李子鳴の求婚
李子鳴は、その日もなんのあてもなく街をうろついていた。金はあるが、酒を飲む気にはなれない。妓楼にしけこむ気にもなれない。賭場へ行くのも面倒くさい。しかし、自宅で寝ているわけにもいかない。うるさ方がいて、あれこれやかましいのである。外に出るしかなかったが、出たところで気だるくて何をする気も起きなかった。
こういう時、彼はなんともなしに一人で円華宮の近くへ行った。周辺の茶館で食事をしたり、茶を飲んだり、主人相手に碁を打ったりして時間を潰した。それにも飽きると、ただぼんやりと往来を眺めた。
茶館から通りを挟んで、円華宮の高い塀が見える。塀の外にも、一定の間隔ごとに兵士が立っている。
塀の向こうのことを思った。あいつは、蘭児は今どうしているだろうかと。自分から手放したくせに、子鳴は蘭児が忘れられないでいる。
あまりに想うせいか、最近は夢にまで見るようになった。夢の中の蘭児はいつも丁の売り場にぽつねんと立っている。子鳴はそれを遠くから見つめ続ける。穴が開くほどひたすら見ている。心の底からあれを欲しいと思っている。好意が募りすぎて、いっそ身体の内から焦げつきそうになる。そのくせ、どうしてもふんぎりがつかない。
永遠とも思える長い間見つめ続けて、ようやく決心し、覚悟を決めて手を伸ばす。白く柔らかそうな手を掴もうとすると、蘭児は煙のように霧散してしまう。子鳴は叫ぶ。何と言っているのかは自分でもわからない。目が覚めると、そこがどこであっても汗びっしょりだった。
とにかく子鳴の内には、蘭児に対する熾火のような、いやいつ猛火になってもおかしくない業の深い執着がくすぶっている。男でなければ手元から離さず、朝な朝な、夕な夕なに愛玩したのに……という未練がある。
子鳴は男色にはまったく興味がなかった。けれども蘭児を傍に置いたらうっかり変な気を起こしそうで、それが怖くて円華宮に置き去りにしたというのもある。要するに自分の気持ちに背を向けて脱兎のごとく逃げ出したのだが、今はあの時の判断に後悔を覚え始めていた。
例え男を愛することになっても、蘭児は手放すべきではなかった……気がする。物理的に離れても、迷いは消えない。むしろ強くなる一方だ。円華宮の近くまで行っては、あれを迎えに行こうか、取り戻そうかと考えて煩悶し、行きつ戻りつする日々を送っていた。
塀を眺めていると、目の前を男が足早に通り過ぎた。子鳴は思わず身を乗り出した。男には見覚えがあった。蘭児の仲介人である雷である。初めて市場で見た時は、蘭児と随分親しそうに見え、子鳴は妬心じみたものを覚えたものだった。
雷は、懐に荷物のようなものを抱えている。こんなところに何しに来たのだろうか。まさか円華宮の蘭児に用でもあるのだろうか。子鳴は気になって立ち上がった。卓に金を置くと、笠をかぶって店を出た。
雷は小路に入って行った。子鳴はそっと後をつけた。雷は幾つか角を曲がり、周囲に人がいないのを確認すると、薬局の看板が出ている店に入っていった。様子を伺っていると、しばらくして雷は薬局から出てきた。
雷はまた通りに出ると、円華宮の西側に回り込んだ。物資の搬入口である裏門の近くへ行った。薄汚れた子供が雷に駆け寄っていく。子供に案内されて、彼は物乞いや貧民たちがたむろする門の近くに腰を下ろした。塀に背中をぴたりとつけた。
子鳴はじっと目を凝らした。塀を挟んだ向こうに誰かいる。ちらりと顔が見えた。蘭児だった。見間違えるはずもない。今や夢にまで現れる男である。好みすぎる顔には感動すら覚えた。身勝手にも無事であったことに安堵した。雷はやはり蘭児に用があってここへ来たのだ。二人は顔を寄せて何ごとかを話している。
子鳴はゆっくりと腰を落とした。塀に沿って地べたに座り込む物乞いたちの身体に隠れるようにしながら、音を立てずに近づいた。門の傍までにじり寄ると、笠を目深にかぶって顔を伏せ、聞き耳をたてた。
雷は懐からぼろ布の束と竹の皮でくるんだ包みを取り出し、門の隙間から差し入れた。蘭児は包みを受け取った。少し恥ずかしそうに言った。
「ありがとう。こんなことまで頼んでごめん」
「いいんだよ。俺にも姉貴や妹がいるから少しはわかる。女は大変だよな」
子鳴は怪訝に思った。女は大変……と聞こえたが、こいつらは一体なんのことを話しているのだろう。
「丸薬も買ってきた。痛みがあるときは白湯で三粒飲めばいいんだとよ」
「わかった。飲んでみる」
蘭児は頷いた。彼女には月のものの痛みがあった。厄介だが、こればかりはどうしようもない。宮の中には医師もいるし薬もある。段先生は身分に関係なく患者を診ている。だが、男として生きている以上、蘭児は段先生の診察を受けるわけにはいかないのだった。
体調不良で仕事に支障が出てはいけない。貴重な米を売ったので金はそこそこある。なので、雷に外で売られている痛み止めを買ってきてもらった。こんなものは、自分を女と知っている人間にしか頼めない。
経血に関しては以依に余った端切れをもらっていたが、これは使い捨てにし、夜にこっそり燃やしてごみに混ぜている。頻繁に頼むと以依に怪しまれるかと思い、雷にぼろ布を持ってきてもらった。
月のものが来ると蘭児は憂鬱になった。女とはなんと不便な身体なのだろうと思う。これさえなければ、宮でももっと気楽に過ごせるのに。
用事が終わったのか、雷はすっくと立ち上がった。子鳴は後ろに後ずさり、塀から素早く離れた。今度は先ほど雷が入っていった薬局へ向かった。薄暗い店内に入ると、棚には薬壺がぎっしりと並び、薬草の匂いが鼻をついた。
子鳴は勘定台に立つ主人のところへ行って尋ねた。
「先ほど包みを抱えた小男が来て、ここで薬を買っていっただろう。何の薬を買ったんだ」
主人は子鳴を見上げながらのんびりと言った。
「
「なんだそれは」
「婦人の血の道の薬だよ。痛み止めさ」
「は?」
予期せぬ返答に、子鳴はその場で固まってしまった。
「兄さんも要り用かい」
「……俺はいらん」
子鳴は柄にもなく赤面した。血の道の薬なんて、男にはまったく縁のないものである。買ったらどう思われるか考えただけで恥ずかしい。そんなものは女しか買わず、女しか飲まないはずだ。
なぜ雷は血の道の薬を買って、円華宮へ持って行ったのだろう。あの宮には女がいるのか。蘭児は中にいる女のために、雷に薬を頼んだのか。
違う、あいつは「飲んでみる」と言っていた。ということは……。
子鳴は激しく混乱しつつも、一つの結論に行き当たった。そうとしか考えられない。蘭児を一目見て女だと思った自分は間違っていなかった。あれは……おそらくは男ではない。
思考がぐるぐると回る。男ではないということは、あれは女であって、そもそも自分はあれを女として愛玩したい気持ちがあって、つまり自分の女にしたいわけで、男でないなら思い悩むこともないし、自分が主人である以上はあれをわがものにしたところで何の問題もない。だったら早く、一刻も早く蘭児を取り戻したい。
疑問もあった。なぜ組合では、男として売られていたのだろう。仲介人の雷は、蘭児を女と知っていたはずなのになぜ男で登録させたのか。ここは雷を捕まえて確認すべきだ。
子鳴は逸る心を抑えながら、薬局を飛び出した。
市場にある丁妓公共商工組合へ行った。半刻ほど待ってやっと世甫を捕まえた。今度は雷が所属していると聞いた人身貨物運送組合へ向かった。都や地方を回る荷運び人が何十人と待機している。受付で仕事を依頼したいと言って雷を呼び出した。
雷が表に出てきた。子鳴を見ると狐につままれたような顔をした。
「へっ、李家の若さま?」
「話がある。ちょっと来い」
子鳴はそう言うと、問答無用で雷の胸倉を掴んだ。そのままずるずると路地裏に引きずっていき、袋小路の壁に強く押しつけた。雷の顔を覗き込むと凄んだ。
「お前、蘭児の仲介人だよな。あいつを組合に連れてきたのもお前だよな。あいつを買ったのは俺だということもわかっているよな。あれに関して何か隠していることがあるんじゃないか」
「い、一体なんのことでしょうか」
雷は明らかに怯えていた。凄まじい力で押さえつけられ、身動きがとれない。
「あいつの性別についてだ。本当のことを話すなら金をやる。そうでないなら……どうなるかわかるよな」
子鳴は腕に一層力を込めた。雷は胸を圧迫されながら、子鳴の腰に下がった剣をちらりと見た。
軍門や警邏隊でもない限り、貴人でも佩刀できる人間は限られる。今では雷も知っていた。李子鳴、李家の若さまは皇族の生まれで、公子ではないがそれに準ずる身分であることを。佩刀が許されるなら、人の一人や二人斬り捨てたところでどうということはない……。
しかもこの様子では、蘭児の秘密に気づいている。しらばくれても無駄だろうし、痛い目には遭いたくない。雷はあっさりと観念した。
翌日の朝、子鳴は激しい焦燥感に駆られながら、円華宮に入った。供の者は検問所に置いて、邸内に一人で入った。
走るように林を抜け、蘭児を探し回った。宮殿内に入り、東側にぐるりと回り込んだところで求めていた姿を見つけた。蘭児は髷を結って頭巾をかぶり、男のなりをしていた。男装し、化粧気がなくとも彼女の端正な容姿は際立っていた。
清楚な立ち姿に子鳴はしばし見惚れ、それから気を取り直してその名を呼んだ。
「蘭児」
蘭児が振り向いた。子鳴を見ると、彼女の瞳は見開かれた。
「旦那さま?」
子鳴は大股で傍へ行くと、蘭児の腕をむんずと掴んだ。話は宮から出た後だ。とにかくこれをここから連れ出すのが先だと思った。
「帰るぞ」
「えっ、どこへ」
「俺の屋敷に決まっているだろう。お前は俺の丁なんだからな」
子鳴は当然のように言った。
蘭児は驚いた。あまりにも突然である。自分はもうこの宮で御膳番の仕事を得て、殿下にお仕えしている。殿下の近侍だ。なぜ子鳴の元へ戻らなくてはならないのか。
「ちょっと待ってください。帰るって、殿下はご存知なのですか」
「知るか。白痴のあいつの許可なんて必要ない」
「そんな……勝手すぎます。私をここに置き去りにしたのは旦那さまでしょう」
蘭児は子鳴を責めた。自分を買ったその日に捨てたくせに今更何を言い出すのか。
子鳴はバツが悪そうに言った。
「違う、お前は預けていただけだ」
「どこがですか。嫌です、私は戻りません」
蘭児は腕を振りほどいた。後ろへ飛び退って、子鳴から距離をとった。子鳴は声を荒げた。
「何を言っているんだ。こんなところに置いておけるか。お前は女だろうが」
蘭児は息を呑んだ。目の前が真っ赤に、それから暗転するかのように暗くなった。くらくらと眩暈がした。
……彼は知っている。子鳴はなんらかの理由で、自分が女であることに気がついた。そして連れ戻すためにここへ乗り込んできたのだ。
蘭児は震える声で言った。
「……違います」
子鳴は蘭児を眺め下ろし、冷たく言った。
「なら、今ここで服を脱げ。男なら脱げるだろう」
蘭児は羞恥と怒りで頬が熱くなるのを感じた。
子鳴は殿下が住まう円華宮の中ですら、公然と自分を辱めようとする。ひどい言葉で、冷酷な視線で、見えない手で犯そうとする。女と知られてしまったからには、連れ戻されたらどうなるかは明白だった。嫌だと思った。絶対に嫌だ。そんな運命は到底受け入れられない。
子鳴は忌々しそうに言った。
「なぜ男で登録されたのかはわからんが、お前は女だ。俺の目は間違っていなかった。組合に怒鳴り込んでも埒があかないから直接こちらへ来た。いいから戻れ」
蘭児は下を向いたまま言った。
「……だ」
「あ?」
「……嫌だ」
今こそ蘭児ははっきりと声にした。
我慢する努力をやめた。耐え忍ぶことをやめた。自分に暴力を振るおうとする者、力で屈服させようとする者を断固として拒否した。どんなに生まれが卑しくとも、絶対に譲れないものがあった。
蘭児は貞女でいたかった。恋人や夫はいない。心に決めた人がいる。
きっと顔を上げると、射殺すように子鳴を睨みつけた。
「嫌だ。あんたのところには戻らない。私の主はあんたじゃない。私は殿下の御膳番だから。殿下のお傍を離れたくない」
予想だにしない激しい拒絶に、子鳴は思わず怒鳴った。
「ふざけるな。あいつの何がそんなにいいんだ」
蘭児は耳を塞ぎたくなるのを堪えた。この男からは暴力の気配しかしない。不快な音しかしない。勇気を振り絞って言った。
「殿下は怒鳴らないし、殴らない」
「しないんじゃなくて、できないだけだ。唖で不具なんだからな」
「違う、殿下は健常であってもそんなことはしない。あんたとは違う。全然違う。天と地ほどに違う」
蘭児も怒鳴り返した。怒鳴る男に対抗するには、同じ音量で怒鳴り返すしかない。猛烈に腹が立って仕方ない。殿下のことを悪く言われたくない。絶対に屈したくない。屈してなるものか。
蘭児は猛るままに噛みついた。
「大体なんなの、あんたが私に執着するのは殿下のお妃さまだった妹に似ているからでしょ。妹とそういうことがしたいなんて頭がおかしいんじゃないの」
「何がいけない。俺は逸琳のような顔が好みなんだ。好みの女を傍に置いて愛玩するのは当然だ。主人である俺の権利だ。お前とは一滴も血が繋がってないんだ。問題あるか」
とそこで子鳴は蘭児の顔を見、半ば茫然とした。
「いや……お前は逸琳よりも美しい」
感動に震えるようにしみじみと言った。
「お前の方が……いい。肌が白くてきめ細かいし、眉毛や睫毛も濃くて輪郭がはっきりしている。唇や耳の形がきれいだし、目元になんともいえない媚態がある」
ゲエッと蘭児は叫びそうになった。もう気持ち悪くて仕方ない。この男とどうにかなったら、毛穴の数まで数える勢いで妹と比べられるのだろうか。
「嫌だ。あんたとは、絶対に、どうにもならない」
「どうにもならないってなんだ」
「わからないなら、はっきり言うよ。あんたとは寝ない。気持ち悪い」
「気持ち悪い……」
子鳴は言葉を失った。女に、それも奴隷もどきの丁に罵倒されたのは初めてだった。女でなくとも人生で初めてだった。男女の交わりもはっきり拒否された。子鳴の男としての矜持は、彼自身も気がつかないままに深く傷ついた。
なんなんだこいつは……と思う。珍妙な動物でも見ているような気分になった。逸琳はこんなことは絶対に言わなかった。あれは慎ましやかで、奥ゆかしくて、いつも自分を頼りにしてくれた。……逸琳? 違う。これは逸琳ではない。まったく別の生きものだ。
子鳴は、なんだかよくわからないまま胸がぐっと熱くなるのを感じた。今までの人生の中でもっとも奮い立った。絶対にこれを逃したくないと思った。
蘭児が自分のものになるのを嫌がるのは、不安定な立場のまま関係を持つことへの恐怖と拒否感があるからに違いない。ここは生半可な気持ちではないことを言動で示すしかない。
彼は勢いの中に本気を込めて言った。
「だったら妻にしてやる。俺のところに戻れば、お前を妻にする。結婚してやる。それならいいだろ」
「はああああ?」
蘭児は怒りのままに吠えた。完全に目が座っている。侮辱されたと感じた。
「なんであんたの妻にならなきゃいけないの。冗談はやめて。断る。絶対に無理。死んでも嫌。地獄に落ちた方がまし」
これには子鳴の方が仰天した。蘭児の返答は、彼にとっては不可解極まるものだった。いっそ意味不明である。
信じられなかった。彼がこれまで関係を持った女は、そのほとんどが商売女ではあったが、当初はつれなくとも妻妾にしてやると言ってなびかない者はいなかった。気まぐれに身請けしてやる、妾にしてやると言えば喜び、たやすく身を任せた。女とはそういうものだと思っていたし、実際そうだった。子鳴は困惑しきりに言った。
「なんでそこで怒るんだ……。意味がわからん。お前を妻にすると言ってるんだぞ。妾じゃないんだぞ。ここは狂喜して感涙にむせび泣くところだろうが。お前、頭がおかしいんじゃないのか」
「頭がおかしいのはあんたでしょ。妹に似てるからって自分のものにしようだなんて。結婚なんてどうかしている」
「いいや、お前の方がおかしい。おかしすぎる。いいからさっさと来い」
子鳴は怒鳴り、蘭児の袖を掴もうとした。蘭児はさっと腕を振って避けた。子鳴に背を向けて走り出した。
「ヤベェ……なんなんだあれ」
騒動を目撃した以依は、呟きながら内院に駆け込んだ。外が騒がしいのが気になって被服房から出てみれば、蘭児と李子鳴が猛然と言い争っている。二人とも興奮状態にあり、身分も階級もなく怒鳴りあっている。
以依は、どちらかというとおとなしい方である蘭児があれほど激するのは初めて見た。およそ尋常ではない様子と会話の内容から、蘭児の身の危険を感じた。止めなくてはならない。とはいっても子鳴は強いので有名だし、腕力に自信はない。とにかく寧に知らせようと思った。
居間の前を通りがかると寧の背中が見えた。正鵠もいる。以依は部屋に飛び込んだ。
「寧、大変だ。蘭児が、お前の弟が李公子に拐かされそうになっている」
「蘭児が、李公子に?」
寧は不可解極まりないという顔をした。
「なぜだ」
「それが痴情のもつれっていうか……でも単なる痴話喧嘩じゃない。李公子が必死すぎる。蘭児に妻にするとか結婚してやるとか言ってる」
「……妻ア?」
寧は露骨に顔を顰めた。会話からするに、蘭児は本当に李子鳴の想い者であったらしい。しかし、円華宮に勝手に置いていったのも彼である。自ら捨てた男をまた取り返そうとするほど執心しているとは思わなかった。
「昔から頓狂な方だが、迷惑にもほどがある。男と結婚……錯乱しているのか」
「蘭児は抵抗しているがこのままじゃ連れていかれる。助けないと」
以依の言うことはもっともだ。寧は正鵠に向き直った。
「殿下、蘭児を助けてきます」
そこで寧は意外なものを見た。いつもは穏やかな正鵠の顔に、はっきりと嫌悪めいたものが浮いていた。彼がここまで感情を露わにするのは珍しかった。
正鵠は右手でこぶしを作ると、左の手のひらにパンと打ちつけた。
〈叩き出せ〉
もちろん李子鳴のことである。さらに彼は言った。
〈あれは私の御膳番だ〉
「はい。仰せのとおりに」
寧は胸がすくような心地がした。さっと身を翻して部屋を飛び出した。
蘭児は子鳴から逃れようと走った。西側まで一気に駆け抜けると御膳房に飛び込んだ。隆善ら料理人が、一斉に彼女を見た。蘭児は叫んだ。
「助けて、李家の若さまが私を連れていこうとする。連れていかれたら手籠めにされる」
「なんだってえ?」
隆善が大声をあげると同時に、子鳴も入ってきた。奥に逃げた蘭児を指差すと傲岸に言い放った。
「おい、そいつを渡せ。そいつは俺のものだ」
隆善の顔がぴしりと強張った。
「おいおい、李公子さんよ。落ち着けって。蘭児は嫌がってるじゃねえか。大体殿下の近侍を連れていくってどういうことだよ。そんな権利ねえだろ」
たまらず子鳴は激高した。
「うるせえよ、三下は引っ込んでろ。こいつは俺が買った丁だ。俺の所有物だ。どうしようと俺の勝手だ」
蘭児は血の気が引く思いがした。丁であることを知られてしまった。もう終わりだと思った。
だが隆善はあっけらかんと言った。
「丁? 何言ってんだ。蘭児は寧の弟だぞ。丁なわけがないだろ。丁が近侍になれるんだったら、料理人だって皇帝になれらあ。なあ?」
隆善は周囲を見回した。他の料理人たちは堪えきれず吹き出した。蘭児を丁と信じなかった。皇太子殿下の近侍が丁だなんて、あまりにも荒唐無稽な話だった。
「その通りだ。蘭児は俺の弟だ。丁だなんてとんでもない」
背後の冷静沈着な声に、蘭児は振り向いた。内院へ通じる小路の戸口を開いて寧が入ってきた。彼は口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうやら李公子殿下は、弟を丁だと貶めてまでこれにご執心と見える」
「寧、お前……」
子鳴は寧を睨みつけた。
「貴様ら全員叩き斬ってやる」
と吠えると、隆善が呆れたように言った。
「おうおう、どうやって俺たちを斬るんだよ。お前さんは丸腰じゃねえか」
子鳴はくっと唇を咬んだ。剣は正門の検問所に預けてある。ここでは振るえない。
「俺らにはこれがあるけどな」
と言って、隆善は手元にある肉切り包丁を持って見せた。他の料理人もつられて近くにある包丁や小刀を見た。仮にも元皇族で皇太子の義兄である李子鳴を傷つけることはできない。そんなことをしたら打ち首だが……。
寧は皆の不安を知りながらも、煽るように言った。
「隆善、構わんぞ。香宮殿下は李公子殿下を叩き出せとの仰せだ。蘭児を拉致しようとするなら、切り刻んで
「へえ~李公子の膾か。さすがに殿下の御膳には出せねえな」
隆善はヒュウと口笛を吹いた。それから真顔になった。
「なあ、悪いことは言わねえ。もうやめとけよ。何があったか知らねえが、蘭児はお前さんと別れたいんだよ。確かにこれは女みたいな顔をしているが、宮の外にもきれいな男はいるだろ。そいつらのケツで我慢しとけ」
子鳴は蘭児を見た。寧に庇われるようにしてその後ろにいる。身分卑しき料理人に侮辱され、頭に血がのぼって爆発しそうではあったが、最後の理性が暴露を押しとどめた。ここのやつらは蘭児を男だと思っている。さすがにこれは女だとは言えない。危険すぎる。
「俺はそいつがいいんだ。他のやつなんて知るか。さっさと渡せ。応じないなら、こちらから行くまでだ」
隆善はため息をついた。
「世間じゃ妬心は女の専売つうが、男のそれの方がよほど始末に負えねえな。今までは殿下のお身内だからと我慢していたが、俺もお前さんにはうんざりしていたんだ。ここはちっとお仕置きだな。少しは痛い目を見た方がいい」
隆善は包丁から手を離し、両手でこぶしを作って突き合わせた。素手で叩き出すなら罪にはなるまい。
子鳴はこめかみに青筋を浮かべた。
「ほざけ。俺を仕置きで殴っていいのは父上だけだ」
「知らねえよ。いい男がいい歳こいて父上も母上もねえだろ。阿呆か」
「阿呆はお前だ、クソ料理人風情が」
言い終わる前に子鳴は動いた。ぐっと足を踏み込むと、一気に跳んだ。頭を低くして間合いに飛び込むと、下からすくい上げるようにして思いきり殴りつけた。隆善は大きく吹っ飛び、背後の水瓶にぶつかって倒れた。すさまじい音がした。
「蘭児、来い」
寧が蘭児の腕を掴んで引っ張った。二人で小路を駆け、内院側に滑り込むと扉を閉めた。内側からしっかりと閂をかけた。御膳房の方からものが壊れる音、人の叫び声が聞こえる。乱闘が始まっていた。
昼に差し掛かる頃、ようやく騒動は収まった。
「ああ、痛ってえ……」
蘭児は呻く隆善の頬に、段先生からもらった湿布を当てていた。顔以外のところも腫れたり、青あざになったりしている。周辺にも怪我をした料理人たちがうずくまっていた。鼻の骨が折れた者もいて、段先生が応急処置して回っている。
「大丈夫?」
蘭児は心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫だが……まじで半端ねえな。皇族方は小さい頃から武道を仕込まれるっつうが、なんなんだあれは。化け物かよ」
子鳴は隆善をしたたかに殴りつけ、止めに入った他の料理人も片っ端からなぎ倒した。御膳房の中を滅茶苦茶にし、御膳房の外に出てからも暴れた。雑役夫たちも含めて男たちが総出で彼を抑えるしかなかった。
さすがの子鳴も丸腰であり、多勢に無勢では無傷とはいかなかった。羽交い絞めにされ、それなりに殴られて負傷した。蘭児は逃げてしまい、どこにいるかわからないと知ると自棄を起こしたように二、三人をまとめて投げ飛ばし、ついには諦めて帰っていった。蘭児は子鳴の元へ戻らずに済んだ。
「ありがとう。助かった」
蘭児は隆善に礼を言った。
「いいんだよ。俺も一度のしてやりたいと思っていた。あのイカレたツラを張り飛ばせてすっきりした。お前もあんな狂暴なやつのところには戻るなよ。ケツが裂けるどころじゃない、死ぬぞ」
「うん、戻らない」
蘭児は頷いた。子鳴に掴まれた腕の部分は、赤くなっていた。痛みはないが、何があっても彼のところへは戻らないと固く決意した。あれはもう主人でもなんでもない。敬うつもりもない。
寧がやってきて蘭児を呼んだ。蘭児は寧と並んで歩き出した。
「ひどい有様だが、李公子に連れ戻されなくて良かったな。さすがに殿下がおわす宮内で、断りなく近侍が連れ去られるのは看過できん」
寧の声は疲れきっている。
「兄さん、あの人を出禁にはできないの?」
「できたら誰も苦労はしない。いくら拒否しても、珂家のやつらが通してしまう。どうしようもない」
「そっか……」
蘭児はげっそりした。李子鳴はこれからも宮に入ってこられるのだ。勘弁して欲しい。
「以依にも礼を言っておけ。お前を助けろと飛び込んできた」
「わかった」
以依に、子鳴との諍いを見られたのは恥ずかしいが仕方ない。むしろあの会話を聞かれて、女だとバレなかったのは奇跡だ。
「殿下もお前のことを『私の御膳番』とおっしゃった。法的には李公子のものだが、お前は堂々とここにいていい」
「うん……」
蘭児は安堵の息をついた。本当に無事でいられて良かった。
蘭児がどうにかなってもいいと思う人は、この世に一人しかいない。これからも自分の想いが叶うことはないだろう。それでも願ってしまう。誰にも汚されずにあの方だけを愛していたいと。
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