酔っぱらって、途中からは女にすがりつかれてさらに口移しで酒を飲まされた。女の白く細い指が、子鳴の上衣の内にすべりこんできて肌をまさぐった。その後のことは、乱れた着衣と肌にこびりついた紅を見ればわかるというものだ。
薄物をまとった女が鏡台の前に腰かけて、髪を結っている。子鳴に気がつくと妖艶に微笑んだ。腰を振るようにして寝台へくると、腕に絡みつくようにしてしなだれかかった。
「ねえ、李家の若さま。昨日は本当に悦かった。極楽へいってしまうかと思った……。こんなのは初めて」
子鳴は女を見た。これが昨夜の相手かと思った。今初めて顔を見た気がするし、名前すら思い出せない。……なんだこれは。まあ、どうでもいいが。
子鳴は媚を売る女の手を振り払うと立ち上がった。もうこれに用はない。店で呼ぶこともないだろう。女を使えば肉欲は満たされる。それだけだ。あとは何も残らない。
これまでも子鳴は放蕩してきた。気まぐれに人妻と火遊びし、妓楼にしけこんでは女たちと乱行に耽った。誰とも長続きはしなかった。彼は女を手に入れると途端に興味を失い、あっさりと捨てた。女たちには恨まれ、男たちには嫉妬されて悪評がたった。
子鳴は気にしなかった。誰にどう思われても構わなかった。元より嫌われるのには慣れている。子鳴は自分でも理由がわからないまま、気がついたときには周囲から嫌われていた。何も悪いことはしてないのに、みなが彼を避けた。
まず皇帝が子鳴を嫌った。追随するように、親族も臣下もみな彼と妹を避けた。皇族の生まれでありながら、二人をありとあらゆる宮中行事から閉め出して参加させなかった。従僕は彼に仕えるのを嫌がった。仕えたところで何もいいことはないからだ。使用人は頻繁に変わり、生活は不便なものになった。
宮城に生まれ育ち、抑圧されながらも品行方正に生きた十七年間で得られたものは何もなかった。それどころか大事なものを次々に失っただけだった。自由、父母、氏姓、地位、称号、名誉、財産……とうとう何に代えても守りたかった最後の宝、妹でさえも。本当に馬鹿馬鹿しくて仕方がない。真面目に生きても嫌われるなら、不真面目に好き放題して嫌われる方がよほどいい。
痛む頭をかかえて数日ぶりに帰宅すると、子鳴の部屋に人影があった。
李家の主である、李夫人が
「おやおや、やっとお帰りかい。何日も遊び歩いて、朝帰りとはいい気なもんだね」
「母上……」
子鳴は二日酔いの頭に冷水を浴びせられたような気分になった。今でなくとも、一番会いたくない人物だった。
それでも彼は我慢して、李家の長男としてお決まりの口上を述べた。
「おはようございます。母上もご機嫌麗しく、ご壮健そうで何よりです」
「おはようございます、じゃないよ。同じ家に暮らしてるんだ、顔見りゃ壮健かそうでないかくらいわかるだろ。……子鳴、いい加減馬鹿はやめてちゃんとしておくれ。使用人にも示しがつかないじゃないか」
どうやら説教しにやってきたらしい。子鳴はうんざりした。
「それでは母上は私に卑しい塩商人にでもなれと?」
李夫人は、ダンと煙草盆に煙管を打ちつけた。
「その卑しい塩商人が稼いだ、卑しい金で遊んでいるのはどこのどなたさまだい。親になんて口を利くんだ」
「……申し訳ありません」
子鳴はぶっきらぼうに謝った。李夫人はまぎれもなく実母であるが、身内ゆえの根深い恨みもあった。どうしても、自分と父を捨てて勝手に出ていった女という思いがある。
王律の変が起きた時、李夫人は謀反への加担が疑われた黎大公の処遇が決まる前に、病気を理由に実家へ帰ってしまった。まさに電光石火の速さだった。そのまま地方へ療養に出たと子鳴は聞かされていたが、実は半年ほどで大都に戻っていた。そもそも病気でもなかったらしい。その後も李夫人はなんのかんのと言い逃れて、夫と息子がいる宮城に戻らなかった。
李夫人には生来の才能か、商家出身ゆえのものなのか、危険を察知する本能的な嗅覚があった。政変が起きるとすぐに、夫の罪が自分や係累に及ぶことを察知して宮城を離れ、皇室や皇族と距離を置いた。子鳴は九歳にして母親に見捨てられた形になった。彼は母の非情さを恨んだ。
後年には、業腹だが母の判断は正しかったとも思うようになった。なにせ逃げられなかった自分と妹は、父に連座して八年もの間、蟄居幽閉および軟禁の憂き目にあったのだから。
王律の変の二年後に、黎大公は南黎に養子に出された。南黎との共存共栄のための縁組とされたが、事実上の追放である。大公は、大黎を発つ前に夫人たち全員と離縁した。高家の娘との結婚が決まっていたため、妻妾らを連れていくことはできなかった。夫人たちは宮城の外に出られたが、子鳴と妹は人質として宮城内に留め置かれ、その後も軟禁が続いた。子鳴がようやく宮城を出られたのは妹を失い、先帝が亡くなった後である。
李家は李夫人の弟、つまり子鳴の叔父が継いでいたが、叔父が亡くなると李夫人が店を切り盛りするようになった。李家は塩を中心に、高級食材や軍部向けの糧食を手広く扱う豪商である。塩は国の専売だが、公共組合と李家を始めとする複数の商家が代理店として販売していた。大黎は内陸国であるため、基本的に塩は塩湖か岩塩からしかとれない。貴重かつ上等とされる海水塩は、東の宋か南黎経由で南の大理国から運ばれてくる。李家は独自の貿易経路を開拓し、手数料だけでも莫大な利益をあげていた。
李夫人には商才があった。元から黎大公の側室の一人に収まる器ではなかった。都のみならず地方にも積極的に行商に出かけ、香りや色をつけた塩を売った。皇室御用達と銘打った高級塩も売りさばいた。李家の財産を十五年で三倍に増やした。組合の会合にも積極的に出て、女だてらに他家の当主と丁々発止とやりあった。今や都の配下だけで五百余人、李大姐さんと敬われる押しも押されもせぬ女傑である。
皇籍を離脱し、皇族としての財産を持たない子鳴は母親の実家、つまり李家の世話になって暮らすほかなかった。この十年は李家の若さまとして、無位無官のまま放蕩生活を送っていた。
子鳴は憮然として言った。
「ですが母上、私も元は公子です。商人となって、父上の名を辱めたくはありません」
李夫人は目を細め、子鳴の顔を覗き込んだ。
「そうだねえ……大公さまが皇帝に即位してりゃ、あたしは今頃皇后でお前は皇太子だったかもね。あの可哀想な妹にも立派な婿をとってやれただろう。けどね、そうはならなかった。そうはならなかったんだよ、子鳴。あたしは離縁され、お前は今や皇族でもなんでもない商家の馬鹿坊だ。いい加減に現実を見な」
子鳴は痛いところを突かれて黙った。たらればを望んでも、仕方ないとはわかっている。でもどうしても思ってしまう。自分がもし正鵠と逆の立場だったら……と。皇太子だったら、どのような望みも適っただろうと。母は自分の願望を鋭い目で見透かしている。
李夫人は値踏みするように息子を眺めた。
「とはいっても、お前の高貴な血筋、元公子の肩書は商売の役に立つ。特に地方は皇室の権威と名前に弱いしね。あたしもことあるごとに大公さまの側室であったことを喧伝している。李家の塩は、宮城の御膳房で使っているものと同じだとね。皇帝陛下と同じものが食べられるとね。庶民は喜んで買ってゆくよ。塩だけで宮廷料理が再現できるわけがないのに。でも夢見るだけなら自由だからね」
「夢見るだけなら自由……ですか」
子鳴は呟いた。宮城での生活は、皇族の暮らしとは庶民が憧れ思い描くようなものではなかった。父は先帝と皇太子の座を争って敗れ、謀反も失敗した。その息子である子鳴も権力闘争から落伍し、敗者となった。勝者となったのは、先帝とその嫡男である正鵠である。けれど、文武両道に秀で完全無欠と思われた正鵠も、珂家に毒を盛られて半身不随に近い身体になり、痴呆も進んでほぼ廃人となった。彼は生きながらにして、すでに終わっている。正鵠に所望されて結婚した妹は巻き添えになって死んだ。これが夢というならば、あまりにも虚しい……。
李夫人は、再びきざみ煙草を煙管に詰めて火をつけた。紫煙をゆらゆらとくゆらせながら言った。
「お前が宮城で随分辛い思いをしたことは知っている。あたしも傍にいなかった負い目があって、つい甘やかしてしまった……。でも、もう夢から醒める頃合いだよ。出自にこだわっても仕方がない。別に皇族じゃなくたっていいじゃないか。お前は大公さまがくださった高貴な血を武器にして、都で一番の商人になればいい。李家こそが大黎の、都の商いを支配する。それがこの世にお前を生み出してくれた大公さまへの何よりの孝行になる」
「そうですね、母上の言うとおりです」
子鳴は投げやりに言いながらも、母親の言うことには一理あると思った。
「この前も丁を買って、一日も経たずに放り出したそうじゃないか。無駄遣いばかりして、あたしに尻ぬぐいさせるのはおやめ。当てつけだとしても、大の男がみっともないたらありゃしない。早く商家の仕事を覚えて店に出て、若旦那として切り盛りしておくれ。それが嫌なら、せめて嫁を貰って落ち着いておくれ」
「嫁……ですか」
子鳴は蘭児を思った。あれを男と信じて手放したことは痛恨の極みだった。後悔してもしきれない。
蘭児は子鳴が見つけた逸品だった。顔は妹とよく似ているが、中身や雰囲気はまったく異なる女である。容姿もまとう空気も清冽で、眩しい心地すらする。
元々の容姿もよかったが、どういうわけか円華宮に入ってからはさらにきれいになった。先日こっぴどく振られたあとは忘れようと遊興に耽ったが、いくら他の女と寝ても蘭児のことばかりが気にかかる。
あいつは今どうしているのか。女人禁制の宮ゆえに男のなりをして正鵠の側仕えをしているようだが、もし女だとバレたらどうなるのか。あれを取り戻すことができるなら、身を固めてもよいが……。
子鳴は思いきって言った。
「実は意中の女がいないこともないのです。ただ身分が低く……母上のお眼鏡に適うかどうか」
「健康で李家の財産を掠めるようなあばずれでなけりゃなんでもいいよ。妓女でもいい。他のやつにとられる前にさっさと嫁にしな」
「よいのですか」
母の意外な返事に子鳴は驚いた。母は家格を重視し、自分の意向など気にもとめないだろうと思っていたのである。
「好きなんだろ?」
「……まあ、そうです」
子鳴は、ようやく自分の気持ちを声に出して認めた。母に促されてというのが癪に障るが、どうにもあれに惚れている。
今にして思えば完全に一目惚れだった。丁の売り場で初めて見た時から惹かれた。酒を飲んでいたが、見た瞬間に酔いが醒めた。通り越しに何日眺めても飽きなかった。
「じゃあ嫁にすればいいよ。好きな女を見つけて所帯を持つ。皇族はまず味わうことのできない庶民の幸福じゃないか。お前はせいぜい満喫すればいい」
ええ、と子鳴は少し心が軽くなるのを感じながら頷いた。蘭児を妻にして暮らせるなら、家業を継いで商人として生きるのも悪くないと思った。
李夫人は穏やかな表情を浮かべた息子を見、これまでの波乱の日々を思い出した。
十年前、子鳴が宮城を出て李家にやって来た日、夫人は息子の顔に修羅を見た。地獄の底を覗いたかのような荒みきった表情、絶望と憤懣を煮詰めて狂気で固めたような壮絶な目は忘れられない。公子として厳しい教育を受け、それなりの落ち着きと分別があった子鳴は、妹の死によって別人のようになってしまった。
彼は市井で暮らし始めたが、それまで我慢し耐え忍んできたものすべてを爆発させるように荒れに荒れた。飲む、打つ、買うどころでは済まず、街中で誰かれ構わず因縁をつけては暴力を振るった。博場、酒場、妓楼で少しでも気に入らないことがあると暴れた。毎日喧嘩に明け暮れた。体格がよく幼少時から武道で鍛えているため、素手でも滅法強い。激怒すると手がつけられなくなり、相手が謝罪しようと土下座しようと狂ったように殴り続ける。人々は「狂人と言われた太祖の血だ」と噂しあった。
当然暴れるたびに警邏隊を呼ばれ、捕らえられて入牢することになる。が、皇族の生まれであり、皇太子の義兄であり、豪商李家の跡取り息子でもある。複雑すぎる身分に役人たちももてあまし、すぐに釈放された。李夫人は息子の尻ぬぐいで方々に陳謝して回り、慰謝料として金を積むしかなかった。
けして口には出さないが、李夫人も本当は子鳴を連れて宮城を出たかった。けれど仮にも大黎皇家で産んだ男子を、それも公子を、どうして側室風情が連れ出せただろうか。子鳴を逃がすことで謀反の意ありとみなされれば、それこそ族滅の危機である。何より息子は溺愛する妹と絶対に離れないだろうし、妹は夫から離れたがらない。逃げるなら、一人で出るほかなかった。結果として息子に恨まれることになった。息子が暴れ回るのは、自分への復讐でもあるのだろうと思った。
唯一の救いは、女子供に手をあげることはなく、家では暴れないことだった。子鳴も、さすがにそれをやったら家から叩き出されて路頭に迷うであろう自覚はあった。暴れ狂い、体じゅうを燃やし尽くすような激しい怒りが去ると、それまでの暴虐が嘘のように冷静になる。反省や後悔を口にはしないが、一応バツが悪そうな顔をして謝りはする。
そんなどうしようもない馬鹿息子ではあったが、今は好いた女もできて、若干ながら落ち着きを見せ始めている。恋路がうまくいかず、また自棄を起こされても困る。李夫人は、息子の想いが成就することを心から願った。蘭児を見たら、息子に近親相姦の願望を疑ったかもしれないが、それでも結婚を許しただろう。
李夫人は説教しに来た甲斐があったという風に、満足そうに煙を吐き出した。
「お前は見てくれは悪かないけど、中身がアレだからね……意中の女とやらに逃げられないといいねえ。ま、多少嫌がられても既成事実さえ作ってしまえばこっちのもんさ。あとはあたしが家族に金を積むなり、泣き落とすなりで説き伏せるよ。子供ができりゃ女は折れる。大丈夫だよ」
涼しい顔をして、女を攫う賊みたいなことを言っている。
「いえ、母上は手を出さないでください。自分でなんとかします」
と介入は断りつつも、子鳴はこれまで嫌ってきた母親に、ほんの少しだけ好意がわくのを感じた。
一方その頃、蘭児は裏門の近くで雷と会っていた。
「わりぃ……」
と開口一番、拝むようにして雷は謝った。
「李家の若さまにお前が女であることをしゃべっちまった。若さまに捕まってしまって……」
蘭児は、雷の身に何が起きたかを察した。女だと気づいた李子鳴は、まずは雷を捕まえて締め上げたに違いない。自分のせいで雷が暴力を振るわれたなんて……申し訳なさすぎて、胸が潰れる思いがした。
「旦那さまに殴られたの? 殴られたんだね?」
「いや、殴られてはいない。そのまま若さまにずるずる酒場に引きずっていかれて……」
「いかれて?」
「酒とメシをたらふくご馳走になった。
「……何それ」
蘭児は呆れ返った。暴力を振るわれなかったのは良いが、なんで豚の角煮で懐柔されているのか。
「どうしようもなかったんだよ。若さまからは絶対逃がさないという気迫を感じたし。お前のことを根ほり葉ほり聞かれて、お前の村とか家族のこととか知っていることを全部しゃべらされた」
子鳴は雷には好きなだけ酒を与えたが、自身は一適も飲まなかった。雷から女であるという言質を得た後も、ひたすらに蘭児のことを聞いた。故郷や家族の情報だけでなく、好みの男、好みの服や欲しがっている物、好きな食べ物、好きな場所、好きな季節、好きな景色、好きな時間帯、好きな色、好きな花、都で行ってみたいところ、都以外で興味がある旅行先などを執拗に尋ねた。
そんなの知るかよと雷は思ったが、子鳴があまりにも必死なので無下にあしらうことはできなかった。偉ぶってはいるが、とにかく蘭児の気を引きたい、関心を得たい、彼女が好きなことや望むことを適えてやりたい一心なのが伝わってきた。
雷から引き出せる情報を全部引き出した後、子鳴は不思議そうに呟いた。
「なんであいつは組合の間違いに気づいた後も、男のままでいたがったんだ?」
雷は内心「お前に買われたくなかったからだよ」と突っ込んだが、さすがに可哀想で黙っていたくらいである。
散々飲み食いし、最後は金まで貰って解放された次第だった。
雷は子鳴に若干同情しながら、蘭児に言った。
「とにかく若さまはお前にベタ惚れなんだよ。お前が好きすぎて、誰にもとられないように毎日見張ってたんだよ。挙句、男なのに一括払いで買っちまった。重症すぎて少し……いや、かなりどうかしているが、本来はそんなに悪いやつじゃない気がする」
蘭児は唇を尖らせた。
「やめてよ。頭がおかしいだけで充分だよ。先日も乗り込んできて本当に大変だったんだから。連れ戻されたらどんな目に遭わされたことか。手籠めにされていたよ」
「仮にも元皇族が女を手籠めってどんな末法の世だよ。庇うわけじゃないが、そんなひどいことにはならないと思うぞ。若さまはお前の前ではいきがっているだけとみた」
「いきがる意味がわからない」
「そう言うなって。虚勢を張りたい馬鹿な男心なんだよ。ものにしたいのは確かだろうが、お前と茶を飲んだりメシを食ったり買い物したり、遠出したり旅行したりで距離を詰めたそうにしていた」
「嫌だ。私はそんなことしたくないし、どこにも行きたくない。ここにいたい」
円華宮にというよりは、殿下がおわすところにいたい。それが蘭児の望みだった。あの方のことをもっと知りたい、もっとお話したい、その心のうちを知りたい。子鳴が蘭児に対して願うことを、蘭児は正鵠に対して願っている。
蘭児は子鳴のことは拒否しつつも、雷の意外な一面を見たような気がした。
「というか、おじさんも男心がわかるんだね」
「そりゃ俺も故郷に許嫁がいるしなあ。別に女として好きなわけじゃねえが。まだ八歳だしな。それでも破談になったら困るし、未来の嫁を誰かにとられたくはねえ。定期的に会いにいって必死に機嫌をとってる」
雷は故郷の村に許嫁がいた。女は少ないため、富裕でなく長男でもない男が嫁を貰うのはかなり難しい。結婚するためには女子がいる家に行って頼み込み、幼いうちから話をつけて婚約することも多かった。雷も時々は故郷へ帰り、許嫁やその実家に金や物品を持っていかなくてはならなかった。
「そんなに歳が離れているんだ」
「七年も丁だったからな。歳の釣り合う娘なんざ、とっくの昔に誰かの嫁だ。あと八年は待たなくちゃなんねえが、嫁が貰えるだけ全然いい方だ」
その分金はかかるが……と、雷は空を見上げながらぼやいた。
「八年……十六になったら結婚するの?」
「公主さまや郷主さまだって十六で降嫁するだろ。誰も歳なんか気にしちゃいねえし、姉貴や妹も十二か十三で嫁にいったが……俺は成人するまで待とうと思ってんだ」
雷のいっそ時代錯誤的とも言える良識性は蘭児を妓にしなかっただけでなく、未来の妻に対してもいかんなく発揮されていた。蘭児は確信した。親子ほどに歳が離れていても、雷の嫁は大事にされて幸せになれるだろうと。
雷は正月に故郷に帰った際の、許嫁への贈り物をどうしようか迷っていた。現状、都での女の知り合いは蘭児しかいない。
「なあ、若い娘ってのはどんなものが欲しいんだ。紅とか白粉がいいのか」
「うーん、私は……興味ないかな。面倒くさそうだし」
雷は他にも人形などの玩具や着物や髪飾り、装身具などをあげたが、蘭児はいずれにも首を傾げた。清潔にはしているが、化粧や着飾ることにもまったく興味がなかった。
雷は蘭児の淡白すぎる反応に、こいつも相当に変わっているなと思った。八歳の許嫁ですら、髪に櫛を挿したり、花の汁で爪を染めたりとませているのに、蘭児は毛ほども女らしさというものがない。容姿がよくても、男たちがいだく女の心象とはおよそかけ離れている。女とバレないのはそのためかもしれない。一般的な女の攻略法が通用しないなら、李家の若さまも大変だなと思った。
数日後、蘭児が内院から御膳房へ行くと、そこは賑やかながらもどこか浮ついた空気が漂っていた。彼女は室内を見渡し、すぐに異変に気づいた。
入り口近くの食材を乗せた卓に寄りかかるようにして子鳴が立っていた。蘭児は驚き、それから呆れた。彼が自分を取り返そうと乗り込んできて、散々暴れてからまだ半月も経っていない。どのツラ下げてやってきたのかと思った。
隆善が蘭児に気づいて振り返った。
「おい、蘭児。李公子をなんとかしてくれ。お前に会うまでは帰らないって、さっきから居座ってんだ」
また連れ戻しに来たのか。蘭児は辟易し、近くにいた平に小さな声で言った。
「どうにかして追い出せないの」
「無茶言うなよ。俺たちから手を出せるかよ」
それはそうだ。料理人たちの方から、李子鳴に手を触れられるわけがない。
「まあ、ここで話すくらいならいいだろうよ。俺たちがいるんだ。ちょっかいはかけてこねえよ。大丈夫だって」
平の声はなぜか高揚している。
蘭児は仕方なく、子鳴の近くまで行った。距離をとったまま、冷たく言った。
「何の用? どういう神経してたら顔が出せるの」
子鳴は、険しい顔をした蘭児を見た。
手を握りたいのを必死に堪える。ここで触ろうとすれば、先日の二の舞だ。蘭児は逃げてしまう。彼は努めて平静を装った。
「どういう神経も何も、李家は御膳房にも食材を納めている。いずれ当主になる俺が来て何の問題がある」
「ここはともかく、内院には絶対に入ってこないで。殿下の御座所に入ったら許さないから」
「誰が前後左右もわからない病人の巣に入るか。辛気臭さが移る」
子鳴は悪態をつきつつも、銀貨の詰まった小袋を卓に置いた。滑らせるようにして、蘭児の方に押しやった。
「あいつのことなんざどうでもいい。その、なんだ……先日は悪かったな。これを渡しに来た。迷惑料だ」
「……」
まさか謝ってくるとは思わず、蘭児は呆気にとられた。
子鳴は隆善を始めとして、先日殴り倒した料理人たちにも気前よく銀貨を配っていた。平たちが妙に浮かれていたのは銀貨を貰えたからだった。身分が低い彼らにとっては、理不尽に殴られるのは生来日常茶飯事であって、詫びとして金を貰ったのは初めてだった。
「お前には贈り物を持ってきた」
と言って、子鳴は絹で包んだ木箱を出した。蓋を開けると中身を見せた。三日月のような形をした黄金色の乾物が二つほど入っている。
子鳴は言った。
「
鳳髄は「鳳凰の髄」と呼ばれる希少な食材のことで、珍味中の珍味とされている。本来は
大黎で鳳髄とされたのは、東の果ての夷狄……もとい日本から運ばれてくる
子鳴も意中の女を落とすためには、世間の常識として物品を贈るのが有効だと考えた。当初は美しい衣装や帯、金の髪飾りや櫛、香料、化粧道具などがよいかと思ったが、男として暮らしている蘭児に女物を贈っても仕方ない。
悩んでいたら李夫人に
「なら鳳髄を持っていきな。皇帝陛下でさえ滅多に口にできない珍品だよ。お前の本気度も伝わるってもんだ。これを贈って『俺の凰になってくれ』とでも言えば、どんな女もイチコロさ」
と言われて、そんなものかと思い持ってきたのである。
「鳳髄をお前にやる。とても珍しく滋養のある代物だ。ここのやつらに調理してもらって全部お前が食え」
子鳴に突き出されて、蘭児は仕方なく箱を受け取った。
隆善をはじめとして、料理人たちがわらわらと寄ってきた。
「すげえ、鳳髄だ。初めて見たぞ」
「こりゃきれいなもんだな。黄色の
と口々に言った。隆善も鳳髄をしげしげと眺めて感嘆した。
「さすがは豪商李家だな。鳳髄をくれるなんて太っ腹すぎる。これだけでひと財産だぞ。お前は愛されてんだなあ……。礼に李公子とそこら辺を散歩してこいよ。手ぐらい握らせてやれ」
「嫌だよ」
蘭児は即答し、隆善たちの手のひら返しに呆れた。すっかり子鳴に買収されている。このままでは、いずれ料理人たちに籠に詰められてしまい、絹にくるまれて子鳴に売られるのではなかろうか。
蘭児は珍品の凰髄を見ても特に食べたいとは思わなかった。しかし、滋養のあるものなら殿下の身体にはよいかもしれないと思った。もし食材として問題があったとしても、自分が毒見するのだ。おかしなものが殿下の口に入ることはない。
蘭児は鳳髄を見ながら言った。
「これは……殿下に献上するなら貰ってもいい」
子鳴は露骨に嫌な顔をした。
「なんであいつなんだよ。お前にやるために持って来たんだぞ」
「じゃ、いらない。持って帰って」
蘭児に突き返されそうになって子鳴は慌てた。しぶしぶ言った。
「わかった。どうせあいつは鳳髄なんて食えない。喉に詰まらせて窒息するのがやまだ。献上品ということにしてやる。いいか、必ずお前が食えよ」
「わかったからもう帰って」
「散歩くらい付きあえよ。襲ったりはしない」
子鳴としては、とにかく御膳房を出て二人きりで話したい。蘭児を口説いて説得して、穏便に連れ戻したい。
「嫌だってば。いいから帰って」
と蘭児はあくまでも接触は拒んだ。下手に気を許して誤解されてはたまらない。尚もしつこく食い下がってくるのを、毅然と拒み続けて子鳴を追い返した。
詫びの銀貨と鳳髄は受け取った。銀貨は今後の薬代として段先生に渡し、鳳髄は隆善に渡して御膳に出してもらうことにした。
隆善は、初めて見る鳳髄の調理法について随分と悩んだ。
御膳表も調べて、ああでもないこうでもないと議論した挙句、これは水で戻せば調味料をよく吸いそうだということになって煮つけにすることにした。水、葱、生姜、紹興酒で下煮し、鶏ガラ、塩、醤油、紹興酒、なつめ、クコの実、党参(人参)、少量の黒酢でじっくり煮込んだ。片栗粉でとろみをつけた。
翌々日の午餐で、蘭児は正鵠に「凰髄の薬膳煮」を出した。毒見用に鳳髄をひと口分食べた。鳳髄自体は味も匂いもないようだが、醤油や酒をよく吸って弾力がある。噛むとむっちりとして絶妙な歯ごたえがあり、するりと喉を伝った。うまい。味がしっかりしているため後を引く。たれごとご飯にかけても美味しいのではなかろうかと思った。
正鵠も鳳髄は気に入ったようで、ぺろりと食べてしまった。
「殿下、もう一つありますがいかがです?」
〈ああ〉
というので、蘭児は小椀に焚きたての米飯を少し盛り、その上に鳳髄の煮つけをのせてたれをかけ、
子鳴が持ってきた珍品の鳳髄は、蘭児の毒見分を除けば正鵠がすべて食べてしまった。
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