鳥籠暮らしの兄妹



 ――話は十六年前の宮城にさかのぼる。


 黎大公の子である子鳴と逸琳は、同年の兄妹だった。

 子鳴の方が一ヶ月早く生まれたために兄となったが、二人は腹違いの双子のようなものだった。勉学や鍛錬の時間を除けば、子鳴は大抵逸琳と一緒にいた。逸琳は子鳴を「兄さま」と呼んで慕い、常に男である兄を立てた。子鳴は自分を頼りにし、健気に後をついてくる妹を溺愛した。

 父の黎大公が南黎へ行ってしまうと、子鳴と逸琳は宮城内の北相殿ほくしょうでんというところへ移った。宮城の北の端にある殿舎で日当たりも悪く、本来は皇族が住まうところではなかった。

 父が高家に入ると同時に、子鳴と逸琳は否応なく皇籍を離脱させられた。しかし、皇帝の甥姪として宮城に留め置かれる以上は、皇族としての規範を守って生活せざるを得なかった。幼いながらも北相殿の主となった子鳴は「北相さま」と呼ばれた。

 父がいた頃は大勢の使用人に囲まれ、何不自由ない生活を送っていたが、兄妹だけになると一気に人が減った。長年仕えていた者も、大公がいなくなった途端に手のひらを返した。彼らは仕事の手を抜き、隙を見ては邸内の物品を掠め取った。盗れるものがなくなると暇乞いし、どんどん辞めていった。二人の元には、身寄りのない婢や辞めても行き場のない老僕だけが残った。

 往時はひっきりなしにあった来客もぱたりと絶えて、門前雀羅もんぜんじゃくらの状態となった。北相殿を訪れる者といえば、子鳴の学問の師と武芸の師範、逸琳の伯母である崔夫人、子鳴の母親の実家である李家の使い、呼べばやって来る御用聞きの外商、事務的なことを知らせてくる文官くらいだった。

 子鳴は、父がいた頃に比べるとあまりの落差に愕然とした。家長がいなくなった家はこんなにも寂れるものなのかと思うと、己の不甲斐なさが身に染みた。

 北相殿から出る際は必ず申請が必要で、許可もなかなか降りなかった。外出しても必ず見張りの兵士がついてきたし、宮城の他の建物へ立ち入ることも許されなかった。当然宮城の外へも出られない。

 二人ができることといえば、宮城内の庭園を散策するくらいだった。子鳴は外出許可が降りると、逸琳を連れて散歩に出た。二人は人が少ない早朝、夕暮れ時や日が暮れてからの庭園を歩き、ひっそりと遊んだ。灯篭の明かりに照らされた草花を愛で、空を渡る鳥や池を泳ぐ魚の影を眺めた。子鳴は四季折々の花を摘んでは、逸琳の髪を飾ってやった。喜ぶ妹を見ると心が慰められた。

 時折、皇太子の行列を見かけることもあった。皇太子の正鵠は輿や馬に乗り、いつも近侍や家臣らに囲まれていた。後ろには大勢の従者がつき従っていた。従者の中には、かつて自分たちに仕えていた者もいた。いかなる高官、皇族であっても皇太子と行き合った際は、必ず跪いて道を譲った。

 行列に気がつくと、子鳴は逸琳の手を引いてすぐにその場を離れた。惨めな境遇を正鵠に知られたくなかった。彼の視界の端にすら入りたくないと思った。交流はまったくないにも関わらず、正鵠を忌み嫌った。

 子鳴は自分が敗者であることを知っていた。父が王律と謀反を企んで失敗したことも知っていた。皇帝は、当初大公を処刑するつもりでいた。兄であっても帝位の簒奪をもくろむ者は、死をもって償わなくてはならないと考えた。

 大公が刑死もしくは自死を命じられれば、当然妻子も連座する。族滅された王一族がそうであったように、女子供、赤ん坊とて許されない。たとえ女たちは許されても、長子である子鳴は絶対に許されない。子鳴は不穏な空気を感じとりつつも、蟄居幽閉となった父と共に皇帝の裁可を待つしかなかった。

 大公と子鳴の処刑は確実と思われたが、皇帝が賜死を命じる直前に思わぬ干渉が入った。祖父・光憲帝の生母で当時まだ存命中だったふう太皇太后から待ったがかかったのである。

 太皇太后は黎氏の骨肉の争いを憂い、

「天に選ばれし統治者である皇帝への反逆は許されることではないが、私には到底信じられない。こたびのことは一徳の気が触れた行い、悪霊に憑りつかれて起こした間違いに相違ない。卑しくも弟が、目上の尊崇すべき長兄を手にかけるなどあってはならない。一徳に死を賜るなら、代わりに老いぼれの私を殺して欲しい」

 と直々に皇帝を諫めたのだった。祖母のたっての願いとあっては、皇帝も大公の処刑を断念せざるを得なかった。

 子鳴は、曾祖母の助命嘆願によって命拾いした。父の謀反のことは逸琳には黙っていた。敬愛する父が謀反人だと知った時の妹の衝撃と悲しみを考えたら、とてもじゃないが言えなかった。

 新年を迎えると、二人は皇帝への挨拶を許された。あくまでも生存を確認するだけといった冷たいあしらいだった。皇帝の玉座の一段下には、皇太子の正鵠が座っていた。子鳴は二人の前に跪き、挨拶の口上を述べた。

 本来であれば、大公の長子である子鳴は、皇帝、皇太子、皇帝の兄弟である公たちに続き、黎氏の序列第四位の筆頭公子として厚く遇されるはずだった。

 しかし、父が謀反人となったために、子鳴は一族の最底辺どころか皇族でもなく、黎氏すら名乗れないという不可思議かつ無価値な存在となってしまった。もはや自分が何者なのかもわからない。つくづく惨めだったが、彼はじっと耐えた。ここで歯向かって皇帝の不興を買ったら、逸琳を危険に晒してしまう。父が去った以上、妹を守れるのは自分しかいない。

 挨拶が終わると、二人は北相殿に帰った。万陽宮では毎晩のように新年を祝う宴が繰り広げられていたが、二人が華やかな場に招かれることはなかった。夜が更けると庭に出て暖を取るために火を焚き、夜空に打ちあがる花火を眺めた。

 逸琳は色とりどりの花火が上がるたびに喜んだ。はしゃぐ妹の横顔に心和みながら、子鳴はきょうだいがいて本当に良かったと思った。一人であったら、こんな惨めな生活には耐えられなかっただろう。

 同時に逸琳が女であって良かったとも思った。

 もし逸琳が男子であれば同年の弟である。父の跡目を巡って争ったかもしれない、殺し合いになったかもしれない……と思えば、あまりにも生々しすぎてゾッとした。


 憂鬱な日々ではあったが、子鳴は規範通りの生活を続けた。あまり好きではない学問にも真面目に取り組んだし、武芸の鍛錬も怠らなかった。子鳴は特に体術に優れていた。武芸の師範は、子鳴に向かってこう言った。

「北相さまが軍門に入られたら、ひとかどの武将になられたことでしょう」

 賞賛ではあったが、子鳴にはこう聞こえた。才能はあっても、将官になって武功をあげる機会はないと。軟禁の身の上では、軍属になることも許されないと。

 日に一度は逸琳の部屋へ様子を見に行った。というより、妹を訪ねずにいると、いつも逸琳の婢がやってきてそれとなく来訪を促すのだった。逸琳は古風な性格で、たとえ兄であっても女が男の部屋を訪ねるのははしたないことだと考えていた。会いたいなら自分から会いにくればいいのに……と子鳴は思ったが、慎ましく奥ゆかしいところが妹の美点であり、女とはそういうものであると考えた。

 いつも子鳴の方から逸琳を訪ね、二人は語らいのひと時を持った。一緒に食事をすることはなかったが、茶や酒を飲んだり菓子をつまんだりはした。

 逸琳は成長するにつれて、自分と兄が置かれている特殊な状況や冷遇されていることを理解し、塞ぎこむことが多くなった。父を思って泣いているのか、目が赤くまぶたが腫れていることもあった。逸琳の目に見える悲しみは、子鳴の心痛にもなった。

 李家からは潤沢な生活費が送られてきたため、金には不自由していなかった。金と共に、茶や珍しい果物、東方や西方の舶来品なども来た。子鳴は李家から来る物品をすべて逸琳に与えた。逸琳は喜び、手ずから茶を淹れて兄をもてなした。

 逸琳が十五歳になった時、子鳴は外商を何人も呼んで美しい女物の衣装を揃えさせた。逸琳の前に並べさせて、好きなものを選ぶように言った。

 逸琳は迷う楽しみを味わった末に、鮮やかな水色で白梅の刺繍が施された絹の衣を選んだ。若い娘に似合う華やかな服だった。

 遠慮がちに一着だけ差し出した逸琳に子鳴は言った。

「それだけでいいのか。全部買ってもいいんだぞ」

 高価な衣装ではあるが、請求は李家に回す。李家が子鳴の散財に文句を言うことはなかった。外商が用意した衣装すべてを買い上げても一向に構わなかった。それで逸琳が喜ぶならば些末な出費だ。

 逸琳は衣を抱きしめると、少し寂しそうに言った。

「でも兄さま、美しい衣ばかりあっても……来客もありませんし、着て出かける場もありません。着る機会がないなら宝の持ち腐れになってしまいまする」

「見合いの席で着ればいいだろう。お前もそろそろ縁談が来る頃合いだ」

 子鳴が慰めると、逸琳はうっすらと頬を赤らめた。彼女もこの歳になると降嫁、つまり結婚を意識し始めていた。

「はい、良い方と巡り合えるといいのですが……。降嫁したら南へ行きとうございます。お父さまにお会いしとうございます」

「だったら、お前を南黎へ連れていってくれる優しい旦那を見つけないとな」

 子鳴は逸琳の望みを知っていた。降嫁して宮城を出て暮らす。南黎へ行って父に会う。その願いをなんとしても適えてやりたいと思っていた。

 逸琳は含羞みながら言った。

「兄さまも一緒に参りましょう。私と旦那さまと兄さまの三人で南黎を訪ねましょう。お父さまも兄さまが来れば喜びまする」

「そうだな」

 と相槌は打ったものの、子鳴は自分が南へ行くことはけしてないだろうと思った。女である逸琳はともかく、男である自分を皇帝が許して解き放つわけがない。これからも宮城からは一歩も出れず、ひっそりと暮らし続けるしかない。逸琳が降嫁したら、もう二度と会えないかもしれない。

 それでもいいと子鳴は思った。自分はいい。男なのだから。何にだって、どんなことにだって耐えられる。逸琳さえ自由になるのなら、幸せになれるなら、一生幽閉されたって構わない。

 子鳴の願いに反して、逸琳への縁談は一件も来なかった。貴族や士大夫たちにとって、郷主でなくなった崔家の娘、それも謀反人の娘などに価値はなかった。下手に縁続きになって皇帝に睨まれてはたまらない。

 一年後、二人は十六歳になり成人した。成人と同時に結婚するのが大黎皇族のしきたりであるが、二人ともに縁談はなかった。特に子鳴は妻を持てるはずもなかった。謀反人の長子、それも軟禁下にある男に娘を嫁がせようという者はいない。嫁がせたところで何の役得もない。

 子鳴は自身の結婚はどうでもよかったが、逸琳が降嫁できないことには大いに危機感をいだいた。降嫁以外に、妹が自由になるすべはないのである。

 子鳴は崔夫人を通して林太博に伝手を頼んだり、絵師を呼んで逸琳の肖像画を描かせたりした。肖像画は崔夫人に渡し、逸琳を紹介する際に先方に見せるよう頼んだ。

 皇族や有氏十家は無理としても、まさか妹を平民にくれてやるわけにはいかない。最低でも相手は貴族の子弟か官僚でなくてはならない。やきもきしているうちに一年が経過してしまった。


 ある日、皇帝の秘書で、尚書官の一人である安貴符あんきふが北相殿にやってきた。

 出迎えた子鳴に、彼はこう言った。

「妹御の崔逸琳さまのことですが、成人されましたのに降嫁いただけていないご様子。あと半年ほどはお待ちしますが、ご縁談がまとまらない場合は出家していただきます。そういう決まりでございますので」

 皇室の女子が降嫁できない場合は出家して尼寺へ行く。これは皇室典範で決まっていることである。子鳴も当然規則を理解はしていた。が、あまりにも酷薄な通達だと感じた。

「なぜだ、安大人。私と妹はもう皇籍を離脱している。皇族じゃないのに、こんな時だけ皇族のしきたりが適用されるのはどうしてなんだ。妹に身体上や精神面での瑕疵があるわけではない。若い身空で尼にするなんてあんまりだろう」

 子鳴の苦渋に満ちた抗議に、貴符はさあ……と首を傾げた。

「御身に流れる大黎皇家の血のためではございませんかな? 氏姓を失われても、まさか体じゅうの血を抜き取って入れ替えるわけにもいきませんしな。妹御も焦って降嫁するより、寺に入って大黎家祖霊の供養に生涯を捧げられた方がよろしいかもしれませんぞ。お父上の名も汚さずに済みましょう」

 無礼な物言いに子鳴は怒りを覚えたが、貴符に怒鳴ったところで報告を受ける皇帝の心象が悪くなるだけだ。

 その場はぐっと堪えて、引き続き逸琳の結婚相手を探すことにした。

 それから少しして、今度は林太博が北相殿にやってきた。太博はそれまでも何度も北相殿へ入殿する申請を出していたが、上から許可が降りなかった。仕方なく崔夫人に申請させ、夫人の代理ということにして半ば強引に入ってきた。

 子鳴が応対すると、太博は挨拶もそこそこに、逸琳に縁談を持ってきたと言った。子鳴は急遽逸琳を呼びに行かせ、彼女を同席させた。

 太博は逸琳が着席すると、すぐに本題に入った。

「実は西部の寨陽さいよう県の副県令で姚填ようちんという人物がおりまして、最近任期を終えて都に戻ってきたのです。二十歳になる跡取りの子息の妻を探していると言うので、逸琳さまのお話をしました。子息は私の部下にあたる文部官で気のいい若者です。先方は大公さまの娘御と聞いて大変な喜びようで、ぜひご縁を結びたいと申しています。もちろん正室にとのことです」

 姚家は子鳴にとっては初めて聞く家名だった。

「姚家……? 聞いたことがない家だ」

「西部辺境の荘宜そうぎという村の地主です。一応、五胡十六国の一つである後秦を建国した姚一族の傍流を名乗っているのですが」

「後秦……?」

 子鳴は子供の頃に習った中華の歴史を思い出した。

「後秦の姚家。確か後秦は漢ではなかったはずだが。氏族はきょう……夷狄じゃないか」

 羌族の男と妹が結婚なんて、とんでもない話だと子鳴は思った。羌族は気が遠くなるほどの太古の昔から、中華と領土や資源をめぐって激しく争ってきた。北や西から侵略を繰り返しては、中華の国土を荒らしてきた蛮族である。過去の中華王朝に征服され、臣従することもあったが隙を見ては反乱を繰り返す漢族の宿敵ともいえる氏族だった。

 太博は懸命に言った。

「ですが、姚家は大黎に忠誠を誓い、これまで皇帝陛下の意向に背いたことは一度もありません。そうでなければ副県令になど任命されませんので。羌の血を引いてはおりますが、今では我々と何も変わりません。見た目も言葉も同じです」

 それでも子鳴には抵抗感があった。仮にも大公の娘が、そこまで条件を下げなければ結婚できないのかと思うと、暗澹たる気分になった。

「西部では羌族が暴れていると聞くが……」

「確かに西羌せいきょうの中には反抗的な部族もいて西戒王のお手を煩わせているようですが、すべての羌族が害悪で敵というわけではありません。歴史を鑑みるならば周の名軍師・呂尚りょしょうは羌族の出身ですし、周の武王の后は呂尚の娘です。夷狄であっても大黎に服属し、国のために尽くす者たちもおります。氏族だけで判断するのはいかがなものかと……」

「降嫁したら逸琳も荘宜へ行くことになるのか」

「いいえ、都に姚家の屋敷がございますので、夫君が退官でもしない限りはそこでお暮しになるでしょう。実は私の屋敷と姚家は近所でして、たんの冷めない距離なのです。降嫁された場合は奥がお世話しに参ります」

 子鳴は考えた。羌族の末裔ではあるが、父親も息子も官であるし、逸琳は都で暮らせるようだ。それも崔夫人と林太博の近所に住まうなら安心か。

 子鳴は逸琳の方を見た。

「どうだ、お前の意向を聞かせてくれ」

 逸琳は俯きしばらく考えていたが、やがて静かに言った。

「兄さま、姚家とのお話を進めてください。林大人が奔走してくださったのです。もう私も夫君を選べるような身分ではございませんし……」

「卑屈になることはない」

 と言いつつも、子鳴もこの話を蹴ったら後がない気がした。縁談がまとまらず時間切れとなったら、逸琳は強制的に尼寺行きとなる。皇帝の命に背けば、命が危うくなる。

 子鳴は逸琳の望みが適うかどうかも気になった。

「林大人、降嫁したら逸琳を南黎に連れていくよう姚家に頼んでくれないか。南黎で暮らしたいわけじゃない。高家に入った父に会わせたい」

「交渉してみましょう。なんなら南黎への訪問を結婚の条件に含めましょうか」

「そうしてくれ」

 子鳴は縁談を受けることにした。時間がないため、太博はすぐに動いた。話はとんとん拍子に進み、一ヶ月後には姚家から使者がやってきて顔合わせが行われることになった。

 顔合わせといっても、場に出るのは逸琳ではなく子鳴である。父がいない以上、兄である子鳴が家長として妹の結婚を仕切り、諸条件を詰めることになる。持参金や結納品などを取り決めて合意に至ると、そこで初めて逸琳を呼んで挨拶させる。

 姚填は丁重な手紙を寄こし、逸琳の南黎行きを快諾した。姚家としても元大公に挨拶するため新婚早々に息子に連れていかせると書いてあり、逸琳を喜ばせた。子鳴は安堵した。余程のことがない限り結婚を認めるつもりでいた。これで妹は自由になれるし、南黎に行くという積年の望みも適う。


 姚家との顔合わせまであと三日というところで、異変が起きた。皇太子の側近であり、香宮の運営を任されている香宮主官の元思駕げんしががなぜか北相殿へやってきて、逸琳に謁見を申し出たのである。

 逸琳は突然の来客を不安に思い、すぐに子鳴を呼んだ。子鳴は逸琳の部屋へ急行した。

 思駕は子鳴の登場に少々気まずそうな顔をした。

 二人の前に跪くと、濃紫の絹で包んだ結び状を差し出した。

「このたびは慶事をお伝えに参りました。幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、我らの偉大な香宮殿下は成人の儀を迎えるにあたり、崔逸琳さまを第一の妃とすべく結びの縁をご下命されました。すでに殿下は皇帝陛下および継母の珂皇后さまに言上され、ご裁可を仰いでおられます。ご裁可が降り次第、崔家には入宮の準備に入っていただきますようお願い申し上げます」

「なんだって?」

 子鳴はあまりのことに思わず大声を出してしまった。

 皇太子の正鵠が妹を最初の妻に求め、皇帝の認可を待っている……とはなんだ。まるで聞いていない。これまでにもそれらしい沙汰は一切なかった。何が起きたのかわからなかった。

 新年の挨拶などで正鵠と顔を合わせることはあったが、言葉を交わしたことはない。逸琳も同じである。

 驚きつつも子鳴は考えた。壇上のあいつは澄ました顔をして、密かに妹を見初めていたのか。そんな風にはまったく見えなかったが……。もしそうであったとしても、逸琳の保護者は自分である。妹が欲しいなら、まず兄である自分に話を通すのが筋ではないのか。通した上で見合いの席を設けて、妹に会って話をし、その上で求婚するべきではないのか。自分を飛ばして直接妹へ入宮を申し渡すなんて無礼千万ではないか。侮られていると感じた。

 子鳴は隣の逸琳の様子を伺った。逸琳の顔は真っ青で、華奢な身体は微細に震えていた。当然だと子鳴は思った。第一の妃といっても、あくまでも最初に結婚する妻というだけの意味で正室ではない。逸琳は正鵠に仕える女官にされるのである。崔家からの入宮となると、家格からして妃嬪になれるかどうかもあやしい。

 何より後宮に入ってしまえば、もう二度と外へ出ることはできない。一生を宮城で過ごさなくてはならない。逸琳の願いは……適わない。

 衝撃を受ける二人に、思駕は続けた。

「ここに正式な結び状がございます。これをお受け取りになりましたら、崔逸琳さまは仮の香宮妃となられます。入宮するまでは、ご親族以外との交際は厳に慎まれますようお願い申し上げます」

 もう逸琳は皇太子のものであるから、誤解を招くような異性との交流は厳禁であると言っている。

 子鳴は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

「待ってくれ。逸琳は、妹はすでに縁談が進んでいる。今更、皇太子の妃になんてなれない」

 思駕は顔を上げると冷たく言った。

「香宮殿下のご所望ですぞ。いかなるお話であっても、可及的速やかにご辞退ください」

「……乱暴すぎる」

 子鳴は憤った。怒りながらも、心の内ではわかっていた。正式な結び状、入宮の通達が来た以上は、わざわざこちらから連絡せずとも姚家との縁談は破談であると。

 辺境の地主で中産階級の官に過ぎない姚家が、皇太子と女を取り合うわけがない。たとえ降嫁が内定していようとも、姚家の方から辞退してくるに決まっている。

「私は反対だ。妹は……香宮の妃など到底務まらない。私は入宮など認めない」

 諦念を覚えつつも、子鳴は必死に抗った。誰よりも大切に思う妹の自由と幸福を諦められなかった。ここで諦めたら逸琳の人生は台無しになる。

「そうですか。反対なら反対で一向に構いません」

 思駕はあっさりと言い放った。子鳴は気色ばんだ。

「なんだと? 私はこれの兄だぞ」

「恐れ入りますが、逸琳さまは崔家のお方。大黎家でも李家の方でもありません。私は崔家に結び状をお渡しし、崔家の方と話を進めるべく参りました。実の兄君とはいえ、他家の方のお口出しは無用です」

 子鳴は言葉を失った。自分は最初から蚊帳の外に置かれており、妹の結婚に関しては何の力も及ばないことを知った。たとえ蟄居幽閉の状態であっても父さえいてくれればこんなことにはならなかった……と思うと己の無力さに打ちのめされた。甚だ屈辱だった。大公である父が相手なら、正鵠もこんな暴挙には出なかったはずだ。

 子鳴はすがるように言った。

「なあ、元主官。貴殿は元家、有氏十家の出身だ。今回の話は元家にとっても面白くないはずだ。頼むから香宮を説得して妹の入宮を思いとどまらせて欲しい。後生だ」

「お断りいたします。私ごときがどうして香宮殿下のご意向に逆らえましょう」

 思駕の表情は鋼のように固く、取り付く島がなかった。実家の元家の思惑がどうであれ、彼は己の職務を果たそうとしていた。皇帝に次ぐ力を持つ皇太子の意向は絶対であり、臣下が口を挟む、物申すなどは考えられなかった。

 子鳴は頑として結び状を受け取らなかった。思駕になんとかして入宮を断ってくれ、皇太子を説得してくれと懇願し続けた。思駕は引き下がらず、最後は結び状を卓に置いてその場を辞した。

 思駕が出ていくと、待っていたように逸琳の目に涙があふれた。頬にはいくすじも涙が伝った。彼女は何度もしゃくりあげ、細い肩を震わせながら言った。

「無理です、兄さま。香宮殿下の妃になるなんて……後宮に入るなんて私には無理です。どんな位をいただいても妾妃では……辛うございます」

 子鳴は打ちひしがれながら、泣き濡れる妹を見つめた。見つめながら、権力を行使して妹を奪っていく正鵠を激しく憎んだ。どんな女でも思いのままなのに、なぜ逸琳なのか。なぜあいつはわざわざ妹を選び、後宮に入れて不幸にしようとするのか……。許せないと感じた。

 子鳴がいくら憎んだところで、現実は変わらなかった。李家の人間と見なされる彼にできることは何もなかった。

 中堅貴族にすぎない崔家が、皇太子の所望を断れるはずもない。皇帝と皇后の裁可が降りると、崔夫人と林太博が逸琳の後見となって入宮の準備を始めた。準備が整うと逸琳は正鵠と婚儀を挙げ、彼の後宮へ入った。

 逸琳が懐妊したと知った時、子鳴は正直ホッとした。

 どんなに不本意なものであろうとも、逸琳は正鵠と結婚してしまったのだ。皇太子の妃になったからには、後宮で生きていくほかない。子供を産めば、妹の地位は安定する。正鵠の愛情が続けば出世もするだろうと思った。

 正鵠のことは嫌いだが、妹が産む子を憎む気はなかった。子鳴は改名の件で、逸琳を責めたことを悔やんでいた。父が与えた名を捨てて正鵠が名付けた「凰琳」を名乗ったことを裏切りと感じ、ひどく詰ってしまったが、逸琳には両親も地位も財産も確かな後ろ盾もない。元から何も持たないのに入宮しなくてはならなかった哀れな妹である。よくよく思いつめた末の決断だと考え直した。

 甥か姪が産まれたら、祝いの品を持って香雪殿を訪ね、仲直りがしたいと思っていた。北相殿に一人残され、相変わらず自由のない日々ではあったが、子鳴は妹の無事の出産を心から願っていた。


 一報を聞いた子鳴が香雪殿に駆けつけた時、逸琳はすでに無残なむくろとなっていた。崔夫人は愛する娘を胸に抱きしめ、人目も憚らず号泣していた。逸琳の手や胸元は大量の血で汚れていた。毒の影響なのか、顔や首には無数の赤斑が浮いていた。まなこは見開かれたままだった。無念、その一言に尽きる死にざまだった。

 子鳴は、言葉もなくその場に立ち尽くした。

 十七年間、一緒にいた逸琳が死んだ。片時も離れず必死に守ってきた逸琳は死んだ。幸せになって欲しかったのに、正鵠に奪われて……腹の子と共に死んだ。もうこの世のどこにも、自分が愛した妹はいない……。

 その事実をはっきりと理解した瞬間、彼の脳内に不穏な音が響いた。ブチッ、ブチッと何かが切れるような音だった。それは理性の糸であったかもしれないし、堪忍袋の緒であったかもしれなかった。

 子鳴は逸琳の遺骸を見下ろしながら、何かどす黒く、救いのない感情にずるずると呑み込まれていくのを感じた。たとえようもない激しい怒りが、彼の目を灼いた。冷静な思考を奪った。逸琳を失ったことで、彼の内に抗いがたい禍々しい狂気が生まれた。




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