宿直と共食
寧は内院に出入りを許された蘭児に、宿直をさせることにした。
正鵠の寝所の隣にある控えの間に寝泊まりして警護する業務である。普段は寧が務めていたが、先日把田に襲われて以来、蘭児は住居房にて一人で寝ることを不安がっている節があった。寧は、鍵がかかる内院で過ごした方が安心して眠れるのではないかと考えた。寧自身が宿直を外れ、自室でゆっくり過ごしたい時もある。
寧は蘭児を内院の奥にあるもっとも私的な場所、正鵠の寝所へと連れて行った。寝所も他の部屋同様に鉦鼓が置かれ、寝台のすぐ傍の卓には砂版や紙、硯等の筆記具が常備されていた。明るくないと意思疎通がはかれないため、夜間は寝所の灯を絶やさない。
隣の控えの間に入ると、狭く物置のような作りだった。棚には洗面の道具や布巾、正鵠の予備の衣類などが置かれている。
寧は控えの間で、蘭児に金の鞘に入った細身の短剣らしきものを手渡した。見るからに古いもので、抜いてみると刃は薄く、半月のように湾曲している。
不思議な剣だと蘭児は思った。短剣といえば直刃で鍔のない
寧は言った。
「警護用の武器だ。宿直の際はこれを傍に置いて、いつでも抜けるようにしておけ」
「でもこんな高価そうなもの……使えないよ」
蘭児はずしりと重たい短剣を握ったまま困ってしまった。あまりにも分不相応な代物である。宝石が散りばめられた宝剣より、御膳房から研いだ包丁を持ってきて枕元に置いた方がいいのではないかと思う。
「俺もそう思うが、殿下がここへ幽閉された時に武器のたぐいはすべて押収されてしまった。刃物類は包丁や小刀以外は搬入されない。これは宮の宝物庫にある皇室の財産……つまり殿下のお持ち物だ。それをお借りして使うしかない」
寧は懐から常に携帯している短剣を取り出した。先日の珂家襲来時にも使ったものである。
「俺はこれをお借りして携帯しているが、お前が剣を持つのは宿直の時だけでいい。殿下はあのお身体だ。刺客が来て、就寝時に寝所に入り込まれたら助からない。怪しい者を見たら問答無用で斬れ」
「うん、わかった」
まったく自信がないながらも蘭児は頷いた。
「とはいっても、お前に刺客が倒せるとは思っていない。お前が宿直の日も、俺は基本的には内院にいるようにする。何かあったら鉦鼓を鳴らして大声で呼べ」
宿直の時も寧が近くにいると知って蘭児は安心した。宿直の時も二人で動くなら、交代で風呂へ行ったり住居房へ戻ったりと融通がきく。寧も仕事の合間に一息つけるだろう。
夜が更けて御寝の時間が近づくと、蘭児は南の鳳凰の鉄扉をしっかり閉め、内側から閂をかけた。内院へは御膳房へ続く戸口からしか入れなくなる。
寝所に戻ると、乱れ箱に殿下が翌日着る衣類を準備し、朝まで灯が消えないように室内の手燭になみなみと油を注いだ。
御膳房から白湯や水を入れた瓶を持ち込んだ。
コツコツと杖をつく音がして、風呂からあがった正鵠が寝所に入ってきた。白い寝巻きの上に黒の上衣を羽織っている。彼は杖を置くと寝台の上に横たわった。蘭児は寝所の内側からも鍵をかけた。これで控えの間を通らなければ、誰も寝所には入ってこられない。控えの間には自分が寝る。
蘭児は正鵠に振り返って言った。
「殿下、お風呂で汗を流されると喉が渇くでしょう。龍眼茶でもお淹れしましょうか」
〈ああ〉
というので蘭児は龍眼茶を淹れ、毒見してから出した。正鵠は茶を飲んだ。飲み終わると言った。
〈お前が宿直だと便利だ〉
「そうでしょうか」
〈気軽に飲食ができる〉
正鵠は、基本的に御膳番が毒見したものしか口にできない。ゆえに御膳番が傍にいない夜の時間帯は、何も飲まないし食べられない。求めれば寧が供するだろうが、彼に毒見はさせられなかった。万が一毒を盛られて寧を失ったら、正鵠の生活は立ちゆかなくなる。
なので寝所に入った後は朝まで何も口にしないのだが、正直に言えば風呂あがりは水分が欲しくなる。蘭児は実に気が利くと思った。
「水でもお茶でもお菓子でも、いつでもなんでもお申しつけください。私が必ず毒見します」
蘭児は顔をほころばせた。殿下に便利と言われて嬉しかった。
「もうお休みになりますか」
〈いや、碁でも打とう〉
まだ眠くはならないらしく、蘭児に碁の相手を求めた。
蘭児は、碁盤と碁石を持ってきて卓に置いた。貴人の暇つぶしに付き合うのも近侍の仕事である。蘭児も寧に教えてもらい、囲碁、
下僕の務めとして、主に勝ってはいけない。適当に打ち間違えて最終的に負けるのが常套である。正鵠は寝台に上半身を起こしたままで、蘭児は椅子に腰かけて碁を打ち始めた。
蘭児が先手で碁石を置くと、正鵠は言った。
〈お前の来歴を聞かせよ〉
「私の話など面白くないと思いますが……」
〈構わん、外の話が聞きたい〉
殿下の所望とあれば仕方ない。蘭児は話し始めた。
「私は殿下の叔父君でいらっしゃる東遼公さまの領地、東部の阿蘭村の生まれです」
蘭児は細かいところは省きながら、故郷のことや自分が売られた経緯を簡単に話した。途中で正鵠が聞いた。
〈きょうだいはいるのか〉
「はい、双子の弟妹がいます」
〈長子なのに売られたのか〉
蘭児はごくりと唾を飲んだ。なんでもない質問のようで、鋭い指摘だった。いくら貧しい家でも、後継ぎである長男を手放すことはない。男子を売るなら必ず次男以下だ。最初に生まれた子であっても自分は女だ。男であれば父は売らなかっただろう……。そう思うと悲しくなった。
「弟妹とは歳が離れていまして、幼すぎて売りものにはなりません。なので私が家を出ました」
〈きょうだいと仲はいいのか〉
「仲がいいと言いますか……悪くなりようがありません。弟妹の面倒を見るのが私の仕事でした。毎日世話して遊んで、一緒に寝ていました」
弟妹のことを思い出しながら、蘭児は碁石を置いた。
〈それはいい〉
「えっ」
〈私は相争うばかりだ〉
正鵠は碁盤を見つめながら言った。その顔は無表情ながらも、どこか寂寞とした陰りがあった。蘭児は察した。殿下にも歳の離れた弟君がいて……でも、それは珂家が擁立した今上帝であって、皇位継承をめぐって兄弟で争っている。きっと殿下も今上帝も望んだことではないだろうに。
続きを促され、蘭児は雷と出会い都へ来たこと、組合に登録されたことも話した。
「私は雷のおかげで丁になり、妓にならずに済んだのです」
そこで碁を打ちかけた正鵠の手が止まった。彼の唇が動いた。
〈妓?〉
しまった。蘭児の心臓は跳ね上がった。妓は女しかならない。蘭児はしどろもどろになった。
「あ、いえ……奴隷にならなくてよかったという意味です」
〈奴は父が解放した〉
「そう、でした……ね」
現在は丁と妓でしか人は売買されない。雷が説明してくれたではないか。
正鵠は蘭児をじっと見たが、それ以上は追及しなかった。
〈続けよ〉
蘭児は胸を撫でおろしながら、組合の市場に立ち、李子鳴に買われたことを話した。子鳴との間にあったあれこれは全部すっ飛ばした。殿下も彼のことを聞かされるのは不愉快だろうと思った。
話が終わると正鵠は言った。
〈お前は外と連絡が取れるのか〉
「はい、雷が動いてくれます。彼は信用できます」
正鵠は考えた。そのうち蘭児や雷とやらを使って、外部と連絡を取ってもいいかもしれない。
蘭児は折を見て悪手を打った。ほどよい差で正鵠が勝った。蘭児は気になっていたことを尋ねた。
「あの、殿下はどうして丁の私を拾ってくださったのですか。本来は宮に入ることすら許されない身分ですし。間者や刺客とお考えにはならなかったのですか」
〈お前は悪いことをしていない〉
と正鵠は言った。
〈罰する理由がないから置いた〉
ただここに連れてこられただけの者は、仕事を与えて生かしている。蘭児以外の使用人、罪人や雑役夫たちに対しても同じだった。正鵠は悪事を働かない限りは下の者を罰さず、働けない者も追い出さずに最期まで面倒を見ていた。それが富貴の者、上に立つ者の務めだと考えていた。
〈使ってみなくてはわからん〉
宮に入ってくる者を、いちいち疑っていてもきりがないという意味だろうか。
蘭児は胸が苦しくなった。殿下は自分を近侍にして宿直を任せるほど信用してくださっているのに、自分は性別を偽って殿下を騙している。いっそ女であることを打ち明けようかとも思ったが……寸でのところで思いとどまった。
恐ろしかった。殿下を失望させたくなかったし、御膳番の仕事を失いたくなかった。寧の口ぶりでは、御膳番は宮の外でも男の仕事であるようだった。女では務まらない可能性が高い。
〈七、十三、二十五、三十三手……〉
碁石を片付ける蘭児に、正鵠は手で数字を表した。少し残念そうな顔をした。
〈お前はわざと間違えた〉
「……」
負けるために故意に悪手を打ったことも見抜かれていた。
蘭児は思った。殿下のことだから、碁も常に一手先を読んで相手がどう出るかを考えているのだろう。予想から大きく外れると、
〈気を使わなくていい〉
「はい……」
蘭児は素直に答えたが、下僕にそれは無理な相談というものだ。
碁が終わると、正鵠は上衣を脱いだ。眠くなったのか、横になると目を閉じた。
「おやすみくださいませ」
蘭児はかけ布団を肩口までかぶせると寝所を出た。
控えの間に戻ると、警護用の短剣を置き、床に毛布を敷いて横になった。
……が、眠れない。
今から被服房へ行って以依を起こして毛布を貰おうか。それとも御膳房へ行って石を焼いて
蘭児は我慢して眠ることにした。一刻ほどじっと耐えたが、夜が更けるにつれてますます寒くなる。手足はかじかんですでに感覚がない。蘭児の歯はカチカチと鳴った。
不意にガタリと音がして、寝所へ続く戸が開いた。蘭児は身を起こした。そこには正鵠が立っていた。
「殿下、どうされましたか」
蘭児が尋ねると、正鵠は手に持っていた黒いものを放った。そのまま何も言わず戸を閉めると寝所へ戻っていった。
蘭児は投げられたものを広げた。それは綿の入った黒の長袍だった。正鵠の冬用の衣類である。蘭児は膝に置いたまましばらく見つめ、それから上等すぎる長袍をかぶって横になった。身体に巻きつけるようにしてくるまると段々と温かくなってきた。蘭児は身体と共に、心もじんわり温かくなるのを感じた。
厠に立っただけかもしれないが、控えの間の寒さを思ってわざわざ下僕に衣類を与える殿下は本当に優しい方だと思った。その優しさは自分のみならず、宮で関わる者すべてに向けられていると思うと、なぜかとても切なくなった。
円華宮に入って以来、蘭児は充実した食生活を送っていた。華餐は薬膳であり、栄養価が高く健康的な内容である。おまけに少量だが一日に三回薬湯、つまり漢方薬まで摂取している。身体にとっては良いことづくめであるし、毎日三食食べられるのは本当にありがたい……と思っていたが、困ったことも起きた。
蘭児の肉体は、与えられるものに対して正直かつ物理的な反応を見せた。取り込んだ栄養は、今後の栄養失調時に備えてしっかり蓄えられた。太ったというほどではないが、蘭児の全身には肉や脂肪がつき、しなやかで柔らかい女性本来のものへと変化しつつあった。乳房も膨らんできてしまい、さらしをきつく巻いて潰さなくてはならなくなった。
栄養状態が劇的に改善したために、止まっていた月のものも復活してしまった。
蘭児は憂鬱だった。女の難儀な構造を憎みつつも、早急になんとかしなくてはいけない。とりあえずは手持ちの手巾を使って凌いだが、上等な布を逐一使うわけにはいかなかった。
蘭児は被服房へ行った。以依に、不要なぼろきれや綿があれば貰おうと思った。
被服房へ入ると、以依は刺繍枠を持ち、赤い糸で刺繍をしていた。机の上に図録のようなものを広げている。
蘭児は以依に呼びかけた。
「あの、いらない綿やぼろ布があったら欲しいんだけど」
「綿はないけど、布の切れ端だったらそこそこあるかな」
以依は立ち上がると衣類を縫製する際に出た端切れを探してきて、蘭児に袋ごと渡した。布はどれも薄かったが、何枚か重ねれば使えそうだ。蘭児は礼を言った。
「今日は何を刺繍しているの?」
と尋ねると、以依は嬉しそうに答えた。
「鳳凰だ。俺の家では、女物には鳳凰の刺繍をするのが伝統なんだよ」
「西夷家の?」
「ああ、嫁入りの際は必ず鳳凰の刺繍入りの寝具や婚礼衣装、小物を沢山用意して持たせる。俺が今縫ってるのは練習だけど、裁縫はつがいの鳳凰が縫えて一人前なんだ」
以依は刺繍枠を外して、蘭児に鳳凰の刺繍を見せた。布には細い筆で鳥が二羽描かれていた。絵筆を使って簡単に色もつけてある。
左側の鳳は立派な
蘭児は内院の鉄扉に彫られた力強く動的な鳳凰を思い出した。以依が描いた鳳凰は、鉄扉のそれよりも華奢で優美だ。
以依は図録を覗き込んだ。
「尾がよくわからないんだよな。孔雀と同じ青緑でいいのかな。藍に金銀でもいいかな」
鳳凰は伝説上の神獣であるため、誰も本当の姿を知らない。以依は図録に描かれた孔雀や雉や雷鳥を参考にして独自の鳳凰を摸索しているようだった。
「きれいだね」
蘭児は鳳凰を見て素直に褒めた。時間はかかるだろうが、完成したものを見たいと思った。
以依は、図録をめくりながら言った。
「うちでは、もっと大きくて精緻な鳳凰を縫うんだ。数十人体勢で嫁入りの布支度をするからな。殿下の時は俺の姉が入宮するはずで、婚礼衣装の鳳凰も縫い始めていたらしいんだが……いきなり二年も早まったからなあ。支度が間に合わなくて慌てているうちに、殿下は最初のお妃を選んで結婚されてしまった」
「えっ」
蘭児は驚いた。
「殿下は結婚されている……? お妃さまがいるの?」
どうしてか、針で刺されたように胸が痛んだ。小さいが鋭い一突きである。蘭児は予期せぬ痛みに戸惑った。
以依は不思議そうに言った。
「お妃がいないわけないだろ。皇族は男も女も成人と同時に結婚する」
「そ、そうか……」
以依の言う通りだ。どうしてあの方が独り身だと思いこんでいたのだろう。皇太子であるからには、周囲に女性は大勢いたに決まっている。妃もいて当然だ。
蘭児はどうにも気になって尋ねた。
「殿下のお妃さまは……その、どういう方?」
「父方の従姉妹の崔妃さまだ」
「崔妃、さま」
蘭児はその名を呟いた。
「殿下は崔妃さまを愛されていた……?」
動揺のあまり、心の声が疑問形で出てしまった。
以依は婚礼支度が間に合わなかった姉を思ってか、残念そうに言った。
「まあ、よほどお好きだったんだろうな。どんな女性でも思いのままなのに、わざわざ謀反人の娘を選ばれたわけだから」
「謀反人の娘?」
急に物騒な単語が出てきた。以依は図録をめくるのをやめて、蘭児に振り返った。
「お前、知らないのか」
「う、うん。もし良かったら教えて欲しい」
「
「それは大丈夫」
蘭児は寧から有氏十家について教えてもらったときに、「王律の変」についても知った。十八年前に起きた政変により、有氏十家は現在の十家になった。王律の変は、王師軍総司令だった王律将軍が起こした先帝に対する謀反と聞いている。
以依は図録を閉じると、蘭児に向き直った。
「王律の変は、王律将軍が起こした謀反とされているけど……実は違う。謀反を企んだのは黎大公だ。大公が先帝を弑して皇位を簒奪し、新皇帝になる企みだったんだよ」
黎大公こと黎一徳は、先々帝・光憲帝の長男であり、異母弟である先帝と皇太子の座を巡って争ったが破れた。その後は公の一人として静かに暮らしているように見えた。その実、内心では帝位につくことを諦められず、とうとう軍部を統括する王律将軍を抱き込んで謀反を企てた。
ところが、謀反の決行日前日に企みを知った夏家が先帝に密告したために計画が明るみに出た。先帝はただちに側近の兵を動かして王律を捕縛した。同時に大公の身柄も押さえた。
王律は牢獄で厳しい尋問と拷問を受けたが、どれほどの責め苦を味わおうともけして口を割らなかった。大公の関与は明確ながらも、王律が自白しなかったため決定的な証拠は出なかった。先帝も兄であり、人望の厚い大公の表立った処分は断念せざるを得なかった。
結局、政変は王律が単独で起こした謀反とされた。
宮城の前には王律の妻子と九族、その他王一族、姻族、下僕とその家族に至る三百余人が引き出され、女子供に至るまでことごとく斬首された。王律自身は一族の滅亡を見届けさせられた上で、凌遅刑に処せられ百片以上の肉片に切り刻まれた。
王家は有氏十家の一端であったがこの変で族滅し、代わりに夏家が昇格して候の称号を得た。
「知らなかった……」
以依の話に、蘭児は大きく息を吐いた。
大公さまといえば、先帝と東遼公さまの兄君であり南黎へ養子に行かれた方だ。庶民にはそれくらいしか伝わってこない。
以依は続けた。
「お前が知らないのも無理はないかな。大公の謀反への関与を知っているのは士大夫でも高官以上だ。崔妃は大公の娘なんだよ。別に崔妃が謀反を起こしたわけじゃないけど、親の罪は子の罪だからな。謀反人の子として処刑されなかっただけ温情のある措置だと思う」
では、お妃さまは罪人の子の扱いだったのだろうか。それなのに殿下に選ばれて愛されて……と思うと蘭児は悔しいような羨ましいような複雑な気持ちになった。
「では、殿下はお妃さまと離れてお暮しなんだね」
「いや、崔妃さまは亡くなった」
「亡くなった?」
衝撃の事実の連続に、蘭児は
「殿下が毒を盛られた時に、崔妃さまも巻き添えになった。それも愛情ゆえのことだったんだろうけど、殿下は崔妃さまと共食されていたんだ」
「共食……」
「一緒に食事をしなければ助かったかもしれない。崔妃さまは殿下と同じ毒入りの茶を飲んで、お腹の子と共に……」
それ以上は、以依も言葉を詰まらせた。有氏十家である西夷家にとって、皇族出身でいわくつきの崔妃はけして好ましい存在ではなかった。父の同羅は家では悪しざまに「謀反人の娘」と呼んでいたし、兄たちも同調していた。それでも以依は、皇太子の子を身籠ったまま殺された崔妃に密かに同情を寄せていた。
蘭児は茫然とした。殿下には御子までいたのに、生まれる前にお妃さまごと失ってしまったなんて……。あまりにもむごい。想像するだけで心が痛い。
二人はしばし沈黙した。
重い空気を払拭するように、口を開いたのは以依だった。
「崔妃さまを失って以来、殿下は独り身だ。とはいっても回復されれば山ほど縁談が来るだろうし、新しい妃を迎えられるだろうけど」
「西夷家からも?」
「そりゃまあね」
以依は困ったように笑った。
「うちはさ、究極の日和見主義なんだよ。どの陣営が勝っても生き残れるように、どちらにも入念に根回ししておくんだ。それがわが家の生存戦略なんだってさ。廃嫡令裁判がどうなるかはわからないけど、殿下が勝っても今上帝が勝っても、優勢な方について娘を嫁がせる。常に鳳凰を縫って準備しておくんだ」
「すごいね……」
蘭児はため息をついた。庶民にはまるで想像できない政治の駆け引きである。
以依はどこか遠い目をして言った。
「一度でも候になったら、候の地位を維持し続けるか族滅されるかのどちらかしかない。どの家も第二の南黎を狙っているんだろうけど……難しいよな」
蘭児は思いきって尋ねてみた。
「以依は候子って聞いたけど、どうして円華宮に入ったの。身分が高いのにここに入って近侍になるのは……なんというか、似つかわしくないと思って」
蘭児はそれなりに言葉を選んだつもりだったが、以依はあっけらかんと答えた。
「確かに俺の父は西夷氏の族長で当主だけど、俺は二十六番目なんだ。俺がここでどうなろうと親父は気にもとめないと思う」
以依は、西夷同羅の二十六番目の息子だった。候子であっても二十六男ともなると、生きていようが死んでいようがどうでもいい存在であるらしい。
以依の母親は婢で、裁縫の名手だった。特に刺繍の腕に優れ、今にも飛び立ちそうな躍動感のある鳳凰を縫いあげた。彼女が作った婚礼衣装は絶賛され、その褒美として同羅の手がついた。母親は以依を産み、西夷家の屋敷の中に一室を賜った。母親はその後も主人である同羅の衣服を縫い、西夷家の人々のために鳳凰の刺繍を続けた。以依は針仕事をする母親と女たちに囲まれて育ち、物心ついたときには針と糸で衣服を縫っていた。
「俺は筆や剣よりも、布断ち鋏を握る方が早かったんだ。学問や武芸もやらされたけど、全然性に合わなくてさ……いつも裁縫部屋へ行って縫物をしていた。俺の家では裁縫は女の仕事だ。男が針や糸なんか持ってたら、気が狂っていると思われる。おかげで兄貴たちには随分いじめられたけど、母さんは俺が裁縫をすると喜んでくれた。毎日『お前は私の宝子よ。私たちに幸せを運んできてくれた』と言って抱きしめてくれた。じいさんばあさんや親戚たちもそうだった」
以依は懐かしそうに言った。候の子を産んだために、以依の母親とその家族は西夷家が面倒を見てくれ、一生食うに困らなくなった。まさに以依は幸福の申し子だった。蘭児は以依の明るく朗らかな性格にも納得がいった。母方の親族に溺愛されて育ったからだ。
以依は熱っぽく語った。
「俺は、裁縫や刺繍や編み物が本当に好きなんだ。染色や機織りだってやりたいと思っているし、被服以外のことは仕事にしたくない。気狂いと言われても諦めきれない。世の中にはいっぱい人がいるんだから、俺みたいな変なやつがいてもいいと思うんだよ」
蘭児にとっても、裁縫をする男は、それも必要にかられてするのではなく好きでやっているのは以依が初めてだった。
村の女手がない家でも、縫い物は必ず外に頼む。確かに変わっているが……女なのに男の振りをして御膳番を務めている自分も大概である。
「それでここへ来たの?」
「始めは官になって、皇族方の衣類を作る尚服房へ入ろうと思ったんだ。でもあそこは男子禁制で、女官しか採用しないんだよ。男と女じゃ体型が違うんだから、男物は男が仕立てた方がいいと思うんだけどな。官が無理なら仕立師になって店を開きたいと思ったんだけど、兄貴たちに家の恥だってめちゃくちゃ怒られてさ……。円華宮は女人禁制だから、男でも被服係になれると知って駄目元で親父に聞いたら許可が出た。だから入った」
「だったら殿下の、念願の男物の被服係になれて良かったね」
「うん、母さんは二年前に死んでしまったし、家じゃどうにも肩身が狭かった。殿下に会えないのは残念だけど、ここは好きなだけ裁縫をしていいし、誰にも文句を言われない。正直、今が一番充実している。友達もできたし」
「……友達?」
以依は蘭児を見ながら、照れくさそうに言った。
「俺が勝手にそう思っているだけだけど。今、目の前にいる」
「……私?」
蘭児はびっくりした。同僚なのは間違いないが、まさか以依に友達と思われていたとは。友達なんて故郷の明花と蓮花以来だ。異性では初めての……いや、男として生きるなら以依は同性の友だ。
以依は不安そうに聞いた。
「嫌だったか?」
蘭児は首を横に振った。
「ううん、嬉しい。私も今日から以依のことを友達だと思うよ」
「なら良かった」
以依は破顔した。太陽のように明るく眩しい笑顔だった。
蘭児は被服の巧者である以依にこそ聞いてみたいことがあった。
「以依は……その、女の人が男物を着ることについてはどう思う? やっぱり変かな」
以依はあっさりと言った。
「別にいいんじゃないか。男物が着たいなら、好きに着れば。男が女物を着たっていい。外じゃ難しいかもしれないけど、家の中なら何を着ようと自由だろ」
「本当に?」
「うん、服は好きなものを着るのが一番だ。女が男物を着ても俺は気にしない。そういうのが好きなんだなと思うだけだ」
「そっか、安心した」
「何が安心なんだ」
「うーん、秘密」
蘭児は密かに思う。必要にかられて男のなりをしているものの、自分は男物を着ている方がどうにも性に合っていると。村にいた時から、穿袴の方が動きやすくて好きだった。女に戻って生活することになっても、女のなりをしたいとは思わない。以依は、「女は女物を着るべき」とは言わなかった。そのことに蘭児は救われた。
以依は悪戯っぽく笑った。
「変なやつ」
「それはお互いさま」
蘭児もつられて笑った。二人は顔を寄せ合い、どちらからともなく手を差し出して握手をした。
寒さは日ごとに増し、いつのまにか冬に入っていた。寒くなると温かい食べ物が格段に美味しくなる。
その日の午餐の主食には、羊肉の
水、生姜、大蒜、
湯餅の味が濃いためか、次の羹は淡白な白菜豆と鶏肉の湯が出た。正鵠の好物である。
蘭児は毒見の後、多めによそい、好みの味つけで出した。案の定、彼はおかわりを所望した。蘭児は好物を楽しんでいる正鵠をほほえましく思った。次回からは炭台と熱した炭も持ってこようと思った。炭台に鍋を乗せて置けば湯が冷めず、いつ所望されても熱々のものが出せる。
おかわりを入れた椀を置きながら、蘭児は何気なく言った。
「殿下は本当に白菜豆の湯がお好きですね」
正鵠はハッとして蘭児を見た。
何かを思い出すかのように、じっと見つめてくる。失礼なことを言ってしまっただろうかと蘭児は不安になった。
正鵠は箸を置くと言った。
〈椅子をもて〉
「はい」
蘭児はいったん奥の部屋に入り、椅子を持ってきた。正鵠が置けというので食卓の横に置いた。座れと言うので、不思議に思いながらも椅子に座った。正鵠は湯の入った椀と予備のれんげを蘭児の前に置いた。
〈食べよ〉
「ええっ」
蘭児は思わず叫んでしまった。
殿下のためによそった湯を、突然食べろと言われても困る。特に腹は空いていないが、自分はそんなにも物欲しげな顔をしていただろうか。
「殿下、いけません。こんなことは……許されません。御膳のしきたりに反します」
〈嫌いな味か〉
「そうではありません。私はあとで残り物を頂戴します」
〈では食べよ〉
「いえ、その……次のお皿の準備もありますし。殿下が召し上がってください。そのための料理です」
〈いいから〉
蘭児は窮した。下僕が殿下と同じ食卓について彼専用の食器を使って食事するなんて、天地がひっくり返ってもありえない。本人が許したとしても懲罰ものである。
正鵠は蘭児が食べるのを待っている。食べないことには華餐が進みそうにない。次の主菜の皿を持ってくることもできない。
蘭児は仕方なくれんげを持って、湯をすくって口に運んだ。白菜豆や鶏肉を食べた。
正鵠が尋ねた。
〈うまいか〉
「はい……」
おいしいことはおいしいが、生きた心地がしない。
「とてもおいしいですが、味がしません……」
正鵠は蘭児のおかしな返事に、たまらず唇を弓なりに反らせた。とろけるように相好を崩した。蘭児は心臓が飛び出そうになった。殿下が……笑った。彼が笑うところを初めて見た。元々柔和な面貌が、笑うとさらに優しく和やかなものになる。
蘭児は見惚れながらも、胸のあたりを押さえた。湯は確かに咀嚼して呑み込んだのに、どうしてか苦しい。臓器ではなく、何か別のところを鷲掴みにされたような気がする。自分はいけないことをしている。殿下と一緒に食事するなんてけして許されない。けれどこの方が笑ってくれるなら、もう少し食べてみようか……。
蘭児は震える手でれんげを使い、残りの湯も食べた。正鵠は前菜の大皿に箸を伸ばし、火腿や酢のものなどを自分でとって食べた。皇太子と御膳番という前代未聞の共食だった。
咀嚼音以外しない、静かなひと時を破ったのは寧の鋭い声だった。
「蘭児、お前……何をしている」
進膳房を覗いた寧がぎょっとして見咎めた。蘭児はびくんと震え、飛び上がるようにして椅子から立ち上がった。寧が部屋に入ってきた。
「どういうことだ。殿下の御前で、殿下の器を使って何をしている」
詰め寄って叱る寧を正鵠は制した。
〈私がこれに食べろと言った〉
「殿下、何を……」
〈これを責めるな〉
正鵠は重ねて言ったが、寧は引き下がらなかった。
「いいえ、なりません。これは御膳番です。近侍が殿下と同じ食卓につくというだけでも大変な不敬であり失礼です。ましてや食事などとは……信じられない行為です。殿下もこのようなお戯れはおやめください。他の者たちに示しがつきません」
正鵠は呆れたように言った。
〈お前とこれしかいないだろう〉
「だとしてもなりません。蘭児を甘やかさないでください。これはまだ半端者で教育と指導が必要です」
蘭児はしゅんとした。寧の怒りはもっともだと思った。殿下の命令であったとしても、自分は許されないことをしてしまった。下僕として明らかな越権行為である。
寧は容赦のない声で言った。
「行け」
仕事へ戻り、次の皿に取り掛かれという意味だった。
「……はい」
蘭児は逃げるように進膳房を出た。
御膳房へ続く小路を足早に歩きながら思った。一体殿下はどうされてしまったのだろう。自分に湯を食べさせるなんて。これまでは、御膳のしきたりを破ることは一度もなかったのに……。
夜になると、居間にいる正鵠のもとへ間食を運んだ。銀盆を開けて中身を見せ、茶を淹れた。
簡単に毒見を済ませて出した。
正鵠はひょいと手を伸ばすと蘭児が毒見に使った木の椀を取り、その中に肉が入った点心や乾燥よもぎを練り込んだ饅頭、胡桃、乾酪を入れた。
「殿下、何をなさるのですか」
蘭児は慌てた。木の椀に入れられたものは、もう銀盆には戻せない。正鵠はうずまき状に芋を練り込んで蒸した饅頭を手に取った。かじりながら言った。
〈食べよ〉
なぜかまた共食を求めてきた。
蘭児はとんでもないとばかりに首を横に振った。
「いけません、殿下。だめです。困ります。私が寧に叱られます」
〈あれより私の方が上だ〉
寧は気にしなくていいという意味か。この宮の主である正鵠の命が優先されるのは当然のことだが、蘭児は寧が落とす雷の方が恐ろしかった。自分がねだったから殿下は共食を許した、などと思われてはたまらない。
「それでもだめです。私ができるのは毒見のみで、殿下のお食事に口をつけるわけにはいきません。殿下が残されたものは後でありがたくいただきます。今は……どうかご勘弁ください」
蘭児は必死に言った。無礼にならぬよう気をつけつつも共食を拒否した。
正鵠は残念そうに息をついた。
手を右に振り、戸口に向かって親指を回した。
〈わかった。下がれ〉
「……失礼します」
蘭児は木の椀を持って立ち上がった。正鵠を一人残して居間を出た。
御膳房に戻ると一気に通り抜けて、外へ飛び出した。
戸口から離れたところまで行くと、その場にへなへなと座り込んだ。
何がどうなっているのか。どうして殿下は自分と食事をしたがるのか。何か理由あってのことだろうか。
木の椀に入ったものを眺める。点心はまだ温かく湯気をたてていた。殿下からいただいたものを粗末にはできない。これらは食べるしかないだろう。
蘭児は点心をつまむと口に入れた。肉汁がじゅわっとしみ出し、大蒜と生姜の良い香りがした。うまい。よもぎの饅頭もかじった。少しほろ苦くも優しい甘さが口いっぱいに広がる。うまい。胡桃も乾酪も貪るようにして食べた。
食べながら内院の主のことを思った。
できることなら、共食はせずにお傍にいたかった。また殿下の違う顔が見られたのかもしれないと思うと……どうにも口惜しかった。
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