明花と蓮花



 栖遠は皇帝の執務室にいた。

 そこは、栖遠にとって一番心が落ち着く場所だった。

 先帝が存命中に使っていた執務机と椅子はそのままにしてある。筆記具、文鎮、紙、詔書といった机上のものも十年前と変わらない。時々、栖遠が手ずから掃除をして埃を払っていた。

 正鷲を仮初めの玉座に置いたものの、この先帝の執務机に座らせたことは一度もなかった。部屋に立ち入ることも許さなかった。栖遠は、彼の席を誰にも触らせなかった。そこは栖遠にとって聖域だった。

 これは皇帝の机であり椅子だ。大黎国を統べるにふさわしい優れた素質を持つ者だけが着席を許される。栖遠は国を任せられる真なる皇帝が現れるまで、この空席を死守するつもりでいた。

 栖遠自身は、執務机の右側に位置する副官の席に座って、こまごまとした実務を行っていた。日々の政を執りながらも、今も自分は先帝の臣であると思っていた。彼の正妻であり、寵臣であると。

 父の道元が正鵠に毒を盛ったと知った時、栖遠はやはりあの時自分は皇帝に斬られるべきだった……と思った。

 栖遠が毒を盛ったわけではないが、父がやったのであれば同じことである。父は大黎皇家に反逆した大罪人であり、自分は大罪人の娘である。親の罪は子の罪である。

 同時に、栖遠は卑しい娼妓と知りながら自分を皇后にした彼の度量の広さ、懐の深さを思うとたまらなくなった。とんでもない人と巡り合ったものだと思った。

 娘を三人産んだとはいえ、彼が栖遠を皇后にする必要はどこにもなかった。むしろなぜ皇后にしたのかわからないくらいだった。

 そもそも、皇后は必ず置かなければいけないわけではない。大黎の場合、皇后が産んだ男子が皇太子になるのではなく、皇子が皇太子になるとその生母が皇后に叙される制度である。どんなに出自がよく、後宮での序列が高い妃であっても、男子を産まないことには皇后にはなれなかった。

 妃たちが男子を産んだとしても、皇帝にその気がなければ皇后は空位のままで良かった。

 現に先々帝である光憲帝は、その生涯において一度も皇后を置かなかった。光憲帝の妃の最高位は、貴妃であった安基公主ただ一人である。

 安基公主は皇帝の娘というこの上なく高い身分に生まれ、さらに皇帝の妃となって男子を五人産むという非の打ちどころのない人生を送った女性だった。婦女の手本、貞女の鏡とされ、女たちの憧れの的である。

 彼は栖遠を、完全無欠の安基公主でさえもなれなかった皇后にした。正妻にした。さらには皇太子の継母にして、彼女の地位を固めた。政の手伝いがしたいという願いを適え、執務室への出入りを許し、実際に傍に置いて補佐をさせた。

 栖遠は彼の死後に知った。あの人は何も言わなかったけれど、自分を臣として心から信頼し、本当に大事にしてくれていたのだと……。

 皇帝と女官という男女の関係にあり、子を四人ももうけた。周囲の者たちは、栖遠こそが皇帝にもっとも寵愛された妃であり、愛情ゆえに子を幾人も産ませ、愛情ゆえに皇后にしたと思っている。破格の出世を鑑みればそう思われてしまうのは当然だが、栖遠だけは真実を知っていた。皇帝と自分の間には、男女間の愛情や性愛では説明できない主君と臣下としての絆があった。政に携わる同志としての絆があった。

 最後は誤解されて、殴られて、ひどいことも言われた。

 栖遠の心はたとえようもなく傷ついた。が、父が犯した悪行を思えば憎む気にはなれなかった。信じていた女に裏切られ、後継を死に体にされたと知った時の彼の怒りと絶望はいかばかりだっただろうか……。

 栖遠は、先帝の席を眺めた。在りし日を思い出した。

 彼はいつもそこに座り、いつも気難しい顔をしていた。笑ったところは見たことがなかった。政務に集中すると、傍らの栖遠の存在すらも忘れてしまった。

 ある日、栖遠は執務室で上奏文の整理をしていた。夕刻になると、彼は後宮へ出かけていった。ところが、何があったのかすぐに戻ってきた。

 栖遠を見ると真顔で言った。

「お前に逢いに行ったのだが、お前はここにいたな」

 栖遠は呆れた。呆れながらも、彼が他の女のところへ行かず戻ってきたことを嬉しく思った。

 その夜、栖遠は万陽宮の寝所に侍った。彼は房事が終わった後も栖遠の傍にいた。どこにも行かなかった。栖遠に下がれとも言わずに寝てしまった。栖遠は初めて彼の寝顔を見た。朝まで彼と一緒にいた。

 どの妃を抱こうとも、執務室にいれば彼は必ず帰ってきた。栖遠のもとへ帰ってきた。

 栖遠は今でも思う。陛下に逢いたい……と。

 結果的に殺めてしまったにも関わらず、どうにも彼が恋しかった。栖遠にとって先帝は、何年経っても忠義を尽くしたいかけがえのない人だった。


 執務室に民部次官の張養茄ちょうようかが入ってきた。

 養茄は栖遠に盆に乗せた国庫収益書、および税務報告書を差し出した。

「太后さま、こちらが法務局商工所からの丁妓の収益書と本年度の遊興税の総額をまとめたものになります。お改めくださいませ」

「ご苦労。今月年季が明けた妓はいかほどか」

「百五十六名となります。都にいる者で希望者はすでに後宮へ収めましてございます。地方にいる者も順次こちらに送られてくる予定です」

「わかった。女たちは、すみやかに薬師房の医務官に渡すように」

「承知いたしました」

 養茄が出て行くと、栖遠は報告書を丹念に読んだ。丁妓の専売事業は特に肝煎りの政策であるため、報告書には必ず目を通している。

 栖遠は実権を握ると、先帝が進めようとして生前は成しえなかった妓の行政専売化に着手した。

 先帝の遺志を引き継ぐ形で、御前会議に提起したものの、やはり十候の根強い反対にあった。かつて栖遠が冬慈として毎夜大枚で切り売りされたように女は金になる。そのことは十候もわかっていて、領地では親族や配下に妓楼や娼館を経営させて大きな利益を得ていた。彼らが既得権益をおいそれと手放すわけがなかった。

 栖遠は、いったんは引き下がったものの諦めなかった。

 まず、風紀を正すためとして妓楼や娼館といった売春業の店すべてを登録制にした。楼主たちに、必ず店と妓女の登録を義務付けた。申請期限までに登録がなかったり、無視して無許可で営業したりする店は違法営業として徹底的に取り締まった。摘発した店は取り潰され、楼主やその手下は逮捕して厳しく罰した。栖遠は潰した店で働かされていた娼妓たちの年季を繰り上げて解放、あるいは保護した。

 登録が済んだ店には、一律で高い遊興税を課した。店の売り上げのおよそ三割を税金として徴収した。払わない店、脱税する店は警邏隊および税務官を差し向けて、強制徴収した上でやはり容赦なく取り潰した。

 露骨な締め上げに楼主たちからは反発が起きたが、栖遠は一切の抗議を無視した。無法者や人買いとつるんで女を食いものにする楼主らに世間は冷ややかで、厳しい取り締まりは概ね支持された。

 妓楼や娼館を経営する十候らも高い遊興税には閉口したが、まさか領地では女たちに売春させて儲けているとも言えない。しぶしぶながらも栖遠の政策に賛同し、遊興税を支払った。

 栖遠は彼らの不満を感じ取ると、配下を使って秘密裏に優遇条件を持ち掛けた。妓の行政専売に賛成し、国の定めた規格で運営するならば、領地の妓楼や娼館は国の正式な代理店に認定し、遊興税を免除する。売り上げの一割にも満たない手数料さえ払えば、引き続き特権を認めると。

 十候らはこの案に乗った。次の御前会議で、妓の行政専売は可決された。

 栖遠は丁に加えて妓も公共商工組合の管轄とし、売られてきた女たちを一律で管理し、売買させた。女たちは組合が所有する屋敷か地方の代理店に集められ、営業許可証を持つ妓楼の楼主のみが参加できる場で競りにかけられた。妓女として働く期間は前借り金次第だが、年季の延長や、延期明けの再契約は厳禁とした。年季が明けた女は自由になれるが、身寄りのない者や故郷に帰れない者が大半である。現実は妓楼にとどまって売春を続けるか、年をとって妓楼にいられなくなったら私娼となって春を鬻ぐしかなかった。性病や堕胎などで身体を壊す者も多い。

 栖遠は妓を行政専売にしたものの、かつて自分が味わった現世の地獄へ落ちる女を一人でも減らしたい、かつ現在苦界に喘ぐ女を一人でも救いたいという気持ちがあった。

 娼妓を廃止できれば一番なのだが、売春そのものを禁じるのはおよそ現実的ではない。男たちの恨みを買うし、彼らの鬱屈は一般の女たちに向かってしまう。略取や強姦で他の女たちが犠牲になるのが目に見えている。

 また禁じたところで、女衒や売春業者は地下に潜るだけで根絶は不可能と思われた。とにかく女は金になるのである。無法者や匪賊のしのぎになるくらいなら、妓は国の規格で管理された方がいいと考えた。

 栖遠は妓を売って出した利益や徴収した遊興税を使って、年季の明けた元妓女や苦界で喘ぐ女たちを助ける方針をとった。この世から不幸な女がいなくなることはないが、年季さえ勤めあげれば第二の人生を歩めるという救いのある世の中にしたかった。

 年季が明けた娼妓のうち、結婚を希望する者は都へ連れてきて後宮へ入れた。拉致や違法な人身売買で売春を強要されていた女たちも助けて後宮へ入れた。都の路傍に立つ貧しい私娼たちも保護して後宮へ入れた。基本的に女と宦官しかいない後宮は、男に加害される恐れがもっとも少ない安全な場所であるし、栖遠の目も行き届く。

 女たちを安全圏に隔離したあとで、怪我や病気を患う者は医務官に診察させて治療し、回復後は後宮の下働きとして雇った。重篤な者、死期の近い者は大黎皇家の菩提寺である大黎宝暁寺たいれいほうぎょうじに併設した慈善院へ送り、最期まで面倒を見てやった。

 栖遠は、助け出された女たちから「お情け深い慈恵母后さま」と呼ばれて崇められた。


 政務をあらかた片付けると、栖遠は後宮へ戻った。

 珂叡文がやってきた。栖遠は彼に茶を所望した。叡文も心得たもので、茶器の準備はしてあった。優雅な手つきで茶を淹れると、毒見でもするかのようにまず自分がひと口飲んだ。それから栖遠用の白磁の椀に淹れ直した。

 栖遠は自身の御膳番を置いていない。置きたいとも思わなかった。元より御膳番は、皇帝と皇太子のみが持つ特権のようなものである。

 栖遠はくすりと笑った。

「お前は御膳番しぐさが好きだな」

 叡文は茶碗を盆に乗せて、栖遠に差し出した。

「御膳番ではございませんが、できる限り毒見はいたします。私の太后さまに捧げる忠義の心でございます」

「受け取ろう」

 栖遠は茶碗を持ち、とろりとした白茶を飲んだ。味と香りに癒された。ひと息つくと彼女は言った。

「叡文、お前に頼みがある」

「私は太后さまのしもべ、なんなりとお申しつけください」

「人を探して欲しい。……雲を掴むような話なのだが」

 今更こんなことを願っても適うとは思えなかったが……心の奥にずっと引っかかっていることがあった。北斗七星の名を持つ最初の息子のことである。

「見つけて欲しいのは男だ。生きていれば歳は二十一か二。背面の右肩に北斗七星の形をした入れ墨がある」

「名前を伺ってもよろしいでしょうか」

「揺光。しかし、この名を知る者は全員死んだ。私しか知らないなら無名と同じだ」

 叡文はその他にも所在地と思われるところや特徴、絵姿の有無などを尋ねたが、いずれも栖遠は答えられなかった。生まれてから数日しか一緒にいられなかった子である。

 叡文はしばらく思案した後、率直に言った。

「本当に雲を掴むような話ですな。都にいるならまだしも、地方や国外でしたら探し出すのは困難かと」

「そうだな、国外どころかこの世にいない可能性もある」

「とりあえず都に暮らす者で二十一、二歳の男の戸籍簿をあたってみましょう。該当する者の一覧を作成し、探し出して右肩を片っ端から調べる。それしか方法はないかと」

「頼む」

 そこで叡文は遠慮がちに尋ねた。

「その男は、太后さまとはどういうお繋がりなのでしょう」

「私のごく個人的な身内だ。……汚点でもあり、光でもある」

 栖遠は言葉を濁した。後宮に入る前に産んだ子であるから、先帝への不義不忠にあたるわけではない。忌まわしい過去であっても、あの人を裏切ったわけではない。それでも父親はわからず、未婚で産んだ息子となれば、どうにも後ろめたく口にするのは憚られた。

 息子は自分のことなど知る由もなかろうが、生きているなら会いたい。もし困っているのなら助けてやりたいし、苦しんでいるのなら救ってやりたい。

 先帝の妃嬪でいた頃は無理だった。皇后になっても無理だった。だが、太后となり力を持った今ならできる。

 栖遠は念のため言った。

「配下は何人使ってもよいが、私の命とは言うな。父たちにも他言無用だ」

「かしこまりましてございます。太后さま、ご安心ください。どんなに些末なことであっても、私から道元さまに何か申し上げることはけしてありません」

 声は穏やかで丁寧ながらも、道元に対する拒絶が感じられた。

 栖遠は察した。叡文は、表向きは道元の弟の子で道元の養子ということになっている。しかし常識的に考えて、血の繋がった甥を宦官になどするわけがない。おそらくは、これも金で買われた孤児なのだろう。

 道元は見目よく利発な男子を買ってきて衣食住を与え、教育も受けさせた。そこまでは良かった。叡文は自らの幸運に有頂天になり、養父・道元への厚い忠誠を誓っただろう。

 そうして手なずけておきながら、道元は彼を宦官作りを請け負う刀子匠の元へ送り込んだ。否応なく男根を切り取らせて、後宮へ放り込んだに違いなかった。宮刑に処せられた者や自ら出世を望んで自宮する者はともかく、強制的に男でなくされたと知った時の彼の悲憤は想像に難くない。

 栖遠はしんみりと尋ねた。

「父が憎いのか?」

 叡文は白い面貌に何の感情も浮かべず、淡々と答えた。

「さあ……どうでございましょうか。道元さまに恩義は感じておりますが、さりとて特に孝を尽くしたいとは思いません」

「私もだ。お互い親には苦労するな」

「太后さまのご苦労とご心痛に比べましたら、私のそれなどは吹けば飛ぶ塵のようなものでございます」

 二人には、珂道元という共通する不幸がある。悪辣な父を持ち、彼の悪行を知りながらも珂家のために尽くさなくてならない不幸である。何が起きようとも子である以上は、父と一蓮托生だ。しかし、父の悪に完全に染まるわけではない。傷を舐めあう気はないが、栖遠は叡文の忠義は信じられる気がした。


 扉が開いて、女官が入ってきた。側近の一人である錦子娘きんしじょうだった。

 錦子娘は栖遠の前まで来ると言った。

「太后さま、おくつろぎのところ申し訳ありません。実は結びの下賜の件でご相談が……」

「申してみよ」

「先日、警邏隊に助け出されてここへ来た女たちのことなのですが。すっかり元気になりましたので、これまでどおりに結婚を申し付けたのですが、拒否する者がおりまして……」

「どういうことだ」

 栖遠は眉を顰めた。後宮へ来た女たちは、今後のことについては納得済みと思っていたが、そうでないのもいるのだろうか。

 栖遠が今取り組んでいるのは、都の人口、それもいびつな男女比率に関する問題だった。

 元々大黎は、男に比べると女の数が少ない。女子は間引きされやすい上に、富裕層ほど一夫多妻が当たり前で一部の男が多数の女を囲ってしまう。さらに侵略してくる夷狄は、略奪婚の風習や奴隷として使うために必ずといっていいほど若い女をさらっていく。

 反対に男はというと、これまでは戦争に行って適当に間引きされていたのが、長年戦もないために増える一方だった。地方で女にあぶれた男たちは都へ出てくる。今や都の女不足、男余り感は凄まじいものとなり、都に暮らす男の実に四割以上が結婚できないという異常事態に陥っていた。

 そのため、都の女たちは外を出歩くだけで男たちの舐めるような視線に晒されることになった。昼間でも略取される恐れが高いため、護衛や男がついていないと外に出られない。「嫁は仕舞え、娘は隠せ、姉妹は男のなりをさせろ」という格言が流布し、その通りにしないと家族は危険に晒された。女たちは男のなりをしても安心できなかった。

 都の治安の悪化は由々しき事態だった。栖遠は女子の間引きを禁じ、女を犯した者は即刻処刑としたが日々暴力事件は絶えない。

 妓の行政専売が軌道に乗ると、栖遠は都の男女比を少しでも是正すべく女たちを活用することにした。

 後宮を使って「結びの下賜」なる政策を始めた。年季の明けた妓女や保護した私娼、犯罪組織から助け出した女たちを後宮に集める。しばらくは下女として召し使い、時期が来ると、妻を欲しがっているが結婚できないでいる役人たちに下げ渡した。早い話が下級官吏への結婚斡旋制度である。

 太后さまのところで働く女なら身元は確かであるとして男たちは喜んで妻にした。「太后さまにお願いすれば金がなくても嫁が貰える」と広まると、官吏からの嘆願状や身上書が殺到した。

 錦子娘は困惑の表情を浮かべながら言った。

「結婚を拒否している者は二名です。穢れた身では故郷には帰れない、ここで働かせて欲しいと申しておりまして。太后さまのご温情を無下にすることは許されないと随分叱ったのですが……」

「男の側が良くないのではないか? 歳の頃が釣り合う者にせよ。孫までいるような老年の後妻や妾には渡すな」

「違うのです。先方が不服というのではなく、結婚そのものを嫌がっているのです」

 錦子娘の訴えに、どうしたものかと栖遠は考えた。これまで「結びの下賜」で結婚を拒んだ女はいなかった。娼妓であった過去を知られずに官吏と結婚できるとあって、みな喜んで嫁いでいったのだが……。

 錦子娘は続けた。

「不遜にも、太后さまへのお目通りまで願っておりまして。卑賎の女たちの前に、軽々しくお出ましになるべきではないと存じますが……」

 卑賎というなら、自分は卑賎の女の代表である。栖遠は逆に興味を持った。

「いいだろう。その者たちを通せ」

「よろしいのですか? では連れて参ります」

 錦子娘は驚きながらも、あたふたと部屋を出て行った。

 少しして、錦子娘は女を二人連れて戻って来た。いずれも十代とおぼしき若い娘である。顔だちも悪くなく、嫁の貰い手はいくらでもありそうに見えた。

 二人は栖遠を前にすると平伏した。栖遠は面を上げさせると、名を名乗るようにいった。年上らしき方が言った。

「お情け深き慈恵母后さま。私は明花、これは妹で蓮花と申します。お目通りが適いまして恐悦至極に存じます」

「お前たちは結びの下賜を拒んでいると聞いた。何ゆえか」

「母后さまの慈悲深きお計らいは大変ありがたいのですが……私はもう妻であろうが妾であろうが、殿方とは添いたくないのでございます。妹も同じ気持ちでございます」

 明花の声は震えていた。その頬に涙が伝った。若いはずの顔はやつれ、数限りない辛苦が刻まれていた。身体の傷は癒えても、彼女の心は摩耗しきっていた。

「私たちはこの三年、人間どころか畜生以下の扱いでした。毎日虐げられ、地獄の沼に突き落とされ、煉獄の炎に焼かれて暮らす日々でした。何度も何度も死ぬことを考えましたが、妹を一人置いては死にきれず……生き恥を晒してまいりました」

 明花は喘ぐように大きく息を吸った。

「母后さま、私はもう女としてはだめなのです。誰であっても殿方に触れられると思うだけで、身の毛がよだつのです。恐ろしくてたまらないのです。結婚生活など到底耐えられません」

 栖遠は、明花と蓮花が味わった筆舌に尽くしがたい苦しみを理解した。

 この姉妹の場合は、妓女や私娼ですらなかった。匪賊に攫われ、さらに闇の売春業者に売られて監禁され、性的な奴隷にされていたのである。昼間は廃屋に鎖で繋がれ、食べ物や水は犬のように投げ与えられ、夜ごとに彼女らを買った男の元へ運ばれてはひどい辱めを受けていた。生きているのが不思議なくらいの劣悪な環境下にあった。通報によって発覚し、軍属と警邏隊が踏み込んで助け出した。彼女たちを監禁して売っていた男女八人はすでに処刑されて、首は見せしめとして野晒しになっている。

 栖遠は哀れに思った。自分がそうであるように、この姉妹が負わされた傷が癒えることはないだろう。一生苦しみながら生きなくてはならない。

 とはいっても、結びの下賜は大事な政策である。一応にも姉妹を諭すことにした。

「お前たちを苦しめていた悪漢は成敗した。もうお前たちを傷つける者はいない。それなのになぜ結婚を拒む。なぜ自ら女の幸福を捨てる。生まれては父に従い、嫁しては夫に従い、子を産み育てるのが婦女の忠孝の道であり、正道ではないのか」

 明花はひれ伏しながら言った。

「母后さまのお叱りはごもっともです。先帝陛下のご寵愛を受け、今の陛下をお産み参らせた母后さまは婦女の忠孝を体現されたお方です。女たちの手本です。ですが、そうは生きられない道を外れた者もおります……」

 蓮花も拙い声で懸命に言った。

「母后さま、ここへ来てからは私も姉も安心して暮らせるようになりました。毎晩、何にも怯えず眠れるようになりました。父母は賊に殺されてしまい、孝を尽くすことは適いません。どうか、このまま母后さまのお傍で働かせてください。お助けくださった母后さまにこそ忠孝を尽くさせてください」

 栖遠は考えた。

 施政者としては、彼女たちには結婚してもらって次世代の官民となる子供を産み育てて欲しいところだが……己に婚姻や出産を強制する資格があるのかどうかは甚だ疑問だった。なにせ栖遠自身に結婚願望はなく、子供を欲しいと思ったこともない。

 栖遠もわかっていた。賢しらに説く婦女の忠孝の道なぞ、とどのつまりは女の自由を奪い、女の人生を縛るためのものだ。男たちにとって都合のいいものでしかない。

 栖遠は憐れみを込めて優しく言った。

「今でもお前たちを傷つけた者が恐ろしいか」

 明花は地獄の日々を思い出したのか、はらはらと涙をこぼした。

「はい、もう……殿方が近づいてくるだけで身体が震えます」

「そうか、男たちにはつくづくうんざりだな」

 思わず本音が出た。栖遠は肘掛けに肘をつくと、不敵に笑った。こういう時、市井ではどう言うか知っていた。

「クソ食らえだ」

 声に出すと実に小気味よかった。

 栖遠は自分の生まれをよくわかっていた。迂余曲折あって太后という椅子に座ったものの、元はといえば娼妓であり下賤なあばずれである。男は死ぬほど嫌いである。先帝と息子以外の男は、基本的に全員クソ食らえである。

 明花と蓮花は呆気にとられた。目の前にいる方は先帝の皇后であり、今上帝の母君である。匂いたつような圧倒的な美貌を持ち、女として人身位を極めた国母である。高雅な貴婦人が発する言葉とは思えなかった。

「……太后さま」

 さすがに叡文が諫めた。栖遠は叡文の静かな戒めすら心地よく感じた。彼は男であって男ではないから、クソ食らえの対象ではない。……と言っても褒め言葉にはなるまい。

 栖遠は明花と蓮花を許すことにした。後宮が心に深い傷を負った女たちの避難所や居場所として機能するなら、そのように使ってもよいような気がする。

「わかった。お前たちは結婚せずともよい」

 そう言うと、明花も蓮花も二人の後ろにいた錦子娘も、安堵の表情を浮かべた。

 どうしても後宮で働きたいというので、栖遠はものの試しに姉妹を使ってみることにした。しばらく婢として置いてみたところ、貴族出身の女官たちよりも余程気がきくことがわかった。父が東部の村の村長だったらしく、字の読み書きもできる。これは役に立つと思い、姉妹を正式な女官にすることにした。

 栖遠は妃嬪の時代に何度か講義を受け、今は引退している元政務官のおうという老人を呼び出した。黄老人に褒美を与え、明花と蓮花を彼の養女にするよう申し付けた。老人は喜んで応じた。あくまでも書類上、戸籍上の手続きであって親子としての交流は必要なかった。

 明花と蓮花は黄という氏姓を得て、栖遠に仕える女官となった。二人は宮中では黄一娘、黄二娘と呼ばれた。



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