鍾文帝の最期
婚儀を挙げた夜、栖遠は皇帝の御寝に侍った。房事は無事に終わったが、その時点で彼女は気づいた。皇帝は自分にまるで興味がないことを。
皇帝は確かに栖遠を抱いた。新郎としての務めは果たした。しかし、それだけだった。会話はなく、房事のあとの甘やかな余韻もなかった。初夜だというのに泊まっていくこともなく、皇帝は栖遠を置いて政務を執り行う万陽宮へ帰ってしまった。
栖遠は困惑した。自分は何か彼の不興を買うようなことをしただろうかと思った。
これまで彼女が相手してきた男は一見にしろ、馴染みの客にしろ、道元にしろ、一様に彼女に興味を持ち、気を引きたがった。無遠慮に身体に触れ、彼女の笑顔や言葉を求めた。恋慕や執着、時には狂気じみた感情もぶつけられた。
皇帝は、栖遠がこれまで接してきた男たちとは明らかに違った。女に不自由してないからかもしれないが、それにしても冷たく恬淡としている。情というものがまるで感じられない。きっと自分は嫌われたのだろうと栖遠は思った。別に悲しくはなかった。男の機嫌をとらなくていいなら気が楽だった。
十数日後、皇帝は再び栖遠の元へ通ってきた。そして房事を終えると、またすぐに万陽宮に帰っていった。一定の期間が経つと来て、短いひとときを過ごした。回数をこなすうちに栖遠にもわかってきた。おそらく皇帝陛下は自分だけでなく、どの妃嬪に対しても同じ態度で接しているのだろうと。
後宮での房事の相手は、当然ながら皇帝が自由に選ぶことができる。宵を迎える前に、宦官が皇帝の前に妃嬪の名前が書かれた札を置く。時にはわかりやすいよう、肖像画も並べる。その中から、今宵の伽をさせたい女の札を取るか、指し示せばいいだけだった。
栖遠は推察した。この頻度であるなら、おそらく陛下は伽の相手を選ぶのすら億劫なのではないか。夜が来ると、札が並べられた順に女官を呼ぶか、部屋を回っているだけではないのか。彼は特に誰も好まず、愛してもおらず、したがって恐ろしく公平であるのだと。女たちに興味も愛着もないからこそ、職務と割り切って通ってくるのだと。
栖遠はこれまでの性的搾取や暴力を振るわれて虐げられた経験から、男というものに対しては嫌悪と憎しみの念しか抱いてなかった。男に触れられること自体が苦痛で仕方なかった。
けれども、皇帝は自分に興味がないとわかると、彼との房事はそれほど嫌ではなくなった。皇帝はあくまでも仕事の一環として自分を抱くのだから、自分も仕事として応えればいいだけだと思った。
栖遠は次第に皇帝に対して、男性ではなく、一人の人間として興味を持つようになった。一応毎日女を抱いているのに、女色に溺れることのない陛下は一体何がお好きなのだろうと思った。宦官たちにそれとなく探ってみたところ、皇帝が日々心血を注いでいるのは、
栖遠は、政とはそんなに面白いものなのかと思った。
たまにしか来ない皇帝を待って、毎日化粧して着飾っていてもしょうがない。特にすることもなく退屈だが、後宮からは出られない。贅沢な生活ができるようになっても、栖遠は相変わらず篭の鳥だった。囲う男が、道元から皇帝に変わっただけである。が、境遇をいくら嘆いていても仕方ない。一応にも女官になったのだし、自分も何か新しいことを始めてみようと思った。
栖遠は後宮にある書庫へ行って、片っ端から書を読んだ。読めない字は逐一覚えた。たいした量はなかったが、皇帝のために用意された書架であるため、本来女が読むものではない兵書や政道に関するものもあった。
その中で興味を引いた事柄に関しては、後宮に政務官や文官、学者たちを呼んで講義を受けた。税の徴収、土地の測量、治水工事、輸出入の手続きと関税のかけ方、法の制定、裁判制度、軍事と何もかもが新鮮で面白かった。栖遠は綿が水を吸うように知識を得た。
同輩の女官たちは、学問に熱中する栖遠を口々に非難した。「女が殿方と同じ学問なんてはしたない」「書を読んで得た知識をひけらかし、賢しらぶるのは可愛げがない」「政を学んで陛下に取り入ろうとしている」「頭を鍛えても子供は産めない」などと言われた。
「講義にかこつけて官を呼び、男を物色している」というとんでもない中傷を受けたこともある。さすがに誤解を招いてはいけないと思い、講義の際は近くにいる宦官や婢を集めて臨席させ、扉や窓を開け放ち、講師からも距離をとって学んだ。
同輩の不満が上層に伝わると、今度は上位の妃たちに呼び出されて嫌味を言われた。栖遠は、いつも上官である妃嬪たちの前にひれ伏して詫びた。上のお小言には一切逆らわず、殊勝な態度を取り続けたが、内心ではこう思っていた。
皇帝は誰も愛さないのだから、いくら彼を待ち続けたところで報われることはないし時間の無駄である。受け身に徹し、男に愛されることだけを女の価値と信じて生きるよりも、本や教師から多くのことを学び、世の中のことを知る方がよほど有意義であると。
女たちからは非難囂々であっても、皇帝が栖遠の学問を禁じることはなかった。女官の一人が何を学んでいようとどうでもよかったのだと思う。皇帝からお咎めがないなら問題はない。栖遠はせっせと専門家の講義を受け、学び続けた。
季節ごとの宮中行事では、鳳凰の舞を披露した。皇帝が新たな妃を迎えたときも婚儀に呼ばれれば踊ったし、新年の祝いの席で皇帝及び皇后、居並んだ妃嬪、宦官たちの前で踊ることもあった。鳳凰の舞は後宮でも賞賛され、女たちからも一目置かれた。舞うたびに、皇帝は栖遠に褒美を与えた。
皇太子の生母である鄭皇后は、しっとりと落ち着いた風情のある美しい人だった。有氏十家である鄭家の出身で、身分は申し分なかった。栖遠は時々皇太子の正鵠も見かけたが、彼は皇帝にはまったく似ていなかった。整った顔立ちは、母親の鄭皇后譲りのものだった。
皇后は物静かな性格で、自分から発言することは殆どなかった。栖遠ら下位の女官をいびったりもしなかった。
皇帝の正室である皇后は別格であり、側室である妃嬪たちの諍いになど関与はしない。皇后の務めとして、茶会やお話会などの後宮の集まりにも顔を出したが、その際は世俗のことには触れず、いつも仏典から引用した仏さまの教えを説いた。信心深い皇后は日々仏道に邁進していた。寺院から高僧を呼び、後宮内にある仏堂に通い、勤行を欠かさなかった。
栖遠は密かに同情した。皇后の美しく静謐な横顔にも、拭いきれない不幸の陰りがあった。もちろん皇帝は皇后の元にも通っているし、他の妃嬪よりも頻度は高い。であるにも関わらず、この方も顧みられることはなく孤独なのだと思った。皇后ですら夫の愛情の薄さ、冷淡さに悩み苦しみ、自分の至らなさを責め、信仰をよすがにするしかないのだと。
他の妃嬪たちも栖遠の前では偉ぶっていたけれど、みな一様に顔が暗く憂鬱そうだった。後宮の女たちはみな平等に愛されず、平等に不幸だった。その中で栖遠だけが学ぶことを楽しみ、男に振り回されない気楽な日々を過ごしていた。
皇帝とは月に一回逢えるかどうかという頻度ながら、栖遠はその後三回も妊娠し、娘を三人産んだ。子供の数は、皇帝への忠義と愛情の証とされる。栖遠以外に三人も子を産んだ女官はいなかったため、彼女は順調に昇格した。三人目を産んだときは、序列第五位の賢妃に叙せられた。下位の美人から始まって妃になるとは、破格の出世である。
父となった道元も兄の状犀も、栖遠の出世を喜んだ。お前は皇帝陛下を心から愛し、誠心誠意仕えた。その証に天は子を授けてくださった。次こそは男子を産めと言った。
栖遠は浮かれ騒ぐ珂家の者たちを眺めながら、心底馬鹿馬鹿しいと思った。子供の有無や数が女からの愛情の証であるなんて、男たちのくだらない幻想にすぎなかった。
子供のできる、できないは、房事の時期や回数もあるだろうが、結局は運と体質と相性でしかない。そうでなければ、なぜ自分は愛するどころか憎しみしか覚えない客の子を何度も身籠ったのか。望んだ妊娠ではないのに産むことを許されず、腹に宿した命をむざむざ殺さなくてはならなかったのか。
口が裂けても言えないことだが、栖遠は子供は欲しくなかった。産みたくなかった。女の中でも最底辺とされる娼妓の出である。皇帝の子を産む資格はないとも思っていた。皇帝にはすでに皇太子がいて、他に子供を欲しがる様子はなかったし、娘たちの誕生も通り一辺倒にねぎらっただけで興味を示さなかった。珂一族の栄達のためだけに欲しがられ、生まれてくる子が哀れだった。
娘たちはみな一歳を迎える前に死んだ。後宮は医務官が常駐しているにも関わらず、子供がよく死んだ。娘たちの死因もよくわからなかった。
栖遠は娘たちの死を悲しんだが、これが天命だと思って諦めた。売淫の罪を重ね、さらには堕胎の罪まで犯した自分の身体は汚れきっている。苦しんで産んだ息子も奪われて手元に残らなかった。たとえ皇帝の種であっても、卑しく穢れた腹から産まれた子は真っ当には育たないのだと思った。
上位の妃になっても学問は続けていた。学んだことを発揮できる場所はないが、講師たちと国のあれこれについて話すのは楽しかった。自分が男であれば、猛勉強して科挙を受け、官僚を目指すのにとも思った。
ある日、いつものように房事を終えた後、皇帝は言った。
「以前から思っておったが、お前は随分さっぱりとしたおなごだな。房事をこなし子も産むが、朕に一切まとわりつかぬ」
栖遠は皇帝に衣を着せかけながら言った。
「私は陛下のお仕事を邪魔したくはないのです。陛下が良い政をなさってくださるのが、臣の私にとってはたまらなく嬉しいのです」
「お前は臣か」
「はい、陛下の臣でございます。私は陛下に仕える女官の一人でございます。でも……もし男に生まれておりましたら、政務官となって陛下の御為、国家安寧の為に働きとうございました」
皇帝は寝台から立ち上がった。栖遠は背後から長袍を着せかけ、帯も締めた。万陽宮に帰すためである。
栖遠は皇帝に抱かれて朝まで同衾したいとは思わなかった。けれども、このまま彼に付き従って万陽宮へ行き、政務を手伝いたいとは思っていた。女であっても墨を擦ったり、筆を洗ったり、上奏文を読んだり仕分けしたりするくらいのことはできる。雑用でいいから、皇帝が生きがいとする政の役に立ちたかった。
その次に皇帝がやってきたときには思わぬ進展があった。
彼は房事のあとで、「女のお前に言ってもわからぬだろうが」と前置きした上で、「妓を国の専売にしたいと考えている」と言った。女は金になる。金になるものはすべて国の専売にした方がよい。しかし利権が絡むため、十候が反対しているとも。
政に関する相談は初めてだった。栖遠は嬉しかった。国の専売制度に関して考えていたことを、自分なりの言葉で意見を述べた。皇帝はじっと聞いてくれた。泊まっていくことはなかったが、栖遠と半刻ほど政について話をした。
それからというもの、皇帝は栖遠のもとへやってくると房事だけでなく、少しずつ政の話をするようになった。
鄭皇后が重い病にかかり、皇后の務めをこなせなくなると栖遠は皇后の代理である皇貴妃へと昇格した。これで次の皇后は栖遠に確定した。道元たちは狂喜乱舞した。中堅貴族の珂家が皇后を輩出するのはこれが初めてだった。
鄭皇后が亡くなると、皇帝は栖遠を皇后にし、皇太子・正鵠の継母とした。栖遠は皇帝の正室として、皇太子の母として後宮の頂点に立った。
皇后になると、栖遠は篭の鳥ではなくなった。宮城の外には出られないが、万陽宮を始めとして宮城内のどこへでも出入りできるようになった。自分から皇帝に会いに行くこともできる。四季折々の行事の際は万陽宮にて皇帝の隣に座り、高官らの挨拶を受けた。
発言権はなかったが、御前会議にも出席した。玉座に皇帝、その一段下に皇太子の正鵠が座り、栖遠は垂簾の内でいつも会議を傍聴した。
そのうち、皇帝の執務室で事務業務を手伝うようになった。尚書官、皇帝の秘書たちの仕事を奪うことを心苦しく思いながらも、栖遠は皇帝の筆記具を整えたり、法令の下書きを書いたりした。皇帝の傍には大抵正鵠もいて、栖遠と同じく政務の補助をしていた。三人は執務室で多くの時を過ごした。
成さぬ仲ではあったが、栖遠と正鵠の関係は良好だった。皇后としての栖遠の日々は充実していた。冬慈であった頃に苦しんだ希死念慮は薄れ、生まれて初めて幸福のようなものを感じた。
翌年、栖遠は男子の
皇帝は次第に譲位を考えるようになった。皇帝であっても満足に働けなくなったら、帝位にとどまる資格はないと考えていた。栖遠も賛成した。皇帝が病気になったのは、ひとえに昼も夜も休日もない激務ゆえである。この人はもう十分国に尽くしたと思った。
皇太子がいるのだから、後継に問題はない。まだ動けるうちに水面下で準備を進め、二年後を目安に退位することを勧めた。もし譲位後に、夫が地方へ療養に出るのであればついていくつもりだった。彼を男性として愛しているわけではなかったが、人として尊敬していた。
皇帝は譲位に備えて法を改正し、皇太子の成人年齢を十四歳に引き下げた。大黎の成人年齢は男女ともに十六歳だが、天子となるものは官民よりも二年早く完成し、
正鵠は、急遽成人の儀を迎えることになり、慣例として最初の結婚をすることになった。娘を皇太子の後宮へ入れるのは二年後と思っていた諸公や有氏十家、その他貴族は寝耳に水で慌てふためいた。
正鵠が妻に選んだのは、いわくつきの崔逸琳だった。息子の希望に、栖遠は母として困惑した。女官でも臣下の娘でも郷主でもいかなる女も好きに選べるのに、何も謀反人の娘を妻にしなくてもいいだろうと思った。
皇帝も当初は難色を示した。栖遠も皇帝が反対するなら正鵠を諫めるつもりでいたが、結局皇帝は結婚を許した。とにかく早く皇太子の成人の儀を済ませ、後事を託して譲位したかったのである。
皇帝は体調不良で断念したが、栖遠は正鵠と改名した凰琳の婚儀にも出席し、二人の門出を祝福した。正鵠は結婚後、凰琳と仲睦まじく暮らしているようだった。
栖遠は何も知らなかった。異母妹の麗麗は正鵠の後宮に入ることが決まっていた。それなのに、父が皇太子の毒殺を企むなど夢にも思わなかった。
正鵠が毒を盛られ重体となったとの一報を受けたときも、にわかには信じられなかった。一体、誰がそんな大それた罪を犯したのだろうと考えた。栖遠もそのときは父や珂家を疑っていなかった。
万陽宮から使いが来た。陛下が血を吐いて倒れたという。栖遠は供の者も連れず、万陽宮へ飛んでいった。皇太子が重体になり、皇帝も倒れたとあってはこれから一体どうなるのか。不安で仕方なかったが、下の者に弱気なところは見せられない。あえて気丈に振る舞った。
栖遠は皇帝の寝所へ入った。皇帝は真っ青な顔をして寝台に横たわっていた。唇には、吐いたのであろう血がこびりついていた。彼の周囲には、医務官や侍従が侍っている。
「陛下」
栖遠は寝台に駆け寄った。皇帝は栖遠を見ると、医師や侍従たちを払った。彼らが部屋を出ていくと、二人きりとなった。
皇帝は無理をして起き上がろうとした。栖遠は彼の身体を支え、助け起こした。
上半身を起こした皇帝は栖遠を見、憎々しげに呟いた。
「この売女が」
次の瞬間、栖遠の左頬に衝撃が走った。彼女は倒れ、固い床に打ちつけられた。何が起こったのかわからなかった。頬を押さえたままなんとか身を起こした。頬が焼けるように熱く、じんじんと痛んだ。口の中に生温かい血の味が広がってゆく。
「……陛下?」
栖遠は激しい衝撃を受けた。自分を冷たく見下ろす男を、呆けたように見つめた。ようやく彼に殴られたことを理解した。初めてのことだった。皇帝が手をあげるなど、これまで一度もなかった。
皇帝は激憤のままに怒鳴った。
「薄汚い女狐めが。よくもおめおめと朕の前に姿を晒せたものよ。正鵠に毒を盛っておいて、今度は朕を助け起こす振りか」
栖遠は唖然とした。会話をするようになっても、皇帝が怒鳴ったり、声を荒げたりすることは一度もなかった。
誰に対しても厳しい人ではあったが、いつも冷静に話をした。彼を信頼していた。この人は、これまでの男たちとは違って自分を傷つけないだろうと思っていた。
栖遠の声は震えた。
「どうして……? どうしてですか、陛下。毒……? なぜ? なぜ私が正鵠に毒を盛るのですか」
「黙れ、お前が下賜した茶を飲んで正鵠は倒れた。お前以外の誰がおるか」
「違います。私は茶など知りません。下賜などしておりません。何かの間違いです」
栖遠は痛みを堪えながら懸命に言った。正鵠に茶など下賜していない。茶を下賜したというのなら、思い当たるのは麗麗だ。後宮の女主人であり、入宮後は姑となる栖遠へ挨拶に来た際に茶を下賜した。もちろん毒なんて入れていない。麗麗が、その後誰かに茶を渡したとしてもわかるはずもない。栖遠は潔白だった。
「陛下、私はあれの母です。どうして私が息子に毒を、あなたさまの大事な後継を弑すことがありましょうか」
皇帝は一喝した。
「しらばくれるな。お前が産んだ央鷲を帝位につけるためであろうが。そのために邪魔な正鵠を殺そうとした。朕が育てた傑作を」
栖遠はふるふると首を振った。とんでもない誤解だった。
「央鷲、央鷲なんて……まだ赤子でございます。どうしてあんなものが帝位につけましょう」
栖遠は昨年生まれた央鷲を、帝位につけようなどとは考えたこともなかった。また妊娠してしまったから産んだものの、三人の娘たちがそうであったように息子も長生きはするまいと思っていた。よしんば生き延びて成人できたとしても、正鵠の弟として公に叙されて、地方の一領主にでもなって終わる人生である。それでよかった。
皇帝は栖遠を睨みつけた。
「あくまで己の罪を認めずにしらを切るか。どこまでも卑しく醜い女よ。どんなに取り繕っても、恥知らずな生まれは隠せぬ。朕が知らぬと思うてか。お前は華胥栄楼の冬慈、生粋の淫売であろうが」
生粋の淫売。そう言われた瞬間、栖遠は今まで築き上げてきたものが音をたてて瓦解していくのを感じた。
皇帝は……知っていた。自分の過去を、貧しい村の女にさえ蔑まれる娼妓であったことを。
いや、この国を統べ、官や間諜を使ってありとあらゆる情報を集める皇帝が知らぬはずはなかった。父が口封じで殺したのは、華胥栄楼の者たちだけだ。冬慈を買った客すべての口を封じられるはずもない。冬慈の客には、高官らもいた。かつて自分を買ってもてあそんだ彼らが、後宮にいる珂栖遠は冬慈であると気づいて、皇帝に報告することは十分に考えられた。
皇帝は胸を押さえ、何度も荒い息を吐いた。
「お前の正体が淫売と知ったとき、朕はお前を斬り捨てようと思った。娘を妓女とすり替えて上納した珂家も滅ぼそうと思った。だが女ごときを剣の錆とするのは男の名折れだ。朕はお前に情けをかけた。お前は朕によく仕えた。女だてらに政を学ぶ向上心もあった。お前の罪を許し、皇后まで引き上げてやったのに……恩を仇で返しおって」
皇帝は倒れそうになりながらも寝台から滑り降りた。
胸を押さえながら、ふらつく足で歩いた。枕元に立てかけてあった金色の長剣を手に取った。いつも腰に下げている皇帝用の宝剣である。
「男を惑わす淫婦め……。淫蕩なお前のことだ。娘たちも央鷲も、どこぞの馬の骨を誘惑してもうけた不義の子であろう」
「違います、私の子は陛下の子です。私は貞潔です」
栖遠は必死に叫んだ。涙が出てきた。入宮して以来、栖遠が皇帝を裏切ったことは一度もなかった。彼以外の男には指一本触れさせなかった。道元は入宮後もたびたび秋波を送ってきたし、皇帝に引き合わせるからと言い寄ってきた宦官もいたが、けしてなびかなかった。どうして妓女であったというだけで、淫蕩だの不義の子を産んだなどとひどいことを言われなくてはならないのか。
確かに冬慈は、これまで数えきれないほどの男と寝てきた。それは一度たりとも彼女の意志ではなかった。男を惑わしたこともない。いつも男の方が勝手に懸想して惑っているだけだった。挙句、勝手に狂って破滅する者もいた。
男たちはいつも女が悪いという。男を惑わす女が悪いという。どうして女が悪いのか。傾国傾城の美貌などといって女を褒めそやすが、女が一体何をした。勝手に女に溺れて、国や城を傾けるのはいつだって男ではないか。
皇帝は、黄金の鞘から剣を抜き払った。やいばがぎらりと光った。
「そこに直れ。首を刎ねてくれる」
鬼のような形相でじりじりと迫ってくる。
「ああ、嫌……。嫌です、助けて……」
栖遠は床を這うようにして必死に逃げた。愛はなくとも、この人を信じていた。尊敬していた。力になりたかった。皇帝でなくなっても傍にいようと思っていた。
けれど……違った。この人も自分を殴り、散々に凌辱した男たちと同じだった。何も変わらなかった、何も。
剣を構えて近づいてくる皇帝が、かつて自分を打ち据えた楼主や男衆に見えた。彼らはいつも楽しそうに、竹の棒を振り下ろした。冬慈が苦痛に喘ぎ、悲鳴をあげるたびに笑った。
夜になると金をばらまくようにして、見知らぬ男たちがのし掛かってきた。そのたびに冬慈は千々に引き裂かれ、声にならない声で絶叫した。冬慈は貞女でいたかった。男たちがそれを許さなかった。
部屋の隅に追い詰められた栖遠は、泣きながら懇願した。
「やめて、お願い。もうぶたないで……」
皇帝が剣を振り上げた。目の前に、黄色の菊と
……気がついたときには、すべてが終わっていた。
栖遠は茫然と床に座り込んでいた。割れた花瓶の破片と、散らばった菊の花、金木犀が彼女を囲んでいた。衣服は水をかぶって濡れていた。
すぐ傍には剣を握ったままの皇帝が倒れていた。彼の頭部からは赤いものが染み出し、床にぬらぬらと広がってゆく。
「陛下……陛下?」
栖遠は手を伸ばし、皇帝の首に触れた。脈は感じられなかった。彼はすでにこと切れていた。もうこの世のものではなくなっていた。
栖遠はしばらく放心し、それから現実を悟った。いっそ腹を抱えて笑いだしたくなった。
自分は売淫の罪、堕胎の罪に加えてとうとう皇帝殺し、夫殺しの罪まで犯してしまった。とんでもない重罪だった。もうどの地獄へ落ちたとしても、責め苦を味わったとしてもこの罪業は償いきれまい。
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