朱色の毒



 夜になると、把田が洗濯した正鵠の衣類を持ってくる。蘭児はいつも彼から衣類の入った乱れ箱を受け取った。

 先日襲われて以来、彼には常に一定の距離を置いて近づかないようにしていた。できれば顔も会わせたくないのだが、同じ近侍とあってはそうもいかない。

 箱には、朱色をした麻の衣類が入っていた。

 把田が言った。

「今夜の湯帷子ゆかたびらだ」

 風呂に入る際に着る浴衣のことである。正鵠は入浴する際、湯帷子を着た上でまずは蒸し風呂に入って全身を温める。汗を流した後、浴槽に浸かって温浴する。

 湯帷子自体は毎日使われる。以依が白麻で作ったものが何枚かあり、使用済みのものは把田が回収して洗濯する。

 蘭児は不思議に思った。なぜ今日の湯帷子は色物なのだろう。把田と口は利きたくないが、気になって尋ねた。

「それはわかる。いつもと色が違うのはなんで?」

 把田はぶっきらぼうに答えた。

「さあな。以依が染めたんだろう」

 確かに以依は以前から染色もやりたがっていたが、上衣や薄物などの洒落た衣類ならともかく、風呂で使う湯帷子なんて染めるだろうか。きれいな色ではあるが……。

 蘭児は乱れ箱を浴場へ持っていった。浴場は脱衣所、休憩所、蒸し風呂部屋、浴槽部屋の四部屋で構成されている。脱衣所の棚に湯帷子を置いた。

 竹を敷き詰めた蒸し風呂部屋を覗くと、入浴係の雑役夫が数名いて風呂の支度を始めていた。

 浴場の最奥には内院の外に通じる専用の勝手口があり、雑役夫たちはそこから浴場に入ってくる。大釜も外側に設置され、大量の湯を沸かして室内に蒸気を送り込む作りとなっている。湯や水の入った桶も雑役夫が運びこむ。湯は浴槽に入れる。

 風呂の準備が整うと、雑役夫は勝手口から出ていく。

 近侍は全員が出て行ったことを確認してから勝手口を閉め、内側から閂をかける。正鵠に風呂の準備ができたことを申し伝えると、彼は内院側の脱衣場から浴場に入る。正鵠が風呂から上がった後に勝手口の閂を外し、今度は内院側に通じる扉に閂をかける。深夜に勝手口からまた雑役夫が入ってきて風呂場の後片付けをし、掃除をする。近侍が必ず間に入って戸口の開閉を行うため、正鵠が雑役夫たちと顔を合わせることはなかった。

 風呂の支度が終わると、蘭児はいつものように勝手口を閉めて寧に報告した。寧は正鵠の元へ向かった。

 蘭児は内院を出ると、被服房へ行った。

 被服房に入ると、机の上には線画が描かれた布が広げられていた。

 以依は机の下に潜り込んでいた。何かを探しているようである。

「どうしたの」

 蘭児が問いかけると、以依は顔を上げた。

「ああ……。お前は知らないと思うけど、顔料が見当たらないんだ」

「顔料?」

「下絵に色をつける絵の具。赤の顔料だけがなくてさ。他の色は全部そろっているのに、赤砂せきしゃの壺だけなくなっている。どこへいったんだろう」

 以依は、机の下からのそのそと這い出した。

「悪い、何か用があって来たんだよな」

「うん、今夜の湯帷子のことだけど。なんで色付きなのか気になって。朱色のものはきれいだけど、お風呂用ならすぐに色が落ちちゃうよね。だったら殿下のお身体を汚すだけじゃないのかな」

「朱色のものってなんだ」

「えっ、以依が湯帷子を染めたんじゃないの」

「そんなもん染めてどうするんだよ」

 二人はきょとんとして見つめ合った。

「把田が、さっき朱色の湯帷子を持ってきたから。以依が染めたんだろうって」

「俺は湯帷子なんて染めてない。そもそも染料自体ここにはない。購入していない」

 以依はそこで「んん?」と唸り、口元に手を当てた。

「ちょっと待て。朱色って言ったよな。赤なんだよな」

「うん、鮮やかな赤を薄めたような朱色だった」

「もしかしたら……それは赤砂で染められたのかもしれない」

「赤砂は染料になるの?」

「顔料として使うなら問題はない。でも染料として使うことはありえない」

 以依はハッとした。彼の脳裏に恐ろしい想像が浮かんだ。

「待てよ。湯帷子だって? 風呂に入る……?」

 以依は蘭児の肩を強く掴んだ。

「蘭児、だめだ。赤砂で染められた湯帷子なんて着たらだめだ。風呂になんて入っちゃいけない。毒になる。殿下が毒の蒸気を吸ってしまう」

 以依が顔料として購入した赤砂は、硫化水銀である辰砂しんしゃを砕いて粉にし、液体の自然水銀、油、香料を混ぜたものだった。劇物である。経口摂取したり、気化した水銀蒸気を吸入したりすると、体内に水銀が取り込まれて中毒症状を起こす。肺炎、肝障害、重篤な腎障害、手足の知覚障害、悪化すると精神異常などの神経症状も引き起こし、最終的に死に至る。

 水銀は温度が高いほど気化しやすい。蒸し風呂などは危険な環境だった。

「毒? あれが?」

 蘭児は仰天した。以依は怒鳴った。

「早く、早く戻れ。殿下に絶対に着させるな」

 以依の悲鳴に近い声に押されるようにして、蘭児は被服房を飛び出した。全速力で走った。知らなかったとはいえ、殿下に毒を染み込ませた衣類を用意してしまったなんて。持っていく前に以依に確認すれば……と思うと悔しくて仕方ない。

 蘭児は内院を一気に駆け抜け、浴場に飛び込んだ。

「殿下」

 戸を開けながら叫ぶ。正鵠が振り返った。朱色の湯帷子を身にまとい、まさに蒸し風呂部屋に入りかけたところだった。

「殿下、いけません」

 蘭児は正鵠に駆け寄るとその身体にしがみついた。

 正鵠は蘭児を受け止めながら、その場にずるすると倒れ込んだ。突然のことに呆気にとられている。

「これは毒です。毒が染みているんです。着て入ったら殿下のお身体が毒に侵されます。脱いでください、早く脱いでください」

 蘭児は無我夢中で湯帷子を引っ張った。胸元をはだけさせて、上半身を露出させる。そのまま正鵠から剥ぎ取ろうとした。

 蘭児の切羽詰まった声を聞きつけて、寧が浴槽部屋から飛びだしてきた。脱衣所を覗くと、蘭児が正鵠を押し倒すようにして湯帷子を無理矢理脱がそうとしている。

「お前、何をやってるんだ」

 寧は驚いて叫んだ。もはや無礼どころではなく、乱暴狼藉のたぐいである。蘭児は必死に言った。

「兄さん、違う。これは毒。この湯帷子でお風呂に入ったら毒の蒸気を発してしまう」

「毒? 誰がそんなものを持ってきたんだ」

「把田。以依が毒だと気づいて、殿下に着させるなと言った」

 寧はぐっと唇を噛んだ。彼は瞬時に理解した。また殿下は命を狙われたのだと。今度は衣類から毒を盛られかけた。下手人と確定したわけではないが、とにかく把田を捕まえなくてはならないと思った。うかうかしていると逃げられる。

「……くそっ」

 寧は唸ると、懐から短剣を取り出した。

「蘭児、殿下を頼む」

 そう言い捨てると、寧は浴場を飛び出していった。

 蘭児は正鵠の腰に結ばれた組紐に手をかけた。ほどいて脱がせようとした。正鵠の左手が蘭児の手首を掴んだ。蘭児は正鵠の顔を見上げた。

「殿下、脱いでください。危険です」

〈わかった〉

 正鵠は右手を懸命に振った。危険なのはわかるが、ここで全裸にされたくはなかった。

〈わかった。脱ぐから衣をもて〉

「ですが」

〈私に触るな〉

 そうはっきり言われた瞬間、蘭児は組紐からぱっと手を離した。

 正鵠は困ったようにため息をついた。少し後ろに下がった。左足に比べると筋肉が落ちて痩せてしまった右足を隠すようにして、はだけてしまった裾を合わせた。蘭児の献身は理解できるが、同じ男であっても、いや同性だからこそ己の肉体を晒したくなかった。下僕にいびつな足を見られたくない、憐れまれたくないという気持ちがある。

「申し訳ありません。大変なご無礼をしてしまいました。どうかお許しください」

 蘭児は震えながら詫びた。彼の身を思う一心だったが、もしや辱めてしまったのかもしれないと思うと死にたい気分になった。

 正鵠は壁を伝ってゆっくりと立ち上がり、蘭児に背を向けた。

 蘭児は脱衣籠の中にある脱ぎ捨てられたばかりの衣を手に取ると正鵠の背中にかぶせるように着せかけた。正鵠は組紐をほどいて下の湯帷子を抜き、床に落とした。衣に袖を通して着た。毒が染みた湯帷子が正鵠の肌から離れたことに蘭児はホッとした。

〈下がれ〉

 正鵠は蘭児に退室を命じた。怒ってはいないが、傍に置く気もなかった。

〈一人で入れる〉

「はい……」

 正鵠は現状、寧にしか入浴の介助を求めない。最近は一人で服を着脱し、風呂に入ることも多かった。そうできるまでに回復したことが、彼の誇りでもあった。

 蘭児は回収した湯帷子を持って、浴場を出るしかなかった。

 落ち込みながらも被服房へ行った。以依は湯帷子を持って戻ってきた蘭児を見て安堵の表情を浮かべた。

 以依は湯帷子を受け取ると匂いを嗅いだ。

「赤砂の匂いがする。やっぱり赤砂で染めたんだ」

「赤砂は盗まれたのかな」

「たぶんな。しばらく絵の具は触ってなかったから気づくのが遅れた。お前が知らせてくれて助かった」

 水銀なので、染みた布に触れているだけで皮膚がかぶれることもある。以依は湯帷子を別の布で厳重にくるんだ。これは慎重に処分しなくてはならない。

 蘭児が外に出ると、寧が被服房の前を通りがかった。

「把田を見なかったか?」

 蘭児は首を横に振った。

「宮内を探して回っているが見つからん。雑役夫たちにも探すよう命じたが……。もう宮の外に出たのかもしれんな」

 なんらかの手引きがあって外へ逃げたのなら、もうどうすることもできない。寧の声には諦めが滲んでいる。

 蘭児は言った。

「把田が毒を仕込んだのかな」

「わからん。洗濯場に出入りするなら加工は容易だろうが……。何にせよ、姿をくらますからにはそれなりの理由があるだろう」

 蘭児は考えた。少なくとも把田は、以依に毒物を盛る罪を着せようとした。それは確かだ。それだけでも許しがたい。

 翌日の早朝、把田は見つかった。

 知らせを聞いた寧と蘭児が駆けつけると、把田はすでに物言わぬむくろとなっていた。

 南側の正門近くの林、ひときわ巨大な杉の三間(約五メートル半)ほど上の木の枝に、首を括られて吊るされていた。その顔は鬱血してどす黒く、身体は寒風にぶらぶらと揺れている。すでに鴉が集まってきていて、身体をつつき始めている。異様な光景に蘭児は絶句した。

 以依もやってきた。彼も把田の無残な最期に驚いた。

「なんだこれ……。自分で首を括ったのか」

 と掠れた声で呟いた。

「あんな高いところにわざわざ登るものか」

 と寧が答えた。

 把田が何者かに殺されたことは間違いなさそうだった。それも首に縄をかけ、見せしめのように吊るされている。

 寧は木の上を見上げながら寧は言った。

「下手人ならどのみち生かしてはおけなかったが……。昨夜は一体どこにいて、誰が始末したんだ」

 以依も茫然としながら言った。

「また首吊りなんてな。兵士がやったんだったら斬るよな……?」

 蘭児はそこで、先日死んだ亮のことを思い出した。

 確か亮も同じような死に方をしたのではなかったか。彼は自室で首を吊っていたと聞いたが……。あれは本当に自死だったのだろうか。もしかして宮内には、主の正鵠や自分たちとは違う別の勢力が存在するのか。何もわからない……。

 辺りを見回すと、把田を発見し寧に知らせてきた雑役夫たちが遠巻きに自分たちを見つめていた。宮の根幹を支える老宦官たちである。こちらから話しかけない限りは近づいてこない。機敏に動く彼らは頼もしくもあり、得体が知れず不気味でもあった。

 寧は彼らに把田の遺体を下ろし、これまでと同じように処置するよう言った。雑役夫たちは粛々と働き、朝の開門時に把田の遺体を運び出した。


 毒の湯帷子による暗殺を防いだのは、濡れ衣を着せられかけた以依である。もし赤砂による正鵠への加害が成功していれば、真っ先に下手人と疑われ、場合によっては成敗されたかもしれなかった。以依自身が、間一髪で難を逃れたとも言える。

 以依は内院に入ることを許された。

 働き始めてから一年経って、ようやく皇太子への拝謁が適うことになった彼はとても喜んだ。

 蘭児は以依の様子から、正鵠への忠義心を感じた。西夷家の人間ではあるが、信頼できる人物であり友人であると思った。

 蘭児は、以依を正鵠がいる居間へ案内した。正鵠の隣に寧が立っていた。

 以依は正鵠の前まで行くと、その場に平伏した。

「幸多くいらせられます正嫡の君、未来の天子さま、我らの偉大な香宮殿下。大黎皇家の第一のしもべ、西夷氏の以依でございます。西の彼方から共に参り、ようやくご尊顔を拝することが適いました。西方の唯一神に誓って殿下に誠の忠義を尽くします」

 西夷家のしきたりなのか、独特の文言で挨拶をした。以依は顔を上げるとにっこりと笑った。

「殿下は重病と伺っていましたが、起きあがって過ごされているのですね。思ったよりもお元気そうで安心しました」

「そのことだが」

 と正鵠の代わりに口火を切ったのは寧だった。

「今後はお前にも内院の出入りを許す。しかし殿下の病状や日常に関することは、いかなることも他言無用だ。候子としての立場もあるだろうが、西夷家にも黙っていて欲しい」

 以依は、はいと素直に頷いた。

「わかりました。殿下のことは実家にも伝えません。これまで通りに重篤ということにしておきます」

 二十六男であってもさすがは候子というべきか、以依は西夷家との連絡手段を確保していた。蘭児でさえも外部と連絡がとれるのだから、当然といえば当然である。

 以依は新しく縫った白麻の湯帷子を納品した。

 布を細く裂いて作った巻き尺を手に取ると、正鵠に中腰でにじり寄った。

「早速ですが殿下、俺は被服係です。衣の上からお身体の採寸をしてもよろしいでしょうか。殿下はどのような服がお好みですか? 漢服でも戎服でも胡服でも、ひと昔前の唐風のものでも南方の涼しい薄物でもなんでも作ります。素材は絹や更紗が美しいですが、お身体のことを考えれば冬場は綿や毛織物をおすすめします。色は赤、黄、緑などの明るいものがいいですか。それとも藍、黒、紫を中心とした落ち着いたものがいいですか。金糸や銀糸で豪華な刺繍を入れてもいいと思います。殿下の御名にちなんで白鳥の羽根を散りばめるとか。あ、鳳凰や龍も縫えます。新しい帯には、赤金の鳳をあしらってみるのはどうでしょうか」

 目を輝かせながら、正鵠の新しい衣類について滔々と語った。

 正鵠は以依の勢いに押されながらも、彼の熱すぎる語りがひと段落すると砂版にさらさらと書いた。

〈着られればなんでもいい〉

 正鵠に衣服に関するこだわりは特になかった。暑ければ脱ぐし、寒ければ適当に重ね着をすればいいと思っている。幼少時から従僕が用意する服を、何の好悪も疑問も持たずそのまま着ていた。

「……」

 以依は砂版を見つめたが、やがて感激に身を震わせながら言った。

「なんでもいいということは。つまり俺がどんなものを作っても、殿下は着てくださるということですよね。俺の好きなように作っていいということですよね。やった、じゃあ刺繍はがんがん入れよう。高級な布も糸もどんどん買っちゃおう。宋や天竺の織物も取り寄せようっと」

 と諸手を上げて喜んだ。

 幽閉されてはいるものの、正鵠は生まれた時から皇帝に次ぐ力を持つ皇太子であり、実は弟の順宗をしのぐ大黎一の大金持ちだった。毎年支給される皇族費も一番高く、いくら着道楽しようとも百分の一も使い切れない。被服費も宮城の尚服房とは桁違いの潤沢な予算があった。

 布や糸を好き放題に使って服を仕立てることができるなら、以依にとっては天国のような職場であり環境である。

 喜々として正鵠の身体の採寸を始めた以依に、蘭児も寧も圧倒された。被服に関してはたくましすぎる……と思った。

 以依の熱心な仕事ぶりは、孔子の「論語」でも語られているように「知之者不如好之者,好之者不如楽之者」であり「好きこそものの上手なれ」なのだった。


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