六、嫌われ上手の若さま -李子鳴-
蒼旻妃の肖像
内院を歩いていると鉦鼓が鳴った。蘭児はすぐに返事をし、鳴った方へ向かった。東側の部屋から聞こえた気がする。東沿いに回廊を行くと、普段は閉まっている部屋の戸が少し開いていた。隙間から覗くと寧の姿が見えた。彼が床に置いた鉦鼓を鳴らしたようである。蘭児は戸を開けて中に滑り込んだ。
そこは書庫だった。三方に書架が並び、床から天井まで古今東西の書物や巻物がぎっしりと詰まっている。市井ではまず見かけない貴重なものばかりが蒐集されており、その価値ははかり知れない。内院にある書物は大抵ここから持ち出され、読まなくなると仕舞われる。立ち入ることができる近侍は寧だけで、蘭児が書庫に入るのは初めてだった。
室内には正鵠もいた。棚の前に立ち、書物を抜き出して中身を確かめている。
寧は入ってきた蘭児に早速言った。
「殿下は、書庫を普段使いされたいそうだ。ここの整理と掃除をするからお前も手伝え」
「はい」
正鵠が本を置いて振り返った。今後は本を持ち出すだけでなく、書庫そのものを簡易な図書室にするつもりでいた。
寧に向かって言った。
〈机と椅子も入れてくれ〉
寧は答えた。
「承知しました。ここには炕が入りませんので、火盆(火鉢)を置きます」
寧は書庫の端に置いてあった黒の
「殿下、これはどうしましょうか。だいぶ前ですが、李公子がお持ちになったものです」
正鵠は唐櫃をじっと見ると言った。
〈仏間へ移せ〉
「承知しました」
寧は蘭児に言った。
「この唐櫃を西側にある仏間に移すように。中身を出して、書籍類は陽の当たるところに並べて虫干ししろ」
「はい」
蘭児は押し出された唐櫃を持ち上げた。大きなものだが重くはなかった。
唐櫃を持って書庫を出ると、内院の西側に回りこみ、仏間に入った。仏間に入るのも初めてだった。ここも普段は閉まっており、蘭児が知る限り人が出入りしている様子はなかった。中はきれいで掃除が行き届いていた。
中国段通(絨毯)が敷かれた正面に仏壇があり、金銅製の
蘭児は菩薩像に向かって、きちんと手を合わせた。菩薩さまは未来のお釈迦さま、未来仏であると認識している。ここは皇族用の仏間であり、本来自分が出入りできるところではないが、入ったからには礼を尽くさねばなるまい。
菩薩像の前には、黒壇の唐木位牌が二つ並べて置かれていた。蘭児はなんとはなしに位牌に書かれている字の一部を読んだ。
「
声にも出してみた。どこかで聞いたような気がする。蒼旻はともかく「妃」の意味はわかる。隣の位牌の字も読んだ。
「
名もなき嬰児……とわかると、蘭児は胸が絞めつけられた。二つの位牌が誰のものであるのかを理解した。
正鵠の妃だった崔妃とそのお腹にいて生まれる前に死んでしまった御子の位牌に違いなかった。幽閉されているために、正鵠は妃と子の法要を営むことができない。墓参りもできない。だからせめて仏間に位牌を置いて、非業の死を遂げた妻子の菩提を弔っているのだろう。
蘭児はしばし目を閉じ、二人の冥福を祈った。
寧に言われた通り、仕事に取り掛かる。清潔な布を持ってきて、陽が差し込むと思われる窓際に敷いた。唐櫃の埃を拭って蓋を開けると、中には文箱や冊子が数冊、巻物、布でくるまれた衣類などが入っていた。蘭児はそれらを慎重に取り出し、床の布の上に丁寧に並べた。冊子は五冊ほどあった。文箱を開くと中には手紙らしきものがぎっしりと入っていた。手紙は干さなくていいだろうと思い、外側の文箱だけきれいに磨いた。
巻物を開くと、それは色鮮やかな仕女図(美人図)だった。髪を結いあげ、鮮やかな水色に白梅の刺繍が散った衣をまとった若い女性が描かれていた。頬は薔薇色に染まり、少し含羞んでいるように見えた。画の下には絵師の
蘭児は仕女図に見入った。もしやこれは崔妃の肖像画ではなかろうか。だとしたら、とても奥ゆかしく女性らしい人だと思った。崔妃の視線の先が気になった。彼女は一体何に喜び、恥じらっているのだろう。これは李子鳴が持ってきたもので、今は殿下のお持ち物だ……蘭児はそこで考えるのをやめた。巻物は冊子の横に並べた。
布でくるまれた衣類も広げて確認した。肖像画に描かれていた水色に白梅の刺繍が散った絹の衣が出てきた。帯や裳袴、金銀の髪飾りや
蘭児は衣類を丹念に調べた。虫食いはなかったが、すべて床に広げて干した。残りのものは唐櫃に仕舞い、仏壇の前に置いた。
書庫に戻ると、寧は掃除を始めていた。蘭児も桶に水を汲んできて雑巾で床を拭き始めた。
手を動かしながら、寧が尋ねた。
「きちんと虫干しできたのか」
「うん、書物と女物の衣類が入っていて全部干してきた。あれは殿下のお妃さま、崔妃さまのものかな」
「そうだ。どうしてお前が崔妃さまのことを知っている」
「以依に聞いた」
寧は嘆息した。
「そうか。あいつが知らないはずはないな」
「兄さんは、あの唐櫃は旦那さまが持ってきたと言った。どうして?」
「崔妃さまは李公子の妹だ。崔妃さまが亡くなった後、李公子が殿下に遺品を渡した」
寧は当時のことを思いだすと嫌な気分になった。遺品を渡したと言えば穏便に聞こえるが、実際は凄まじい修羅場だった。李子鳴は持ってきた唐櫃を、寝台に横たわっていた正鵠に投げつけた。最愛の妹の死に怒り狂い、動けない正鵠を引きずり出して執拗に殴打した。止めようとした寧も容赦なく打たれた。主従で血まみれになった。
寧の説明に、蘭児は「ああ」と声をあげそうになった。ようやく色んなことが繋がった気がした。
「もしかして、お妃さまは蒼旻妃とも呼ばれていた?」
「蒼旻妃は崔妃さまの
「ううん。ちょっと小耳に挟んで」
李子鳴に林太博の屋敷へ連れていかれた時、林大人は言った。蒼旻妃を通して李子鳴と殿下は深く繋がっていると。そして崔夫人のあの過敏すぎる反応……名前からして崔夫人は崔妃の親族に違いない。蘭児はようやく一つの結論に至った。
「ねえ、兄さん。もしかして私は崔妃さまに似ている?」
そこで寧は手を止めて、蘭児を見た。
「知らん。俺は崔妃さまにお会いしたことはないからな。例外はあるが、基本的に男は後宮に入れん」
「近侍でも入れないんだ」
「俺が殿下の近侍になったのは円華宮に入った後だ。それまでいた近侍はみな死ぬか逃げたらしい。俺は殿下の従者の一人にすぎなかったが、珂家に捕まってここに放り込まれた」
「そっか」
蘭児は落胆した。寧は少し考えてから言った。
「だがお前がここへ来た時の李公子の狂乱ぶりを思い出すに、似ているんだろうな。まるでお前を妹、女と混同しているようだった」
「うん、旦那さまは私を見せることで殿下を苦しめたかったんだと思う。殿下は無反応で……目論見は潰えたみたいだけど」
蘭児は思った。ということは、子鳴は妹に似ているから自分を買ったのだろうか。彼からは異様な執着、性的な欲望をも感じた。男だからと断念したようだが、子鳴には妹と交わる、つまり近親相姦の願望がある……? だとしたら頭がどうかしている。
殿下は自分を見た時にどう思われたのだろう。謀反人の娘であっても妃に娶り、子供まで身籠った崔妃を忘れるはずはない。あの方は……何もおっしゃらないけれど、自分に亡くなった愛妃の面影を見ているのだろうか。だから昔を思い出して共食しようとされたのか。
それは嫌だ、と蘭児は強く思った。どうしても嫌だった。自分は崔妃ではない。殿下に崔妃と重ねられるのは……辛い。
「おい、手が止まっているぞ」
寧の指摘に、蘭児はハッと我に返った。
「ごめん、考えごとをしていた」
慌てて雑巾を持ち直し、掃除を再開した。
その夜は満月だった。
蘭児は正鵠の元へ夜の間食を運んだ。部屋を回らずとも、彼の居場所はすぐにわかった。居間から出た先の回廊に佇んでいた。空にのぼり始めた青白い月を見ている。どうやら月を見るために、外へ出てきたものらしい。
蘭児は銀盆を持ったまま、その場で足を止めた。白檀の杖をつき、しんみりと空を見上げる正鵠の姿はそれだけで一幅の絵画のようだった。恐ろしく様になっている。精緻な横顔はどこか悲しげだった。
「殿下、間食をお持ちしました」
気を取り直した蘭児が声をかけると、彼は蘭児を見た。
〈ああ〉
正鵠は月を見るのをやめて居間に戻った。
蘭児は円卓に銀盆を置いて、手早く毒見をした。正鵠は間食をいつものように少しつまんだ。
蘭児が茶を淹れて差し出すと、彼は近くに置いてあった本を手にとった。パラパラと頁をめくり、とあるところで開くと蘭児に手渡した。
〈読んでくれ〉
蘭児は本を受け取った。紙の端が擦り切れて、だいぶ古びている。唐代の詩を集めた詩集のようだった。
書かれている詩を読んだ。
唐の詩人、張九齢の「
「月を望んで遠きを
正鵠は食べる手をとめて、蘭児の朗読にじっと聞き入った。終わると尋ねた。
〈わかるか?〉
蘭児は頷いた。
「はい、遠く離れた恋人を想う詩かと。ですが、情人というのは男と女どちらなのか……」
〈女だ〉
正鵠は続けて言った。
〈女が男を想う詩だ〉
「望月懷遠」は、独り寝の女の悲哀をうたう
海の上に明るい月がのぼり、遠く離れている二人は時を同じくして眺めている。女にとっては長い夜が恨めしく、 夜通し相通じる人を想っている。月の光を愛でるために
という風に解釈した。……が、夢見たところで果たして愛しい人に逢えるのか、逢えないのか。どうにも判断がつかない。
蘭児はぽつりと言った。
「美しくも悲しい詩ですね」
〈どこが悲しい?〉
「月の光を両手いっぱいに満たしても愛する人に贈るすべはない、というところです。もし月の光を集められたとしても、愛しい人には逢えない気がして」
〈そうだな〉
正鵠は相槌を打った。
〈生きていれば、同じ月も見れようが〉
蘭児はハッとした。どうしてか胸がずきんと痛んだ。熱く苦しいものが喉にこみ上げてきた。
生きていれば、同じ月も見ることができた……ということは、殿下はこの世にいない彼岸の人を想っているのだろうか。喪失の悲しみを抱えながら、今も想っているのか。先ほども月を見上げて想っていたというのか。
正鵠は蘭児を見て言った。
〈お前の声はいい。明朗で深みがある〉
「ありがとうございます」
〈これからも読んでくれ〉
「承知しました」
蘭児は平静を装いながら、なんとか返事をした。
正鵠は銀盆に乗っていた小豆餡と栗の入った胡餅を手に取り、毒見用の木の椀に入れた。
〈褒美を下賜する。食べよ〉
「……はい」
蘭児は今夜ばかりは素直に従うことにした。何も言わず、椀の中の胡餅を取ると口に運んだ。正鵠の望みはわかっていた。それを適えるのが下僕の務めなのだと思った。彼はきっと自分を通して在りし日を思い出し、懐かしみたいのだ。だから共食しようとする。
今夜は逃げないと知ると、正鵠は香味野菜が入った菜包を手に取り、半分に割った。半分を木の椀に入れた。残りの半分は自分で食べた。蘭児が菜包を食べ終わると、すかさず火腿や乾酪、干し葡萄や胡桃を入れた。それらも蘭児は少しずつ食べた。
銀盆のものはとうとう全部なくなった。二人分となると、あっという間にはけてしまう。
正鵠の表情は穏やかだった。彼は蘭児との共食に満足していた。華餐は寧の目もあって厳しそうだが、間食で褒美といえば拒否できないようなので、今後もそれでいこうと思った。
〈うまかったか?〉
「はい」
蘭児は神妙に頷いた。間違いのない味ではあった。素直にうまいと感じられたら良かったのにと思った。
肺に針が刺さったかのように、どうにも胸苦しいままだ。蘭児は恐る恐る尋ねた。
「あの、殿下は……その、どうして私と共食なさろうとするのですか」
正鵠は言った。
〈一人で食べてもつまらん〉
意外な返事だった。そんな子供みたいなことを言われても……と蘭児は思ったが、少しホッとした。これで真正直に「亡くなった妃を懐かしみたいから」とでも言われたら、到底耐えられそうにない。なぜ耐えられないのか、なぜこんなにも苦しいのかはわからない。
彼女は再び茶を淹れると正鵠に差し出した。医務室へ行って薬湯を持ってきた。
寧が部屋に入ってきた。蘭児に入浴の支度をするように言った。蘭児は空になった銀盆を持って立ち上がった。
浴場で支度を終えると、正鵠を呼びに居間に戻った。彼の姿はなかった。しばらく待ってみたが戻ってこない。蘭児は回廊へ出た。正鵠を探して内院を歩き回った。
西側の仏間の前を通りがかった。中から細い灯りが漏れている。誰かいるようだ。そっと戸口の隙間から様子を伺った。
仏壇の前の段通に正鵠が腰を下ろしていた。脇には手燭と白檀の杖が置いてある。崔妃の遺品である冊子が何冊か見えた。唐櫃から遺品を取り出したようである。
正鵠は手に何かを持っていた。
蘭児はよくよく目を凝らした。彼はゆっくりと紙のようなものを広げた。ちらりと女性の顔のようなものが見えた。
蘭児は息を呑んだ。見間違えるはずもない、それは先日虫干しした崔妃の肖像画だった。正鵠は肖像画をじっと見つめている。彼の指が、肖像画の妃に触れた。愛おしそうに撫でたように見えた。
蘭児は、じりじりと後ずさった。音を立てないようにしながら、逃げるようにその場を離れた。そのまま中庭に駆け込んだ。
……もうだめだった。無理だった。認めざるをえなかった。
殿下は今もお妃さまを想っている。自分を見てお妃さまを思い出している。けして私を見ているわけじゃない。殿下が私によくしてくださるのは、お妃さまを愛するがゆえだ。
蘭児の胸はキリキリと痛んだ。
心の底から崔妃が羨ましかった。妬ましかった。息が苦しくなるほど猛烈に嫉妬した。
……もういいじゃないか。十年も経つのだからもういいじゃないか。お願いだから、殿下を解放して欲しい。あの方の心を占めるのをやめて欲しい。あの方を縛らないで欲しい。
しばらく妬心に狂った後は、激しい自己嫌悪に襲われた。亡くなられた方に対して、こんな醜い気持ちをいだくなんてどうかしている。本当にどうかしている。お妃さまだって生きたかっただろうに。お腹の子を産んで、殿下を末長く愛したかっただろうに……。
苦しい。あまりにも苦しい。こんな思いは知りたくなかった。こんなにも心が千々に乱れ、浅ましい感情に苛まれるとは思わなかった。
空には満月が浮かんでいた。夜気がからりとした明るい夜だった。地面に撒かれた白砂が、月光を受けて淡く輝いている。
蘭児はしゃがみこむと、近くに落ちていた木の枝を拾った。指先がぶるりと震えたが、寒いからではなかった。彼女は書いた。これまで堪えていた熱情が指先から迸った。
「我可能喜歡上你了」と砂地に書いた。
……違う、たぶんではない。たぶん好きなのではない。断言できる。好きだ。好きが積み重なって爆発して、もう好意や恋慕をはるかに超えている。蘭児は乱暴に字をかき消した。
「我真的很愛你」と勢いよく書いた。
やっと自分の本当の気持ちに気がついたが、こんなものではない。もっともっと熱く激しく、狂おしい思いがある。
「我愛死你了」と書き殴った。
もう死ぬほど愛しているが、大好きすぎて死んでいる場合ではない。どうか私を見て欲しい。お妃さまに似ていても、お妃さまではない私を。
最後に「我是這󠄀个世界上最愛你的人」と丁寧に書いた。
ここでやっと手をとめた。蘭児は砂地に浮かんだ自分の心を見つめた。
殿下、あなたさまをこの世で一番愛しています。
きっと前世でも愛したし、来世でも愛します。
あなたさまが人間に、私が畜生に生まれ変わったとしても必ずお慕いします。
字を書くことができるようになった。読むこともできるようになった。文章で自分の心を表現できるようになった。でも声にすることはできない。
蘭児はわかっていた。自分はお妃さまとは違う。皇族どころか貴族の生まれですらないし、女として生きているわけでもない。平民以下の丁で、何の取り柄もない。殿下に選ばれて愛されるどころか、遊び女として弄ばれる価値すらない。どこまでも虫けらのような命、地を這うだけの安い人生だ。
蘭児は悲しかった。本当に悲しかった。生まれて初めて、心の底から泣きたいと思った。
元から雲の上の人なのに、いくら手を伸ばしても届かない月のような人なのに、何をどうしたらこんな救いのない気持ちを伝えられよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。