水餃子はメシかおかずか論争
その日、仕事の手が空いた蘭児が御膳房へ行くと、以依の姿があった。隆善と紙を綴じた冊子のようなものを見ながら話し込んでいる。以依が御膳房にいるのは珍しい。蘭児は近くへ様子を見に行った。
以依は、口角泡を飛ばす勢いで言った。
「だーかーら、おかしいって。水餃子を主菜で出すのは変だって。餃子は主食だって。間違っているよ」
どうやら隆善は以依に進膳について説明していたようだ。隆善は冊子をめくった。
「そうは言ってもなあ……。俺も根拠なく主菜にしてるんじゃねえよ。先々帝の御膳表だってちゃんと確認している。ここには、水餃子は主菜で皇帝陛下に供したと書いてある」
隆善が持っている冊子は、御膳表と呼ばれる御膳房独自の料理の品書きだった。隆善の祖父が書き残した日々の華餐の記録である。美食家であった光憲帝のために作って出した料理が、食材、調理法も含めて細かく紹介されている。隆善はこの秘伝書とも言える御膳表を参考にして宮廷料理、華餐の献立を考えていた。
「餃子は主菜なんだよ。おかずだ。じいさんは餃子をおかずと定義したんだよ」
以依がすかさず反論する。
「いや、餃子は主食だって。メシだって。じいさんがボケてたんじゃないのか」
「そんなわけあるか。先々帝は餃子が大好物でよくご所望されたんだ。じいさんは進膳の途中でもご所望があると作って出していたんだ。全部書いてある」
「だったら、それ単品のおかわりだろ。皇帝陛下がご所望になられると急遽作って、主菜の皿で出してただけだろ」
「そうかあ?」
「そうだって」
喧嘩というほどではないが、二人は餃子をごはんかおかずかで熱く議論しているようだった。
蘭児は日々の華餐の献立を思い出した。水餃子はたびたび出てくるし、隆善はいつも主菜にしている。初めて御膳番を務めた早餐では、ごはんは米のお粥、水餃子はおかずの扱いだった。以依からすれば、餃子をおかずとするのは邪道で許されないということらしい。
以依は蘭児に気がつくと振り向いて言った。
「なあ、餃子はメシだよな。蘭児もそう思うだろ?」
隆善も勢いよく言った。
「じいさんは間違っちゃいねえ。先々帝からもお叱りは受けてないんだ。餃子はメシにもおかずにもなるんだよ」
二人に詰め寄られて蘭児は困ってしまった。
うまければどっちでもいいじゃないかと思ったが、そんなことを言ったらさらに場が荒れそうだ。
蘭児は悩んだ挙句に言った。
「うーん、そうだなあ。餃子はやっぱりごはん……かなあ」
「だろ? 餃子がおかずだなんて、太陽が西から昇るくらいありえない。どっちでもいいなんて言うやつは人間じゃない」
「そ、そこまで言う?」
蘭児は驚愕した。あやうく人間以下と認定されるところだった。よくわからないこだわりぶりだが、餃子のせいで以依との友情が壊れるのは辛い。
以依は安心したように言った。
「大丈夫だ。お前は正常な文明人だ。これは俺が子供の頃に聞いた怪奇譚なんだが、東の海の向こうに住んでいる東の果ての夷狄は、餃子や湯餅(麺)をおかずにして米を食べるらしい……」
「えっ、ごはんをおかずにしてごはんを食べるってこと?」
蘭児もさすがに意味がわからなかった。
隆善の顔も心なしか青ざめた。
「東の果ての夷狄か……。蛮族と呼ばれるだけのことはあるな。気が狂ってやがる」
「ああ、俺も初めて聞いたときは恐ろしくて眠れなかった……」
以依もぶるりと震えた。
三人は、メシもおかずもへったくれもない蛮族が興じる野蛮な食卓にしばし恐れおののいた。
予想だにしない恐怖を味わったあと、蘭児は不毛な争いを止めるべく提案した。
「私たちがあれこれ言っても仕方ないよ。御膳を召し上がるのは殿下なんだから、殿下に主食か主菜かを決めてもらえばいいのでは」
「それもそうだな。まあ、絶対に主食だろうけどな。殿下がお間違えになるはずはないし」
と、以依は自信満々に言った。
「こっちも構わねえぜ。華餐は皿数が多いんだから主菜でもいいじゃねえか。じいさんも間違ってねえよ」
と、隆善も同意した。
一応にも筋道が立つと、以依は御膳房にあふれる食材を見渡しながら言った。
「御膳房まで来て冷やかしだけじゃ悪いから、うちに伝わる餃子の料理を教えるよ。西方の味つけだけど、気が向いたら御膳表にも入れてくれ」
蘭児は尋ねた。
「西夷家の? 以依は料理もするんだ」
「普段はしないけど、母さんが作るのを見てたから大抵のことはできる。うちは豚肉じゃなくて、羊肉で餃子を作るんだ」
以依は御膳房を歩き回ると、皇太子用ではない二級以下の食材をひょいひょいと取って回った。調味料も調べて一式持ってきた。
材料が揃うと手際よく野菜を刻む。羊のひき肉、刻んだ玉葱と香菜、塩、胡椒、紹興酒、馬芹、生姜、大蒜をよく混ぜ合わせて餃子の具を作った。饅頭用に寝かせてあった麦の生地を分けてもらい、千切って薄く伸ばした。皮に具を包んで帽子型の餃子を作り始めた。蘭児と隆善も餃子を作るのを手伝った。餃子が数十個完成すると、以依は言った。
「羊の乳はあるか? 馬乳や馬乳酒でもいいんだけど」
「牛の乳ならあるぜ」
「なら、それでいい」
以依は鍋に羊の骨を煮こんで漉した
「食べてみろ」
と言われて、蘭児は羊餃子の牛乳煮を食べてみた。餃子は調味料と香菜でしっかりと味がついている。牛乳と乾酪で口当たりはまろやかで濃厚なものに仕上がっている。うまい。牛乳や牛酪で煮た料理は初めてだが悪くない。
続けて隆善も食した。
「なかなかいけるな。御膳にも出してみるか。合わせる主食は粉食だろうが……饅頭ってかんじじゃねえな。
「麺麭?」
蘭児が尋ねると隆善は答えた。
「西方で食べられている主食だ。麦を練った平べったい生地をかまどに貼りつけて焼くんだよ。食感はパリパリしている。牛乳煮には麺麭が合う気がする」
「へえ、よく知ってるなあ。西方の料理にはやっぱり麺麭だよ。うちでも作る」
以依は隆善の知識に感心している。どうやら西夷家では麺麭も焼かれているらしい。
「飲み物は、茶や酒は合わなそうだな。
隆善は尚もぶつぶつ独り言を言っている。
新しい料理を知ると挑戦したくなるのが、料理人のさがというものだ。彼は漢族の伝統的な料理でなくとも、美味で栄養価が高ければ御膳に取り入れて食べてもらおうという方針だった。もう羊餃子の牛乳煮を華餐に出すことを決めて、正鵠用の高級食材の調達を考え始めていた。
数日後の午餐で、蘭児は隆善が作った羊餃子の牛乳煮を正鵠に供した。判断が難しいところだが、隆善は暫定で主菜ということにした。
かまどで焼いた麺麭を、軽い主食として添えてある。薄い生地の表面には
飲み物は茶や酒の代わりとして、玄玉漿を出した。これは葡萄酒のことである。冷たいままで出すと身体が冷えてしまうため、弱火で煮て香味料として沙糖、丁香、肉桂、黒胡椒を入れたものを出した。蘭児は湯気をたてる赤い液体をひと口飲んだ。葡萄の酒という新感覚の飲み物だったが、香り高く、甘くて飲みやすい。うまい。身体が温まるし、麺麭や羊餃子の牛乳煮に合う。温葡萄酒も正鵠に出した。
「ここよりもはるか西方の料理だそうです。以依が教えてくれました」
正鵠も羊餃子の牛乳煮や麺麭、温葡萄酒を味わった。変わってはいるが、どれも滋養が高そうだし、味も悪くないと思った。
西方料理を交えた主菜が無事に終わると蘭児は尋ねた。
「ところで殿下、餃子は主食と主菜のどちらになりますでしょうか?」
〈何かあったのか〉
「その、以依と隆善がごはんかおかずかで大揉めしています……。御膳を召し上がる殿下に決着していただきたいと思いまして」
正鵠は少し考えると言った。
〈主食だ〉
実は彼も密かに、なぜ主菜で水餃子が出てくるのだろうと思っていたが、持ち前の鷹揚さで流していた。
「そうですか。先々帝の御膳表では主菜として紹介されているようです。なので、隆善は律儀に主菜で出していました。今後は主食で出すよう言っておきますね」
蘭児が隆善の主張を紹介すると、正鵠は微苦笑した。
〈ならどちらでもいい、順番が変わるだけだ〉
蘭児は思わず微笑んだ。以依の価値観では人間以下になってしまうが、殿下と同じような意見で良かったと思った。
正鵠は祖父の光憲帝ほど餃子が好きなわけではなかったので、主菜としてのおかわりを所望することはなかった。そのため、以降の水餃子はすべて主食の扱いとなり、前菜の次に出てくるようになった。
いつものように、正鵠は午睡に入った。
蘭児が住居房に戻って休んでいると、風呂からあがった寧が戻ってきた。上半身は裸で、首に手拭いをかけている。頭を洗ったらしく髪を下ろしていた。彼は椅子に腰かけると手拭いで髪を拭き始めた。
蘭児は寝台に腰かけてぼんやりとしていたが、ふと視界の端に映る奇妙なものに気がついた。
寧の背中、右肩には模様のようなものがある。蘭児は目を凝らした。
「兄さん、それ……ほくろ?」
肩を指差して尋ねると寧は手をとめた。
「右の肩に、点みたいなものが集まっている」
「そうらしいな。俺には見えないからよくわからんが」
寧は右手を回し、肩の後ろに触れた。その辺りに柄杓の形をしたほくろがあるのは知っていた。
「生まれた時からあるらしい。うちにいた使用人が教えてくれた。ほくろというか入れ墨みたいだと言っていた」
「入れ墨? 兄さんが?」
蘭児の問いに、寧は皮肉っぽく笑った。
「入れ墨は、奴隷か罪人に入れられるものだ。言われた時は腹が立ったものだが、案外当たっているかもしれん」
「まさか」
蘭児は否定の意味で笑った。
「兄さんは貴族の生まれでしょ。生まれつきの罪人なわけがない。奴隷だってこの国にはいないんだし。これは図形みたいなほくろだよ」
「……そうだな。ほくろだ。俺は奴隷じゃないし、罪人でもない」
寧は自身に言い聞かせるように言った。
「貴族といっても俺は下級の出だ。同じ近侍でも以依の足もとにも及ばない。父が死んだから、生活のために宮仕えに出ざるをえなかった。その程度の家だ」
寧の実家である
その息子であった父も幼い頃から学問に励み、何度も科挙を受けた。しかし、学才はなく郷試へ進める選抜試験の県試すら通らなかった。科挙に受からず官僚になれない場合、目ぼしい財産のない家は没落する一方である。寧が幼少期の頃から家は傾き、父は金の工面に奔走していた。
母親は元からいなかった。どこの誰なのかもわからない。父は母親については一切口を噤んだ。似ているところのない寧を、自分の息子だと信じたがっているような節があった。
ある日、寧は使用人たちが「坊ちゃんの母親は妓女らしい」と噂しているのを聞いた。衝撃のあまり、その夜は一睡もできなかった。自分の母親が、女の最底辺である淫売であるなんて信じたくなかった。毎晩客をとる妓女の子なら、父親などわかるはずもない……。なぜ自分が笙家にいるのかはわからないが、父はおそらく実父ではないのだろう。自分はどこの誰ともわからない不詳の人間であると思うと、言い知れない悲しみと虚しさを覚えた。
寧が十一歳の時、父はまたもや科挙に落ちた。借金を抱え、将来を悲観して自ら命を絶ってしまった。屋敷や土地を手放して借金はなんとか返済したが、寧の手元には何も残らなかった。親族の助けも得られなかったため、彼は貴人の従者になる道を選んだ。たまたま欠員が出て、皇太子の数十人いる従者の末席に採用された。その時は、殿下のもとで出世できれば笙家の再興も適うと希望を抱いたのだが……。
何も知らない蘭児は言った。
「それでも私よりは全然上だよ。宮仕えができるんだもの。身分が高いと仕事が選べるのはいいな」
「そうか?」
「うん」
蘭児からの慰めにも、寧は安心できなかった。これだって、父母が誰であるかくらいはわかっているだろう。ならば自分よりもよほど身元が確かだ。
もちろん母親のことを話すつもりはない。妓女の子と知れば、蘭児も内心では自分を馬鹿にし侮るだろう。その侮りを目の当たりにした時、冷静でいられる自信はなかった。
寧は思う。人は生まれがすべてである。生まれで人生が決まる。正鵠や子鳴、以依……皇太子に元公子に候子と、幽閉されていても寧の周囲は、身分では到底太刀打ちできない男が多い。彼らには、どう足掻いても適わないという思いがある。だからこそせめて蘭児には、優位性を保っていたい。自分はおそらく貴族の血筋ではないが、蘭児には貴人だと思われていたい。これに軽蔑されるのは……正直辛い。
寧は髪を拭き終わると服を着た。蘭児は寝台からぴょんと飛び降りた。
「兄さん、髷を結ってあげる」
「ああ……」
戸惑いつつも、断る理由も特に思いつかない。寧は蘭児に髪を任せた。幼年期以来、髪を他人に触らせるのは初めてだった。蘭児はフンフンと鼻歌を交えながら、上機嫌に寧の髪を結った。
つくづく呑気なやつだと寧は思った。
端から諦めているのだろうが、男なのに虚栄心、競争心のまるでない蘭児を見ていると、その素直さ、屈託のなさに呆れてしまう。抜群に物覚えがいいのに、どこか抜けているところもあって、大丈夫なのかこいつは……と心配にもなる。
と同時に、蘭児との触れ合いに癒されている自分にも気づく。一緒にいると心地いいし、頼りにされるのも悪くない気分だ。所詮は奴隷もどきの丁なのに……。
寧は人知れずため息をついた。これと接していると、どうも調子が狂う。身分や階級に振り回される自分の方が、狭量でさもしい人間のように思えてくる。
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