冬慈の艱難辛苦
凍えるような寒い雪の日、かじかむ手に息を吹きかけながら見上げた空には、燦然と輝く星があった。思わず見惚れてしまった……というのが、
自分がいつどこで生まれたのかはわからない。父や母もわからない。赤子の時に捨てられたか拐かされるかして、何人かの人買いを経て、五歳くらいの頃には大都の
華胥栄楼は着飾った妓女たちがひしめき、歌い踊り、男たちに傅いて春を売るところだった。昼間は静かだが、日が暮れると花街の
冬慈は店に養われ、衣服や食事を与えられた。妓楼の中は自由に歩けたが、外に出ることは許されなかった。朝から晩まで、常に屈強な男衆に見張られていた。姐さんのお供やお使いで外出が許される時もそうだった。たとえ行き先が厠であっても、彼らは必ずついてきた。大事にされているからではなかった。冬慈はいずれ売りものになるからだった。
冬慈は篭の鳥だった。どこへも行けないので、彼女は毎晩寝起きしている部屋の窓から空を眺めた。
春夏秋冬、いつ見上げてもそこには満天の星があった。冬慈は特に北の空に輝く、柄杓の形をした北斗七星が好きだった。北斗七星は死を司る神、北斗星君が住まうところである。人間は死ぬと必ず彼のもとへ行き、生前の行いの裁きを受ける。罪を犯した者は必ず地獄に落ちる。
冬慈は、清冽かつ厳粛な輝きを放つ北斗七星を崇めた。毎晩手を合わせて星に祈った。地獄に落ちたくはない。だからけして悪いことはしない。どんなに落ちぶれたとしても、あの星のように心根だけは美しく清冽に生きたいと思った。
だが、死後に地獄へ落ちる前に、冬慈は現世の地獄へ落とされた。十歳を過ぎた頃から、まだ初花も迎えないうちに客をとらされた。何がなんだかわからないまま、彼女は店が決めた見知らぬ男に売られ、蹂躙された。毎晩のように違う男が彼女にのし掛かってきた。
犯されるたびに、冬慈の潔癖な心は千々に引き裂かれた。一晩に何度も何度も引き裂かれて砕け散って、血まみれになってぼろぼろなのに、朝になりまた宵がくれば髪を結われて着飾らされて男たちの前に出される。品定めされ、値段がつけられて切り売りされる。冬慈は知った。幼いころから夜ごとに聞いた女たちの甘ったるい嬌声、あれは悲鳴だったのだと。
あまりの苦痛に売淫を拒むと、凄まじい折檻が待っていた。売りものなので顔は殴られない。それ以外の体じゅうを、竹を割った棒で、それも肌に傷跡が残らないよう絶妙な力の案配で打たれた。打たれるたびに冬慈は痛みと恐怖で泣き叫んだ。いくら泣こうとも、助けを求めようとも、誰も助けてはくれなかった。散々に打たれた後は部屋に閉じ込められて食事も与えられず放置された。何度か売淫を拒否し、そのたびに打たれたところで彼女は抵抗を諦めた。おとなしく店に出て、おとなしく男たちに犯されるしかなかった。
屈辱のひと時が終わり、客が寝てしまうと、彼女はいつも窓辺に寄って空の北斗七星を見上げた。死にたいと思った。早く死なせてくれと願った。こんなにも汚辱にまみれては、清廉になど生きられない。汚れきってしまった自分は地獄に落ちるしかない。地獄で何百年と罰を受けて罪を償ったとしても、人間に生まれ変わることはできまい。きっと畜生になるだけだ。いや、畜生に生まれ変わるどころか、輪廻転生そのものが叶うまい。
生きている間も死後も絶望しかなかった。早く死にたい、いっそ殺して欲しい、この世から消えてなくなりたい……それだけが彼女の望みだった。
非情な北斗星君は、冬慈に死を与えなかった。冬慈の地獄は続いた。
二年ほど経つと初花を迎えた。しばらくすると彼女は客の子を妊娠してしまった。知識がなかったために発覚が遅れた。気がついたときには、堕胎できない時期に入っていた。楼主は冬慈の妊娠を知ると激怒し、彼女を打った。冬慈は他の妓女たちよりも、群を抜いた美の片鱗を見せていた。彼女を買い取ってから何年も養ってきた。妓女は一人育てるだけでも恐ろしく金がかかる。いよいよこれからが売り時、儲け時である。そんな大事な時期に妊娠、しかも堕胎できず出産などさせたらその分は働かせられない、稼げないではないか。
冬慈は打たれて床に突っ伏し、自分の何がいけなかったのかもわからないまま楼主に詫びた。泣きながら、なぜ詫びなくてはいけないのかと思った。自分を買って売淫を強要したのは店であり、楼主だ。元より誰とも寝たくないし、男に触られるだけで吐き気がする。子が欲しいなんて思ったこともない。誰が子供なんか産みたいものか。自分を毎晩犯し続ける、どこの誰ともわからない男たちの子など。
楼主は残酷な男だった。腹が膨らみ始めた冬慈を、金儲けのために店に出した。値段を下げて出産間際まで彼女を売った。好き者が彼女を買った。
冬慈は気が狂いそうだった。何度妓楼の二階から、通りに身を投げて死のうと思ったかわからない。希死念慮は強くなるばかりで、死のみが救いの道だと信じた。それでも自死を思いとどまったのは、腹の子を思ってのことだった。自分が死ぬのはいいが、腹の子を道連れにしては人殺しとなってしまう。冬慈はこれ以上罪を犯したくなかった。日々強要される売淫の罪だけでもう十分だった。
同僚の妓女たちは同じ苦しみを持つ者として、冬慈に同情的だったが、誰とも打ち解けず孤高を貫く彼女を持て余してもいた。冬慈は笑わない女だった。口数も少なく、男たちにも一切媚びを売らなかった。女たちにも迎合せず、同性から見ても近づきがたい存在だった。彼女の圧倒的な美貌は男たちを引きつける一方で、女たちの嫉妬も招いた。
月が満ちて、冬慈は子を産んだ。男子だった。女子でないことに、冬慈は打ちひしがれた。娘であれば妓楼で育てることができた。娘もいずれは妓女にされて、同じ地獄を味わうことになる。
ただ希望もあった。もし冬慈が身請けされて、旦那が追加の身請け金を払うことを了承した場合、娘を連れて妓楼を出ることができた。華胥栄楼でも旦那を説き伏せ、幼い娘を連れて身請けされた妓女がいた。娘であれば一緒にいられたのに、息子の場合は叶わない。
生まれた子は、冬慈の苦しみと憎悪の結晶である。それでも彼女は自身に言い聞かせた。憎いのは自分を犯した男たちであり、赤ん坊ではないと。子供と離れたくなくて、必死に楼主にかけあった。「この子と一緒にいられないなら死ぬ」と喚きたてた。楼主も売れ筋の商品に死なれては困る。男子は店で育てられないが、きちんとしたところへ養子に出すと約束した。
その夜、冬慈は泣きながら針と墨を用意した。
赤ん坊を裸にすると、うつ伏せにした。針を火で炙って消毒すると、入念に墨に浸した。勇気を出して、墨をつけた針を赤ん坊の右肩に刺した。皮膚の内側に墨を流し込んだ。赤ん坊は火がついたように泣き出した。できるだけ浅く刺したが、つるりとした柔らかな皮膚から血が滲んだ。冬慈は心を鬼にして、赤ん坊を押さえつけ、針で墨を入れていった。墨は天空に座する
「痛いのは終わったからもう泣かないで。お前を見つけ出せるように、目印をつけただけだから」
冬慈は、息子に「
男は美しくも氷のように冷たい冬慈の気が引けると思い、すべて書き出してくれた。紙は大事にとっておき、七つの星のうち「揺光」を息子の名にしたというわけだった。
息子の肩に、北斗七星の目印をつけた。養子に出る時は「揺光」という名も伝えるつもりでいた。養家がわかっていれば、いつか会うこともできるだろうと思った。
揺光との別れはすぐにやってきた。
名前をつけた三日後、冬慈は他の妓女たちと共に金持ちの家の宴席に呼ばれた。接待を終えて店に戻ると、息子の姿が消えていた。
聞けば、冬慈の留守中にそこそこ身なりのいい青年がやってきて冬慈に逢いたがったという。冬慈を見て一目惚れしたものの、彼女を買う金が工面できず困り果てていたようである。金が払えない男は客ではないし、相手をする必要もない。店の男衆が登楼を断った。
その時、揺光は店先で女たちに抱かれてあやされていた。
青年は揺光を冬慈の子だと知ると、突然「私の子だ」と叫んだ。赤ん坊をひったくるとそのまま店を飛び出していった。すぐに男衆が追いかけたが、雑踏に消えた青年を見失ってしまった。揺光は、冬慈の客であったのかどうかもわからない見知らぬ男にさらわれてしまった。
最悪の形で息子を奪われた冬慈は半狂乱になった。その青年が、揺光の父であるわけがなかった。何せ冬慈本人ですら、誰の子かわからないのである。
暴れて叫んで、店を飛び出して息子を探し出そうとしたが、男衆に取り押さえられた。彼女はどこにも逃げられなかった。また一人、華やかな地獄に取り残された。
冬慈は売淫の罪を犯し続けた。不幸なことに、彼女は妊娠しやすい体質だった。気をつけていたが、その後も二回妊娠してしまい、そのたびに堕胎させられた。堕胎によって、冬慈は子殺し、人殺しの罪まで犯してしまった。彼女の身体は、男たちの乱行によって傷つくばかりだった。
上客を掴むために、基本的な読み書きや詩歌を教え込まれた。宴席で客を喜ばせるために歌舞音曲も習った。そのうちの一つ「鳳凰の舞」が当たった。
「鳳凰の舞」は赤く染めた鳥の羽根を散りばめた扇を二柄持ち、赤金の薄物の衣装を纏い、扇を翼に見立てて回る大黎の伝統的な舞踊である。天空を飛ぶ鳳凰を模すため、足は殆ど床につけず、常に軽やかに飛び続ける。
元々は夫婦円満を願って、婚儀の席で踊られる婚礼舞踊である。家庭の不和を招く妓女が夫婦円満の舞を踊るのは皮肉だが、冬慈のそれはこれまでの舞を凌駕する神がかった出来栄えだった。えもいわれぬ荘厳さと鬼気迫るような迫真の美が、男たちを圧倒した。誰もが桃源郷にいざなわれ、かの地の仙女に出会ったがごとく、踊る彼女にうっとりと見惚れた。陶酔を覚え、それを越えて惑溺した。誰もが冬慈に会いたがった。冬慈は毎晩のように宴席に出て、鳳凰の舞を踊った。拍手喝采を浴び、言葉を尽くして賞賛された。大都一の名妓と呼ばれ、彼女の値段は跳ね上がった。
いくら舞や美貌を賞賛されようとも、することは変わらなかった。冬慈は舞を終えると、当然のように閨に引きずり込まれた。時には舞っている途中で酔客に押し倒されて、無体を強いられることもあった。妓女として成功をおさめ、富裕層にも愛されたが、彼女の苦しみは続いた。
十六歳になった頃、冬慈は妓女としては史上最高額の銀貨一万五千枚で落籍された。彼女を身請けしたのが、珂家の当主である珂道元だった。鳳凰の舞を見てすっかり冬慈に惚れ込んだ道元は、一夜の切り売りでは満足できず、大金を投じて彼女の残りの人生を買い取った。
冬慈は華胥栄楼を出て道元の妾となり、彼の屋敷で暮らし始めた。美貌と芸で人気を博し、金持ちに落籍されて妾となる、妓女としてはこの以上とない「上がり」である。
不特定多数の男と寝なくてもよくなったことは、冬慈の不幸をわずかながらもやわらげた。本音を言えば道元の相手もしたくなかったが、妾になったからにはそうもいかない。せっせと通ってくる道元を、割り切った笑顔で迎えた。
道元が鳳凰の舞を所望すると、彼のためだけに踊った。興奮した彼が触ってくると、気持ち悪くて仕方なかったが、目を閉じ、心を閉じ、吐きそうになりながら行為に耐えた。早く自分に飽きて、別の女のところへ行ってくれることを願った。うわべだけ旦那に尽くす日々が続いた。
同じ頃、道元は十六歳になる三番目の娘の栖遠を皇帝の後宮へ入れようとしていた。結び金を納め、豪華な衣類や家具を支度した。宦官たちにも金をばらまき、皇帝と挙げる婚儀の手はずも整った。
準備万端であとは入宮するだけというところになって事件が起こった。なんと当の栖遠が、頭が痛むと言い出して床につき、翌朝までに亡くなってしまったのである。
娘の急死に道元は慌てふためいた。婚儀は三日後であり、日程はずらすことができない。栖遠と歳の近い娘もいないし、どこかから調達しようにも日が差し迫っている。今から入宮を辞退すれば、これまでの苦労が水の泡である。
道元は苦慮した。そして、彼はとんでもないことを思いついた。娘の死を隠したまま、年恰好が同じである妾の冬慈を栖遠と偽って入宮させることにしたのである。
冬慈は道元からの突然の申し渡しに驚いたが、元から金で買われた身である。拒否などできるはずもない。
道元に「娘の栖遠に成りすまして入宮しろ、皇帝に仕えろ」と言われれば従うほかなかった。
婚儀の前日の夜、冬慈のかつての家であった華胥栄楼は何者かに襲撃されて全焼した。妓楼にいた楼主もその家族も、男衆も妓女も見習いの女児も登楼していた客たちも例外なく全員が死んだ。
死因は火事による焼死とされたが、彼らの殆どが喉をかき切られていた。妓女の冬慈をよく知る者たちは、口封じのために始末された。
冬慈は珂栖遠となって入宮し、皇帝と婚儀を挙げた。
道元が金を積んだにも関わらず、皇族や有氏十家出身ではない栖遠は妃嬪にはなれなかった。美人の位を与えられ、珂美人と呼ばれた。
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