五、西方の末裔 -西夷以依-

場違いな候子



 近侍で掃除係だった亮が死んだ。朝、雑役夫が彼の部屋に朝食を持っていったところ、首を吊って冷たくなっている彼を発見した。室内は荒れておらず自死と思われた。蘭児はむしろにくるまれた亮の遺体を見た。

 亮はいつも暗い顔をしていた。寡黙で仕事以外のことは口をきかなかった。蘭児は彼とは特に交流はなかったが、住まう部屋はそれほど離れていない。近くで人が死ぬというのは、やはり寝覚めが悪かった。雑役夫たちが亮の遺体を荷車に乗せて運んでいった。

 死体も朝の開門時に、宮の外へ運び出される。蘭児は寧と共に、亮の遺体が門の外に出ていくのを見送った。彼の遺体に向かって手を合わせ、念仏を唱えた。

 なぜなのだろうと蘭児は思う。ここでは三食お腹いっぱい食べられるし、衣類も欲しいだけ与えられる。寝るところも個室だし風呂にも入れる。給料まで貰える。仕事もきつくない。寧は厳しいが、理不尽なことで怒ったりはしない。叩かれたり、殴られたりすることもない。殿下は、常に穏やかで悠然としている。

 蘭児は円華宮以外の勤め先を知らないが、ここより良い職場はないのではないかと思う。村にいたときより、はるかに良い暮らしができている。亮が死を選んだ理由がわからなかった。

「何も死ななくてもいいのに……」

 思わず呟くと、寧は言った。

「お前は例外中の例外だからそう思うだろうが、近侍になれるのは貴族の子弟に限られる。外ではそれなりの生活ができたんだ。ここに閉じ込められて、悲観のあまり死ぬやつもいるだろうさ」

「うん、私と兄さんたちとでは住む世界が違う。それはわかっている」

 蘭児は宮から出られないことにも悲観していなかった。そもそも丁には移動の自由がない。行動を制限される身分である。さらに言うなら、ほぼ捨てられたようなものだが本来の主人は李子鳴である。彼が円華宮に蘭児を置くなら、ここから勝手に動いてはいけない気もする。

 寧はどこか達観したように言った。

「亮が特別哀れとも思わん。俺たちも同じ穴のむじなだ。遅かれ早かれ同じ運命になるかもな」

「えっ」

 蘭児はドキリとした。

「いつ命を落としてもおかしくないってことだ。近侍は殿下と一蓮托生だ。殿下にもしものことがあったとき、珂家が俺たちを生かしておくと思うか? 間違いなく皆殺しにされる」

 寧は何の感慨もなく淡々と言った。

「ああ、でも以依……あいつだけは助かるかもな」

「以依が?」

 蘭児は不思議に思ったが、寧はすでに内院に向かって歩き出していた。

 門からは、別の荷車が数台入ってきていた。ごみや遺体が搬出されると、今度は宮の中で消費される食材や布類、家具、雑貨、工具などの物資が搬入される。兵士たちが筵を剥がして積まれた荷物を調べている。

 問題がなければ、中の人間に引き渡される。雑役夫や料理人が門の内側に待機しており、荷物を分けて荷車に積み、それぞれ運んでいく。食材や食器類は御膳房へ運び込まれる。

 搬入が終わると、鉄門はぴったりと閉まる。

 門の外は相変わらず大勢の貧民がたむろし、しきりに中の様子を伺っていた。門の外に立つ兵士たちが大声を出し、槍や剣を振って追い払っている。


 蘭児は、進膳で使う布巾を貰いに被服房へ行った。

 中に入ると、以依は部屋の隅に布を敷き、西の方向に向かって尺取り虫のような体勢を取っていた。何かに対して深くお辞儀をしているようにも見えた。

 蘭児は彼の手の先を見た。仏像でも置いて拝んでいるのかと思いきや何もない。

「何してんの?」

 問いかけると、以依はそろそろと身を起こして笑った。

「ああ、蘭児か。なんなんだろうなこれ。俺もよくわからないんだけど、俺んちの作法なんだ」

「作法?」

「うん、先祖参りみたいなものらしい。西の方向に向かって、両手をついてお辞儀をするんだよ」

「西の方向……」

 蘭児は考えた。お釈迦さまがお生まれになったという天竺は、この国のはるか西方にあるという。以依は遠くにおわす仏さまを思って祈念していたのだろうか。それにしてはお参りの仕方がちょっと違う気がするが……。

 彼女は柔軟に考えた。

「ここに仏堂や廟はないものね。家では仏さまを置いてお供えをしていたんでしょ」

 と言うと、以依はうーんと首を捻った。

「いや、そんなことはなかった。家でもこんなかんじだ」

 そこで以依はあっと大きな声をあげた。

「蘭児、今見たのは内緒な。外では絶対やるなって言われているんだよ。ここは家じゃなくて外だった。親父や兄貴たちに知られたら殺される」

「わかった。誰にも言わない」

 家族に怒られるようなことをしていたとは思えないが、蘭児は約束した。

 以依は、蘭児に新しく縫った手巾を何枚か渡した。

 それから山羊の毛を綾織りし藍色に染めた生地を出し、それで作っている上衣を見せた。

「すごいだろ、最高級の羊絨カシミヤが来たから殿下の上衣を縫っているんだ」

 蘭児も上等な生地に触れた。羊毛で織った生地より薄いのにとても温かそうだ。

 以依は、本来は皇太子専属の被服係である。季節ごとに下着から寝巻き、重ね着のための色とりどりの薄物、長袍や、薄手厚手の上衣、円套などはもちろんのこと、帯や髪を束ねる絹紐などの小物も作る。

 彼の仕事は非常に丁寧で、縫製がしっかりしていた。針目は点のように細かく、まっすぐに縫われている。殿下の衣服を縫う合間に、近侍用の制服なども作っていた。これも一切手抜きがなく、非常に丈夫で動きやすい。綿は均一に入っていて、小さな穴もほつれもない。蘭児は以依の裁縫の腕には感心した。

 以依は編み物や刺繍も得意だった。頭に巻いている布にも、自分で考案した鳥や花柄の刺繍を施していた。どれも精緻でとても美しい。

 彼は裁縫が好きでたまらないようだった。北の住居房に部屋を持っているが、使うことは殆どなく、被服房で寝起きしていた。布や糸に囲まれていると安心するのだという。

 とにかく一日中、被服房に引き籠って朝から晩まで何かしら縫っている。作るものがなくなると、編み物や刺繍をしたり型紙を作ったりしている。

 変わっているが、蘭児は以依に好感を抱いた。働き者だし、自分の仕事に誇りを持っている。

 以依は、上衣を撫でながら言った。

「なあ、蘭児は殿下の御膳番で毎日お傍へ行くんだろ。 殿下のご容態はどうなんだ」

「あ、うん……。その日によって違うかな」

 蘭児は曖昧に言った。表向きには殿下は重病ということになっているし、内院で見聞きしたいかなることも他言無用である。寧と段先生以外には、殿下の生活や病状については一切洩らさなかった。

 もちろん隆善たち料理人たちにもだが、彼らは戻ってくる皿を確認している。華餐二回に間食と三回食事ができるのだから、そこそこ元気なことには気づいているだろう。

 以依は俯き、少し悲しそうに言った。

「具合が悪いなら難しいと思うけど、俺も殿下にお会いしたいんだ。寧は殿下の着丈を教えてくれるし、以前着られていた服も見せてくれる。それらも参考にしているけど、やっぱり直に採寸して型紙をとって、お身体にぴったりの服を作りたいんだよ。服は肩幅が少しずれただけでも見栄えが違ってくるしさ。もしお話ができるなら、どんなものがお好みかもお聞きしたい。布一つとっても色んな素材がある。殿下にも好みの色や模様があるだろ。刺繍だって入れたいし」

「でも殿下はご病気だし、服を新調されてもどこかにお出かけになるわけではないし……」

 蘭児は困ってしまった。以依の気持ちはわかるが、殿下への拝謁に関しては自分が判断できることではない。

 あと以依が作る服はどれも上品で殿下によく似合っているけれど、殿下自身は着るものに特にこだわりはなさそうだ。洗濯され、部屋に用意されたものをそのまま着ているだけな気がする。

「着心地のいい服をお作りすれば、殿下のご気分もよくなると思うんだけどな。寧にも何度もお願いしてるのに、いつも素っ気ないしはぐらかされる。嫌われてんのかな」

「兄さんは誰にでもそんなかんじだよ」

 と慰めつつも、蘭児は寧が以依を内院に入れず正鵠に会わせない理由は気になった。


 夜、蘭児は部屋で寧に読み書きを習っていた。

 寧は正鵠が就寝した後、いったん住居房へ戻り、毎晩一刻ほど蘭児に字を教えた。内院の書庫には若年向けの漢字の教本があり、それらを借りてきて教科書とした。卓に椅子を二つ置き、寧が教師、蘭児が生徒になった。蘭児は寧と顔を突き合わせるようにして勉強した。日をまたぐ頃に寧は内院に戻り、蘭児も寝床に潜り込む。

 蘭児はすでに漢数字とその数え方を覚え、筆記での簡単な計算もできるようになっていた。国名、地名、都市名、主要な氏族も覚えた。自分のみならず、周囲にいる人たちの名前も書けるようになった。尊字であるし恐れ多くて絶対に無理だが、殿下の名前だって書ける。「鵠」が白鳥を表す字であることも知った。白き大鳥。美しくて高雅でぴったりだと思う。

 紙代わりの板の切れ端に、覚えた単語を書く。日記ではないが、今日起きたことを簡単な文章にする。

「被服房で以依と会った」と書いたところで、蘭児は昼間の以依との会話を思い出した。

 書きながら、なんとはなしに尋ねた。

「兄さん、以依が内院に入れないのはどうして? 以依の仕事ぶりは真面目だし、私にも親切にしてくれる。悪い人には見えないけど」

「あいつか……」

 寧の声はいかにも面倒くさげである。

「殿下がお許しにならないのなら別にいいんだけど」

「いや、殿下は以依については何もおっしゃらない。近侍の内院への出入りは俺に任されている。確かに悪いやつじゃないが、どう扱えばいいのかわからなくてな」

「わからないって?」

「あいつが来てもう一年くらいになるが、正直どうにももてあましている」

 蘭児は筆を止めて顔を上げた。寧は珍しく困り果てた顔をしていた。

「以依は候子こうしだ。有氏十家の筆頭、西夷氏の当主の息子だ。この宮では殿下に次いで身分が高い」

「候子? 以依が?」

 蘭児は驚いた。確かに以依はいつも明るくて朗らかで、育ちは良さそうだが、候の称号を持つ大貴族の子息のようには見えなかった。以依に気取ったところは一切ない。身分が高くとも、蘭児を見下したりしない。初めて会ったときには握手を求めてきた。握手は敵意のない証であることを、今の蘭児は知っている。

「西夷氏は、この国で一番古い氏族だ。大黎を建国した太祖・周武帝の最初の妃も西夷氏だ。……わからん。なんであいつはこの宮に入ったんだ。出家願望か希死念慮でもない限り、候の息子がここへ来るわけがない。いや、出家したいなら寺に行けって話だ」

「以依の実家である西夷家は……殿下の政敵なの?」

「それすらもわからん。皇帝は即位するにあたって十候の承認を得なくてはいけない。十候側もまず拒否することはないんだが、西夷家は今上帝の即位を承認している。だが、殿下の廃嫡を支持しているかというと……なんともいえない」

「以依は……殿下の服を作るのが仕事で、良いものを作りたいから殿下に会いたがっているけど」

 本当にそれが目的なのだろうか。蘭児は戸惑った。以依のことを信用しているが、実家のことを考えると別の思惑があってもおかしくはない。

「珂家や太后の手先かもしれないし、西夷家が殿下の様子を探るために送り込んできたのかもしれない。とにかくよくわからないやつなんだ。だから念には念を入れて、殿下には近づけないようにしている」

 蘭児も寧の考えすぎとは言いきれないと思った。殿下の安全を第一に考えるなら、内院には不用意に人を入れるべきではない。


 翌日の午前中、蘭児は内院へ入った。

 先日の珂家の襲来以来、彼女は食事時以外でも内院へ立ち入ることができるようになった。他ならぬ正鵠が許した。珂景叙らから身体を張って自分を守ったことで、蘭児を信頼に値する者と判断した。

 回廊を歩いていると蘭児の姿が見えたのだろう、鉦鼓しょうこの鳴る音がした。

「はい、ただいま参ります」

 蘭児は返事をし、引き返して鉦鼓が聞こえてきた居間に入った。正鵠が安楽椅子に腰かけている。

 正鵠はこの十年で、内院を不自由な身体であっても住み心地の良いものに変えていた。彼が好んで過ごす部屋には、円形で青銅製の小さな鉦鼓が置いてある。用があるときはこれを叩いて従僕を呼ぶ。

 蘭児は、これまでは寧が対応していた正鵠の私的な言いつけを少しずつこなすようになっていた。非常に物覚えがよいとわかると、正鵠は積極的に指文字を教えるようになった。簡単な単語を指文字で連続して表し、繋げることで文章にした。

 蘭児は指文字の多くを一回で覚えた。手を右から左へ水平に動かすと「わかった」、左から右に動かすと「捨て置け(なんでもない)」、人差し指を伸ばしたまま右に一回転すると「行け」、二回転すると「戻れ」、親指を戸口の方へ向けて右に一回転すると「下がれ」、左に一回転すると「待て」、人差し指と中指を胸に当てると「欲しい」、下の方向に向けると「欲しくない」、人差し指を顎に当てると「私」、相手に向けると「あなた」、何かをつまむような仕草は「もの」、右の手のひらの真ん中に左手をたてかけて三角形を作ると「人」という案配である。蘭児は正鵠の手指から「人」という字の形も覚えた。

 正鵠は、初めはものを取ってこさせるなどの簡単な用事を命じ、蘭児ができるようになると徐々に複雑なことを伝えるようになった。蘭児が理解できない場合は、唇をゆっくり動かして根気よく読ませる。人名の場合は指文字で表現できないので、筆談か唇を読ませるほかない。

 蘭児は簡単な言いつけであっても殿下と話すことができ、役に立てることが嬉しかった。鉦鼓が鳴ると、文字通り飛んでいった。

 正鵠の前に跪くと彼女は言った。

「殿下、お呼びでしょうか」

 正鵠は親指と人差し指で茶碗を持つような形にし、口元へ持っていった。

〈茶を淹れてくれ〉

 蘭児はゆっくりと言った。

「何にいたしましょう。龍眼茶、末茶もちゃ(抹茶)、白茶、黄茶……」

 正鵠は黄茶のところで指を一回打った。さらに言った。

〈東から来たもの〉

「宋茶ですね」

 蘭児は立ちあがり、室内にある漆塗りの箪笥から茶道具一式と東の宋から運ばれてきた黄茶「霍山黄芽かくざんこうが」の入った箱を取り出した。茶の中でも特に高級品である白茶や黄茶は、さすがに御膳房に置いておくのは危ないということで内院にて保管している。

 希少な黄茶の、それも霍山黄芽は最高級品で、皇族でも口にできるのは皇帝、皇后、皇太子くらいである。蘭児は御膳房へ白湯や陶磁器の椀などを取りに行き、茶請けとして胡桃と扁桃アーモンドを盛った皿を持ち帰った。

 霍山黄芽は大変貴重なもののため、毒見で茶葉を噛むことはない。茶壺に黄色みがかった繊細な茶葉を入れ、白湯を注ぐ。

 正鵠はやや緊張した面持ちで、蘭児の手元をじっと見つめた。蘭児はしばらく蒸らしたあと、毒見用の木の椀に茶をひと口分淹れた。木の椀を持って口に近づけた。不意に正鵠の唇が動いた。

〈崔妃〉

「え?」

 蘭児は手を止め、正鵠を見た。

「殿下、何か?」

 正鵠は目を逸らし、左から右に手を振った。

〈なんでもない〉

 蘭児は淡い黄色の茶を飲んだ。独特の悶黄の香りがあり、まろやかで甘味がある。喉を優しく伝い、じんわりと潤してゆく。うまい。この世にはこんなおいしい飲み物があるのかと感激した。毒見とはいえ、自分ごときが味わっていいものなのかと思う。

「大事ございません」

 と言い、陶磁器の茶碗に黄茶を注いで出した。

 正鵠はすぐには口をつけなかった。どこか心配そうに蘭児の顔を見ている。何か粗相をしただろうかと、蘭児は不安になった。少し経って杞憂とわかると、正鵠は茶碗を持って口に運んだ。茶をゆっくりと味わって飲み、ホッとしたような表情を浮かべた。

 蘭児は胡桃と扁桃も毒見して出した。正鵠はそれらを少しつまみ、茶をもう一杯所望した。蘭児は丁寧な手つきで再度淹れた。のんびりとした穏やかな時間が流れた。

 蘭児は正鵠の傍で過ごす時間が好きだった。彼の周囲は不快な音が一切ない。とても静かで落ち着いている。沈黙すらも心地よい。このひと時が少しでも長く続けばいいと思ってしまう。

 茶を飲み終わると、正鵠は言った。

〈字を教える〉

「はい」

 蘭児の声は弾んだ。殿下が自分ごときに構ってくれることが、とてつもない僥倖に思えてならない。

 正鵠は、茶道具を乗せた浅い長方形の茶盤を指差した。

〈砂版を作れ〉

 蘭児は竹製の茶盤を持つと庭に出た。地面に撒かれている白砂できれいなものを茶盤に入れ、表面を平らにした。

 砂版は浅くて広い入れものならなんでもいい。飾り皿などでも作れる。部屋に戻ると、砂版と一緒に竹串や木を削って作った菓子切りを差し出す。正鵠は竹串を選んだ。細い筆や箸の先端を使ったこともあったが、串が一番細かく字が書ける。

 正鵠は蘭児が近侍として役に立つため、寧に読み書きを習っていることを知っていた。基礎は寧に任せるとして、彼は蘭児に指文字で使う字や言葉の連想遊びなどを教えた。

 砂版に「花鳥風月」と書いた。なるべく簡単な言葉を選んでいる。花という字を指し、手は花房を持って回すような動きをした。唇はホアと動いた。鳥という字を指し、両手の親指を交差させ四本の指を翼に見立てた。唇はニアと動いた。風という字を指し、左上から右下に向かって斜めに手を振った。唇はフェンと動いた。月という字を指し、親指と人差し指で環を作ると頭上に掲げた。唇がユエと動いた。蘭児は指文字と字の意味を理解した。

 正鵠の唇が「美好的世界メイハオダーシージエ」と動いた。花と鳥と風と月。美しい世界である。蘭児の脳裏にまざまざと情景が浮かんだ。この世にある美しい自然と生きものたち。

〈わかるか?〉

「はい、わかります。この世の美しいもののことです」

 正鵠は蘭児が理解したと知ると、砂をならして文字を消した。次に「春花秋月」と書いた。春の花と秋の月。「山紫水明」とも書いた。日の光の下で紫にかすむ山と澄んだ川の水。「桃紅柳緑」とも書いた。紅い桃の花と緑あざやかな柳の葉。正鵠は指文字と読唇で一字ごとに説明した。

 蘭児は想像だけでため息が漏れそうになった。すぐ近くにありながら、これまでその美しさに気づかなかったものたち。文字になることで簡潔かつ情感が増していく。美的なものを表す文字が二つ、三つと繋がって、さらに美しいものを表現する。新たな世界の扉が開くような気がした。

 ひととおり思いつくものを書くと、正鵠は尋ねた。

〈お前は何が美しいと思う〉

 蘭児は考えた。村の自宅の裏に生えている梅の木を思い出した。毎年春になると、赤い花を満々と咲かせる。

「梅です。梅の花。木も美しいと思います」

 正鵠は砂版に「梅」と書いた。木の部分を竹串で指し、中庭にある樹木を指差した。「毎」の部分を指すと、すぐ下に「女」と書いた。

〈毎は女という意味だ〉

「女……ですか」

 正鵠は、自分の長い髪を持ち上げて頭上で束ねるような仕草をした。

〈髪を結う女だ〉

 木へんに髪を結う女で「梅」になる。蘭児は梅という字を見つめた。梅は女だったのか。

〈お前も女は好きだろう〉

「ええ……はい、まあ」

 なんと答えていいものかわからず、蘭児は言葉を濁した。女が好きということはない。なにぶん蘭児自身が女である。

 女に生まれてよかったとも思えない。男として暮らすようになってから、彼女は女というものは実に生きにくいものだと思うようになった。男だと思われているからこそ、それなりに人間扱いもされるし、仕事ぶりも認めてもらえるのだと思う。もし女であったら、寧も殿下も読み書きを教えてはくれないだろうとも。

〈他には?〉

 正鵠は連想するものを言えと言っている。

 蘭児は懸命に考えた。薄紫色の朝焼け、夕暮れ時の金色の雲、五月に降る翠雨、夏の陽炎かげろう、冬空に舞う粉雪、思いつく限りの美しいものを言った。正鵠はそれらをすべて砂版に書いていった。これまでになかった単語が出てくると、口に手を当てて指文字を考える。新たに作った指文字をその場で蘭児に伝えた。

 蘭児は思った。声が出せなくても殿下はとても賢く、その心は豊かだ。自分の中で言葉を創造している。創造した言葉を下僕に教えて意志を疎通し、より複雑で重厚な表現を試みている。幽閉されていても、自身の生活を快適かつ充実したものにしようとしている。

 とうとう蘭児の語彙は尽きてしまった。自然の美しいものはもう思いつかない。彼女はそこで砂版に真剣に向かう正鵠を見た。人ならば、この方以上にきれいなものはない。思わず見惚れてしまった。

〈他には?〉

 正鵠が促した。蘭児は焦った。

「殿下……です。私は殿下を美しいと思います」

 思ったことをそのまま口にしてしまった。正鵠が蘭児を見た。表情は平たんだが、戸惑いのようなものが伝わってくる。蘭児は懸命に続けた。

「本当です。私は生まれた村と都と円華宮の中のことしか知りませんが、今まで出会った人の中では……殿下が一等に美しいと思っています」

 嘘ではないし、追従したわけでもない。蘭児は正鵠の顔を本気で美しいと思っていた。

 毒を盛られる前の彼を知る人は、彼の失明した右目や赤く変色して引きつった半面を醜いと思うのかもしれないが蘭児は違った。健常であった頃の正鵠を知らないし、特に知りたいとも思わなかった。出会った時から彼はその面貌であり、不自由な身体だった。顔だけでなく、彼がまとう鷹揚な空気や上品な立ち居振る舞い、創造に富んだ心、今のありのままの姿を美しいと感じていた。

 少しして正鵠の指が動いた。あなた、知らない、世の中、もの、と言った。

〈お前は世間知らずだ〉

 怒ったような気配はなかったが、正鵠は砂版の上に竹串を置いた。蘭児から視線を外した。蘭児は消沈した。失礼なことを言ってしまったのかもしれない。

 戸が開いて寧が入ってきた。

「蘭児、交代だ。午餐の支度にかかれ」

「はい」

 蘭児は名残惜しくも茶道具一式を持つと立ち上がった。もっと殿下のお傍にいたいと思ったが、ここは下がるべきだろう。

  

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